2.
「はい、できた、っと」
包帯を巻き終えた相川魅咲が、お約束とばかりに患部をぽんと叩く。
「あうち!」
痛くはなかったが、詩都香はびっくりして手を引っ込めた。がたっ、とテーブルが派手に震え、その上の三つのグラスが一瞬だけ浮いて硬い音を立てた。
「も~う、詩都香、気をつけてよ」
「今のわたしが悪いんか?」
グラスを押さえながらの一条伽那の文句に、左手をテーブルの下に隠しつつ口を尖らせる。伽那が面白がって魅咲の真似するのを警戒してのことだ。そのまま、右手でコーラの入ったグラスを口元に引き寄せる。
と、そこで詩都香の胸の内がざわついた。
「あ、ノエマが〈モナドの窓〉を開いた」
グラスに差し込まれたストローから口を離して、彼女はそう告げた。
ここは駅前通りに面したファミリーレストラン。深夜二時まで開いていて値段もお手ごろなこの店は、彼女たち三人の祝勝会兼反省会の会場になっている。
「いつものことながら、あんた、よくわかるな」
包帯の残りやハサミを救急箱にしまいながら、魅咲が呆れたように言う。
「だって、ここから二キロと離れてないじゃない。魅咲ももっとこういう感覚磨いた方がいいってば」
詩都香はコーラをもう一口啜ってから、「伽那はどう?」と残る一人に水を向けた。
「ぜーんぜん」
悪びれもせず、伽那は野菜ジュースに口をつけた。
「あんたらねぇ……」
詩都香は気落ちしてぶくぶくとコーラを泡立てた。
なにも詩都香が特別鋭敏なわけではない。現に、このところの敵であるゼーレンブルン姉妹は半径十キロ程度の探査能力を持っている。高位の魔術師となれば三十キロ以上というのも珍しくないらしい。幸いにして詩都香はそんな敵と相対したことはないが。
魅咲は近接戦闘に特化しすぎているし、伽那は有り余るほどの魔力を持ちながら、その扱い方と来たらまったくの素人なのだ。詩都香本人とて魔法を使った戦闘もこなすが、この二人と一緒に戦うと、どうしても司令塔のような役回りになる。
せめて伽那がもう少しアクティブに動いてくれれば、連携にも幅が出るのだが……。
と、そこへ注文の品が一斉にやって来た。相変わらず早いことだ。
魅咲はドリア、伽那は旬野菜のサラダ。そして詩都香の前にはエビグラタンとリゾット、さらにはセットのサラダとスープが並べられた。食後にはデザートとしてティラミスを頼んである。
「……詩都香ってよく食べるよね。こんな時間から」
おーこわ、と伽那が身を震わせた。やはり少し注文しすぎだったろうか、と詩都香は早速ひとつ反省。
でも、言い返さずにはいられない。
「頭を使うとお腹が空くの。魅咲だって、ずいぶん体動かすのにそんなんで足りるの?」
「鍛え方が違うからね。あんなんじゃ食前の運動にもならないって。それに、余計なカロリー摂取は頭の働きを鈍らせるよ」
話を振られた魅咲は、使い捨てのおしぼりで手を拭きながら軽口で応じた。詩都香もこれにはぐうの音も出ない。唇を引き結んで、卓上のタバスコを取り上げ、グラタンにかけ始める。十滴、十一滴、十二滴……。
「甘党で辛党……。詩都香ってばやっぱ変」
いつまでもタバスコの瓶を振る手を止めない詩都香を見て、伽那が呆れたように漏らした。
「伽那、甘党や辛党ってのは、甘いもの・辛いものが好きって意味じゃないのよ?」
詩都香はようやく瓶に蓋をして、テーブルの隅に戻す。
「そうなの?」
サラダに取りかかっていた伽那が手を止める。手にしたフォークにはミニトマトが刺さっていた。
「そうそう。あれは元々お酒が飲める、飲めないって話で――」
「どうでもいいって、そんなの。あんたは日本語にうるさい教育委員会のおばちゃんか」
詩都香の講釈は魅咲によって乱暴に遮られた。ドリアにはまだ手をつけず、烏龍茶をひと啜り。おばちゃん呼ばわりされた詩都香は、憮然として生ハムサラダにフォークを突っ込んだ。
「それにしても、ほんと、その栄養どこに行ってるんだろ?」
ミニトマトを飲み込んだ伽那が、年齢の割に豊かな胸の前に手を組み、詩都香のその部分を凝視する。
つられて詩都香はフォークを握る手を止め、自分の体を見下ろした。その視線は、ほとんど何の遮蔽物にも突き当たることなく、制服のスカートとそこから伸びる太ももまで到達する。
