狼将軍と逢引について
その日、狼将軍宛に届いた可愛らしい手紙を受け取ったのは、部下の1人だった。いつものかとモテない男の僻みを発動させつつ、将軍の元へ向かおうと立ち上がりかけ、ふわりと手紙からたちのぼる香りに動きを止めた。最近何処かで嗅いだような、しかし彼には縁のない花の甘い匂い。仕事をしていた同僚達も訝るように彼へと声を掛ける。
「おい、どうしたよ。それ将軍宛のやつだろ?早く届けて来いよ」
「ん?あ、ああそうだな」
「今度はどこの御婦人だ?ハルメーニア子爵夫人か、それともメリサ嬢か。どれどれ……“アリアンジュ・エル・テュールローザ”?新顔だな」
「それって、ケルツァー大佐んとこの黒猫ん家じゃねえ?」
「あの坊ちゃんか。妹か姉貴か、きっと可愛いんだろうなぁ」
「どうせお前なんて相手にもされねえよ、ばーか」
「お前等煩いぞ!」
やいのやいのと盛り上がっている所で、副官の一喝が飛んでくる。だらしなく返事を返そうと振り向いた男達は、鬼の形相とぶつかって小さく悲鳴を上げた。凍りつく部下達の前に素早く近づいてくると、顎をしゃくる。
「しょ、将軍。ももも、申し訳あり、」
「出せ」
「は……?」
狼将軍の目の先を辿り、握り締めたせいで若干草臥れた手紙を慌てて差し出した。それを大切そうに懐にしまうと、執務室の扉が閉じられる。花の優しい残り香が漂い、あっと部下は声を上げた。立ち去ろうとしていた副官が振り返ったので、慌てて口を手で押さえる。張り詰めていた空気が漸く緩み、強張った身体を解しながら部下達は仕事に戻って行く。
「なあ、おい。分かったんだ」
「何がだ?っていうかお前も仕事に戻れよ。今度こそ副長に殺されっぞ」
「違うって!さっきの手紙の主だよ。将軍の本命」
「「「はあっ?!」」」
「声が大きいって!」
一様に慌てて口を閉じ、執務室の方を見る。20数えても叱責が飛んでこないのを確認し、胸を撫で下ろす。
「手紙についた匂いを嗅いだことある気がして気になってたんだけどさ。さっき将軍が来て分かったんだよ。あれは同んなじ匂いだった」
「“花のお嬢さん”の正体か!」
突然、花の香りを纏うようになった将軍に、ついに本命が出来たのだと噂されて結構経つが、正体を掴めた者は誰もいなかった。あまりにも手掛かりが無かったために、最近はただの気紛れ説が主流になっていたのだが、ここにきて漸く尻尾を掴めたのだ。名前さえ突き止めれば諜報活動も担う彼らにとって調べるのは容易い。仕事そっちのけで早速彼らは動き出した。
副官にアドバイスを貰って実現した初のデートに、グランティルドは前日から興奮のあまり寝つけないでいた。3日間くらい寝ずとも平気で活動する彼にとって一晩の徹夜など大した負担ではないが、そこには涙ぐましい努力があったのだ。深夜の訓練場で汗を流し、どんな酒豪も一杯で酔うとされる度数の高い酒を1瓶空け、それでも眠れずまんじりと仕事をし。漸く朝日を拝んだ時には、いよいよ緊張が高まってきた。10年分鏡を見て身嗜みを確認、予め立てた予定を再度さらって出かける前に鏡で最終確認、約束の時刻の30分前に着き、鋭い探査能力を研ぎ澄ませながら待ち人を待つ。
この日の彼は上げている前髪を降ろし、銀色のフレーム眼鏡を掛けている。黒いズボンに紺のシャツといった簡素な出で立ちだが、すらりと引き締まった体によく合っていた。先ほどから遠巻きに向けられる視線は鬱陶しいが、近寄りがたい雰囲気を感じるのか興味はあるものの一定以上近付いてくる者は今の所いない。それでも警戒を崩さずにいたのだが、待ち人が来た途端頑なな鎧は一気に氷解した。
蕩けた眼差しで可愛らしい恋人の出で立ちを褒め、頬に唇を落とし、ぎこちなく手を握る。それとなく尾行していた監視者は茫然自失に陥り、周りは初々しい恋人達の様子を微笑ましく見送った。
グランティルドが何度も夢に見たよりもずっと柔らかい感触に、間違っても握り潰さぬようにするのは至難の業だった。腰に巻かれた緑の組紐をアクセントにした白いワンピースは、アリアンジュの可憐さを引き立て薄紅色の髪は背中に流されている。動くたび空気に乗って香りが誘うように鼻腔を擽り、強い忍耐力を試されているような気がした。品評会最終日というだけあって、開催期間中の中でも殊更人の数が多い。彼が彼女を見失う訳が無いが、油断すれば小さな彼女などすぐに流されてしまうだろうと、心持ち繋ぐ手に力を入れる。そうすれば同じように強く握り返してきて、涼しい顔で歩く男の脳内は煮えたぎっていた。
