1.
「一昨日の電話、ごめんなさい。色々誤解があったみたいで」
四日ぶりに登校した私は、さっそく高原くんに謝った。昨日は高原姉が同席していたし、高原くん本人が気にしている素振りをまったく見せなかったので切り出しかねていたのである。
ちなみに、昨晩高原家から帰宅すると、食卓の上に突っ伏した姉さんが「遅いよぉ、恵真ぁ、お腹空いたよぉ……」などと泣いていた。
いやはや、レトリックではなく本当にべそべそ泣いていたのだから恐れ入る。家庭的な女になるという日曜日の朝の発言もどこへやら、ひとりで食事を作ることはなかったようだ。
外食をするか出前でもとればよかったのに、と言うと「美容室行ったらもうお金が無い」だそうだ。そういえば、カードも通帳も私が預かっているのだった。姉さんは自分の分の小遣いをさっさと全額下ろすので、持たせておく意味が無いのである。
「もうすぐ仕送り日です。頑張って乗り切ってください」
「うん、頑張る。だからご飯作って……」
「私はもう食べてきちゃったんで、簡単なものでもいいですか?」
お腹が満たされているときに力の入った料理を作るというのはなかなか難しい。
「もう何でもいいよ」
顔も上げる気力もない姉さんであった。おかしいな、つい先日までは姉さんも手伝ってくれていたはずなのに、いつの間にか私がお世話係みたいになっている。
その姉さんの髪は綺麗に切り揃えられていた。私の違和感はまだ拭えないものの、誰も変だとは言わないだろう。さすがプロの仕事だなぁ、と感心する。
「姉さん、ひとつ提案が――」
料理を作りながら、姉さんに例の件を切り出した。
「……ん、まあ仕方ないね。チケットはあたしがとっておくよ」
意外にもあっさりと承諾された。日本での学校生活を愛してやまない姉さんだ、突然の申し出にいくらか反対されるかと思っていたのだが。
――さて高原くんはと言うと、本当に気にしていないようだった。姉さんから説明を受けていたのかもしれない。きょとんとした顔を浮かべた後、彼の方が釈明するかのように口を開いた。
「あーあれか。いや、何言われてるのかわかんなかったし。それからまあ、姉ちゃんの方から事情は聞いたと思うけど、佐野のことは許してやってくれないかな。仲良くしろとは言わないし、お前に近づかないように俺からも断っておくからさ。なんたって悪いのはうちの姉貴だから」
「ううん、私は別に気にしてないから。仲良くする気は無いけど」
たとえ佐野が噂通りの男だったとしても、私も姉さんも特に被害に遭ったわけではないのだ。彼を弾劾しようにも当事者不適格である。
「ああ、悪いな。――あとそれから、フェアダムトってどんな意味だ? なんかそれだけ耳に残ってるわ」
ぐむん。なんてことだ、くそったれ。
「お願い、忘れて。後生だからお姉ちゃんに尋ねたりしないでね」
「“お姉ちゃん”はやめろってば」
昨晩の食卓でも散々呼んでたくせに。
思わず笑ってしまった。たぶん、他の誰からも気づかれない程度の小さな笑み。
だけど高原くんは渋面から一転、私に合わせて笑ってくれたのだった。
※
(まーったく、ノエマめ……)
川沿いの遊歩道を歩く詩都香は、週の始めだというのに憂鬱だった。
女同士で一緒に料理を作るというのはなかなか楽しいものだった。魅咲とも伽那ともこういう共同作業はしたことがない。
ただ、詩都香はノエマが帰った後、入浴してそのまま寝てしまったのである。いけないと思っていたのに、体の方は従順にも疲労に屈服してしまった。
宿題と授業の予習は、起きてから何とか誤魔化しが利く程度には片づけておいた。だが詩都香にはもうひとつ大事なことがあったのだ。
「また田中くんに怒られるじゃないの、もう」
録画しておいた三連休中のアニメをさっぱり消化していない。恨み言のひとつも言いたくなる。もちろんどうしようもない八つ当たりなのはわかっているが、矛先を探すと自分以外にはノエマしかいないのである。
道は東京舞原のど真ん中を貫流して相模湾に注ぐ川の左岸に沿っていた。名を薄氷川という。右岸に比べると整備が進んでいて、晴れた日には気持ちがいい。学校まで行くには少々遠回りになるが、急いでいない日には大抵この道を通る。
向こう岸の繁華街から川を一本隔てただけなのに、こちら側はだいぶ静かだ。詩都香と同じく通学路に使っている生徒は多いし、ジョギングをしたり犬を散歩させたりする近隣住民もいるのだが、騒々しくなることはない。もっと早くて人気の少ない時間帯に出たときなどは、片手で文庫本を読みながら歩けるほどだ。
「おっはよ、詩都香」
背後から声をかけられ、詩都香は立ち止まって首をめぐらせた。
魅咲と伽那だった。足を速めるでもなく、のんびりと歩み寄ってくる。
「おはよう、魅咲、伽那。今日はお揃いで」
魅咲の家も伽那が電車を降りる駅もここから西南に当たる川向うである。バスを使ってもいい距離なのだが、伽那が気まぐれに早く起きた日には、こうして三十分程かけてゆるゆると川原を歩いてくる。
