5.
※
「ただいま。――おーフリッツ。ただいま~、元気してた?」
バス停からの道のりを最後の力で踏破し三日ぶりに家に戻った詩都香を、黒猫のフリッツが出迎えた。抱き上げて頬をすりつけると、フリッツがくすぐったそうにひと声鳴いた。詩都香はさらに撫でくり回す。
「お出迎えご苦労様、フリッツ。ん~、うりゅうりゅうりゅうりゅ~。いやー、やっぱりペットはいいわぁ。誰もいない家に帰るのはちょっと寂しいもんね」
「いや、一応俺もいるんだけど……」
リビングに通じるドアから顔を覗かせた弟の琉斗が、不満そうにこぼす。
「ただいま、琉斗。お父さんは? 今晩帰ってくるんじゃなかったっけ?」
「昨日電話あった。急に仕事が入ったんだってさ。二、三日帰れんかもって」
「ふーん。まあ、それなら仕方ないか。晩ご飯は?」
「まだだよ。ずっと待ってたんだぜ?」
二千円も小遣いもとっくに使い果たされてしまったようだ。
「わかった、わかった。今支度するから、それまでこのお土産でも食べてて」
詩都香は片手でフリッツを抱きながら、土産物屋の袋を琉斗に手渡した。琉斗はさっそく開封にかかる。
「おお、ありがと。……って、わさびじゃねーか! しかも丸ごと!」
「かじればいいじゃん。リスみたいに」
「げっ歯類がこんなもんかじるか!」
「あ、たしか冷蔵庫にカマボコがあるな。そのわさび擂って板わさにでもする?」
「いや、聞けよ。つーか、おっさんの酒のつまみじゃねーんだからさぁ……」
詩都香は琉斗の抗議を聞き流して靴を脱いだ。
(あー、そういや食材ほとんど使い切ったんだった。今から出るのもめんどくさいし、あり合わせのものでいいかな)
琉斗が腹を空かせているのは嘘ではなかったようで、詩都香の先に立ってキッチンに向かうと、おろし器を取り出した。本当に板わさを食べるつもりらしい。
実のところイノシシきんつばも買ってきてあるのだが、開封するのは仏壇にお供えしてからと決めていた。
詩都香がリビングのソファの上に荷物を下ろしたちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。
靴を脱いだばっかりなのに、と心中ひそかに文句を垂れつつ、フリッツを床に下ろした詩都香がサンダルをひっかけて扉を開けると、
「あ、こんばんは……」
ノエマがいた。
「……うえ? ノエマ、どうしたの?」
思わず本名で呼んでしまった。しかし幸いにも、キッチンでわさびを擂り下ろしていた琉斗の耳には届かなかったらしい。
予想外の来客に面食らう詩都香に向かって、ノエマは照れ臭そうにビニール袋を掲げて見せた。
「色々材料買ってきました。……私に料理を教えてください」
数秒呆気にとられた。それから、ははーん、と納得する。料理を教わるというのは口実で、一昨日果たせなかったことを今やるつもりらしい。
「ったく、わたしは疲れてんだけどな。ていうか、押しかけ女房かっつーの。ま、いいよ。上がって」
こうして詩都香は生まれて初めて、敵対する魔術師を家に招き入れたのだった。
※
――お、押しかけ女房……。
高原姉のあんまりな言葉に、私は肩を落とさざるをえなかった。まさか非所属魔術師の家に上がり込む羽目になるとは、と人生のままならなさに悶そうになる。
相川曰く、私に対する高原姉の立場は小姑になるのだから、そうやってギスギスすればいいとのことだった。
――それにしても、なんでみんな知ってるんだ……。
今回の「料理を教えてもらうことを口実に押しかける作戦」も相川の発案だった。私は財布をとりにマンションに戻り、スーパーで買い物してからここに来たわけである。
だけど、これではかえって高原姉がやりにくくなるのではないだろうか。相川の馬鹿らしい作戦に乗らされた私も私だけど。
そんな懸念も、廊下を歩く高原姉の表情を横目で窺った途端に霧散した。
ぱっと見ではわかりにくいが、彼女はどこか楽しげだった。
