2.(完)
びっくりして上げた視線の先で、高原くんが膝に手を突いて荒い息を整えていた。
「ど、どうしたんだよ、急に、帰っちまう、なんて……」
私は彼の元へ駆け寄った。
「どうして……高原くんがここに?」
「姉っ、貴が……お前、帰っちまうって、姉貴が……」
「落ち着いて、高原くん」
彼の背中に手を当て、さっきまで座っていたベンチに導こうとした。その間にも、高原くんは言葉を継いだ。
「今日の朝、お前か、姉ちゃんの方か、うちの姉貴に、電話しただろ? 何か辛いことがあって帰っちゃうって」
え? 電話なんてしてないけど。たぶん姉さんも。
ようやく息の整った高原くんだが、ベンチに腰かけようとはしなかった。同じく立ったままの私の正面に回る。
「なんで俺に何も言わずに行っちゃうんだよ」
「せ、先生には言ったよ。今日のホームルームでみんなにも知らされてると思う」
「先生なんてどうでもいいだろ! 俺……俺たちにだよ。 俺たち、お前にとってそんなに軽い存在だったのか?」
「そっ、そんなつもり……」
高原くんの言葉は、まるで先週の土曜日の私の心情をなぞるかのようだった。弁解しようとしたところで、がばっ、と抱き締められた。
息が止まった。
「た、たかっ――!」
「ふざけんな! なんで……なんでよりにもよってこんなタイミングでっ……!」
高原くんの体が震えていた。
「高原くん、苦しい」
どうにかそうとだけ絞り出した。
高原くんがハッとして私の体にめぐらせた腕を離し、今度は私の両肩を掴んだ。
二人の間にわずかな距離が生まれたその途端、ツンと汗の臭いがした。でも決して不快ではなかった。
じっと上から私を見据える彼の両目は充血していた。
「帰ってくるんだろ? なあ?」
私の肩を掴むその両手に、力が籠もる。
「帰って、くるよ。たぶん……」
消え入りそうな声で、私はそう答えた。
高原くんが声を荒らげた。
「たぶんって何だよ! いつ帰ってくるんだよ!」
「――た、たぶん来週の木曜日。チケットがとれたら水曜日になるかも」
「……は?」
高原くんの目が点になった。
※
「高原くんってば、ほんとに来たんだ」
合流したノエシスは少し呆れていた。どうやら半信半疑だったらしい。
「まあ、こいつはこの手の悪巧み得意だからね。先輩の立場を利用して、恵真と琉斗の友達にも根回し済み。たった数日の帰省だってことが琉斗にバレないようにって」
魅咲も苦笑いする。
「おかげで今週は感動のお別れシーンを演出するのに忙しかったわ」
魅咲の言い方に引っかかりを覚えながらも、詩都香はそうとぼけた。
懸念していたのはノエマの出方だったが、幸いにも彼女は思ったとおりの奥ゆかしい性格だった。
詩都香はノエシスにも指示を出していた。
「早く高原くんに伝えておいた方がいいんじゃない? 一生後悔するかもよ?」などと、さも一大事であるかのようにノエマをけしかけておけ、と。もちろん、そうすることによってノエマがかえって気後れするのを見越してのことである。ギリギリになったところで電話かメールで伝えようとするだろうが、携帯電話がなければそれもできない。当然これもノエシスに頼んでおいたことだ。
「まったく、最近の子は嘆かわしいわね。アドレス帳くらい作っておきなさいっての」
そのおかげでこうして琉斗の行動を操ることができたわけだが。
「ところで一条は?」
「伽那は学校だよ。先週の金曜日も休んだし、今日は誘わなかった。今ごろ何も知らずに授業受けてるはず。あの子が来ると面倒なことになるかもしれないからね」
「そのことだけど、魅咲、どうして伽那が来ると面倒なの?」
詩都香がそう質問すると、魅咲とノエシスが顔を見合わせ、それから肩をすくめた。
何か変なことを訊いてしまったのだろうか、と詩都香は気まずくなってノエシスに向き直った。
「なんで急に帰省なんて?」
「ん? ああ、うちのお母さんが急病で倒れたから、というのが表向きの理由。で、本当はさ、エマが詩都香たちにも話しちゃったでしょ? 小さい頃に変身しちゃったって。エマがね、その現場を見たいんだって。意味があるのか無いのか、本人もはかりかねてるみたいだけどさ」
ひとまずそうしないと、この先に進めそうにないのだという。ノエシスもノエマも記憶が曖昧なのだが、ノエシスの体感では一時間と飛んでいない。〈半魔族〉とはいえ四歳児の飛行速度から勘定すると、距離にして長くとも百キロといったところだ。
「それでも半径百キロでしょう? 一週間足らずで見つかるかな?」
「あたしはそのときの時間帯と月の方角を覚えてる。城主様に正確な日付を聞いたら、方向はだいたい絞り込めるはずでしょ」
