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放課後の魔少女  作者: 結城コウ
第二章 「医者よ、死を締め出せ Doktor, sperrt das Tor dem Tode!」――九月十七日
9/62

5.

 ※

 姉さんと私は同時にそれを感知した。二人で夕食の準備をしている時だった。

「ありゃ? 意外と早かったな。これは高原かな。一人みたいね」

 並んでキッチンに立つ姉さんが顔を上げて虚空を睨む。そうしながらも、不慣れな包丁を握る手を止めないものだから、こちらとしてはハラハラする。まな板の上で刻んでいるのはニンニクの欠片だった。

「……ですね。ちょっと遠いですけど」

 私の担当はタマネギのみじん切りだ。ついお菓子を買い込みすぎたので夕食は簡単なものを、とトマトソースのパスタということになった。……目が痛い。次の仕送りが入ったら是非ともフードプロセッサー(キューヒェンマシーネ)を買おうと決心する。

 姉さんの案とは、なんとも受動的(パッシーフ)なものだった。

 やみくもに飛び回ったところで、手がかりひとつ持っていない私たちでは相手を見つけることができない。でも地元民の高原たちなら、ひょっとしたら何か掴んでいるかもしれない。そして、彼女らが行動する際には〈モナドの窓モナーデンフェンスター〉を開くだろうから、それを察知して動けばいい。ダメなら今夜もパトロールだ。

 私たちに欠けている土地勘を高原たちから拝借するというわけだ。犬が吠えている間に羊を喰らう狼のようだが、あくまで目的は事件の解決もしくは予防である。高原たちが先に片づけてくれたら、それはそれで文句はない。

 果たして姉さんの予想は的中した。ここから西北西に六キロほどの地点で、高原が〈モナドの窓〉を開いた。

「どうします? 出ますか?」

 私は涙を拭うついでに尋ねてみた。

「ううん、まだいい。ほら、あまり〈モナドの窓〉を大きく開いちゃいないし、うろちょろ移動してるし、手がかり見つけたってわけじゃなさそう」

 魔術師の泣き所のひとつが、異世界から流れ込む混沌の力に含まれる〈不純物(フレムデス)〉だ。

〈不純物〉は〈(オーフェン)〉の中で魔力に精錬されることなく〈(ゲフェース)〉に流れ込み、澱のように溜まって次第に使用できる魔力の量を圧迫していく。個人差はあるが、〈器〉の容量の三分の一も溜まったら、魔法は打ち止めだ。〈モナドの窓〉を閉じずにそれ以上無理に取り込もうとすれば、精神にも肉体にも大きな負担がかかり、発狂したり、場合によっては死んだりしかねない。

 混沌の力に含まれる〈不純物〉の割合は、〈モナドの窓〉の開放率に従って増大する。それをできるだけシャットアウトするために、魔術師はあるいは〈モナドの窓〉の大きさを絞り込み、あるいは近代魔法の最大の発明にして標徴(メルクマール)である〈フィルター〉をかける。だがこうした〈不純物〉対策をとれば、単位時間当たりに取り込める混沌の量もそれだけ目減りする。その間のバランスの取り方が難しいところである。

「ご飯食べるくらいの時間はあるでしょ。……うわっ、手がにんにく臭っ!」

 姉さんは自分の手をくんくんと嗅いで顔をしかめた。

「ついでに牛乳飲んで、歯磨きもしなきゃね。あ、あのケーキ、明日まで冷蔵庫で大丈夫かな」

 余裕だ。どうしたら姉さんみたいな大物になれるんだろう。



 ※

「う~ん、日本の警察はさすが優秀ねぇ」

 日没後のとある民家の屋根の上。腹這いの姿勢で軒からわずかに顔を出すようにして、詩都香(しずか)は眼下の道路を窺っていた。

 数分に一度、警察車両が通る。おまけに、私服・制服の警官たちがそこかしこを巡回している。市内の他の地域では見られなかった厳重な警戒態勢だった。

 まあ、詩都香が気づいた法則だ。警察の目に止まらないはずがない。それでも向こうは詩都香ほど確信はないだろうから、無用の混乱を避けるため報道で注意を呼びかけることはしなかったのだろうと考えられた。

 とはいえこの状況はやりづらい。進みにくくて仕方がない。屋根の上で息を殺しているところなんて見られたら、それこそ犯人扱いされるかもしれない。かといって下の道を行ったのでは、たちどころに保護されて自宅まで強制送還の憂き目に遭うだろう。