「……それは何か? 嫌がらせ?」
「羨ましいって言ってるんだけど」
伽那はぶんぶんと頭を振った。
「万能に見える詩都香にも弱点があるから面白いよね」
魅咲がけらけらと笑う。そんな彼女の方は、伽那ほどではないが出る所は出、引っ込む所は引っ込み、全体的に見ればモデルのようなプロポーションを誇っている。そのくせ、大の男が数人がかりでも敵わない格闘技の達人なのだから、まったく詐欺のような話だ。詩都香とて、彼女と出会うまではそんなの漫画の中だけの存在と思っていたのだが。
「だって詩都香、四十四キロでしょ? わたしより背が高いくせに」
「公の場で人の体重バラすな。それに、高いって言ってもたった三センチじゃない」
「反則だよね。あたしたち凡人は日々の努力を積み重ねるしかないのに、こんだけ食べても平気なのがいるだなんて」
ね~、と二人が声を合わせる。詩都香としてはバカにされてるとしか思えない。
「――ま、ほんじゃ、反省会しようか」
やっとドリアにスプーンをつけ始めた魅咲が宣言した。
詩都香の方はサラダを平らげ、グラタンとリゾットを均等に半分ほど消化していた。たしかに頃合いだ。
はいはーい、と元気よく伽那が手を挙げる。
「もっと体を鍛えようと思いました。以上」
残る二人は顔を見合わせた。伽那の反省と来たら、毎回これだ。なんといっても今まで暴力沙汰というか、体力を使うこと全般に縁がなかった娘なのだ。
「……そう。でもいい加減実行してくれると助かるんだけど」
「あと、魔法の使い方ももっと練習してくれると嬉しいな」
魅咲と詩都香がそう論評を下した。
伽那の〈器〉の容量は詩都香の三倍近い。〈モナドの窓〉の大きさだって、並の魔術師とは比較にならないほど巨大だ。後はその力を効率よく活用できるようになってくれさえすれば、大きな戦力になるのだが。
今回の戦いでも、伽那の役回りはノエマの足止めに終始した。何の工夫もない念動力でも、伽那の莫大な魔力を込めれば、数秒程度相手の動きを封じられる。
「ほんじゃ、次はあたしね。一対一でも梓乃を圧倒できるかなと思ってたけど、無理だった。あの子、ほんと強いわ」
魅咲はそう言うと烏龍茶を呷った。
これまでのノエシスとノエマは伽那を優先的に狙って二人同時に殺到してきたため、三対二の乱戦が展開されてきた。
それが今回は詩都香たちの分断を画策するフォーメーションを組んできたのだ。
詩都香はすぐさまそれを察知し、敢えて相手の作戦に乗る形で、魅咲をノエシスにぶつけた。少なくとも正面切っての戦いで魅咲が後れを取ることはあるまいと判断してのことだ。
「もう少しやってたら負けてたかもしれないな。援護射撃が遅いよ、詩都香」
「ごめんね。わたしもノエマの相手で手いっぱいだったから」
詩都香はそう弁解しつつ、左手を見る。その掌に巻かれた真新しい白い包帯。魅咲の応急処置は実に丁寧だった。普段は男勝りな言動が目立つ魅咲だから、こういう女の子らしさが際立つ。
「梓乃に手傷を負わせて、こちらは詩都香が手に怪我。まあ、おあいこかな?」
魅咲が同じく詩都香の左手を見た。
「どーだろ。しなくていい怪我をしたこちらの負けかも」
その伽那の言葉通り、詩都香の怪我はほとんど自爆だった。ノエマとの格闘に夢中になっていた詩都香が不注意に手を突いた場所には、割れたガラスの破片が散乱していたのだ。戦いが終わった後、自分ではとても無理なので魅咲にガラス片を抜いてもらってる間、詩都香は痛さのあまり不覚にもぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
「たしかに。あんなビカビカ光る剣持ってて気づかなかったの、詩都香?」
「悪かったわね。わたしはあんたたちと違って夜目が利かないのよ」
謙遜ではない。特異体質と言える二人が羨ましいところだ。
詩都香は負傷した手に向かって、ふ~っと無意味に息を吹きかけた。
そこで、
「隙ありっ」
伽那がその手をぽんと軽く叩いた。
「うぎゃっ!」