なるほど、と腑に落ちるものがあった。相川の言葉を額面通り受け取った自分の迂闊さにも気づいた。
相川は、過去を振り返りがちな高原姉の眼差しを今と未来へと向けさせようと、向けざるをえないような厄介な状況を作ろうとしているのだ。私を使って。
逃げても振り切ることのできない記憶があるならば、積み重ねた思い出で埋没させて地層のように塗り込めてしまえばいい。ごく当たり前のことである。困ったことに高原姉は逃げようとすらしないが、周りが埋め立ててやれば一緒のことだ。
高原姉はいつか必ず潰れる。その日を出来る限り先延ばしにしたいという、積極的な消極策だった。
私もそうしよう――ふとそんな考えが浮かんだ。この先、過去の自分がしでかしたことに向き合う日が来るにせよ、それまでに積み重ねた思い出があればきっと耐え忍べる。今日のこんな思い出でも、だ。
――だけどその前に一度、過去に向き合っておかなければならない。たとえそれが象徴的な意味しか持たない行為であったとしても。
航空券って今から取れるかな、などと私がせっかちにも思案し出したときだった。
「お姉ちゃん、まだかよー。腹減ったっつーの」
キッチンと思しき部屋の方から、高原くんの情けない声が響いてきた。私がいることに気づいていないようだ。
高原姉と私は顔を見合わせた。
どちらからともなく笑みがこぼれた。
※※
会議室にいるのは二人だけだった。彼女と、盟主その人。
彼女は既に荷物をまとめていた。他の魔術師たちも順次帰国の途につくことだろう。
スクリーンには、昨日の戦いが始まる直前の映像――ノエシスが翼を広げたシーンが投影されていた。
「ふーむ、よりによって君が〈半魔族〉をかくまっていたとはね。それも二人も」
「私を処罰しますか」
「……まさか。君を罰することができる人間なんてこの世にはいないよ。形式上は私の方が立場が上だけど、本来この組織は私たち二人が作ったもの。私は君に体よく担がれただけだ」
「その組織も変わりましたね。堅苦しく、窮屈で、私はもうとても馴染めませんわ」
「時代の流れって奴だろう。世界の合理化に合わせて組織も合理化された。合理化は遊びを無くすんだよ。ただし、上に立つ者にそれ相応の権威が必要になるのはいつの世でも変わらない」
「皮肉なものですわね。魔法を表舞台から排除し、世界の合理化を推進してきたこの〈連盟〉が、その世界から影響を受けるなんて」
「それでも君はいいよ。嫌になったらすぐに今までみたいに逃げ出せるんだから。私はそうはいかない」
「それにしてはあなたは、お役目を楽しんでいるように見えますが」
「我々老人にはストレスが大敵だからね。力を抜いて、若い者に任せておくのがちょうどいい」
「まだ長生きするおつもりで?」
彼女は少し呆れた。
「生きるさ。目的を果たすまではね。そういう君はどうなの? まだ厭世気分は残ってる?」
彼女はゆっくりと頭を振った。
「いいえ、私も生きます。あの子たちがいる限りは」
「そうそう、あの二人の処遇だが、どうしよう? 一応我々の優先目標である〈半魔族〉なことが判明したわけだけど」
「そのことですが、どうして〈半魔族〉が優先目標なのです? 確かに生まれつき驚異的な魔力を持ってはいますが」
「そこがいいんだよ。かなりの即戦力になる」
「即戦力?」
「……最近、夢を見るんだ」
唐突な話題の切り替えに、彼女もさすがに反応できなかった。
「あいつの夢さ。あの〈夜の種〉の」
彼女らが四人がかりで立ち向かい、為す術もなく敗退したあの〈夜の種〉。
「……まだあれを怖がっているのですか?」
「それは否定しないが、それだけではないかもしれない。なんといっても世界の人口は今や七十五億だ。考えられるかい? 当時は西ヨーロッパ最大の神聖ローマ帝国が人口千五百万。ヨーロッパ全体でも六千万だ。世界最大の国家中国でさえ一億を少し超えたくらいだったろう。魔術師の数だって、我々がいかに抑制しようとしても増え続けている。当然、〈不純物〉の量だって……」