 おかげで、もうずいぶん時間が経ったにもかかわらず、さして遠からぬ目的地にまだたどり着けていなかった。

 詩都香は超感覚知覚をフルに活用して、周囲の視線の向く先を把握してから、慎重に次の家の屋根に跳び移った。目的地まで一ブロック。続けざまに屋根から屋根へと跳び、前に横たわる最後の小路を見下ろす。

 道の向こう側には、民家が一列に並んでいた。その奥はもう九郎ヶ岳の山林である。この家並のどこかに、目指す病院はあるはずだった。

 ところが、いくら目を凝らしても、それらしき建物は見えない。路上を往来する警官たちもなかなか絶えることがない。

「仕方ない、こいつの出番か」

 詩都香は鞄の中から折り畳まれた大きな紙を取り出した。屋根の上に伏せたままでそれを広げる。

 画用紙を繋ぎ合わせて作った等身大の人型だった。両面ともラッカー塗料で黒く塗ってある。こんなこともあろうかと、普段から鞄に忍ばせていたものだ。

 それを念動力(サイコキネシス)で道路へと舞わせる。誰の注意も引くことなく路面に広がった人型は、意志を持ったかのように立ち上がった。

「おい、なんだお前?」

 ちょうど通りかかった警官が、真っ黒な人影に向かって誰何する。なにしろこの暗さだ、まさか紙製の人形とは思うまい。

 十分に注意を引いたのを確認して、詩都香はその紙人形を駆けさせた。

「おい、待て! 誰かっ! こっちだ!」

 最初に声をかけた警官が怒鳴り、携帯する無線機に向かってがなり立て、笛を吹く。途端に辺りが騒然となり、マグライトの投げる光線が飛び交った。

 たちまち集まった四、五人の警官が、その人影を追っていった。パトカーが先回りしようと発進した。

「もういいかな」

 詩都香は音もなく道路に降り立った。騒ぎを聞きつけて家の窓から心配そうに覗く住民もいたが、物音が遠ざかると、また元のように室内に姿を消していた。

 地図を片手に、道を歩いてみる。しばらく行くと、交差点に突き当たった。

「あれ?」

 おかしい。地図に記載された病院らしき建物も、その跡地と思われるような空き地も見当たらなかった。

 今度は一軒一軒建物を数えながら道を戻った。すぐに別の交差点にたどり着いた。

「と、いうことは、だ」

 詩都香は同じ道を三度(みたび)辿る。地図とにらめっこしながら、また一軒一軒建物を確認。

「ここ……」

 五軒目と六軒目の邸宅の間で、詩都香は足を止めた。

 微かな違和感。二つの家の敷地は広すぎるように思える。そもそもにして地図上では、両家は隣り合っていないはずだ。

 詩都香は二十センチほど間を開けた両の掌を、目の前に掲げた。その小さな空間に魔力を込める。

「……手の込んだことで」

 両手の間に、廃墟一歩手前の病院が映り込んでいた。



 ※

「高原が止まりました。どうやら目的地に着いたようです」

 長々と歯を磨き続ける姉さんの背に向かってそう報告した。歯ブラシを片手にした姉さんがこちらを向く。

 私たちとて、五キロを越える距離だと〈モナドの窓モナーデンフェンスター〉を探知するために相応の集中力が必要になる。ゆえにこうして交替で監視しているわけだ。

「いああえはにやっへはんはお」

「何言ってるのかわかりません。早く終わらせてください」

 その気になれば精神感応(テレパティー)で意を伝えることもできるのに、姉さんはものぐさだった。

「今まで何やってたんだろ?」

 洗口液で口をすすぎ終えた姉さんが言い直した。

「さあ? ……あ、次、私いいですか?」

「はいよ」

 タオルで口元を拭く姉さんと入れ替わりに、洗面台の前に立つ。誰にも会う予定はないとはいえ、さすがにスパイシーな香りを振りまいて外出するのは気が引けた。チューブの歯磨き粉を絞り、歯ブラシに移した。

「あ、ほんとだ。さっきんとこからあまり移動してない」

 脱衣所の籐椅子に座って監視の役割を引き継いだ姉さんが呟いた。

「はふはにははんはんにはひふへあえあはっはほえは?」

 ――さすがに簡単には見つけられなかったのでは?