だけどそれでも難しいだろう、とノエシスはつけ加えた。範囲はあまりにも広く、手がかりはあまりにも不確かだ。
「だいいち、城主様が日付を覚えているか怪しいもんだわ」
ノエシスがぺろっと舌を出す。
「でも、そんな大事なことなら、どうしてそんなに短い予定にしちゃったわけ?」
魅咲が口を挟んだ。
「だって学校をそんなに長く休むわけにもいかないじゃない? 試験だって近いし」
ノエシスのその答えに、今度は詩都香と魅咲が顔を見合わせる番だった。ゼーレンブルン姉妹が日本での学校生活をそこまで大切に思っているとは。
「……それに、やっぱりエマだってまだ怖いんだと思う。過去と向き合うのが、さ。だって、なんたって二十一世紀の先進国での事件だよ? どう処理されたのか知らないけど、女の子二人が行方不明になって報道されないわけないじゃない。ネットで検索するなり新聞を当たるなりすれば、事件の場所も結末もわかっちゃうはずなのに、それをやる勇気がない。だからエマは、小さな一歩をおっかなびっくり踏み出して、少しずつ真相に近づいていこうとしてるんじゃないかな」
「おー、お姉ちゃんっぽい意見だ」
弟のことを何もわかっていなかった詩都香が妬みもあってそう言うと、
「失礼な。あたしは正真正銘エマの姉だし」
と、まぜっ返された。
「――にしても高原くん、エマに気があんのかな?」
たしかにどういう心境の変化だろう、と詩都香も首をひねった。
二人の疑問に魅咲が答えた。
「どうも自分の心がわからずに迷ってるみたい。琉斗は言ってたよ、こないだ電話で感情を露わにした恵真に、ガツンと頭を殴られたような想いがしたって。何言われてたのかはわからなかったけど、恵真のことを庇護欲の対象と見ていた自分の傲慢さを思い知らされた、って」
「琉斗がそんな難しい言葉使うわけないじゃない」
肉親の恋愛譚など小っ恥ずかしくて聞いていられない詩都香は、ついつい話の腰を折ってしまう。
魅咲は露骨に嫌そうな顔をした。
「そりゃあ、相談を受けたあたしが勝手に解釈したことだけどさ。いいから黙って聞けっての」
「そんでそんで?」
女子の恋バナ好きは万国共通なのか、ノエシスが身を乗り出す。
「うん、姉とはいえ誰かのために本気になって怒れる恵真を眩しいと思ったってさ。たぶんそれから、琉斗もひとりの異性として恵真に向き合えるようになったんじゃないかな。気がついたら、本人にもよくわからないくらいに気持ちが育ってたみたいよ」
「うわぁ」
詩都香のみならず、ノエシスまでもが頬を上気させていた。こいつも耳年増の類か、と詩都香は無価値なことに安堵した。
「でもまあ、やっぱり琉斗は琉斗なんだけどね。ずっと片想いしてた相手がいるのに、って悩んでたわ。『俺って不実な男なんですかね』とか何とか。十年早いわって叱っておいたけど、どう転ぶかはこれから次第かな」
「でもでも、なんで魅咲に相談が行くのよ? わたしという立派な女子が身近にいるってのに」
詩都香の漏らした不満に、魅咲もノエシスも意表を突かれた様子だった。
「あー、詩都香? 一応訊いておくけど、ツッコミ待ちなんだよね、それ?」
と、魅咲。こちらはまだいい。詩都香も半分以上冗談だったからだ。
しかし、
「詩都香はもう少し自分の分をわきまえた方がいいよ?」
知り合って間もないノエシスにまで言われると、さすがに意気を挫かれる。
そこで搭乗を促すアナウンスが入った。ノエシスは床に置いていた鞄を手にとった。
「またね、梓乃」
魅咲が小さく手を振った。
「ありがと、相川。詩都香も」
「うん、気をつけて、ってのも変か」
「ま、ね。すぐ帰ってくるし。次は叩きつぶしてあげるから」
軽い調子でそう言い、ノエシスは妹の待つ方へと歩き出した。小柄なその背は、雑踏に紛れてたちまち見えなくなってしまった。
それと入れ替わるようにして、私服姿の背の高い少年がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
琉斗である。釈然としない想いがその顔に表れている。
すぐそばの詩都香たちにも気づかずに通りすぎようとした琉斗の背に向かい、魅咲が声をかけた。
「おい、そこの不良。学校サボっちゃダメでしょうが」
琉斗はびくっとして詩都香たちの方を振り向いた。
魅咲の、それから詩都香の顔を順番に眺め、ややあってから、狐につままれたかのようだったその表情がさっと変わった。
「お姉ちゃん……知ってたんだな?」
詩都香は立ち尽くす琉斗の元へと歩み寄りながら、鞄からそれを取り出した。今朝起こしに行った際にちょろまかしておいた琉斗の携帯電話である。
「はい、あんたの携帯」
携帯電話を手渡された琉斗は、わなわなとそれを握りしめた。
