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放課後の魔少女  作者: 結城コウ
第二章 「医者よ、死を締め出せ Doktor, sperrt das Tor dem Tode!」――九月十七日
7/62

3.

 ※

 午後一番の国語の授業で作文をやらされた。とてつもなく苦手な作業だ。毎回授業時間内に終わらずに、持ち帰りの課題ということになってしまう。

 自慢ではないが、私は平仮名さえ書くのが遅く、漢字もなかなか出てこない。小学生が使うような字の大きい学習用国語辞典を手元に置くのは恥ずかしいけど、背に腹は代えられない。正直に言えば独和辞典も欲しいところだ。でも、それをやると負けな気がする。

 生徒の日本語力を向上させるためとして、この学校では年度末に学年文集を発行している。そのための練習とのことである。文集自体は自由作文なのだが、授業の中では課題文を読まされた後、先生が設定したテーマで書くことになっている。

 今回の課題文は、幼児期の記憶についての短文だった。先生が出した課題は、「あなたの一番古い思い出について書きなさい」。原稿用紙二枚。私にとっては茫漠たる海原も同然の、気の遠くなるような長い道のりである。


 私の頭の中に残っている一番古い記憶は何かと問われれば、泣いている姉さんということになる。今でこそあんな風な姉さんだけど、もちろん小さい頃には泣くこともあったわけで。

 あれはたぶん、城主様(へリン)に拾われる前、つまりは実の両親に捨てられる前のことだ。あの時姉さんはなんで泣いていたのだろう。また母親に叱られたんだったっけ?

 いくらぬかるみの中をさらっても、それ以上のエピソードは出てこない。情景の断片はいくらかあるけど、これでは作文にならない。


 そう、断片(フラグメンテ)

 泣いている姉さん。

 背景はどこかの森。森林公園だろうか。

 燃えている何か。

 視界の隅に映る……大きな黒い影。巨大な鳥の翼にも見える。


 私はそこで想起の糸を垂らすのをやめた。というよりも、以前から何度やってもこれ以上は思い出せないのだ。

 時間がない。課題文を読むのにだって、他の生徒の倍の時間がかかっている。別の思い出を下敷きにして適当なエピソードをでっち上げることにしよう。

 そうして私は、お城での幸福な生活を思い浮かべた。


 ――クサリヘビ(ヴィーパー)にやられたのね。可愛そうに。

 私の手の中を覗き込んで、城主様(へリン)は言った。森の中の小道を城主様と一緒に散歩していたときのことだ。四年ほど前だろうか。

 目的地である近くの池までは二キロほど。道はアスファルト舗装こそされていないものの十分に整備されていたので、子供の足でも往復一時間少々だ。姉さんはのんびり歩く私たちのペースに我慢していられずに、もうずっと先まで行っていた。

 私はその途上で、びくびくと痙攣するモグラ(マウルヴルフ)を見つけた。城主様の言うとおり、その背中には咬傷があった。

 城の近辺にはクサリヘビが棲息している。日本のマムシと似たような出血毒を持つ蛇で、人間が咬まれても死に至ることは稀だが、非常に痛いらしい。

「手の施しようがなさそう。可愛そうだけど、楽にしてあげた方がいいかもしれないわね」

 城主様の腰は少し引けている。このモグラを襲ったクサリヘビがまだ近くにいないかと警戒しているのだろう。魔術師のくせに、城主様は蛇が大の苦手なのだ。

 私の手の中で、モグラの痙攣はますます頻度を増し、そしてますます小さくなっていった。生命の火が萎んでいくのがわかった。

 私は深呼吸して〈モナドの窓モナーデンフェンスター〉を開いた。

「ダメよ、ノエマ。楽にしてあげるのなら、魔法じゃなくてあなたの手でやりなさい」

 城主様は厳しい顔をした。「魔法を使ってであれば命を奪っても自分の手は汚れない」というのは浅ましくて危険な考えだ、と私たちは常々言われてきたのだ。

 しかし、城主様は誤解していた。

 私は少し泣きそうになりながらも首を振り、手の中に魔法の光を生んでモグラの体内に注ぎ込んだ。

 断末魔の痙攣がやんだ。モグラはしばらく鼻をうごめかせていたが、私たちが見守る中、やがて事切れた。

 城主様は少し驚いていた。

「……苦痛を取り除いてあげたのね。そんな魔法、教えたかしら」

「いいえ、城主様。私も初めて使いました。でも、できる気がしたんです、苦しんでいるこの子を見ていたら」

 私たちはモグラの死体を道の脇に埋めてやった。

 散歩を再開してすぐに、私は城主様の顔色を横目で窺いながら尋ねた。

「余計な……独りよがりなことだったでしょうか。ほんの数分の命を奪うことをためらいました」

「そうねぇ。そう思うのならそうかもしれないわね」

 私は気落ちした。魔術師の端くれとして、もっと強く、もっと非情にならなければならない。

「だって、モグラの気持ちなんて私にはわからないもの。早く楽になりたいと思っていたかもしれないし、一分一秒でも生きたいと思っていたかもしれない。あなたはその両方を叶えてあげた。それは頼まれたからじゃなくて、あなたがそうしたいと思ったからでしょう? ならそれでいいじゃない」

「……よく、わかりません。私はいいことをしたつもりになってしまっています」

 城主様の言葉は、十歳の子供には理解できなかった。可愛そうという、それだけの気持ちでやったことだった。

「姉さんだったらどうしたでしょうか」

「さあ。わりとあっさり命を奪ったかもしれないし、あなたと同じことをしたかもしれない。白状するとね、もう何年も一緒に暮らしているのに、あなたたちの行動にはいつも驚かされているの。さっきのあなたの魔法もそう。あれはかなり高度な魔法よ。〈不純物(フレムデス)〉は大丈夫?」

