8.
※
伊豆の武士たちもこうして合戦の傷を癒したのだろうか、と詩都香は湯船の中でぼんやり考えていた。
あの魔術師に握り締められた手首、何度も膝で蹴られたわき腹、木の幹に打ちつけた背中。初めこそ染みて跳び上がりかけたものの、一度慣れてしまうと、それらの痛みを熱いお湯が包んでくれる感覚が癖になってしまいそうだった。昨日は気に留める暇もなかったが、脱衣所に掲げられたプレートには、効能の一つとして「打ち身・創傷」が挙げられていた。
宿舎に帰り着くと、魅咲は詩都香の分もいっしょに着替えを取りに行ってくれた。今の格好のまま詩都香が部屋に戻ったら、由佳理が仰天するだろうという配慮だった。
その魅咲をロビーで待っていると、携帯を片手にした奈緒が通りかかった。
「夜風に当たりに行ったわりに、ずいぶんな有様だな」
詩都香の姿を目にした奈緒は、少々辛辣にそう言った。着ていたプルオーバーはあちこちが裂け、ジーンズも過激なダメージ加工を施したかのようになっている。
「ちょっと冒険しちゃいまして。足を滑らせて坂道を転げ落ちちゃいました」
詩都香は愛想笑いを浮かべ、用意しておいた言い訳を述べた。
――そこで、奈緒の浴衣の裾に土や木の葉がこびりついているのが目に入った。
「部長も外に? 何か変な音とかしませんでしたか?」
奈緒は怪訝そうに首を振った。
「いや? 私も夜風に当たりに行ったが、虫の声以外は何も聞こえなかったぞ。なぜだ?」
詩都香はほっとした。
「いえ。転落した時に情けない悲鳴を上げちゃったんで、聞かれてたら恥ずかしいなぁ、と」
「それは是非拝聴したかったものだな。まあいい。風呂に入るのならさっさと入れ。今なら貸し切りだぞ」
奈緒はそうとだけ言うと、浴衣の裾を翻して階段を上っていった。それと入れ替わりに、魅咲が二人分の着替えやらタオルやらを抱えて下りてきた。
――そして今、詩都香は浴場で魅咲と二人きりである。その魅咲も、目を瞑って一心に湯にひたっている。禅修行でもあるまいに、身動きひとつしない。
戦闘後の混乱で忘れていたが、詩都香と魅咲は喧嘩中だったのだ。しかも、昨日と今日で二回も叩かれた。
さてどうしようか、今さらながら「二度もぶった!」から始めようか、などと思案していると、
「ねえ、詩都香」
魅咲から先に声をかけられた。
「ん?」
詩都香は洗った後でアップにまとめた髪に手をやりつつ、できるだけ気のない風を装った声で聞き返す。
「ごめんっ!」
魅咲はがばっと上体を折った。湯面すれすれまで鼻先が下ちた。
詩都香は慌てた。
「ちょっ、ちょっと魅咲?」
「色々言い訳したい。でも何を言ってもムダなのはわかってる。ごめん。ほんとごめん」
詩都香はばしゃばしゃと湯をかき分けてその傍らまで駆け寄った。
「なんで魅咲が謝んの? 悪いのはどう考えてもわたしでしょうが」
魅咲の顔を上げさせようとしたが、抵抗された。
「そっちこそ、なんであんたが悪いことになんのよ。あたしが、自分の心を裏切って、あんたの気持ちも考えずに勝手に暴走して、挙句……」
――まずい。魅咲の声が湿り気を増していく。
詩都香は魅咲の頭を上げさせることを諦め、逆に上から力をかけて水没させた。そのまま五分。
(……五分?)