「何言ってんのかわかんないって。さっさと済ませな」

 自分は十五分も磨いていたくせにわがままなことをおっしゃる。私も少々意地になってしつこくブラシを動かしていると、姉さんがだしぬけに籐椅子から立ち上がるのが鏡越しに見えた。

「あれ? あれれ? 消えちゃった……」

 思わず振り返った私は、姉さんと顔を見合わせた。



 ※

 門を守る錆に塗れた鉄柵をひと跳びで越え、詩都香は病院の敷地へと降り立った。どうやら、人の認識を狂わせる結界の類が張られていたらしい。

 測量機器を誤魔化すことはできなかったのか、地図上では空き地と表示されていたが、当の技師たちがデータと現実との齟齬を不審に思ったかは謎だった。

 いや、おそらく気にも留めなかったのだろう。見えているのに認識されない、そういう類の結界だった。たとえ隣家の住民が地図を見ても、詩都香のようにある程度の魔力を具えていなければ、何も感じなかったに違いない。

「夜の廃病院、か。いかにもって感じ……」

 詩都香とて魔術師の端くれ、夜の闇を過剰に怖れるものではなかったが、それにしたって雰囲気がありすぎる。理屈では整理できない怖気が背筋を這い上ってきた。

 分厚く積もった落ち葉をしゃくしゃくと踏みながら、二階建ての建物の周りを時計回りにひとめぐり。門の真正面にあった玄関から伸びた棟は四回直角に曲がり、元の場所へと戻ってきた。どうやらほぼ正方形の建物のようだ。

 詩都香はガラスの砕けた玄関をくぐりぬけ、建物の中に入った。小さな受付台のあるホールを抜け、左右に伸びる廊下を横切ると、すぐにまたガラス戸があった。こちらは割れていない。

 砂埃にまみれて半透明になったガラスを透して、上ったばかりの月の光が差し込んでくる。予想通り、中庭を囲んだ「ロ」の字型の作りだった。

 取っ手に手をかけて押してみたが、びくともしなかった。次いで、引いたり横に開こうとしたりするも、いずれも徒労に終わった。

 足下に目を凝らせば、中庭側にも土や落ち葉が積もり、扉の開閉を不可能にしていた。

「しゃーない」

 下手に割って、中にいるかもしれない犯人に知られては困る。詩都香は鞄を置き、精神を集中させた。その目の前に、周囲の暗がりよりもさらに濃い闇が口を開けた。

 直径三十センチほどの円盤状の闇の中に、詩都香はためらうことなく腕を突っ込む。すぐに引き出されたその手には、大きな帽子と、これまた大きなマントが掴まれていた。どちらも真っ黒な生地である。

 戦いの場に赴く際の、詩都香の装束だった。

 普段は自室のクローゼットにしまってあるそれらには、あらかじめ魔法がかけられており、望んだ時に異空間経由で手元に取り寄せられるようになっている。

 まずマントを羽織った。胸の前で組み紐を結び、さらには大きなブローチで留める。ブローチの中心に埋め込まれているのは、魔力を貯め込む性質がある黄紫水晶(アメトリン)。特別に魔力の伝達効率の高い素材――詩都香自身の毛髪――が織り込まれた布地の隅々まで、力が行き渡る。

 次いで帽子をかぶり、極細のゴム紐で髪に固定する。肩幅に迫る幅広のつばを持った、異様に高いとんがり帽子である。山の先端は自重でくにゃりと折れている。有体に言って、いかにも魔女がかぶっていそうな帽子だった。こちらも、山の根本をひとめぐりする赤いリボンに、小さな黄紫水晶の飾りが三つほどあしらわれている。

 準備を整えた詩都香は、マントの内側にこしらえたポケットから、長さ二十センチばかりの円筒状の道具を取り出した。こちらは灰緑色で、青錆びた燭台に見えないこともない。

“サイコ・ブレード”――と詩都香が名づけた武器である。術者の魔力を吸って高温の刃を生む魔法道具だ。熟達した魔術師ならこんなものに頼らなくても同様のことができるそうだが、今の彼女には欠かせない。

 暗闇と閉塞とを引き裂くように、仄赤い長剣が発生した。

 詩都香はできるだけ出力を抑えながら、切っ先をガラスに触れさせた。赤熱した断面を残して、易々とガラスが切られていく。幅・高さともに一メートル余りの方形が完成する直前、左手で念動力(テレキネシス)を発動。ぱきん、という軽い音とともに、切り取られたガラスの板が手元に引き寄せられた。

「……あ」

 ガラス板を廊下に横たえたところで思い至った。どうせなら誘拐犯と同様の手口で、念動力だけでガラスを割ってやればよかった。そっちの方が彼女らしい皮肉が効いている。

 ま、済んだことは仕方がない、と思い直して、詩都香は身をかがめてガラスに開いた穴をくぐった。

 中庭に出ると、向かって右の病棟――方角に従えば東棟――の一階奥の部屋から、かそけき灯が漏れているのが見てとれた。

「霊安室だったりして」

 自分の独り言に自分でぞっとしながら、小走りにそちらに向かう。中庭には幾本かの樹が植えられており、長年に渡る落ち葉が地面の上に敷き詰められていた。

 詩都香は自分の不吉な予測が当たっているのを感じた。中庭に向かって大きな窓を持った他の病室とは異なり、この部屋の窓は非常に小さく、しかも天井すれすれに穿たれていて、採光以外の役には立ちそうになかった。

