4.
――勘違い、だったんだ……。
私はうつむき加減に階段を降りていた。ゆっくりと、一段一段踏みしめるようにしながら。
高原くんは私に優しかったし、いつも気にかけてくれていたし、よく見ていてくれていたし、好意を向けられているものと思っていた。
恥ずかしい。恥ずかしくて奇声を上げてしまいそうだ。
でも、だって……しょうがないじゃないか。あんな風に自然に優しく接されたら、城の外に出てひと月半の私みたいな田舎娘には、舞い上がるなという方が無理だ。
つぶさに顧みてやっと気づいた。私は何一つ彼から特別扱いされていなかったのだ。今日のことだって、“お礼”以上の意味はさらさら無かったのだろう。
そうだ、なぜ気づかなかったのだろう。彼は誰にでも優しくて、分け隔てなく接していたじゃないか。おそらくはたった一人、一条伽那を除いて。
それなのに私は、自分が特別扱いされていると勘違いしていた愚かな娘は、高原くんが他の人と親しげにするのを見る度に、浅ましい嫉妬にも似た感情を抱いていたのだ。特別じゃない私には、そんな資格など毛頭無いのに。
ただの友達。――ううん、彼が友達を大切に想っていることはわかってる。
……それでも、ただの大切な友達。
「――あっは!!」
気持ちを落ち着けようと独りになったのに、まったくの逆効果だったかもしれない。頭の中でのたうつ整理しきれない想念が、とうとう口を衝いて声を漏らさせた。その声に自分で驚いて、周囲を見回した。幸いにして人の気配はなかった。
これだけの屋敷だし、一階に降りればすぐに誰かを見つけられるだろうと予想していた。もっと大きなゼーレンブルン城でだって、使用人の目を盗む方が難しかった。
ところが案に相違して、誰にも出くわさなかった。どこかに出払っているのだろうか。
当て所なく廊下を彷徨いながら、ぽっかりと穴が開いたような胸の内で、どんな花瓶がいいのか考える。
ネリネが中心のピンクを基調とした花束だから、柔らかい色調のものがいいように思えた。白がいいけど、輝くようなパールホワイトでは病床にはどぎついかもしれない。アイボリーか、なければ薄いマゼンタでもいいかな。思いきって緑もいいかも。緑柚なんてあるだろうか。
……などと本気で一条の枕元を彩る花と花瓶のコンビネーションに頭を悩ませている自分に気づき、愕然とした。その根っこにある心理にも。
私ときたら、こんなことになってもまだ、高原くんにいいところを見せたいのか……。
じわり、と何かが胸に沁み込んでくる感覚があったのは、そうやって我知らず立ち止まっている時だった。
滴が水面に立てるような、微かな漣……。
〈モナドの窓〉だ。誰かが開いたのだ。しかも、針の穴のように絞り込まれていた。
〈モナドの窓〉は、大きく開くことよりも絞り込むことの方が難しい。だからこそ、開放率に従って含有率が増大する〈不純物〉をシャットアウトするための〈フィルター〉という技術が発明されたのである。これほどの芸当は、私たちにもできない。これではよほど近くにいない限り感知不可能である。恐ろしく熟達した魔術師だ。
私はその主を探して、導かれるように手近な階段を上がった。求める相手は三階ですぐに見つかった。
「泉さんはやっぱりただの人間じゃなかったんですね。このサイズの〈モナドの窓〉を感じとれるなんて」
「……あなたこそ」
半ば予期していたが、階段を上りきった先にはあのメイドが立っていた。
「さすが〈半魔族〉の家系といったところですか。魔術師を護衛につけているなんて」
「先代にはよくしていただいたもので。あの方の子孫をお守りするのが私の使命です。……あら? あの方はもう先代ではなくて、その前でしたかしら。年をとると時間の感覚が薄れてダメですね」
ユキはホワイトブリムを着用した自分の頭をこつんと叩いた。本人が思っているであろうほどお茶目には見えなかった。