芍薬の如き魅咲と睡蓮のような伽那が並んでやって来ると、もの憂い初秋の河川敷がいっぺんに華やかになるようだ。
「はい、詩都香。これありがとう」
詩都香に追いつき、ゴソゴソと鞄をあさった伽那が二冊の本を取り出した。
「ああ、別に学校に着いてからでよかったのに」
受け取った詩都香は、鞄の中に本をしまう。
「やだよ、重たいもん」
勝手なことを言う伽那だった。とはいえ詩都香の鞄はいつでも重いので、今さら二冊や三冊増えてもどうということはない。
「フジコちゃん出てきた?」
三人で歩き出したところで、詩都香は多少の揶揄も込めてそう尋ねた。
「う~、詩都香の意地悪。違うなら違うって最初に言ってよぉ。ていうか、ルパンの名前すら出てこないじゃない。わたし、恵真ちゃんに嘘教えちゃったよ」
「いや、そこまで勘違いを貫き通せるあんたがすごいと思う」
「でも面白かった。最後の株券のところとか、なんかジーンと来ちゃった」
「伽那、それネタバレ。ヒルティの方は? 第二部もあるんだけど」
「二十ページもたなかったよ」
伽那はふにゃら、としまりのない笑顔を浮かべた
「いやいや、あんたは少し日頃の行いを反省しなさい。……ん、魅咲?」
魅咲が興味津々といった様子で詩都香の顔をしげしげと見つめていた。
「あ、ううん、なんでもない。あたしも読んでみよっかな、って」
珍しいこともあるものだ。
「それじゃ貸してあげる」
「いいよ、学校着いてからで。重くなるし」
詩都香が鞄から再び本を取り出そうとすると、魅咲は片手を上げてそれを制止した。当てが外れてしまった詩都香はおとなしく歩みを再開した。
「おーい! 魅咲ー!」
右斜め上から大きな声が降ってきた。土手の上の舗装路から、原付にまたがった男子生徒がこっちに向かって手を振っていた。
三鷹誠介である。
誠介はアルバイトで貯めた資金で夏休み前に原付を購入していた。普段は一人暮らしを営むアパートから徒歩通学だが、放課後にバイトがある日にだけこうして原付で通っている。以前魅咲が何のバイトをしているのか尋ねたところ、事務仕事、という素っ気ない答えが返ってきたとのことである。
「おはよー、誠介! 今日はバイトぉ!?」
魅咲も負けじと声を張り上げ手を振った。その屈託のない態度に、詩都香は「お?」と眉を上げた。
その拍子に伽那と目が合った。二人でうんうんと頷き合う。
いい感じじゃない――詩都香は鞄を足下に置いて大きく伸びを打った。
そろそろ部活も委員会も忙しくなるし、今週も色々ありそうだ。
その“色々”の兆候が、ノエマからのメールという形をとって早速舞い込んできたのは、その日の放課後のことだった。
※
昼休み。私はいつも通りのメンバーで昼食を摂ろうとしていた。
「あれ? 恵真、今日は手作り弁当?」
私が弁当箱を取り出すのを見て、永橋さんが目を丸くする。
「え? まあ、うん」
嘘ではない。作ったのは姉さんだけど。
蓋を開けると、水野さんも覗き込んできた。
「やだ、なんか可愛い。いかにも自分で作りましたって感じ」
ぐ、と言葉に詰まる。
ちゃんと自分の宣言を覚えていた姉さんが今朝方詰めてくれた――「作ってくれた」と言うのには少し抵抗がある――お弁当だが、内容の方はやはりと言うべきか、一昨日の朝食と大差なかった。前回の反省に立って今度は水分過多のご飯、冷凍のをレンジに突っ込んだだけの魚、どうせお昼までには溶けるだろうから、と解凍すらしなかったミックスベジタブル……。これで姉さんは件の男子相手に今頃息巻いているのだろうか。これを私の手作りと言い張っても、“家事がダメな女”の汚名を返上することは到底できまい。
こんなことなら無理して早起きしてでも私が作ればよかった。
返答に困っていると、級友とお弁当をつついていた高原くんが隣の席から首を伸ばしてきた。思わずその視線からお弁当をかばってしまう。
「……質素な弁当だな。でもお前、昨日はもっと上手く料理してただろ? 姉貴が感心してたぞ」
――高原くん?
「何? どうゆーこと?」
スキャンダラスな臭いを嗅ぎとった永橋さんが食いついた。
「ああ、昨日の晩、うちの姉貴に教わりながらこいつが料理を作ってくれたんだ」
「わあっ!」
慌てて誤魔化そうとしたが間に合わなかった。
高原くんのその発言を震源に、教室中にざわめきが広がった。
「……恵真って、やるときはやるもんだね」
「……うちらが心配する必要なかったかもね。さすが欧米育ち」
水野さんと永橋さんまでもがそんなひそひそ話を交わすものだから、とてもその場にいられなくなった。
「のっ、飲み――!」
飲み物買ってきます、と言おうとしたところで、ポケットの携帯が震えた。メールではなく電話だ。
「あ、もしもし……?」
私はこれ幸いと立ち上がって教室を出た。




