2.
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「あ、先生、わたしも伽那と一緒に降ります」
合宿からの帰途、国道一号に下りたところで、詩都香はハンドルを握る綾乃にそう申し出た。
もうすっかり日が暮れかかっているので、綾乃はひとりひとりの自宅まで送ってくれようとしていた。
「あら? 高原さんのお家って東側じゃない?」
「いいんです。伽那に貸したものを取りにいきたいので」
「あー、あの睡眠導入剤ね。あとそれから、わたしが休んじゃった金曜の分のノート。うん、いいよ。ユキさんが車出して送ってくれると思うし」
伽那は上手いこと話を合わせてくれた――つもりなんだろう。補強を意図したと見られる一言に、詩都香は思わずツッコみたくなった。金曜の朝以来昨日の午後まで、詩都香と伽那は会っていないのだ。ノートの貸し借りなんてあろうはずがない。
奈緒の評が正しければ、綾乃はこれにもその内違和感を覚え始めるのだろうか。
「明日持ってきてもらうんじゃダメなの? もう遅いし」
その綾乃は渋る。何かあったら責任を問われる立場なので仕方あるまい。
「いやあ、それがこの子ってば借りパクの常習犯なので、貸したものをいつまで経っても返してくれないんですよ。こっちから出向いて返してもらわないと」
詩都香が意趣返しも兼ねてそう言うと、伽那は酸欠に喘ぐ魚のように口をパクパクさせた。それでも自分の失言に思い至ってか、反論をこらえている。
気づけば魅咲が詩都香の方をじっと見ていた。詩都香はそれ以上の追及をかわそうと、前列の由佳理に話しかけた。
「由佳理、楽しかった?」
由佳理が振り返った。乗員が一名増えたため、彼女はキャビン前列の真ん中の席に収まっている。
「はい、とっても楽しかったです。先輩方とも仲良くなれましたし」
由佳理は笑顔を浮かべる。ひょっとしたら入部半年の詩都香よりも部に溶け込んだかもしれない。部長職回避は決まったかも、と詩都香はやはり一抹の悔しさを抱きながら喜ぶのだった。
「好きな武将とか訊かれなかった?」
「訊かれました。正直に真田幸村と答えたら盛り上がっちゃって」
うむむ、と詩都香は唸った。北条氏康のどこが悪いというのだろう。
「三国志は?」
由佳理はきょとんとする。
「やっぱり三国志も訊かれるのが恒例なんですか? わたし読んでないので、『これは教育したらなあかん』なんて言われちゃいましたけど」
毒されていない由佳理に、詩都香は何やら癒される思いがした。
副部長の沙緒里の姿が目に入った。彼女は往路と同じく車窓に視線を注いでいた。
あの箒はまだ返却していないが、沙緒里が詩都香に何か言ってくることはなかった。相変わらずの無口な副部長に戻っていた。
だめだめ、今まで通りに接するって決めたじゃない――詩都香は小さくかぶりを振り、由佳理に向き直る。
「そういえば部長は?」
「まだ寝てます。昨日と今日でよほどお疲れだったみたいで」
奈緒は車に乗った直後から居眠りを始め、休憩中も目を覚ますことがなかった。
「まあ、ほとんどひとりで調査を片づけたみたいだしね」
やるときはやるもんだ、と奈緒を見直す詩都香だった。
今日の部員一同は、宿をチェックアウトした後三組に分かれた。沼津・三島方面へ向かうグループと、伊東・熱海へ向かうグループ、それから奈緒と沙緒里ら西伊豆に居残ったグループである。三者は夕方熱海で合流し、京舞原市に戻った。
詩都香は魅咲・伽那・由佳理とともに伊東グループに加わった。奈緒に手伝いを申し出たものの、「せっかく一条も来たんだ。一緒に楽しんでこい。あと、相川に温泉レポートよろしく、と伝えておいてくれ」とすげなく追い払われた。
「あそこに日蓮が置き去りにされたらしいよ」
「うわぁ、ヒサン~。でも想像したらなんか笑えてくる」
「一条さん、それはひどいですよ。……でも気持ちはわかります」
「でも、これくらいだったら泳げるんじゃないの?」