「何の用です? 私、今はあまり長話をしたい気分ではないのですが」
表情に乏しいと言われる自分の面差しが憎らしい。不機嫌さを十分に表出できなかったのかもしれない。メイドは気に留める様子もなくマイペースに続けた。
「ねえ、泉さん。あなたの力、よくわかります。全力で戦えばよくて引き分け。いいえ、おそらく私が負けるでしょうね。でも、あなたはまだ〈モナドの窓〉を開いていない。今はまだ私の方が有利です。三秒であなたを殺せます」
ユキの言う通りだろう。今の私は、ユキがその気になれば死ぬ。
「……何が言いたいんですか?」
「今日のところは穏便にお引取り願えませんか? 泉さんが伽那の敵であることは存じておりますが」
少し驚いた。なぜそこまで知っている。
「意外ですか? 伽那と泉さんたちは毎週のように東山で戦ってるでしょう? 私は戦闘ではあなたに勝てませんが、年経ている分探知能力は上のようです」
なるほど。この距離で東山の〈モナドの窓〉を感知できるのなら、納得するしかない。しかし、疑問と反論が残る。
「東山で一条たちと戦っている相手が、どうして私だと? 会ったことはないはずですが」
まずは疑問。私とも、おそらくは姉さんとも、顔を合わせたことはないはずだし、〈モナドの窓〉を開いている所を目撃されでもしないかぎり、東山で戦っていた魔術師と目の前の私を結びつけることはできないはずだ。もちろん、一条がべらべら喋っていたらその限りではないが。
それに対するユキの返答は予想もしないものだった。
「簡単なことです。わかるんですよ。長年魔術師に追われる身でしたし、モナドの色がわかるんです。泉さんは伽那と似たモナドをお持ちですわね。ご自分ではおわかりにならないでしょうけど」
なんだそれは。今度は一条に似てる? まったく忌々しい。
次は反論だ。
「こちらとしては、穏便に引き取ることはやぶさかではありません」
「……そう、よかった。さすがにこれ以上〈モナドの窓〉を広げたら、いくら伽那が鈍くても気づかれてしまいますしね。それに、琉斗くんのお友達を殺してしまっては後味が悪いと思っていました」
「ただ、あなたは勘違いをしています。今日の私は、友人の友人を見舞っているだけです。一条の敵ではありません」
ユキの表情が心なしか和らいだように見えた。
「その言葉、信じてもいいんですね?」
「信じてください、と言うほかないですね。心配なら、あなたも一緒に一条の部屋に留まって私を監視したらどうですか」
ユキは静かにかぶりを振った。
「いいえ、そうしたいのはやまやまですが、それはできません。伽那は私が必要以上にプライベートに干渉することを快く思っていませんから」
「あなたはこの家での一条の姉代わりなのでしょう? あ、もしかして反抗期という奴でしょうか?」
その単語に意表を突かれてか、ユキがくすりと小さく微笑む。そこで私はようやく、いつの間にか彼女の〈モナドの窓〉が閉じられていたことに気づいた。
「いいえ、昔からです。私はあの子にもあの子のお友達にも、酷いことをしましたから」
少し寂しそうだ。一条のお友達というのは、高原と相川のことだろうか。あの三人とユキの間に、一体何があったのだろう。しかし、それを訊くのはためらわれた。
「……いいんですか、〈モナドの窓〉を閉じてしまって?」
「大丈夫です。泉さんは〈モナドの窓〉を開くのに、おそらく数十秒程度かかるでしょう? 私は一秒とかかりません。あなたたちよりずっと魔力に親しい存在なので。泉さんが〈モナドの窓〉を開こうとする素振りを見せたら、すぐに無力化できます」
あっさりアドバンテージを捨てたかのように見せておいて、しっかり確保していた。向き合って話しているだけで、そこまで見抜かれたのか。
「……あなた、本当は私よりも強いんじゃないですか?」