 ちらっと後ろを振り返ると、対照の位置にある西棟の部屋には窓がまったく無かった。あちらは手術室なのだろうと判ぜられた。

「やだなぁ。……よっと」

 軽くジャンプ。右手一本でコンクリート剥き出しの窓枠にしがみつき、片手懸垂。部屋の中が覗ける位置まで全身を持ち上げる。魔法で強化した身体でなければ為しえぬ業だ。

 電気はさすがに通っていないようで、部屋の照明は弱々しかった。中央に置かれたランプが唯一の光源だった。霊安室と言われて思い浮かべるような設備は何もなかった。学校の教室の半分くらいの広さの、ただただ殺風景な空間だった。

 部屋の両端に視線を走らせた詩都香は、息を飲んで顔をそむけた。

 ――死体。死体、死体。死体の山だった。詩都香から向かって右手、部屋の一方の壁沿いに乱雑に転がされている。

 一部は白骨化しており、一部は腐敗が進行し、一部はまだ生々しかった。

「うっ」

 胃の中から酸っぱいものがこみ上げる。一番手前にある真新しい遺体の顔には覚えがあった。今朝散々テレビで紹介された、昨夜の誘拐事件の被害者だ。おそらくは他の遺体も、それ以前に拉致された少女たちのものなのだろう。

 目に涙がにじんだ。楽観視はしていなかったが、想定の中でも最悪の事態だ。

 しかし、その後の展開はさらに詩都香を驚愕させた。


 ぎいぃ、と扉が軋みながら開く。誰かが室内に入ってきた。

 詩都香は身を強張らせたが、向こうがこちらに気づいた様子はなかった。

 入ってきたのは、黒いローブを頭からかぶったかなり大柄な人影だった。左肩に、一人の少女を抱えていた。もう片方の手には、長い柄の先に幅広の刃を具えた戦斧を携えている。

 その人物は、左肩の少女を、荷物か何かのようにぞんざいに床に振り落とした。仰向けに横たわる少女の、床に置かれたランプに照らされたその顔を見て、詩都香は仰天した。

「部長!?」

 連れて来られた少女は、あろうことか郷土史研究部の部長、吉村奈緒だった。

 詩都香の心臓が早鐘のごとく鳴り響いた。つい三時間ほど前に軽口を交わし、ついでに盗撮までしてくれた相手が今日の被害者――悪い夢でも見ているようだ。

 乱暴に床に落とされても、奈緒は身じろぎひとつしなかった。単に気を失っているだけなのか、それとも……。その首に嵌まった銀色の環が、ランプの光を反射してちろちろと燃えるような輝きを放っていた。

 黒ローブの人物は、床の上の奈緒の体をずるずると引きずり、部屋の中央まで移動させた。そして、右手に掴んだ得物に、もう片方の手を添える。

 ――まずい。

 詩都香は体重を支えていた右手を放した。二メートル弱の自由落下の間に、伸長させたサイコ・ブレードを幾度も振るう。コンクリートを豆腐のように分かちながら、仄赤い刃が縦に横に駆けめぐった。