「ぶはあっ!」
詩都香が心配になってきた頃、魅咲は詩都香の手を振り払って頭を上げた。真っ赤な顔で空気を貪る。
「げほっ、げほごほっ! な、なんてことすんのよ、あんたは……!」
「あんたの心肺構造、どうなってんの?」
詩都香は呆れながらも、咳き込み続ける魅咲の頬を両手で包み込むようにして、自分の方に向けた。裸の体と体が向き合う。大半は濁った湯に隠れているとはいえ、恥ずかしい。
「……詩都香?」
詩都香は一呼吸置いて口を開いた。
「わたしに謝らせてよ。あれは言うべきじゃなかったってのはわかってる」
「あんたのせいじゃない」
魅咲はぷいっと視線だけを背けた。詩都香は反論しようとしたが思いとどまった。こんなことでまた口論に発展するのは嫌だ。
「それなら、こうしよう。――誠介くんが悪い」
「……は? 誠介が、悪い?」
きょとんとする魅咲。
「うん。魅咲みたいないい子の気持ちに気づかない誠介くんが悪い。幼馴染なんだから」
「幼馴染なのに振り向いてもらえなかったあたしに魅力がないだけじゃない」
魅咲が唇を噛んだ。
「そんなことない。わたしは他の誰よりもあんたのことを見てきた。不自然にならないように気を遣って、誠介くんの、わ、わたしへの恋も応援しながら、それでもどうにか気を引こうとしていた、いじましい魅咲を。あれで魅咲の気持ちがわからない誠介くんが鈍すぎるの!」
「そんだけ詩都香に夢中だってことでしょ」
なんでそこで終戦ムードになるんだ、と詩都香は少し腹を立てた。
「いーや、違うでしょ。諦めがいいのか悪いのかはっきりしなさい。誠介くんが鈍いだけ、っていうのはわたしが保証する。あんたは相手を挑発しているくせに、戦う前から敗走してるだけ。だからさ、魅咲は――」
魅咲はふっと息を吐いた。詩都香の両手で頬を掴まれているので、ぷひゅっ、と間の抜けた音がした。
「……わかった。いつ、だなんてはっきりしたことは言えないけど、あたし、誠介に告白してみる」
その宣言に、詩都香もようやく安堵して魅咲の顔を解放した。
「言質とったからね? じゃあ、一月半後、文化祭の前までカタをつけること。いい?」
「何その期限?」
「……わたしも、その頃までには答えを出すから。それと――」
「それと?」
「それと、わたしが本当に誠介くんのこと好きになったら、もう魅咲に遠慮なんてしないから」
言ってしまった。もう後戻りはできない。途端に気まずくなって、詩都香は浴槽に背を預けた。
「うん、それでこそ詩都香だよ。あたしね、誠介が好きだけどさ、詩都香とくっつくならそれでもいいかな、と思ってた。一生懸命詩都香の気を引こうとしているあいつ見てると、なんか応援したくなっちゃってさ。詩都香があたしに遠慮してたなんて気づかなかったし」
「無理しなくていいんだよ、魅咲。これからは人の恋路の応援なんてしないで、自分からアプローチしなきゃ」
「くくっ、何それ。あんたにゃ似合わない台詞」
「うっさいな。わたしだって恥ずかしいんだから」
二人はそれから押し黙り、ぼーっと脱衣所の方に視線を向けながらしばらく湯に浸かった。
そろそろ上がろうかという段になって、魅咲が何か腑に落ちないという顔で口を開いた。
「ところであたしたち、なーんか忘れてるような気がするんだけど」
「ん? 何かあったっけ? ――あ」
喧嘩のせいですっかり忘れていた。
琉斗とノエマのことを。
※
私を出迎えた姉さんは何も言ってこなかった。私の様子から察するものがあったのだろう。気遣いはありがたいが、気が詰まった。それでも、帰り道で姉さんに責任転嫁しようとした負い目もあるので、私はできるだけ普段通りに振舞った。
キッチンに立つ気力もなく、かといって姉さん一人に任せるのも忍びなく、結局夕食は宅配のピザをとった。Lサイズが二枚だ。食欲が湧かずに一ピースでギブアップした私に、姉さんは優しく笑いかけた。