「琉斗もいい加減さ、あんたの姉がこういう奴だって学習しようよ」
魅咲が琉斗の肩をぽんぽんと叩いた。打ちひしがれた琉斗はそれでも立ち直らなかった。
「小遣い……」
「ん?」
ポツリと言う琉斗に、詩都香は耳を寄せた。
「小遣いくれ。新幹線代とかで半分がた消えた」
「ああ、ほら」
詩都香は財布から二千円札を抜いて差し出した。そのよどみのない動作を見た琉斗はついに座り込んだ。
「今朝の五千円は最初っからこのつもりでくれてたのかよ……」
「何を今さら。弟にキセル乗車なんてさせるわけにはいかんでしょうが」
「言ったでしょ、琉斗。あんたの姉はこういう奴だって」
魅咲が琉斗の手を引いて立ち上がらせた。なんだかさっきから詩都香にばかり悪役を押しつけようとしている。ゼーレンブルン姉妹が日本を離れる前に琉斗の背中を押してやりたい、と言い出したのは魅咲なのだが。
「そんじゃ、帰ろうか。琉斗、あんたはちゃんと学校行きなさいよ? 体調悪いけど午後からは行けそうだって、朝の内に担任の先生に連絡しておいたから」
「手回しいいなちくしょうっ!」
詩都香と魅咲が歩き出すと、琉斗も疲れた足取りでふらふらとついてきた。
と、いくらも歩かぬ内に立ち止まる。
「そうだ、今ので思い出した! 名簿見て固定電話から担任か誰かに尋ねりゃよかったんだよ!」
「は? 今ごろ思いついたの? ……はい、忘れない内に」
詩都香は二つ折りにした柳田中学二年四組のクラス名簿を鞄から取り出し、琉斗の手に持たせてやった。
琉斗は無言でまた歩き出した。
「諦めなってば、琉斗。ねえ詩都香、お昼でも食べてく?」
魅咲がそう提案する。
「そだね。今日のお弁当ダミーだし」
「ダミー?」
放心状態にあった琉斗が目を剥いた。それから鞄に名簿をしまって弁当箱を取り出し、辺りをはばかることなく蓋を開ける。
二段重ねの構造になっている弁当箱の中身は、両方とも輝かんばかりの白米だった。
琉斗が口を半開きにした。
「俺が泉を見送りに行ってなかったら……」
「そん時は、お昼に自分の愚かさと薄情さへの悔悟をおかずに白米を噛み締めてもらうことになってただろうね」
「もう好きにしてくれ」
琉斗は弁当箱に蓋をせず、それどころか箸を取り、白米を立食し始めた。
「うまい。愚かさの味がする……」
「ちょっと! 恥ずかしいな! 他人のフリするからね!」
「酷すぎる……」
「ほら、泣くな琉斗。駅行こうよ。久しぶりに東京来たんだし、美味しいもの食べてこ」
「ううっ、ミサ姉……」
――よかったじゃない、琉斗。
魅咲にすがりつく弟に向かって、詩都香は心の中で呟いた。
(よかったじゃない、ノエマが本当に帰っちゃうんじゃなくて。……こんな姉でごめんね。あんたが自発的に動いてくれるような方法、他に思いつかなかったの。でも、わたしがしてあげられるのはここまでだから。この先何を選択するかは自分で決めてよね)
ポケットの中の携帯電話が「ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲」を奏でた。伽那だ。
二人して学校サボってどこ行ってるの? わたしだけのけ者はひどいよぉ。
――電話をとる前から、そんな恨み言が聞こえてくるかのようだった。
※
「はい、エマ、探しもの。なんかあたしの手荷物に紛れ込んでたよ」
機内に乗り込みシートに座ったところで、姉さんはこれっぽっちも悪びれることなく私の携帯電話を返してきた。
「みんなで私たちを騙したというわけですね……」
私は溜息混じりに言い、深々とシートに身を沈めた。
高原くんは今朝いきなり私たちの帰国のことを知らされ、私に確認をとろうとしたものの携帯電話が見当たらず、かといって他の方法も思いつかずに新幹線に飛び乗ったのだという。よく場所がわかったな、と思ったが、「姉貴がメモを残してたから」というひと言でその疑問は氷解した。
そこで自分の携帯電話もなくなっていたことに思い至った。それから真相と思われるものに辿り着くまで、あまり時間はかからなかった。
何が「アイハラさん」だ。相川と高原姉に決まってる。
「ぼやかないぼやかない。ま、あんたたちっていうより高原くんを、かな。エマはそのついで」
「怒りますよ?」
「大丈夫だよ、あたしたちは宙ぶらりんで身動きがとれなくなっている高原くんの背中を押してあげただけなんだから。どっちに振れるかわかんないけどね。高原くんだって怒ったりなんか――」
「そうじゃなくて、私が、です。高原くんを騙したりして」
姉さんはきょとんとした。ややあって、にやあ、と笑みを広げる。
……どうしたんだ? 私は怒っているんだぞ?
