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放課後の魔少女  作者: 結城コウ
終章「技芸は長し、人生もまた Ars longa, vita quoque」――九月二十七日
61/62

1.

「えっ、帰っちゃうんだ! 今日!? そんな急に……何かあったの? ――あ、そうなんだ。つらいわね……」

 詩都香(しずか)はおたまを片手に携帯電話に向かって話しかけていた。横目で窺うと、朝食の準備が整うのをテレビを見ながら待っている琉斗(りゅうと)はこれと言った反応を示していなかった。

「出発は? ――ああ、そう――え? 見送り? 学校だっつーの。――うーん、まあ考えておくわ。――うん、向こうでも元気でね」

 詩都香はキッチンカウンターの向こうからダイニングに出て、固定電話機の隣のメモ用紙にペンで書きつけた。

『羽田 十三時二十分のLH機』

 そこでついでにつけ加える。

「一応言っておくけど、国際線は二時間前到着が原則だからね。――え? 知ってるって? そりゃそうか、来るときにも乗ってきたんだもんね。――ん、それじゃ。着いたら連絡ちょうだい。――うん、アウフ・ヴィーダーヘーレン」

 詩都香は携帯電話をしまい、朝食作りを再開した。

 ふと顔を上げれば、椅子から立ち上がった琉斗が詩都香の書いたメモを睨んでいた。

「“LH”って何?」

「ん? ルフトハンザっていうドイツの航空会社。ハンザってのは中世の北海・バルト海貿易で栄えたハンザ同盟からとっててね。今もハンザ都市名乗ってるとこあるんだけどさ。昔はハンスっていう名前が多かったから――」

