1.
私が助けてあげたのに。いや、かなりの部分高原たちに助けられはしたけど、私だって頑張ったのに。
――姉さんはおかんむりだった。
もう一度気を失った姉さんは、そのまま丸一日眠っていた。目覚めたのは連休最終日、月曜日の午後だった。
起床した姉さんはまずお風呂に入った。一度体を拭いてあげたけど、本人はやはり入浴して身を浄めたいようだった。
私は結局その重大事を伝えそびれた。脱衣所の鏡に一瞥を向けることもなく浴室に飛び込んだと見え、しばらくは平穏だった。少なくとも違和感くらいは覚えているだろうけど。ひょっとしたら、髪を洗いながらもう気づいているのかもしれない。それでも現実に向き合うのを怖れているのかもしれない。
三十分ほどして、脱衣所と浴室を隔てる扉が開く音がした。次は脱衣所の鏡に向かってドライヤーを使う番だ。
私は身を硬くした。
案の定、「ぎゃあ!」と叫び声が上がった。
「恵真! ちょっと! これどういうこと!」
もう九月も終わりかけだというのに、姉さんは下着姿で飛び出してきた。頭髪からぽたぽたと滴がこぼれ落ちていた。
……ショートになってしまった姉さんの髪の毛から。
高原から受け取ったサイコ・ブレードで姉さんの体を切り出す際に、ホムンクルスの奴めが身じろぎしたせいで手元が少々狂った。幸いにして体に傷をつけることはなかったが、外に出ていた姉さんの頭から伸びる髪の毛をいくらか切ってしまったのだ。私と左右対象に右側でまとめたワンサイドアップも、である。しかも高温の刃で焼き切ったので毛先はチリチリ。昏々と眠る姉さんの体勢を変えながらハサミを振るって整えようとしたものの、やはり無理があった。かなり不格好な見た目になっている。
「もーう! 美容院に行こうにもこの頭じゃ行けないじゃない! どーしてくれんのよ!」
ぶんぶんぶん。姉さんが首を振る。十日前と違ってその髪が私の頬を叩くことはない。
「……すみません」
いささか釈然としないものを抱えながら、私は縮こまった。
そんな私の手を、姉さんがぐいっと引っ張った。
「こうなったらもう、恵真、あんたが切って!」
「は?」
思いもしなかった要求に、私は呆気にとられてしまった。
「あんたのセンスに期待してるわけじゃないから。外に出ても見苦しくない程度に整えて」
姉さんは一方的にそう言うと、部屋着のトレーナーを手に、下着姿のまま脱衣所に戻っていく。私はハサミを取り、緊張しながらその後を追った。
脱衣所に新聞紙を敷き、鏡の前に椅子を据えて、即席の理容室が設えられた。トレーナーに着替えた姉さんは、その上からレインコートを着込み、「しまった、これ暑い」などと文句を言っている。
それに加えて……。
「それ、私のスカート……」
襟元に毛が入り込むのを防ぐためだろう、姉さんは昨日の戦いで裂けてしまい脱衣所にほったらかしにしてあった私のスカートを頭からかぶり、首の下辺りでベルトで止めた。
よくもまあこんなものを履いた格好で戦っていたものだと今さらながら恥ずかしくなる。
「どうせこんなになっちゃったらもう履けないでしょ」
そうれはそうだけど、まったく大胆なことをする姉さんである。
「さ、早く。美容室の予約取れるかな。取れなかったら明日学校休まなきゃだわ」
姉さんに促され、私はハサミの持ち手に指を通した。
鏡の中の姉さんが見つめる中、そっと左手で姉さんの髪に触れる。私のよりも少し明るい色の、しっとりと湿った姉さんの髪。なんだか少しドキドキする。
「行きますよ?」
「うん」
「……いいですね?」
「早くやれっての」
そう言われても、なかなか踏ん切りがつかない。
鏡の中の姉さんが目を閉じた。
「ほら、これなら緊張しないでしょ。マネキンにかぶせるカツラを加工するくらいのつもりでやっちゃって」
「そんな経験ありませんよ。後で文句言わないでくださいね」
えい、とばかりに私はハサミを入れた。姉さんの肩に落ちた髪はほんの僅かだった。
少しずつ、少しずつ、切り過ぎないように、慎重にハサミを進める。姉さんは目を閉ざしたままだった。
「エマ――」不意に声をかけられた。
「何ですか?」
私は手を止めずに髪を切り続けた。こういうのはリズムが大事だ。
しばらくの間、シャキシャキというハサミの音だけが脱衣所に響いた。私は姉さんの言葉の続きを待った。
「……ありがとね。今度ばかりはあたしもダメかと思った」
「言わないでください、そんなこと。当たり前のことをしたまでです」
「ううん、ありがとう。エマがあたしの姉妹で、ほんとよかった」
姉さんは「妹」ではなく「姉妹」と言った。姉さんのこの言葉には重みと真摯さが込められているのだ。
姉さんは知らない――私がそれを知っていることを。
昨日の晩、私は城に電話をかけた。そしてアーデルベルトに無理を言って、城主様が滞在しているという部屋の電話番号を聞き出した。
