1.
火曜日。ゼーレンブルン姉妹との戦いから四日後の朝。詩都香はいつも通り早起きして飼い猫に餌を与えてから、コーヒーの入ったマグカップを片手に、テレビのニュースを見ていた。目の前のテーブルの上には、今日の朝刊が広げられている。
新聞の一面は、このところ世を騒がす少女連続誘拐事件の記事だった。昨晩もまた起こったのだ。
被害者は常にミドルティーンからハイティーンの少女。しかも、詩都香たちの住むこの街で起こっている。
今回の被害者は、詩都香の家から一キロ程度の距離にあるマンションに住む高校生。
手口はいつもと同様である。犯人は娘の部屋の窓を割って侵入し、さらっていった。
窓ガラスが割れる音に家族が気がついてもよさそうだが、ここでも一連の事件は奇妙な一致を見せている。犯人は物音ひとつ立てずに窓を割っていた。そして――これが一番特徴的なことだが、窓ガラスの破片は全て庭やベランダに散らばっていた。まるで、中から割られたように。
いくつかの事件の関連性がささやかれるようになってから、十代の娘のいる家では警戒をするようになった。両親が交代で寝ずの番をする家庭もあると聞く。だが、昨夜の被害者一家の住居はマンションの高層階にあったので、あまり不安視していなかったようだ。
『前の事件から四日ですが、どうですか、三橋さん』
『その前の事件が八日前。そしてその前が十六日前。おそらく、先月の中学生失踪事件も同じ犯人の仕業と見ていいでしょう。誰の目にも明らかな通り、犯行の間隔は半分ずつになっています。ここから、犯人は自分の欲望を制御することができず、衝き動かされている、そして、だんだんその間隔が短くなってきている、ということが考えられます』
『つまり、次の事件は……』
『ええ。法則通りなら、今夜という可能性が高いでしょう』
詩都香もコメンテーターの意見に賛成だった。
『視聴者の皆さま、とりわけ若い女性の皆さま、今夜は特に警戒してください』
最後にアナウンサーがまとめ、次のニュースに映る。この街の、年頃の娘のいる家庭は、言われずとも警戒するはずだ。
「どうせなら、うちに来てくれればいいんだけど」
知らず知らずの内に漏れたそんな独り言に反応してか、詩都香の足にじゃれついていた黒猫のフリッツがひと声鳴いた。
警察の捜査で原因不明とされているのが、窓ガラスが内側から割られていることだった。しかも、復元してみると、どの窓も何かがぶつかって破壊されたとは考えられないらしい。一口にガラスと言っても割れ方は様々らしいが、どんなタイプのものでも衝撃を受けた点が特定できていない。
詩都香は先日の実験のことを考えた。専門店で何枚か違う種類の小さなガラスを買い、割ってみたのだ。
――ただし、〈モナドの窓〉を開いて念動力で、だ。固定されたガラス全体に均等な圧力をかけながら、押すのではなく少しずつ念を強めて引っぱってみた。、
いずれの場合でも、ガラスはほとんど音を立てずに割れて詩都香の手元まで破片が引き寄せられた。このやり方なら同様の犯行が可能だ。
相手は魔法、あるいは少なくとも強力な超能力を使っている――詩都香はそう結論づけた。だとすると、本人や周囲がいくら警戒しても意味はないかもしれない。
それからもうひとつ、詩都香は一見するとバラバラな場所の法則性を見出していた。
大きめの地図を取り出して、昨日事件のあった家に点を打ってみる。それから、フリーハンドで線を引いた。
「やっぱり……」
犯行現場は、いくらかずれが見られるものの、渦巻き状に描いた線上にあった。
詩都香がその法則性に気づいたのは他でもない。事件が始まった八月から遡り、十年ほど前まで時間軸を大きくとって、同じような事件がないか調べてみたからだ。
人口五十八万五千の中核市である。良好な治安と景観を売りにしているとはいえ、事件は少なからず起こる。しかし、窓を破られての誘拐事件というのはなかった。
ただ、通学路や遊びに出た先での若い女性の失踪事件は、幾件か起こっていた。それも、推定された日の前後に。
採取できた点を地図に落とし込んでからが難しかった。全ての点を通る円を作図しようとしてみたがダメだった。次に点群の重心を求めてその近辺を重点的に調べてみたが、これもうまくいかなかった。