「ふーん」

 気のない返事で詩都香の説明を遮った琉斗だが、寝起きの働かない頭で何ごとか考え込む素振りを見せ、無言でダイニングから出ていった。

 およそ五分後、詩都香が「夢の中へ」の出だしを口ずさみながら鍋に味噌を溶かしていると、ドタバタと階段を駆け下りる音が響いてきた。

 その主の琉斗が扉から顔を覗かせる。

「お姉ちゃん、俺の携帯知らねえ?」

「知らないわよ」

「っかしーなぁ。昨日寝るときに枕元に置いておいたんだけどなぁ。さっき俺を起こしに来たときに見なかった?」

「見なかったってば。寝ぼけてどっかに捨てたんじゃないの?」

 詩都香は取り合わない。

 琉斗がもう一度部屋に探しに行き、首をひねりながら戻ってきたときには、朝食の準備は大方整っていた。弁当も支度済みで、湯気を逃して蓋をするだけである。

「お姉ちゃん、あのさ――」

 琉斗が意を決したように口を開いた。詩都香はそれを最後まで言わせなかった。

「あ、そうだ。琉斗、お小遣いあげる」

「……へ? なんで?」

 琉斗の顔が怪訝そうに固まった。

「こないだの合宿のとき、食費で足出ちゃったでしょ? その埋め合わせ」

 エプロンの下の制服のポケットから財布を取り出し、五千円札を渡す。

「こんなに? いいの?」

「お父さんには黙っときなさいよ。っと、もう行かなきゃ!」

 慌ててエプロンを脱ぎ、弁当箱を閉じて鞄にしまう。

「どうしたんだよ、こんな早く?」

 小走りで玄関に向かう詩都香を、驚いた琉斗が追いかけてくる。

「部活! 文化祭近いし! 朝ごはん食べたら食器はシンクに重ねといて!」

「待てって! お姉ちゃん! ちょっと携帯を貸し……!」

 そんな弟の言葉を遮るようにして後ろ手に扉を閉め、詩都香は家を飛び出した。

 さっきのは少しわざとらしかっただろうか、と思いつつ。



 ※

「姉さん、私の携帯どこにやったんですか?」

「知らないってば。恵真(えま)が勝手になくしたんでしょ」

 荷物のチェックをしながら、私と姉さんはこうして小一時間も押し問答をしていた。

「嘘言わないでください。昨日の朝まではあったんですよ。おかげで色々伝えそびれたじゃないですか」

「前から何度も言っておいたでしょ、早めに伝えておけって。携帯が無いんなら昨日学校で言えばよかったじゃない。もしくは家に行くとか。こないだ行ったんでしょ?」

「そんな面と向かって言えるわけないじゃないですか……。あ、でも姉の方にはメールで知らせてあるので、そこからちゃんと伝わっているかもしれません」

 彼にとっては別に大ごとではないのだ。姉を介して伝わっていても、高原くんはわざわざ私に確認をとろうとはしないだろう。

「だからあんたはダメなんだってば。ほら、そろそろ出るよ。前みたいにドタバタするのはごめんだからね」

 面倒臭そうに言って、トランクを片手に姉さんが立ち上がった。

「待ってください。それなら姉さんの携帯を――」

「女の子の携帯はトップシークレットの塊よ。冗談じゃないっての」

 取りつく島もなく、姉さんは部屋を出ていった。

 後ろ髪を引かれる想いで、私も仕方なくその後を追った。



 ※

 席に着いた詩都香は、隣に座った魅咲(みさき)に向かってさっそく愚痴をこぼした。

「しっかし琉斗もなっさけないなー。何年も片想いしていながら相手に気持ちを伝えられないなんてさ」

「だからあんたが言うなって。恋なんてしたこともないくせに」

 魅咲が唇を尖らせた。

「そりゃそうだけど。でもそのせいで今進退極まってるわけでしょ?」

 内容が内容だけに詩都香の声はひそめられている。たまに出くわす、公共の場で周囲をはばかることなく声高に恋人の話をする女性のようなことは、詩都香にはできない。

 こうした慎みは魅咲も共有している。周囲の雑音にかろうじてかき消されない程度の音量でささやき返してきた。

「あんたが原因だと思うよ」

「わたし?」

 意外な答えに、魅咲の顔を睨みつけるような格好になった。

「うん。あんたって大抵のこと完璧にこなせちゃうし。琉斗はあんな風に気楽に構えてるけど、やっぱり思うところはあるんじゃないかな。高嶺の花狙うくせに、結局はギリギリのところで自分に自信がないんだろうね」

「琉斗がわたしにコンプレックスでも抱いてるっての? ないない」

 詩都香は片手を振って否定する。

 詩都香にとって琉斗は、憎まれ口を叩いてきたり、やたらと世話が焼けたり、それでもたまに素直で可愛げがあったりする、ひとことで言えばごくごく普通の弟だ。

 もちろん、家事を一手に引き受けているのだから少しは感謝の意を示せ、などと言いたくなることも無いではないが、琉斗は琉斗で詩都香のわがままにつき合ってくれることも多いので、おあいこといったところだろうか。

 だからコンプレックスなど抱いているわけがない。それどころかこんな力関係でさえなければ、詩都香の方こそハキハキとして人当たりのよい弟に対して劣等感を抱くはめになっていたかもしれない――

 そんなふうに考えていた。

「まあ、琉斗はお姉ちゃんっ子だしね。詩都香のことが大好きで尊敬してる。だからこそ我が身を省みて複雑なんじゃないの?」

 背中がムズムズした。

 たしかに魅咲の言うとおり、姉弟仲は良好な部類なのかもしれない。だが、そんな関係の内にあって琉斗がどんな気持ちを隠し持っているのか、詩都香はこれまであまり考えたことがなかった。紙背に徹する詩都香の眼光も、ひとの心を見通すことなどできはしない。

「……つっても、わたしにはどうしようもないじゃない。今さら変わったりできないし」

「だから背中を押してやるんでしょうが。ウジウジ迷ってなんていられないところまで追い込んでさ。そんで誰かから特別だって想われてる――そんな確信が抱ければ、琉斗だってもっと自分に自信を持てるようになるかもしれないし」

(むむむ……?)