「ここで休憩にしよう」
「はい」
この日のために片っ端から情報収集していたグランティルドに死角は無い。混雑している大通りを外れ、辿り着いたのは注意して見ていなければ通り過ぎてしまいそうな喫茶店だ。通でなければ知らない隠れた名店で、店主は嘗て城の料理長をしていた男である。引退後は夫婦でこの喫茶店を始め、常連客の多くは懇意にしていた重鎮ばかりだ。野暮ったい扉を開ければ心地良い静けさが広がっており、空いたテーブルの一つに腰を落ち着ける。
「いらっしゃいませ。此方が噂のお連れ様かい?」
「ああ。彼女はアリアンジュだ。アリア、此方はこの悠久亭の店主シゲルさん」
「こんにちは」
「はい、こんにちは。……なんだ、君には勿体無いお嬢さんじゃないか」
「余計なお世話だ。俺はカルフィをストレートとサンドイッチを。アリアは……ハニール茶にミルクと砂糖をスプーン一杯。あとは、シーヴスとルクレアを頼む」
「グラン様、」
「畏まりました」
強引にメニュー表を取り上げ店主に渡す。勝手に頼んだことへ抗議するアリアンジュも可愛い。
「もう。聞いてますか?」
「聞いている。だが俺も食べたかったんだ」
「うそ。だってグラン様、甘いのお好きじゃないでしょう?」
シーヴスは生クリームを固めた氷菓子でルクレアは焼きたてのパイ生地にチョコレートを挟んだものだ。
「何故?」
「だって、あの私の誕生会の時、お菓子類には一度も手を付けてらっしゃらなかったから」
自分が見られていた事への驚きと喜びに表情筋を緩めつつ、机に置かれていた手を掬って口付ける。これが隣に座っていたら、迷わず可愛らしい言葉を紡ぐ唇を奪っていたことだろう。
「アリアが食べさせてくれるものならなんだって美味しい」
さりげなく要求されていることに気付かないアリアンジュは、顔を赤くして俯いてしまった。指先を愛撫しながら見守っているうちに料理が届く。彼は思う存分料理を堪能した。
空が茜色に染まる頃、2人は品評会の会場である郊外の離宮にやって来ていた。王都のコロッセウムでは半月に渡って開催された品評会の結果が発表されている所で、閉会間近の会場は閑散としている。見せたいものがあると事前に言われていたので、これも予定のうちだ。最終日の今日は17部門のうちの花部門が展示されており、良し悪しなど分からないグランティルドにも、すごいということくらいは分かる。説明書きを何となく読みながら隣へと視線を向ければ真剣な顔つきで一点一点見ていくアリアンジュがいて、そのひたむきさに改めて惚れ直す。年相応な姿と一人前の顔をする姿、どちらもが彼にとっては愛おしい。
「グラン様こちらです!」
魅入っているうちに彼女はだいぶ先へ進んでいた。とはいえ、彼の足ならすぐに彼女の元へ追いつき、置いていかれないよう腰に腕を回す。頬を染めた彼女は彼を見上げたが、拒むこともなく寄り添った。
出口が近い所でアリアンジュは足を止めた。強い芳香で存在感を撒き散らす花々よりも、腕の中で彼好みの控えめな香りを発する恋人にすっかり夢中になっていたグランティルドは顔を上げたまま視線を固定した。優れた嗅覚を持つ彼には、他の花とこの花の違いが一目瞭然だったのだ。
「匂いが、しない?」
「はい。これなら香りの苦手な人も楽しめると思いまして作りました。香りが混ざって欲しくないような場……例えば食事時に飾っても綺麗でしょう?」
得意気に説明するアリアンジュに頷きを返しつつ、花が持つ純粋な美しさに惹かれた。
「お気に、召しましたか?」
彼の反応を窺う彼女の様子に、この花は彼を想って作られたものだと気付く。匂いに敏感なグランティルドは、ロサ・アリアンジュに出会うまで強い香りを発するもの全般が苦手だった。顔には出さないものの、この会場内でも吐き気を催す香りが幾つかあり、彼女の香りが辛うじて気を紛らわせていた部分がある。そんな彼が花を愛でる事など今までにある筈もなく、これからもずっとそうだろうとこの瞬間まで思っていた。
いつかと同じように傍らの温もりを抱き締める。この素晴らしい恋人は彼に沢山の素敵なものをくれるのだ。
日が沈み閉館案内が係員の声によって叫ばれる。長く伸びた二つの影は暫く一つになったままだった。