などと、詩都香らが奇観そっちのけで鎌倉仏教の宗祖の法難を茶化している間にも、奈緒は仕事をしていたわけである。
近場の観光地である熱海には京舞原の子供は大抵連れてきてもらっているものだが、伽那は初めてだった。街中いたる所にある坂に気息奄々になりながらも楽しげな伽那の様子に、詩都香も昨日頑張ってよかった、と少しばかり自分を褒めた。もっとも、昨日の疲れがとれていない詩都香と魅咲も伽那とどっこいどっこいの青息吐息で、ひとり平気な由佳理に怪訝な顔をされてしまったのだが。
「でも熱海って、郷土史研の来る場所じゃないよね」
魅咲が苦笑した。彼女の言うとおり、もはや然るべき建前がない。興国寺城跡もある沼津はまだしも、こちらはほぼ完全な観光だ。もちろん、歴史的にまったく無関係というわけではないのだが。
「熱海で北条政子が頼朝と出会ったのよ」
「その北条氏と地元の北条氏は関係ないんでしょ?」
「あと、熱海城があるじゃない」
「あれはなんつーかレジャー施設でしょうが」
詩都香の強弁に魅咲は騙されなかった。
「何を言う。六十年前にゴジラとキングコングに壊された熱海城はもはや立派な歴史遺産よ。大巨獣夫妻も来たし」
「頼むから日本語で喋ってくれ」
「高原さんって古い映画にも詳しいんですね」
と、由佳理が口を挟んだ。
「由佳理、あんた騙されてる。こいつのはそんな聞こえのいい趣味じゃないから」
魅咲が余計なことを言う。
そこに伽那が乗ってきた。
「なんであのときゴジラは富士山を登山してたの?」
「…………」
詩都香と魅咲は顔を見合わせた。たまにこういうことがあるから、保護者気取りの二人としては伽那の扱いには困る。
「あんた、ユキさんにどんな育てられ方したのよ」「ガッパオコル! ガッパオコル!」「詩都香、うっさい!」
「一条さん、わたしは題名しか知りませんけど、“金色夜叉”ってどういう意味なんですか?」
これってとんだオリエンタリズムだよなぁ、と思いつつオベリスク島の原住民の真似をする詩都香とそれを一喝する魅咲をよそに、由佳理が伽那に尋ねた。
「え、ええと……? 何かの妖怪かなぁ。……詩都香、任せた」
文芸部員であるはずの伽那は、詩都香に丸投げした。
「ったく、あんたってば。金色といえばファルコ。ファルコといえば修羅の国での無駄な死。修羅は夜叉と混同されることもあるから――あだっ!」
講釈に聞き入る由佳理とは違って扱いに慣れている魅咲が、詩都香を軽く蹴倒した。手加減してくれているのはいいが、また右脇腹である。詩都香はうずくまった。
「いたたたた……。そこ、昨日も一昨日も傷めたのに」
「魅咲、今のいいね。貫一とお宮みたい」
「うん、ちょっと狙ってみた」
伽那が悪ノリして写真を撮る。
「……もう。ええと、由佳理。金色ってのはお金のこと。それで夜叉は人を食い物にするわけ。つまり高利貸しのことを指してるの。お宮から離れられた貫一が旧制一高を退学して高利貸しになるでしょ」
「へ~」
「ちなみに、これにはれっきとしたモデルがあってね。紅葉尾崎徳太郎や美妙山田武太郎の立ち上げた硯友社の初期のメンバーである小波こと――」
「どうでもいいや。写真撮ろうよ」
文芸部員であるはずの伽那は、まったく興味を示さずに再びデジカメを構えた。
――そうやって貫一とお宮の像の前でポーズを真似て(なぜか詩都香が他の三人から蹴られる側の役になった)写真を撮っている間にも、奈緒はしっかり仕事をしていたわけである。
――もちろん、詩都香たちが伊東温泉や熱海温泉に浸かっている間にも、だ。
「うわっ、伽那ったらまた大きくなったんじゃないの?」
「ん~、そうかな。でもスラっとした魅咲の方が羨ましいよ」
「あたしは由佳理の方が羨ましい。いかにも女子高生って感じ」
「そんなことないですよぉ」
なぜか今度は話が回ってこない。ひとり蚊帳の外の詩都香は、一心不乱に肌を磨いていた。
(お疲れ様、部長)
詩都香は心の中で奈緒にねぎらいの言葉をかけた。その念が届いたのか、奈緒がもぞもぞと身じろぎする。
綾乃の運転する車は国道一号を左折した。