「あいつの復活が近づいている、とおっしゃりたいのですか?」
「わからない。だけど、準備はしておいた方がいいだろう。〈不純物〉の量は十分だ。あとは何らかのきっかけが必要なだけ。そのきっかけが何かわからないが、リーガは今まで通り世界のバランスを保つ。我々二人以外は直接あいつに見えたことがないから、皆はそれほど危機感を覚えていないようだが」
「あなたのお考えが少し読めました」
「というと?」
「ずっと疑問だったのです。駆け出しの非所属魔術師がなぜこれまで生き延びてこられたのか。さらに言えば、どうして彼女たちが辛うじて勝てる程度の魔術師だけが遣わされていたのか。あの三人に期待されているのですね。それで、彼女たちの力を上げるために経験を積ませた」
「完全に否定はしないが、肯定もできないな。それでは派遣されて敗れた魔術師たちが可哀想だ。中には魔術師として再起不能になった者もいる。彼女たちが負けたら負けたでそれまでのことだと考えているし、ちゃんと勝算が見込める者しか送り込んでいない。それを打ち破ってこられたのは、純粋に彼女たちの実力だ」
「また、あれを起こそうと思っているのですか? タカハラ・シズカを成長させて」
盟主は首を左右に振った。
「それは最後の手段だよ。できれば二度と誰にもやらせたくない。彼女は選択を間違ったんだ。今度こそ、実力で排除したい」
「そのための即戦力? しかしなぜイチジョウ・カナにこだわるのです? あの程度の魔術師ならいくらでもいるではありませんか。それに、〈連盟〉内にも年経たもっと強力な〈半魔族〉がいます」
「それはたしかにそうだ。だが、私の構想する〈半魔族〉の軍団を作るためには、彼女が必要なんだ。若い女性の〈半魔族〉がね」
今度は彼女が首を振る番だった。
「……そういうことですか。〈半魔族〉を増やす手っ取り早い方法は、〈半魔族〉同士を交配させること――そういうことですね?」
呪うべき着想だった。
「男性の若い〈半魔族〉には当たりがついているんだ。……軽蔑するかい?」
「します」
彼女はきっぱりと断じた。
「だろうね。で、君の弟子たちも〈半魔族〉だったんだな」
「あの子たちに手を出したら、私も黙っていませんよ」
彼女は椅子から立ち上がると、彼に背を向け、扉に向かって歩き出した。
「おやおや、怖しい。それなら呼び戻すかい? そろそろ君も寂しくなってるようだし」
予期した以上に魅力的に響く提案だった。しかし彼女は立ち止まらなかった。
「結構です。今まで通りの任に当たらせてください」
「イチジョウ・カナの身柄の確保、ね。いいだろう。でも続けられるのかな? ずいぶん馴れ合っちゃってるみたいだけど、君の弟子たち」
「心配はご無用です。あの子たちはやれます」
「それはそれは心強い。でも、少し急いだ方がいいかもしれないな。イギリス大法官が興味を持った。彼にかかればタカハラもアイカワも実験動物扱いだろう。生きたまま解剖でもされかねない」
「それを抑えるのがあなたの仕事では? それに、あの子たちが成功しようと失敗しようと、あなたに損はないわけでしょう」
「そうだね。君の弟子たちが成功すれば待望の〈半魔族〉が手に入り、失敗続きでも三人の――いや、君の弟子を含めて五人の、特異で強力な魔術師が育つ。これは豪気だな。あ、蛇足ながら君の弟子たちにこの任務の目的は――」
「わかっています。伝えたりしません。それで躊躇いが生まれて戦えなくなったら意味がありませんものね。あの子たちは私に似て潔癖ですから」
盟主が声を上げて笑った。彼女は憮然として扉に手をかけた。
「……笑うところではないでしょう。それから、何度も言わせないでください」その姿勢のまま、彼女は背後を振り返ることなく続けた。
「――あの子たちは、私の娘です」