 壁面に賽の目切りが完成するのと同時に着地。膝を折って衝撃を殺し、反動で前方に跳ぶ。

 顔をかばった両腕に、ずしりとした手応えが伝わった。構わず、そのまま前進。

 二十センチ角に刻まれた壁をぶち抜き、詩都香は室内に突入した。

 黒ローブの怪人は、闖入者に動じることなく手にした戦斧を奈緒目がけて振り下ろそうとしているところだった。

「こらあッ!」

 お世辞にも格好いいとは言えない掛け声とともに、瞬時に距離を詰め、サイコ・ブレードを振るう。

 振り下ろされた戦斧の柄は灼熱の刀身に容易く切断され、遠心力で飛んでいった刃先が部屋の隅の白骨の頭蓋を砕いた。

 その音に肝を冷やしつつも、詩都香は怪人に向かって第二撃を放った。腰の入っていなかったこの打ち込みはひらりとかわされた。

 たたらを踏みそうになる片足をぐっと踏みしめ、それを軸足にさらにもう一撃。

 得物を失った怪人は今度も身をかわす。その上、左手に込めた念動力を衝撃波に変えて放ってきた。

 詩都香は同じく念動力を込めた片手でそれを払いのけた。〈モナドの窓〉を開いた魔術師にとっては、この程度造作もない。

 ぶつかった念動力の余波で、怪人のローブのフード部分が吹き飛ばされた。

「ひっ……!」

 さらなる追撃に踏み切ろうとしていた詩都香は、露わになったその顔を見て掠れた声を上げた。

 怪人の素顔は予想以上に醜かった。

 腐肉を捏ね上げ、幼児が人の顔を形成しようとしたらこんな具合になるのだろうか。土気色のその顔には、いたるところに青黒い血管が走り、しかもそれがそこかしこで皮膚を貫いていて、末端から黄色っぽい液体をこぼしている。肌と同じ色合いの黄ばんだ乱杭歯は完全に口を閉じることを許さず、その向こうから夜の闇より深い暗黒が覗いていた。

 眼窩の奥には光を返さない白濁した眼球。瞼はない。

 無毛の頭部にも髪の代わりに幾本もの短い血管。額の両端からは、小さな角が突き出ていた。

 これまで何体もの〈夜の種(ナイトシード)〉を討ち果たしていた詩都香も、小さく息を飲んだ。

 そして思えばそれは、この室内での最初のひと呼吸だった。

「う、げ……っ」

 部屋の内側に積み重ねられた死体の臭い。そして、目の前の怪人が発する、胸をムカつかせる臭い――鼻粘膜を灼くあまりにも濃厚な悪臭に、詩都香は口元に左手を当ててえずいた。頭の芯から痺れが広がった。

 慌ててマントの裾を掻き抱き、口と鼻を覆う。その布地に焚き染めたお香の芳芬が、危ういところで彼女の正気を繋ぎ留めた。

 その隙に、怪人は身を翻すと、開いたままだった扉をくぐり、廊下へと消えていった。

「ふぁひなふぁい(待ちなさい)!」

 そのままの体勢で、怪人を制止しようとする。とはいえ、とって返されても困るところだった。今この場で戦えばひどく不利になっただろう。

 怪人が走り去る気配を感じながら、詩都香は深く安堵した。

 詩都香はマントで臭気を遮りつつ、床に倒れたままの奈緒のもとに駆け寄る。

 幸い、息はしているようだ。しかし、目を覚ます様子はなかった。

 それを不審に思いつつ、詩都香はひとまず息を止めながら両手で奈緒を抱え、自分の開けた穴から中庭へと脱出した。

「っはあー……っ!」

 来るときには感じもしなかった朽葉の匂いが心地いい。新鮮とは言えないまでも、まだしもマシな空気をむさぼる。

「はぁ……ほんと、死ぬかと思った」

 臭気の一因である死んだ少女たちには悪いと思ったが、ようやく人心地つくことができた。

 そろそろと奈緒の体を葉っぱのクッションの上に横たえる。秋の虫の音に交じり、すーすーと、規則正しい寝息が聞こえてきた。

(なんで目を覚まさないんだろ?)

 どうにか落ち着いた詩都香は、奈緒を見下ろして首を傾げた。気絶した人間であっても、あれほどの悪臭を嗅がせられれば普通飛び起きるはずだ。

 そこで目につくのは首に嵌められた銀色の環だ。チョーカーのように薄い。こんなアクセサリーを奈緒が着けていたのを見たことはない。

「なんだこれ」

 奈緒の頭を支えつつ指を一周させてみたが、継ぎ目も何もなかった。どうやって装着したのか不明である。しかも、かなりの量の魔力を纏わせている。

 こいつの仕業か、と推測した詩都香はそれを外そうとした。奈緒の首と環の間のわずかの隙間に両手の指を差し入れ、引きちぎろうと試みる。だが、強化された詩都香の力を以ってしても、薄作りの環はびくともしない。これ以上の力を込めれば、奈緒の首をへし折るか喉を潰してしまう恐れがあった。

 サイコ・ブレードで焼き切ることも考えたが、素材も何もわからない現状では、奈緒に大火傷を負わせてしまう可能性があった。

「なんなのよ、もう」

 詩都香は天を仰いだ。今この首環を外すのは諦めざるを得なかった。

 あの怪人はどこに行ったのだろう――辺りを見回してみる。どこにもそれらしい気配は感じられなかった。

 あれが人間でないのは確かと思えた。一連の事件の手口は明らかに人間業ではなかったし、さっきの身のこなしも常人離れしていた。それになにより、あのご面相である。

「あいつを見つけて倒すのが先決かな」

 そうひとり呟き、小さく肩を落とす。あの醜悪な敵ともう一度相対するのは、あまり気の進むことではなかった。

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