「うんうん、いいねぇ。怒れ怒れ。誰かのために怒れるエマは素敵だぞ」
なんのことだろう? 私はどこかくすぐったい気持ちになった。
「エマ」姉さんがそこで一転して真面目な顔を向けてきた。
「あたしはこの任務降りないよ。だって、あたしたちが拒否したら、〈連盟〉の他の正魔術師が詩都香たちと戦うだけでしょ。そうなったら……」
「ええ、姉さん」
私も頷いた。
そうなったら、標的である一条はともかく、高原姉や相川は惨たらしく殺されるかもしれない。それだけは回避したかった。たとえ、彼女たち三人の日常を壊すことになっても。
恨んでもらってかまわない。私たちは結局のところ相容れない立場にあるのだ。
でももう少しだけ、せめて〈連盟〉が私たちの不甲斐ない失敗を大目に見てくれている間だけは、その日常を継続させてあげたい――そんな甘いことも考えていた。姉さんに言ったら怒られるかもしれないけど。
乗客は多かった。半分は外国人だ。そこかしこから各国語の会話が聞こえる。
当然、ドイツ語もだ。
「日本のビールはどうでしたか?」――「美味しかったですよ。気に入りました」
「秋葉原は面白かったわね。ベルリンにもああいうのがあればいいんだけど」――「いや、それはどうだろう」
思わず聞き耳を立てていた。ちらりと窺えば、姉さんも同じ感慨にひたっているようだった。
「……なんだか石川啄木の短歌みたいだね」
「え?」
姉さんのコメントが理解できずに訊き返してしまった。
「勉強が足りないよ、エマ」
姉さんはにんまりとした。これに対しては私は何も言えなかった。
その得意げな顔は、しかしながら長くは続かなかった。飛行機がゆっくりと移動を開始したからだ。
「……〈モナドの窓〉開いていい?」
青ざめた姉さんが声を潜めて尋ねてくる。
普段自力ですいすい飛んでいるくせに、姉さんは飛行機が苦手なのである。離陸と着陸が怖いのだとか。
「ダメです。こんな密閉された空間で開いたら、びっくりする人が出るかもしれません」
仕返しのつもりでぴしゃりと退けた。姉さんほどの大きな〈モナドの窓〉が開かれる際には、鈍い人でも無視できないくらいの空震が起こる。今それが起こったら、与圧機構に問題発生とかで最悪フライトが延期になるかもしれない。
実のところ、このやりとりはフランクフルトでもやっている。怖いのなら搭乗前に〈モナドの窓〉を開いておけばいいのに、喉元過ぎれば熱さを忘れる姉さんである。
「うぅ、意地悪……」
いつになくしおらしい姉さんが私の手を握った。さすがにそれを払いのけることはできなかった。
エプロンに停められた飛行機がいくつも窓の外をよぎる。さらにその向こうにターミナルのビルが見えた。高原くんは今ごろ姉にネタばらしをされているのだろうか。
不意に、鼻の奥がツンと熱くなった。
――バカだな、たった数日なのに。
タキシングしていた機がいったん止まり、エンジンの音がぎゅんぎゅんと高まった。
――バイバイ、私たちの祖国。さようなら。すぐ戻ってくるけどね。その時まで。
機体が再度動き出した。
姉さんの手に力が籠もった。
私はその手を握り返した。
〈完〉
これにていったん終幕となります。
最後までおつき合いいただき、ありがとうございました。