日時には法則性があるくせに犯行場所にはないのか、と半ば諦めながら、最後に適当に線で結んでみたところ、それに気づいた。これも誤差はあれど、ある一点に収束していく渦巻き模様である。しかも、新しいものほど内側に位置している。詩都香はそこでひとつの結論を出していた。
(犯人は、衝動の起こる間隔が短くなっているだけじゃない。その衝動に耐えられる時間も段々短くなってるんだ)
自分のねぐらから遠く離れようとする意志は持ちつつ、その途中で衝動に負け、犯行に及んでいるように思われた。手口が変わったのも、誰も見ていない路上で相手を待ち伏せるような余裕が犯人になくなってきたからではないか。
(だとしたらこいつは、たぶん人間じゃない)
人間なら、いくら切羽詰ってもそんな機械的な動きをするとは考えづらい。
詩都香はもう一度地図に目を落とした。残念ながらと言うべきか、高原家はすで渦巻きの外側に位置している。詩都香自身が狙われることはなさそうだ。もっとも、ガラスを割られるのはごめんだが。
(なら、取りうる方策は……)
今度は、その渦巻きをさらに内側に描き足してみる。不正確ながら、中心と思われる場所が概ね特定される。
今日の放課後の予定は決まった。
詩都香は椅子から立ち上がり、エプロンを手に取ると、フリッツを適当にあやして朝食と昼の弁当の準備にかかった。珍しく父が家に帰っているので、今日は弟と合わせて三人分だ。
晩ご飯の用意はどうしようかとしばらく逡巡していた詩都香だが、結局やめることにした。
ご飯時までに済ませて帰ってくればいい。
詩都香たちの通う私立水鏡女子大学附属高等学校――通称“ミズジョ”は、少々変わっている。四年前まで女子高だったのだが、少子化対策か経営陣の気まぐれか、共学化の道を踏み出したのである。
この学校の前身は、明治女学校で北村透谷や後の藤村島崎春樹らに学んだという女流教育者が設立した女子塾で、百年以上の歴史がある。今では名称からして大学の方が母体のようになっているが、その前身の女子高等専門学校は遅れて創設されたので、実のところ附属中学・高校の方が歴史が古い。よって地元の市民の間では、“ミズジョの高校”と言えばお嬢様女子高というイメージが脈々と受け継がれている。
このイメージと、内部進学可能な上級学校が今なお女子大であることから、男子の志願者は少ない。ここ三年の男女比率は一対五から一対三程度である。外部から“半女子高”などと呼ばれる所以だ。
その一方で、市内第二位の偏差値を誇る進学校でもある。県下でも十指に入るだろう。そんな難度の入試を突破してわざわざ“半女子高”に入ってくる男子生徒というのは、二通りのタイプに大別される。自分の成績に見合った偏差値の高校だからとか、家から比較的近いからとかいった理由で進学を決めたこだわりのないタイプと、女子の方が圧倒的に多いからこそ入ったという困った人たちだ。
「しずかちゃんおはよう。今日もタレ目が凛々しいね」
登校した詩都香が教室の真ん中にある席に着くと、まず後ろの席の田中翔一が声をかけてきた。
「おはよう、田中くん」
体を巡らせて、挨拶を返す。田中は詩都香にとって、数少ない気の置けない友人だ。
だけど、凛々しいタレ目ってなんだ? 詩都香自身は自分がタレ目だとは思っていないし、客観的に見ても伽那の方がよっぽどタレ目なのだが、どうも詩都香の顔立ちと物腰には、他人に切れ長のツリ目を期待させるものがあるらしい。
「どしたの、その手?」
田中が詩都香の左手を見る。包帯は取れたものの、まだ大きめの絆創膏を貼ってある。
「あ~、これ? プラモの合わせ目消してたら、デザインナイフでちょっとね」
詩都香は適当な嘘をでっち上げた。
「うええ、痛そう。ところで昨日の見た?」
二人の間では「昨日の」で通じる。深夜アニメのことだ。
「ううん。録画はしたんだけど、ちょっと忙しくて」
「え~。しずかちゃんと語ろうと思って、せっかく早起きして見てきたのに」
詩都香が深夜アニメのチェックを怠るのはそう頻繁なことではないので、田中が不満そうに口を尖らせた。
「ごめんごめん、忙しくて。つか、なんでわたし怒られてるの?」
こんなご時世に呑気にアニメ談義というのも、いかがなものかと思う。詩都香は左右に目を走らせて周囲の様子を確認した。
