9.
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風呂上りの詩都香と魅咲は、脱衣場で服を着てから善後策を協議した。といっても、この手のことで詩都香が下手に動くと悪い方にばかり事態が転がるのはよくわかったので、ほとんど魅咲の意見に耳を傾けるだけだったが。
「まずは恵真の方だろうね」という魅咲の言葉に従い、ノエマに電話をかけてみることにする。電話帳に登録していなかったため、伽那から来たメールの本文から番号を拾い出した。
しかし、通話ボタンに指をかけたところではたと困った。
「何を話せばいいのかな?」
「世間話でもして、とりあえず恵真の様子を窺ったら? あの子あまり態度に出さないから、何かあってもわかりづらいかもしれないけど」
魅咲はそう言うが、詩都香にはノエマとする世間話などない。自分たちの不在をいいことに伽那に手を出したりしないよう釘を刺すことにした。
――のだが、
「……電源が切られてる」
「やーな感じね。何かあったんじゃなきゃいいけど」
魅咲も顔を曇らせた。
仕方がないので、ノエシスに電話をする。こちらはすぐに出た。
『もしもーし、どちらさん?』
沈鬱な詩都香の脳に、良く通る明るい声が突き刺さった。誰何してきたところを見ると、あちらもまだ電話帳に登録していないらしい。
「あ、ノエシス? わたし、高原だけど」
『おや、珍しい人からの電話もあったもんだ。どうしたの?』
「あのさ、わたしたち、今伊豆にいて……。それで、えーと、そっちにいないからって伽那にちょっかいかけたりしたら――」
台詞は用意してあったのに、詩都香はとちりまくった。
『あー、んなこと考えてもみなかったよ。……やっちゃおっかな』
「ちょっ……!」
『ウソだよ、うーそ。そんなことで電話してきたの? そんなに信用ないかな、あたしら』
「あ、あるわけないでしょ。散々戦ってきたんだから――」
『違うでしょ』
くだくだしく言い募ろうとした詩都香だが、ノエシスから一言のもとに切り捨てられ、しばし絶句した。違うっていうのはどういうことだろう。その程度の信頼は得ているという自信があるというのか、それとも……。
『……まあいいや。こっちのことは任せてよ。あたしが何とかするから。んじゃ、あたし明日大事な用があるから』
そう言うと、ノエシスは詩都香に質問の機を与えぬまま通話を切った。
「……あの子、あたしたちの用件わかってたのかな」
聞き耳を立てていた魅咲が視線を天井に向けながら考え込んだ。
「姉妹なんだし、ノエマから相談されてたのかも。だとしたら、やっぱり何かあったのかなぁ」
詩都香の憂鬱はさらに深まる。
「そんで、次はうちのアホなわけだけど。どうする? 叱っとく?」
「それも難しいなぁ。琉斗がノエマの気持ちを知らないんだとしたら、余計なことを教えることになるし」
魅咲の忠告に、それもそうだ、と詩都香は納得した。危うく後先を顧みずに叱りつけるところだった。琉斗にも、核心部分には踏み込まずに探りを入れることにする。
通話ボタンを押して数回コール音を聞いた後、
『あー、お姉ちゃん? そっちどうよ?』
呑気な声で琉斗が応じた。少し遠くから、テレビの音が伝わってきた。一人の夜の気楽さを満喫しているようだ。
「……まあ、フツー。フリッツは元気してる?」
飼い猫をダシにワンクッション入れる。
「元気じゃね? メシもちゃんと食ってたし。あいつ、まだ一歳にもなってないのに大人しいからわかりづらいけどさ。お姉ちゃんの躾が厳しすぎたんじゃねえの?」
「普通にやっただけよ、人聞きの悪い。……あんた、今日何か変わったことなかった?」
『ん~? ちょっと出かけたけど、特には。それよりも二千円札ってどういうことだよ』
「そっちか!」