『ふあぁ? どうしたの、ノエマ? 昨日の夜遅かったからまだ眠いんだけど』
スペインにいる城主様は起き抜けのようだった。私はその脳に喝を入れてやることにした。
「私の誕生名、城主様はご存知なんでしょう?」
しばらくの沈黙。目をぱちくりさせる城主様の顔が浮かぶようだった。
やがて応答があった。
『あ~、知っちゃったわけね』
もはや眠気は感じさせなかったが、どこかしら、肩の荷が下りたというような穏やかな声だった。
「はい。姉さんが寝言で私のことを『Shino』と呼びました。それから……日本語で『お姉ちゃん』とも。城主様もそれくらいの日本語はわかるんですよね?」
本当は熱に浮かされてのうわ言だったが、城主様を心配させることはない。
『そう。私にだって本当はどうなのかわからないけど、あなたたちに出会った頃、確かにノエシスはあなたのことを『お姉ちゃん』と呼んでいたわ。それから、あなたが持っていた旅券には『梓乃』と、ノエシスが持っていた旅券には『恵真』と記名されていた。……あのときはね、二人とも大きなショックを受けていたけど、ノエシスよりもあなたの方が精神的に参っていたみたいで、記憶も混乱してたの』
「……わかります。少しだけ思い出しましたから」
姉さんのうわ言と、わずかに残る自分の記憶を照合してみると、あの夜――城主様に拾われる前の晩――おそらくは姉さんが異能を使ってしまい、両親から折檻を受けたのだ。かなり過剰なものだったのだろう。それを見せつけられた私は暴走した。
私の記憶に残る最古の光景――燃えている“何か”は車だ。両親のものだったと思われる。
二人は逃げられたのだろうか。それとも……。
『考え込むのはやめなさい。あれは事故。あなたたちは四歳よ。何があったとしても、何の責任もない』
「……城主様は、私たちの両親がどうなったかご存知なんですか?」
『ううん、本当に知らない。たぶん、ノエシスも。飛び立ったお姉ちゃんに無我夢中でしがみついてた、って言っていたもの』
そして姉さんは、本当は“妹”である姉さんは、いつまでもショック状態から回復しない私を見かねて城主様に提案したのだという。「これからはあたしが“お姉ちゃん”になって、お姉ちゃんを引っ張ります。おばさんも協力してください」と。
『私があなたたちに、あべこべにした誕生名をもじって“ノエシス”と“ノエマ”と名づけたのはその頃。それからのノエシスの頑張りようと来たら……』
姉さんは本当の“姉”たらんことを自らに課し、何でも率先して行い、私を引っ張り続けた。その姿には、城主様から見ても、微笑ましいと同時に痛ましいものがあったという。
「姉さん……」
城主様の話を聞いている内に、止めどなく涙が溢れてきた。
どうして忘れていたのだろう。私はこんなにも姉さんのおかげをこうむっていたのに。
忍び泣く私を気遣って、城主様はひと言ひと言ゆっくりと言葉を続けた。
『まあ、そっちではどうなのか知らないけど、こっちでは双子の上と下なんて、日常では区別しないからね。だからね、ノエマ。あなたさえ気にしないのであれば――』
「……ええ」込み上げてくる嗚咽を噛み殺しながら、私は答えた。「姉さんは私の姉さんです。これまでも、これからもずっと」
思い出すとまた泣けてきた。ぐすっと鼻を鳴らし、ぎゅっと目を瞑る。
「ちょっとちょっとちょっと、恵真! さっきからそこばっか切ってる!」
姉さんが上げた大声に、私はハッと手を止めた。
私たちはまた鏡越しに見合った。
「どうしたのよ? 目が赤いけど」
「すみません、花粉症で……」
私はもう一度涙を拭った。
「そんな時期じゃないでしょう?」
「最近は秋花粉ってのがあるんですよ。姉さん、知らないんですか?」
「えっ、そんなんあんの!?」姉さんはレインコートの袖を持ち上げて片手を挙げた。「あたしたち似通った遺伝子なんだし、恵真が罹るんだったらひょっとしてあたしも……うわ、ホントだ。なんか涙が出てきた」
姉さんも目頭を押さえた。ほんのちょっぴり涙が滲んでいる。
――姉さん。
フッサールの、いいえ、姉さんの言った通り、モナドには窓がありました。
千年に一度の哲学者と称えられるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツも、これを知らなかったのです。
異界を介してであれ、私と姉さんはこんなにも密に繋がっているのですから。
きっと城主様とだって。ゼーレンブルン城のみんなとだって。
それから、時々は高原たちとだって。
他の人たちとだって、きっと繋がっていけます。
「ひぃっ! 恵真! ハサミ! ハサミ! 目の前でチョキチョキしないで!」
気づけば私は、ハサミを持ったまま後ろから姉さんを抱きしめていたのだった。