 自信が無いからノエマにも“片想いの君”にもアプローチできない、自信を持つためにはどちらかを口説き落とさせなければならない――それって話が破綻しているんじゃないか、と無粋な詩都香は思ったが、口に出したら叱られそうなので我慢する。

「……にしても、わたしだって特別に想ってやってるつもりなんだけどなぁ」

 詩都香がそう言うと、魅咲はいわく言いがたい表情を浮かべた。

「そりゃあ、たった一人の弟だもんね。でも、あんたが恋人になってやるわけにゃいかんでしょうが」

「いや、そういうつもりじゃないって」

「んじゃ、弟に先を越されるのがイヤだとか?」

「ちゃうがな! もう! 変な方向に話を持っていくなっての」

 魅咲はけらけらと笑った。

「ま、いい加減あんたも弟離れしないとね。んでさ、もしも……万イチよ? 万イチあの二人がくっついたとしたら、あんた恵真とちゃんと戦えるの?」

「何かと思えば」身構えていた詩都香はいささか拍子抜けした。

 その愚問に答えてやることにする。

「――小姑は嫁をいびってなんぼでしょうが」

 その答えを聞いた魅咲は、束の間呆気にとられた様子だった。

「ん……、それでこそ詩都香だわ」

 目的地が近づいた。

 二人は同時に席を立った。



 ※

 私たちは何事も無く空港に着いていた。チェックインを終え、荷物も預けてある。

「なんでギリギリまで待たなきゃいけないのかね」

 ベンチに座り膝の上に乗せた鞄に頬杖を突く姿勢で姉さんがぼやいた。

「さあ。見送りとかじゃないと思いますけど」

 さすがにそこまで馴れ合っているつもりはない。

 昨晩、高原から姉さん宛てにメールがあったのだという。セキュリティチェックに進むのはできるだけ待って、と。

 フランクフルトでの経験を活かして、私たちはかなり早めに着いていた。搭乗時刻までもうしばらくある。

 おやつを買い、機内で読む本を買い、城主様へのお土産について意見を戦わせ、ついでに二ヶ月前にも見て回ったばかりの空港内を散策し、お手洗いも済ませて……つまるところ、やるべきことはもう全部やっていた。

「まあ、詩都香が言うことだし、何かあるんだろうけど。あーあ、免税店とやらを冷やかしてみたいのに」

 庶民的な欲求を漏らす姉さんだった。

「また今度フランクフルトでやればいいじゃないですか。どうせ私たちの買うようなものなんてありませんよ」

 そこで呼び出しのアナウンスが入った。

『神奈川県よりお越しの泉梓乃(しの)様、神奈川県よりお越しの泉梓乃様、アイハラ様がお待ちです。案内カウンターまでお越しください。繰り返します――』

「あり? あたし?」

 姉さんが口をぽかんと開けて私と顔を見合わせた。

「誰だろ? 見送りはいいって言ったのに。あたしの知らない隠れファンかな」

 相手の名前に心当たりは無いらしい。

 それにしても図々しいことを言う。そんなファンがいたとしても、わざわざ空港までやって来たりしないだろう。

「〈連盟(リーガ)〉の人員じゃないですか?」

「あー、それならありうるか。イヤだなー。……そうだ恵真、代わりに行ってきてよ。あたしのフリしてさ」

「無理言わないでください」

 私は自分の頭の脇で揺れるワンサイドアップを指差した。姉さんは髪型が変わったことになかなか慣れないのである。

 学校では「泉梓乃、失恋か」などという噂が飛び交っていて、時折私のところまで問い合わせが来るのだから困ったものだ。

「なんであたしだけ呼び出しなのよ」

 姉さんは不承不承といった様子でアナウンスされた場所へ向かった。

 ひとりになった私は鞄から文庫本を取り出した。あのとき高原くんが薦めてくれた本だ。……いや、当人も読んでいないので、薦めてくれたというとちょっと微妙だけど。

 あの日のことが、疼痛を伴って思い出されてくる。

「高原くん……」

 一ページ目の文字を追いながら、そんなつぶやきが我知らず漏れた。

「泉!」

 それに答えるかのように、高原くんの声が私の耳朶を打った。

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