餌を追う花嫁
私の家の近くには、S川という川が流れている。
それはコンクリートで固められた用水路などではなく、ちゃんとした雑草が生い茂り、中州や河原もある一級河川で、広い河原はバーベキューや川遊びをする程度の広さもあるし、近くには良い感じの森もある。
子ども達のいい遊び場であるから、休日などになると近隣から親子連れや子どもの群れが押し寄せる。近くの空き地は車で埋まる。まあ、良い場所なのだとは思うけど、夏などはモトクロスをする馬鹿や、夜中に花火をしにくる馬鹿で五月蠅いことこの上ないから、良い事ばかりとは言えない。
ともあれ、私はそんな場所に、幼い頃から住んでいる。だから、S川の事ならだいたい知っているし、川遊びの名人だ。河原に生えている、食べられる野草の場所は把握しているし、釣りのポイントもばっちりだ。水切りは達人級だし、ダム造りは得意中の得意だ。
そんな私が、川遊びで一番得意だったのが花嫁採りだ。
花嫁は、水棲の生き物だ。
最近はすっかり少なくなってしまったが、少し前は川には花嫁が付き物だった。少し川の、水の濁った場所を探してみると、すぐに花嫁が見つかった。そうした花嫁はだいたい西洋花嫁だ。これは西洋から入ってきた洋式の花嫁で、純白のウェディングドレスで着飾っている。
日本には古くからの、文金高島田を結った着物姿の日本花嫁もいたのだが、こっちは綺麗な水でしか生きられないので、濁った泥でも平然としている西洋花嫁によって駆逐されてしまい、人里では見なくなってしまった。いまでは日本花嫁は、水の綺麗な、水源に近い山奥でしか見られない。
ある暑い夏の日、私は久しぶりに、花嫁採りに向かった。日射病がこわいから、麦わら帽子を目深に被り、片手には空のバケツ、洗いざらしのカーキ色のシャツ、青色のバミューダパンツにビーチサンダルを履いている。
家からS川までは、歩いて二分程度だ。途中、私を追い越して子ども達が川へ走って行った。手には虫取り網や虫かごを持っていた。きっと、川の近くにある森で、虫取りをするのだろう。新聞ではしたり顔をした大人達が、子どもが外で遊ばなくなったと嘆いているが、ここでは昔の風景と全く変わりなく、川遊びに興じている。
川に着いた。
浅瀬の溜りに脚を踏み入れると、随分とぬるかった。強い日差しによって、流れていない部分は、かなり温まっているようだ。
私はバケツに水を入れて、花嫁を探した。けれど、花嫁はどこにも無かった。かつてなら、ちょっと水の濁った場所を探してやれば、花嫁なんて幾らでも居た。最大で一日に三十人を捕まえた事だってある。バケツ一杯の花嫁だ。それ以上捕まえなかったのは、バケツが満杯になったことと、バケツの中で花嫁が、互いにブーケを投げつけ合って、殺し合いを始めてしまったからだ。
意外と花嫁という水棲生物は、見た目はとても綺麗だけれどヒステリックで攻撃的なところがある。同じ場所に花嫁を沢山飼うと喧嘩を始めたり、殺し合いを始める。そうやって、花嫁は適正人数まで調整される。それは花嫁が増えすぎないための、自然の知恵のようなものなのだろう。
S川には、それぐらい花嫁が沢山いた。
それが、どうにも、まるで見つからない。
「何しているんだね」
川で右往左往していると、いきなり声を掛けられた。顔を上げると、市役所の河川巡視員のおじさんだった。
「花嫁採りをしているんです」
私は正直に話した。
「花嫁なんて、もういないよ」
「花嫁がいないって、どうしてですか?」
「君はニュースをちゃんと見ているかい?」
私は黙って首を振る。
すると河川巡視員は、無知な私に説明をしてくれた。
私は全く知らなかったが、ほんの一年前に川に農薬が流出する事件があったらしい。それで、河川の生態系に致命的な影響があって、その時に花嫁も全滅してしまったのだそうだ。
言われてみて、私は記憶の糸を辿る。
すると、確かに一年前、川が妙に騒がしい時期があった。やたらと車が往来したり、ヘリコプターが飛んでたりした。けれど、ちょうどその頃、私はMMOにはまり込んでいた。仮想現実こそが私のリアルで、現実はあってないようなものだった。だから、こんな近くの大ニュースにもまるで気が付いていなかった。
「花嫁は全滅したんですか?」
「まあ、だいたいはね」
「だいたいって事は、少しは残っているって事ですか?」
「そうだよ、こっちに来てみなさい」
河川巡視員のおじさんに付いていくと、浅瀬に教会が沈められていた。
巡視員はポケットに手を突っ込んで、花婿の干物を取り出した。それは、花嫁釣りなどで使われる、典型的な花嫁の餌だ。それを千切って、教会の前に置くと中から、まだ幼い小さな花嫁が外に出てきた。本来ならトレーンベアラーでもしているのが相応しい、幼い子がウェディングドレスを着て、花婿の干物を追いかけはじめた。
「この子しかいないんですか?」
「他にも生き残っているのがいるかもしれない。いないかもしれない。まあ、川は長いながらね。農薬が流れたところよりも上流なら、しっかりと生き残っているだろう。けど、そうした花嫁が川を下ってくるには、もうちょっとかかるだろう」
そんな話をしている間、花婿の干物は流されていって、それを飽きずに小さな花嫁は追いかけていた。
やがて、花嫁は干物を捕まえて、愛おしそうに撫でてから教会の中に引きずり込む。
「捕まえるかい?」と巡視員のおじさんが聞いた。
私は黙って首を振る。
S川に花嫁が帰ってくるまでは、花嫁取りはお預けのようだ。