9.
※
作業を切り上げて戦闘の現場に戻ると、勝敗は決着しかけていた。
首尾よく戦場をいつもの工業団地跡に移すことには成功していたが、一条は満身これ創痍、もはや飛ぶ力もないのか、木の幹に背中を預けて荒い息を継いでいる。
一方の“姉さん”には傷一つなかった。それでも一条の力に警戒を抱いてはいるようで、手を出しあぐねている様子だった。
「お帰り、恵真ちゃん……。なんとか時間稼いでおいたよ……」
傍らに降り立った私に向けられたその笑顔が痛々しい。土気色の顔には生気が薄く、体力が枯渇しているのが見てとれた。
「一条……」
かけるべき言葉が見つからなかった。致命的な外傷はなさそうだったが、それだけにその消耗ぶりが私の不安を煽った。ここで一条に死なれては、あくまでも生け捕りを指示されている私たちの任務は失敗だ。
私の声が沈んでいたせいだろう、一条は元気を取り戻したふりをした。あくまでもふりなのは、ひと目でわかった。
「だいじょーぶ。〈超変身〉してる間の怪我はすぐに治るんだ。でも、ちょっと疲れたぁ……えいっ!」
一条が私の方に気をとられた隙を逃さず、“姉さん”が攻性魔法を撃とうとしていた。一条はすかさず念動力を衝撃波に換えて放ち、その巨躯を二十メートル近く吹き飛ばした。
「……今のでしばらく打ち止めだなぁ。なんかね……あいつ、ダメージ与えてもすぐに回復しちゃうし、痛みも感じないみたいなの」
“姉さん”の防御力そのものはそれほど高くないようで、吹き飛ばされた際に幾筋かの裂傷が刻まれていた。ところが私が見ている前で、一条の言葉通りその傷があっという間に塞がっていく。
「あともう少しなんだけどなぁ……。恵真ちゃん、どうにかならない?」
一条が左手首の腕時計を睨んだ。
「あなたが回復するくらいの時間は稼ぎます。その間にどうやったらねえ……あれを止められるか考えていてください」
「わかった。恵真ちゃん、頑張れ~」
気の抜けるような激励を背に、私は駆け出した。そして、再び攻性魔法を放とうとしていた“姉さん”の口の中に、生成した巨大な氷のかたまりをねじ込んだ。
〈連盟〉の正魔術師の実力、一条に見せてやろうじゃないの。
※
伊豆高原駅には、『踊り子』の発車八分前に着いた。人目につかない場所を選んで降りたので、駅舎までは少し距離があるが、身体能力を強化した二人が走れば間に合うはずだ。
しかし……
「……だ、だめ。む、無理。走れない」
いくらも行かない内に、詩都香は真っ青な顔でへたり込むはめになった。〈不純物〉が溜まりすぎたのだ。
〈モナドの窓〉を閉じ、ずりずりと歩道の脇のグレーチングまで這いずる。危機的状況の中、思惟はあらぬところにワープし、さっきの伽那との通話でこぼしかけた言葉はこいつの伏線だったのか、と益体もないことに納得する。
(あと、伊豆高原と高原詩都香って同じ字が使われてるじゃない。ひょっとしてここはわたしにとって、鳳雛龐統士元の落鳳坡みたいな土地なのかな。――あ、もうダメだ)
「ちょっと、詩都香!」
魅咲が慌てて駆け寄ってきた。背中をさすろうとするその手が届く寸前、
「うぐっ、げっ、みさき、は、はなれて――うぼろええええっ」
……吐いた。宿舎で摂った朝食も、
「ろぉえええええ」
下田までの車中で食べたおやつも、
「ぉええ、え、えっ、えぇぇぇっ」
全部ぶちまけた。
この悲惨な光景に、人が集まってくる。箒を持った見慣れない制服の女子高生が午前中から路上で嘔吐しているというのは、それはそれは目立った。もちろん悪い意味で。
「し、詩都香……」
魅咲がおろおろとうろたえた。
胃の中のものは全部出したはずなのに、まだ吐き気がやまない。詩都香は箒を放り出し、口元を押さえながら、しっしっ、ともう一方の手を振った。
「行って。魅咲、行って。後から追いかけるからあおおええええっ」
「でも……」
魅咲とて、こんな状態の友人を置いて行くことには抵抗があるのだろう。
苦しさにぼろぼろと涙がこぼれてくる。それでも詩都香は魅咲に向かってひとつ大きく頷いた。
「……わかった」
魅咲はぎゅっと一度目を瞑ると、踵を返し、人垣を掻き分けて駆け出した。その背を見送りながら、詩都香は息を整えようとして失敗。もう一度吐いてしまった。次の波が来たら、今度こそ臓腑まで吐き出してしまいそうだ。
危険な戦場に親友を送り出すのに、自分はゲロまみれ――情けなくなってきて、さっきとは違った涙が溢れてくる。
(何なのこのザマ普通こういう場面って「ここは俺に任せて先に行け!」ってのが定番でしょうがそれなのにわたしときたらなんなの「わたしはここで吐いてるから先に行け」? あーあ、天下の往来でこんなにぶちまけちゃってこれどうしよう素知らぬふりして立ち去るわけにもいかないわよねこんなに大勢の人の前で戻すなんてもう死にたい――いやいやダメだ意識をそっちに持っていくな『吐く』も『戻す』もNGもっと別のことを考えるんだほらいい天気だ旅行期間中晴れてよかったじゃない太陽が眩しい……太陽が眩しいから吐いた……ってNGNG! ――カミュの『異邦人』かサルトル-カミュ論争ってどっちが勝ったんだっけサルトルといえば『存在と無』そういや昨夜の魔術師もフランス人だった生きてんのかなあとそれから『嘔吐』……バーカバーカ他のこと他のこと古典的だけど素数でも数えるか一・二・三・五――何やってんだアホかしょっぱなからミスってんじゃないの落ち着け落ち着け殺すぞ落ち着け)
拡散していく放埓な思考はままならず、どういうわけかややもすると主を吐かせにかかってくる。
気を紛らわせることに専心し、ようやくのことで今度こそムカつきが収まったところで、
「これ、落ち着いたら……」
観光客と思しきハイキングルックの中年男性から、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出された。頭を下げてそれを受け取った。
「救急車呼ぶ?」
別の観光客からも声をかけられる。詩都香はふるふると頭を振ってそれを固辞した。
遠慮がちに背中をさすってくれる若い女性もいた。詩都香が広げてしまった小間物店をグレーチングの中に洗い流そうと、バケツに水を汲んできたおばさんもいた。
「あっ、ありがとお、ございますぅ……」
人々の優しさに胸がいっぱいになった詩都香は、しゃくり上げながらも、胃酸でただれた喉からどうにかそうとだけ絞り出した。