まず詩都香の悪戯に対する文句が飛んできたことで、ほっとしたような、かえってむかむかするような、複雑な心境に陥った。この分だと、琉斗とノエマが直接に修羅場を演じたということはなさそうだ。しかし、ノエシスの物言いからはもっと酷い事態も予感された。
『そっちかって、大事なことだろ。おかげで夕飯はインスタントラーメンだよ』
「……お昼は?」
『昼はファミレスで食った。それであの二千円は打ち止めだよ』
その情報で、張り詰めていた糸が切れそうになった。昨夜のメールの文面から、ノエマが今日琉斗に食事を作るつもりだったことはわかっていた。それがなされていない。
「……今日恵真と会った?」
『なんで知ってんの? あー、お姉ちゃんたち知り合いだっけ』
詩都香は一度深呼吸を挟んだ。そうしないと怒鳴りつけてしまいそうだった。
「いい、琉斗? よく聞いてね」昨夜の魅咲もこういう気持ちだったのだろうか、と思う。「あんたはさ、わたしもいるし、魅咲や伽那とも昔からの付き合いだし、中学生のくせに女の子に免疫がありすぎ。本当は、そんなに軽々しく誘っていいもんじゃないんだよ」
『何だよ、藪から棒に』
電話の向こうの琉斗は困惑した様子だった。
イライラが募る。肝心なところをぼかしたままでは、上手く伝えられない。
「恵真はね――」
「はい、ストップ。あたしに貸して」
ひょいっと、横合いから伸びてきた手に携帯を掻っ攫われた。
「あ、ちょっと、魅咲……」
抗議しようとするも、魅咲はそれを片手で制しながら話し始めた。
「もしもし。電話替わったんだけど、あたし。わかるよね? うん、なんかね、恵真が体調崩してるみたいでさ。梓乃の方から電話があったんだわ。……そう。あんた今日、一緒に居たんでしょ? 何か変わったことなかった?」
先ほどの戦闘の残り香のように〈器〉に溜まっていた魔力を、感覚の向上に振り向ける。聴覚が研ぎ澄まされ、魅咲の手の中の携帯が伝える琉斗の声を拾うことができた。
『そういや、そうかもしれません。最後の方、何か元気なかったし』
「あ、やっぱり? 二人でどっか行ってたの?」
『映画観て、お姉ちゃんに教えられた和菓子カフェに行って……あ、だまくらかしてあんこ食わせちゃったな。泉が調子悪いのってそのせいですかね?』
(なんだそりゃ、完全にデートコースじゃないの。ノエマが舞い上がっちゃうのもしょうがないじゃない)
「いや、たぶんそれは関係ない。それから?」
『それから、西駅の辺りで昼飯食って一条先輩のお見舞いに行きました』
「……二人で?」
『そうです。泉もつき合うって言ってたので』
変なデートコースだ、と詩都香は呆れた。一方の魅咲は少し顔を険しくしていた。
「……そう、それでか。ううん、何でもない」魅咲は深く息を吸い込んで、それからいつもの明るい声音に戻った。「ていうか、それってなんていうかさ、デートっぽいよね? ぶっちゃけ琉斗と恵真ってどんな関係?」
腹芸うまいなぁ、と詩都香は感心する。茶化しているような口調で、魅咲は上手く核心近くに踏み込んだ。
『ええっ? そんなんじゃないですよ』
「でも、仲はよさげだよね? 恵真のこと、どう思ってるの?」
魅咲はあくまでもコイバナ好きな先輩の態度を崩さない。
『うーん、どうかな。放っとけないっていうか、なんか守ってあげたくなるところはありますけど。あと、あいつ、みんなから表情に乏しいって言われてるけど、ほんのちょっと笑った顔がすげー可愛いんすわ。……って、何言ってんだ、俺。忘れてくださいね?』
「あいよ。でも、詩都香の無事を知らせてくれたお礼なんて、ずいぶん無理のある誘い方してたじゃない? あれも口実なんでしょ?」
『もういいでしょ、その話は。まあ、相川先輩みたいなこと、してやりたかったわけなんですけどね』
「あたし?」
この不意打ちに、魅咲は半音高い声を上げた。
『そう。ほら昔、お姉ちゃんが孤立して殻に閉じこもってた時、相川先輩が引きずり出してくれたでしょう? 俺も泉に早くこっちに溶け込んでもらいたいと思ってたんですけど、余計なことだったかも』