この不謹慎なオタクはさぞかし顰蹙を買っているだろうと予想していたのだが、教室の雰囲気は案外明るいものだった。教室の三分の二を占める女子も、仲のよい級友とのおしゃべりに興じていたり、やって来なかった予習に追われていたりと、思い思いの時間を過ごしている。とりたてて不安がっているところは見受けられない。自分が次の被害者になるかもしれないなどとは考えていないのか、それとも不安だからこそいつもと同じように振舞おうとしているのか、詩都香には判断がつかなかった。
「愛が足りないよ、愛が、しずかちゃん」
田中が肩をすくめた。そんな二人のもとに、同じくアニメ大好きの男子二人、吉田重和と大原祐司がやって来る。詩都香と田中の席が前後に並んでいるので、四人が集まるのは大抵ここになる。
「おはよう、高原さん」
「おはようございます」
この二人は、田中ほど気さくではない。どちらかと言えば、女子に話しかけるのが苦手なタイプだ。
「おはよう、吉田くん、大原くん」
詩都香とて、積極的に男子に話しかける方ではない。オタクのくせに妙に社交スキルの高い田中を別として、詩都香と吉田と大原は、共通の趣味がなければこうして話す機会もほとんどなかったであろう。
「しずかちゃん、昨日の回まだ見てないんだってさ」
田中が吉田と大原に訴え出る。が、この二人はまだしもものわかりがいい。
「まあ、高原さんは他のことでも忙しそうだし」
「我々と違って、いつでもリア充に転向できるポテンシャルを秘めておられますからな」
そんなことを言われるのは心外だ。いや、別に悪口を言われたわけではないのだが。
「わかったってば、もう。ちゃんと見ておくから。で、どうだった? 継続?」
「僕は継続だね。今期はちょっと豊作かも」
「田中的にありなのか。使い古されたような展開で、僕はちょっとついていけないんだけど」
田中の言葉に、大原が異議を唱えた。
「いや、待て。なぜ王道展開についていけないなんてことが起こりうるのだ?」
今度は吉田だ。
「だって、あの展開を見ていたら、今どきこんなことやっちゃうのかよ、って畳三畳分くらい転がりたくなってしまう」
「そんなんだから君は、変に通ぶった実験作を好むわけか」
大原と吉田の議論はエキサイトしていく。
田中がやれやれ、と肩をすくめた。
「しずかちゃんはどう? 保守派? 革新派?」
「いや~、昨日の見てないわたしに振られても困るんだけど、どちらかと言えば吉田くんの意見かなぁ。王道は王道なりにいい面がある。というか、逆に最近臆面もなく王道に回帰する作品って少なくない? その時々の流行り廃りはあるけれど」
「高原さんは古典主義者だな」
大原は溜息を吐いた。
詩都香は両手を振ってそれを否定した。
「でもね、そこに留まっていたらやっぱり駄目だとは思う。こんな展開や、こんな見せ方もあるんだぜ、っていう気概は欲しい。結局のところ、面白ければなんだっていいんだけど――」
「お前は好きなことだと本当によくしゃべるな」
後方やや上から唐突に声をかけられ、詩都香はぎくりと口を閉ざした。振り向けば、背の高い男子生徒が立っていた。
「よっ、高原」
「お、おはよう、誠介くん」
彼の名前は三鷹誠介。隣県の出身で、今はミズジョに通うために下宿暮らしをしている。そうまでしてわざわざこの学校に入ってきたのは、ただただ女子との出会いを求めて、という仕方のない生徒だ。
詩都香はどうやらそんな彼に一目惚れされてしまったようで、入学式の次の週には告白までされている。もちろん断ったが。
が、誠介の方は依然諦める素振を見せず、それどころかますます闘志を燃やして、詩都香にアタックをかけ続けていた。最近では、詩都香に話を合わせようと新旧のアニメまでチェックをするようになってきている。
そうまでされると詩都香とて悪い気はしないのだが、どうにもまだ誠介のことをただの男友達以上に見ることができないでいる。詩都香が奥手なだけではなく、別の理由もある。
こうして、筋金入りのオタク男女ににわかの誠介を加えた五人でアニメ談義をするのが、いつの間にか詩都香の始業前の日課となりつつあった。
「田中、この前勧められたあれ見たぞ。手描きには手描きのよさがある、って再認識したわ」
「あのよさがわかるなんて三鷹くんも見どころあるよ」
「DVDも出てないから、結局テレビデオ買って見ちまったよ。お前が液晶で見るのは味気ないっつーし」
「あはは。便利だよね、テレビデオ。今じゃリサイクルショップで安く買えるし」
驚くべき行動力だ、と思った。普通、今まで興味なかったことにそこまでやるか?