「いいえ。こうして相対しているだけでも、泉さんのモナドに秘められた力の程がわかります。伽那たちに比べるとバランスよく力を伸ばしているようですが、それでも戦うことに特化していますね。魔術師の力は私たちから見ると大抵アンバランスです。〈モナドの窓〉を感じ取ることができるのに、その“窓枠”たるモナドのことはわからないんですから。でも、そこがあなたたちの強みでもありますね。あなたたちは自分のやりたいように力を爆発的に伸ばせます。私たちも成長はしますが、とても追いつけません」
ユキはさっきから謎めいた言葉ばかり吐く。「私たち」とは誰のことだろう。
――おっと、だいぶ時間が経っている。結論が出そうにもないし、答えを教えてもらえるとも思えないし、考えるのは後にしよう。
「そろそろ戻ります。さっきも言いましたが、今日は敵として来ているわけではないので、心配しなくても結構です」
「ええ、信じます。――あらあら私ったら、お客様にお構いもせずに。後でお茶をお持ちしますね。でも、話してみてよかったわ。こちらとしても勇気の要ることでしたけど。失礼ついでに最後にもうひとつだけ。あなたの本当のお名前は?」
動揺は気取られなかったと思う。隠すのもなんだし、正直に答えることにした。
「ノエマ・フォン・ゼーレンブルン――それが私の名前です」
「ゼーレンブルン……素敵なお名前ね。――あ、泉さん、忘れ物ですよ」
踵を返そうとした私に声をかけ、ユキは足元に置いてあったそれを拾い上げて示した。
花瓶だった。初めから置いてあったようだが、ユキの顔から目を逸らすことができなかったため気づかなかった。しかも、私のイメージにぴったりの、ほんのりと緑がかった青白磁。
「……本当に忘れてました。耳がいいんですね、あなた」
「ふふふ、ありがとうございます。今朝起きてからの伽那の咳の回数もわかります」
うかつに寝言も言えない家だ。私も発言に気をつけよう。
花瓶を受け取り、今度こそ階段に足をかけてから、私もひとつ尋ねてみることにした。
「ではこちらもひとつだけ。あなたは本当はおいくつなんですか?」
「ヒミツです」
メイドは澄まして答えた。不公平でしょうが。
※
午後は韮山である。
詩都香と由佳里が他の集団に交じって有名な反射炉へと徒歩で向かっていると、道程の半ばで、副部長の初瀬佐緒里が奈緒と嫌がる魅咲とを連れて消えていった。その手には巻尺と画板と……あろうことかロッド。まさか韮山城の遺構を実測する気だろうか。敷地の大部分は学校になっているというのに。
「何しに行ったんでしょう?」
「あー……、副部長は口数が少ないけど押しが強いから、由佳里も気をつけた方がいいよ。方眼紙にひたすら点を打つ作業が好きなら止めないけど」
「はい?」
由佳里はよくわかっていない様子。
(韮山城の実測なんかしても、郷土史研の部誌には載せらんないでしょうに)
そもそも発掘の調査報告書だって出ているのだから、必要とあらばそれを引用掲載させてもらえばいい。しかしどういうわけか佐緒里は、小は土器の破片から大は廃寺・廃城の遺構まで、実測作業が大好きなのである。噂では彼女は常に真弧を持ち歩いているらしい。真弧とは細い竹ひごを櫛の歯状に束ねたもので、遺物に押し当てて大まかな型を取るための道具である。。副部長はヘアブラシと真弧の区別もつかないのではないか、という冗談めいた話もあるくらいだ。
基本的に書斎型の歴史好きが多い郷土史研究部においては、ひたすら神経を使い、場合によってはアウトドアになってしまう実測作業は、当然ながらあまり人気がない。詩都香とて進んでやりたい作業ではない。
「走るよ、由佳里」
詩都香は由佳里の手をとって走り出した。三人では手が足りないと判断した副部長から引きずり込まれるのはごめんだ。