琉斗も詩都香がしっかりリスニングしているとは思っていないのだろう。詩都香はなんだか照れ臭くなった。
それは魅咲も同じようだった。
「……あ、あはー。そんな昔のこと持ち出されると照れるな。でも、あの子男友達少ないみたいだからさ、そんなに優しくしてると、その内惚れられちゃうかもよ?」
『泉が? いやいやいや。あいつ、男子に結構人気あるんですよ? 俺なんかとてもとても』
「そうよねー。あんた、特に何も取り柄ないもんね。恵真は高嶺の花だわ」
『うわ、ひっでーな。たしかに泉が高嶺の花なのは認めますけどね。……ところで、泉、大丈夫なんですかね? 電話してみようかな』
その残酷な気遣いを耳にして、詩都香はカッとなった。
(なによ、あのバカ。優しいのはいいけど、何もわかってないじゃない)
思わず携帯に伸ばしたその手を、笑顔のままの魅咲が空いている左手で掴んだ。しかも、
「あだっ!? あだだだっ、魅咲、魅咲! 痛いっ! そこさっきも傷めたの!」
邪魔すんな、と言うかの如く、手首の関節を極められてしまった。
「あー、やめとき。もう寝てるっぽいし」
『……そうですかね。まあ、もう遅いし。じゃあ、週明けに訊いてみるか』
「うん、それがいいんじゃない?」魅咲は詩都香の手首を解放して話を切り上げた。「そんじゃね。おやすみ」
そのまま詩都香に携帯を返すことなく通話まで切ってしまう。さてわたしの番だ、と腕を撫していた詩都香はたたらを踏んだ。
「ちょっと、魅咲。わたしにもひとこと言わせなさいよ」
「何て言うつもりなのよ?」
「そりゃあ、一発ガツン、と」
魅咲は頭を振りつつ肩を落とした。処置なし、といったジェスチャーだ。
「あのさあ、昨日も言ったよね? これは恵真のフライングだって」
「そりゃそうかもしれないけど……ノエマが可愛そうじゃない。うちの琉斗みたいなアホに引っかかって」
「あんた、面と向かってはいっつも喧嘩腰なくせに、恵真に感情移入しすぎだよ。まあ、恋なんてしたことのないあんたに片想いの心構えを説いても詮ないことだけどさ」
「なにその言い草」
「片想いがいつも実を結ぶわけじゃないってこと。ていうか、あんたには琉斗を責めらんないでしょうが」
「ちょっと、それってどういう……あ」
そこで詩都香はようやく誠介のことに思い至った。自分がいつもつれなくしていた相手に。それと同時に、自分が今琉斗に感じている苛立ちが、いつ他者から自分に向けらてもおかしくないものだということにも。
「ね? 誰だって向けられた想いにいつも応えられるわけじゃないんだから」
「ごめん……」
身を小さくする他ない。
「まあ、今回は琉斗もちょっとひどすぎたし、どっちもどっちかなぁ。恵真の方だって箱入り娘っぽいから、こういう経験初めてだろうしね。……でも少し安心した。琉斗も恵真のこと完璧に眼中にないってわけじゃなさそうだし。これからひょっとするとひょっとするかもね」
「ね、魅咲。琉斗が好きな人っていうのは」
「あんたに言うと色々不都合ありそうだから言わんけどさ。ていうか気をつけて見てれば、あんたもさすがにわかると思うよ? でも、琉斗は諦めてないけど、もう半分単なる憧れになってるかな、って気もする。長いしね」
「……魅咲」
「ん?」
「わたし、魅咲が友達でいてくれてほんとによかったと思ってる」
それは、詩都香としては珍しいことに本心の吐露だった。
魅咲は照れ臭そうな笑いを浮かべた。
「ううん、だからあんたは放っとけないのよね。……そろそろ行こうか。みんな寝ちゃう」
魅咲が脱衣場の引き戸を開けた。詩都香もそれに続いて暖簾をくぐって廊下に出る。
これから二人で由佳理や奈緒たちに謝らなければならない。
第六章はこれで終わりです。次回から、最も長い第七章に入ります。