――ところで、誠介がやって来ると、困ることがひとつだけある。
誰にでもフレンドリーな田中と違い、おとなし目の吉田と大原が、少しやりづらそうになってしまうのだ。
誠介は校則ぎりぎりの範囲で制服を着崩し、アクセサリや小物にもこだわりを持っているようだし、昔から体を鍛えているので運動神経も抜群だ。どちらかと言えば箱入り娘が多いクラスの女子にもそこそこ人気がある。地味で目立たない吉田や大原とは対蹠的な人種と言っていい。彼らは馴染みの同好の士とのみ固まっていたいオタクの典型なのだ。誠介との距離の取り方が、まだ掴めていない。
詩都香自身は今さら誠介に苦手意識を持ってはいないが、異分子を輪の中に引き込んでしまった張本人であるだけに、そこはかとなく責任を感じている。だから誠介が来ると、いつも以上に積極的に二人に話しかけてしまうのだった。
グループの紅一点というのも、なかなか大変だ。
※
私が目を覚ました時には、姉さんはもう起きていた。
「エマー? ちょっとエマー?」
というか、姉さんの声で起こされたという方が正しい。バスルームからだ。
のろのろと体を起こし、あくびを噛み殺しながら声のする方へ向かう。
眠い。時計を見ると、まだ六時前だった。そりゃ私の方が遅く寝たけど、早朝から元気な姉さんの体質が羨ましい。
「なんですか、姉さん?」
「これ手伝ってよ」
脱衣所では、下着姿の姉さんが悪戦苦闘していた。背中一面にべたべたと貼られた絆創膏が、うまく剥がせないようだ。言うまでもなく、高原の攻性魔法でつけられた傷のためだ。
ああ、そういえば昨日の朝もこうして起こされたっけ。しかも結局、傷口に沁みてシャワーを浴びられず、体を拭くことしかできなかったのだ。熱いシャワーで一日を始めるのが習慣になっている姉さんは、昨日はずっとご機嫌斜めだった。
「昨日も思いましたけど、姉さん、体固いんじゃないですか? 高血圧?」
「年寄り臭いこと言わないでよ。ていうか、年寄り臭いわりにあんたは低血圧よね」
眠気を悟られていた。悔しいので反論を試みる。
「低血圧が朝弱いなんていう話に、科学的根拠はないんですよ」
「どうでもいいから、さっさと剥がして」
さらりと流され、しかたなく姉さんの背中に手を伸ばす。城主様直伝の傷薬を塗りたくった絆創膏は、残念ながらあまり剥がす時のことは考えていないようで、なかなかに頑固だ。
「ったく、高原め。乙女の柔肌になんという暴虐」
やや赤い部分が残っているが、痕はない。剥がし始めた当初こそ体を強張らせていた姉さんだが、痛みももうないようで、軽口を叩く余裕が出ていた。
絆創膏を剥がし終わると、姉さんは最後の一枚も脱ぎ捨てて浴室に飛び込んでいった。
「あいたっ! うひ~~っ、まだしみるぅ」
浴室の中からは、シャワーの音に交じって、悲鳴とも歓声ともつかない姉さんの声が響いてくる。
私はと言えば、今から寝なおすかどうか迷い、とりあえず玄関の郵便受けから新聞を取ってきた。俗世間の動きにはあまり興味がないが、日本語の練習のためにとっている。
ちらりと眺めた一面は、世を騒がす少女連続誘拐事件の報道で埋まっていた。
……やっぱりまた出たのか。
姉さんは一連の事件を〈夜の種〉の仕業と見ている。私にも異論はない。
社会秩序を乱すこうした異分子の排除も、一応私たちの仕事の一環だ。この手の事案が持ち上がると、組織から近場の構成員に指令が飛ぶ。あるいは、それに先んじて当局から要請があることも多い。
私たちにはこの件ではまだ指令が下されていないが、独自の判断で行動することも許されている立場である。第一の目標が達成されていない現状では、こういうところでポイントを稼ぐのもいいかもしれない。
私は昨夜そう主張し、姉さんも同調した。
だが、残念ながら捜索は不首尾に終わった。
〈モナドの窓〉が開かれさえすれば、私たちはこの街のどこにいても相手を感知できる。
〈モナドの窓〉は、異界とこの世界を繋ぐ水門に喩えられる。開かれれば、穏やかな湖面に突如大量の水が流れ込むようなもので、範囲の限定はあれど魔術師ならば感じとれるのである。
しかし犯人は明らかに超常の力を使っているのに、私たちに気配を捉えさせなかった。
昨夜は二人で手分けして近場を飛び、警戒に当たった。せめて自分の周囲の人たちくらいは守りたい――そう思ってのことだった。
目視に頼る他ないこのやり方は実を結ばなかった。私たちは夜目が利く方だが、市内の二十数万もの世帯の窓一枚一枚を見張るわけにもいかない。いきおい、見て回れるのも家の周辺のみになった。