「恵真、食べられるときに食べとかないと、いざと言うときにすぐに参っちゃうよ。魔術師だって体力勝負なんだからさ」
それはその通りなのだろう。だけど、残りを軽々と平らげていく姉さんもやっぱりおかしいと思う。
「ごちそう様でした」
無理矢理もう一ピースだけ胃に押し込んだ私は、片づけを姉さんに任せて席を立った。
「あ、恵真、待って。なんか東京支部から小包が送られてきた」
ピザを頬張りながら、姉さんがソファの上を指す。
「……珍しいこともあるもんですね」
東京支部とはあまり交渉がない。何かが送られてくるなど、初めてのことだった。
開封済みの箱の中には、黄紫水晶が埋め込まれた大ぶりのブローチが二つ並んでいた。
「何でしょう? 先日の事件解決のご褒美でしょうか」
それほど高いものには見えないが。
「そう書いてあったけど、なんかビミョー。しばらくの間、最低でもあたしたちのどっちかが身に着けておけってさ。東京法官から」
姉さんがローテーブルの上の紙片を指した。東京法官の署名のある書状だった。「Sehr geerte Fräuleinen von Seelenbrunn」などと無理をしてドイツ語で書いてある。
読んでみると、内容は姉さんの言った通りだった。どうしてこんなものを身に着けていなければならないのだろう。
「どうします?」
「あ~、あたしはいいや。そんなん着けたくないし。恵真が持っててよ」
直属ではないとはいえ、一応上役に当たる東京法官からの要請なのに、姉さんは従う気がさらさらないようだった。
「私も嫌ですよ。大きいし、目立ちますし」
「なら鞄の中にでも入れとけば。ブローチとして使えなんて書いてないしね」
姉さんはそれっきり興味を失ったように再びピザにとりかかった。
結局こうなる。姉さんが私に気を遣ってくれているだなんて、誤解だったのかもしれない。
仕方なく黄紫水晶のブローチを上着のポケットにしまい、ソファから立ち上がった。
自室に入って独りになった私は、着替えもせずに頭からベットに倒れ込んだ。うつ伏せの体勢のままもぞもぞと携帯電話を取り出し、電源を切った。そうすることで、高原くんから連絡があるかもなどという甘い期待を断ち切った。
「残酷だよ……」
自覚なしに相手を傷つけるのって、これ以上ないくらい残酷な行為だと思った。向こうにその自覚があれば、罪悪感を抱かせてやることもできる。逆に、嗜虐欲を満たしてやるという形で相手に影響を与えることもできるのかもしれない。
でも、反作用なしに作用されるのは、私の存在そのものが向こうにとっては気にも留まらないほど軽いものだったということに他ならない。
「モナドには窓がない、か」
私たち一人一人は互いに向き合って作用し合っているようで、実は完全に孤立しているというライプニッツの思想。彼の楽天的な弁神論の一部を成しているそれも、今の私には悲観的にしか捉えることができない。
私に向かって開かれた窓がない高原くんには、今はなぜだか腹立ちを覚えなかった。代わりにその矛先が向かうのは、一条伽那だった。
――どうしてあいつは今の状況でへらへら笑っていられるんだ。
問い詰めてやりたい。私の心が吹いた血を浴びせかけてやりたい。
それが完全な八つ当たりであることも承知していたけど、この情念を押し留めることがどうしてもできなかった。
リビングからは姉さんの話し声が聞こえてきた。電話をしているらしい。相手は昨日の男かもしれない。
内容までは聞き取れないが、その明るい声音に、姉さんはいいな、といつもながら羨んでしまう。姉さんはこんなことで悩んだりしないだろうし、障害があったらきっぱり排除する。恋愛だって押せ押せで突っ走って、芽がないと見たらすっきりと撤退するんだろう。
そんな風になりたかった。
でも、今日一日で思い知らされた。私は姉さんにはなれない。
明日、もう一度一条に会おう――私はそう決意していた。本当は今すぐにでも飛んでいきたいのだけど。
長い夜になりそうだった。