 確かに少しくらくらした。あんな小さな生き物から苦痛を取ってやるために、私は相当の魔力を消費していた。

「……大丈夫です。――城主様、私は、姉さんみたいになりたいんです」

 目指す池が見えてきた。姉さんは岸辺の岩に座っている。靴を脱いで、足を冷やしているようだ。

「あなたは優しい子ね、ノエマ。ノエシスだってきっと、あなたのその優しさに支えられていることでしょう。これまでも、そしてきっとこれからも」

 姉さんが私たちに気づいた。「遅ーい!」と振り返ったその横顔が抗議していた。


 ――温かな回想を断ち切ったのは、授業時間の終了を知らせるチャイムの音だった。名前しか書けていない。今度もまた持ち帰りの宿題だ。

 教卓へと提出に向かうクラスメートたちを眺めながら、私はぐったりとして白紙同然の原稿用紙をクリアファイルにしまった。



 ※

 まだ夏と言えるくらいの気温なのに、日は着実に短くなっていく。詩都香が部室を出た時には、既に夕闇が迫っていた。事件のせいか、校内に生徒の姿はなく、校庭でも活動中の部活はないようだった。

「失礼します」

 職員室に入ると、残っていた十数人の教職員の目が一斉に詩都香に集まった。そのすべてに、驚きの色がたたえられている。

「ちょっとちょっとっ、高原さん!」

 担任の北山綾乃が、慌てた様子で駆け寄ってきた。上の女子大の文学部国文学科を出て三年目の古文の教師。詩都香たちのクラスが初めての担任なのだそうだ。

「あ、部室の鍵を返却しに……」

「そうじゃなくて! 誘拐事件、知ってるでしょ? ホームルームでできるだけ早く帰りなさい、って言ったの、聞いてなかったの?」

「すみません、少し用事があったもので……」

「まったく、しょうがないわね。顧問の高橋先生は今席を外してらっしゃるけど、鍵は後で私が渡しておくから、早く帰りなさい。絶対に寄り道なんてしないように。高原さんなんて、いかにも狙われやすそうなんだから――」

 そこで綾乃は失言に気づいたのか、口をつぐんで詩都香から鍵を受け取った。

 詩都香はしおらしくうなだれて反省の意を示した。これからその事件の中心地を探しに行くだなんて、とても言えない。

「先生はまだ帰らないんですか?」

「これから、娘さんがいない先生たちと見回りです」

「そんな、危ないですよ」

 小柄で童顔な綾乃なら、今でも高校の制服が着られそうだ。狙われてもおかしくはない。

「大丈夫、男の先生と一緒だから。それに、花の十代なんて私にはもう遠い昔の話……」

 綾乃が遠い目をした。こうなるとしばらく帰ってこない。

 詩都香は綾乃の相手を切り上げ、他の教師たちに愛想笑いを浮かべながら職員室を後にした。

 校門を出たところで、見知った顔に出くわした。背の中ほどまでの姫カットに眼鏡。女子クラス委員の松本由佳里だ。いかにも真面目そうなので示し合わせたかのようにクラス委員に選出された、不憫な少女だ。詩都香自身も由佳里に票を投じたので、申し訳ないとは思っている。

 あまり話したことのない相手なので、会釈だけで済まそうとした詩都香だったが、由佳里は詩都香の姿を認めると、小走りで駆け寄ってきた。

「高原さん」

 向こうから声をかけられては応答しないわけにはいかない。

「松本さん……も今帰り?」

「うん。部活の先輩から頼まれた用事がなかなか終わらなくて……」

 由佳里に用事を押しつけたその先輩は、親が迎えにきているから、とさっさと帰ってしまったらしい。ひどい話だ。

「ねえ、高原さん、学校に誰かいた?」

 詩都香が一人憤慨していると、由佳里が不安そうに口を開いた。

「ん? 先生たちが何人かいたよ。これから見回りだって」

「そう、忙しいのね……」

 由佳里の顔が曇る。

「どうかしたの?」

「ううん。……あの事件、今夜も起こる可能性が高いってテレビで言ってたよね。わたし、一人で帰るのがとても怖くて。誰か先生に送ってもらえないかな、と思ったんだけど……」

 語尾が消え入りそうにしぼんでいった。どうやら本当に怖がっているらしい。

「松本さんの家って、どの辺?」

 高樹町、と由佳里は答えた。

 どんぴしゃだ。詩都香の見立てによる今夜の危険区域に含まれている。由佳里はそれを察知して怯えているのだろうか。

「お家の人から迎えに来てもらったら?」

「うん、そうしたいんだけど……。お父さんは仕事で出張してるし、お母さんは車の運転できないから……」

 由佳里の目には涙が溜まっていた。こんなに怖がりなのに、先輩から頼まれたら断れない損な性格なのだ。

「それに、中学生の妹もいるし、お母さんはそっちも放っておけないみたいで……」

 などと言われると、同じく中学生の弟がいる詩都香としても、他人事とは思えなくなってしまう。

「じゃあ、わたしと一緒に帰ろうか」

「……いいの? 高原さんもあっちの方だっけ?」

「うん、そんなとこ」

 もちろん嘘だった。詩都香の家は、徒歩でも通える距離の新興住宅地にある。

「ありがとう、高原さん」

 由佳里はいくらか安堵したようだった。

 学校のそばの停留場から、九郎ヶ岳丘陵地帯を突っ切って西地区に向かうバスに乗った。詩都香はこの路線に乗るのは初めてなので多少まごついたが、極力それを態度に出すまいとした。由佳里の不審を招いてはならない。

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