通っている中学には市内全域から生徒が集まっている。とてもその範囲全てをカバーすることはできない。クラスメートたちの顔が頭をよぎり、時間の経過とともに焦りが募った。
午前三時になって私たちは警戒行動を打ち切った。何も起こらなかったのならそれでよし。起こったのだとすれば、もう犯行は済んでしまっているはずだ。
「本当に〈夜の種〉の仕業なのかな?」
部屋に戻った姉さんの第一声がそれだった。私も同じ疑問を抱いていた。
城では実戦訓練として、城主様がわざわざ召喚した〈夜の種〉と幾度となく戦ってきた。しかし、これほど存在感のない〈夜の種〉とは見えたことがない。
「そうですね。〈夜の種〉だって魂を持っているのですから、強い念動力を使ったら、感じとれてもおかしくありません」
「それに、こんな衝動的な行動をとっておいて、一度も〈モナドの窓〉を開かないってのも変だよ」
〈夜の種〉は生物学的には異質な存在だが、魔法を行使する主体として見れば、私たち人間の魔術師と何ら変わりがない。魂を持ち、そこに存在する綻び、すなわち〈モナドの窓〉を開くことで異界の混沌を取り込み、魔力に精錬する。〈不純物〉から具象化したくせに、〈不純物〉が猛毒となることも一緒だ。
だから、〈モナドの窓〉を開かなければ大量の魔力を行使することはできない。私たちのような魔術師に察知されることを怖れているのであれば別だが、そこまでの知能があるようにも思えない。
「この街の研修生や高原たちが何とかしてくれてるといいんだけど」
姉さんはそう言って、ベッドに入ったのだった。
そして結局、昨夜も事件は起こってしまった。
昨夜の被害者はマンションの高層階に住んでいたという。窓に嵌まっていたのだって強化ガラスだろう。そんな頑丈なものを割るほどの念動力を、〈モナドの窓〉を開くことなく行使できる人間はそうはいないし、〈夜の種〉も同断である。
――やっぱりおかしい。
今夜も動こう。次の被害者は、私たちの顔見知りかもしれないのだ。さにあらずとも、同年代の少女たちが被害に遭っているのだから、座視してはおけない。
……まあ、何はともあれ今は二度寝だ。まだ一時間半ばかり眠れるはず。
――姉さんは三十分と寝させてくれなかった。おかげで、始業よりずいぶん早く学校に着いてしまった。
姉さんの教室の前で別れ、とぼとぼと自分の教室に向かう。
日本の学校では――通ったことがないから、ドイツの学校ではどうなのか知らないけど――、双子が同じクラスになることは原則として避けられるらしい。私たちも別々のクラスに編入された。
姉さんが入っていった教室では、さっそく話の輪が広がっているようだ。かまびすしいおしゃべりが、開いた扉の向こうから聞こえてくる。
「梓乃ー、またずいぶんとお早い登校で。今日は宿題やってきた?」
「英語と数学。ばっちし」
「梓乃はいいよね、帰国子女だから、英語なんて簡単でしょ?」
「これまたひどい偏見。あたしはドイツ育ちなんだよ? 外人さんがみんな英語できるわけじゃないんだから」
「あのさ、梓乃、今日は国語も宿題あるよ?」
「うそっ! ……やっば、忘れてた。かおるん見せて~」
「どうしよっかなー。宿題忘れた時の梓乃の言い訳面白いからなぁ」
「ね、ね。聞いてよ梓乃ぉ。うちの親ったら心配性でさぁ。これからしばらく、あたしも親の部屋で寝ることになっちゃった」
――とかなんとか。昨今の誘拐事件をもう少し重く受け止めてもいいんじゃないかと、老婆心ながら思ってしまう。
それも自分の教室の前まで来ると、さすがに聞こえなくなった。
私が教室に入ると、数人のクラスメイトがちらっとこちらを見る。「おはよう、泉さん」と声をかけてくれる女子もいる。
丁寧にそれに応えてから、自分の席に座った。鞄から一冊の文庫本を取り出し、読み始める。タイトルは『|日本文化の歴史《ゲシヒテ・デア・ヤパーニッシェン・クルトゥーア》』。苦手科目を克服するために、城主様に頼んで送ってもらったものだ。人名や固有名詞には漢字も併記されている優れもの。
――私が来ても、挨拶以上の会話には発展しない。
別に気を遣われているわけでもないし、もちろん避けられているわけではまったくない。変な時期に転校してきた帰国子女に、クラスのみんなはよくしてくれている。
でもやはり、私には姉さんみたいに一人で場を変える存在感はないのだ。
姉さんは太陽で、私は月だ。姉さんの光なしに、自分で輝くことはできない。