油断していた詩都香はまたも慌てて手を引っ込め、その肘で今度こそグラスを倒した。幸いにしてグラスが床に落ちて割れることこそなかったが、中のコーラはテーブルの上に広がり、一部は詩都香のスカートをしとどに濡らした。
「ちょっと詩都香、気をつけてよ」
魅咲がおしぼりを放ってよこす。
「今のわたしが悪いんか?」
詩都香はそれを受け取りながら、慌ててスカートを持ち上げる。
「ごめんね、詩都香。パンツに染みてない?」
そんな騒ぎに、周囲のテーブルの客がぎょっとしてこちらを見た。たまらず詩都香は顔を赤らめた。
「今日のパンツ、水色で――」
まだ言おうとする伽那の口を急いで封じる。
「バカ! 大きな声で、は、恥ずかしいこと言わないでよ! ……ていうか、なんで知ってる?」
詩都香は声を潜めながら伽那を詰問する。
「だって、スカートであんなに跳び回ってたらそりゃあ……」
「……伽那? あんた、なんだかんだで余裕あるな」
少なくとも詩都香には、魅咲や伽那のスカートの中をチェックするゆとりはなかった。魅咲はと見れば、腹を抱えて笑いをこらえている。
「そんな余裕あるんなら、もっとちゃんと戦いなさいよ」
まだ引かない赤みを頬に浮かべながら、三人分のおしぼりでスカートを拭い、上着のポケットから取り出したハンカチでさらにこする。
「ごめん、ごめん。でも、二人ともすごいなぁ。詩都香もあの状況できっちり成功させるんだもん」
伽那がノエマを足止めしている五秒足らずの時間に、詩都香は見事な狙撃を成し遂げたのである。それも、目にも止まらぬスピードでぶつかり合う二人の内の片方にだ。一歩間違えば魅咲に当たっていてもおかしくない。
「こいつは何でもこなせる万能タイプだからね」
器用貧乏とも言う――少なくとも詩都香自身はそう自己評価している。
「にしてもあいつら、なんで毎回果たし状みたいなのをよこして正面から戦うのかな?」
スカートに浸透したコーラが下着に染みないように、二つ折りにしたハンカチを間に挟み込みながら、詩都香はふと疑問を漏らした。
〈リーガ〉は所属する魔術師たちにいくつもの厳格な掟を定めているものの、魔術師同士の戦いはしょせん化かし合いだ。いかに相手を騙すか、いかに相手の隙を突くか、それこそが本来の在り様だ。
それなのに、ゼーレンブルン姉妹は必ず日時を指定した果たし状――なぜか毎回違った言語で書かれている――をよこし、罠を張るでもなく真正面から戦いを挑んでくる。今まで打ち破ってきた刺客たちとは異なるこのやり方に、詩都香は戸惑っている。
「さあ? ま、いいことじゃない?」
やっとドリアを食べ終えた魅咲が、スプーンを口の端にくわえながら楽天的なことを言う。
「きっとほんとはいい子たちなんだよ。可愛いし」
伽那はもっと能天気だ。
「だといいんだけどねぇ」
詩都香はそう簡単に気を許さない。これまでの戦いも、大きな策略の一環なのではないかと疑っている。
三人の中では、詩都香が一番戦歴が長い。と言っても、その詩都香にしても半年に満たないが。
敵対する世界的な魔術師の組織――通称〈リーガ〉――は、直接的にせよ間接的にせよ、自らに服属しない魔術師の存在を許さない。この街に隠遁する世界最高齢の魔術師に才能を見出されて魔力に目覚めた詩都香は、爾来送り込まれてくる刺客たちと渡り合ってきた。
ところがその戦いのさなか、偶然彼らと接触してしまった伽那が、〈夜の種〉と呼ばれる超常的存在と人間の双方の血を引く〈半魔族〉であることが判明し、事態は一変する。彼らは詩都香ではなく、強大な魔力を持つ伽那を執拗に狙うようになったのだ。
その段になって、詩都香は伽那との共通の親友である魅咲に助力を求め、魔法の手ほどきをした。魅咲は代々古武術を継承してきた家系の出で、祖父から地獄のような修行を課された彼女自身も比類なき武道の達人だった。詩都香としては、これほど頼りになる味方はいない。普段でさえ、拳で岩を砕き、貫手で鉄板を破る魅咲なのだ。扱える魔力の量がまだまだ乏しいとはいえ、魔法で身体能力を向上させれば、ほぼ敵はいない。
標的にされている伽那にも、魔術の初歩を覚えてもらった。身体強化の魔法、念動力、防御障壁、そして破滅的な威力を持つ必殺の攻性魔法……。
三人は未熟ながらも互いの長所を活かし、辛くも戦勝を重ねてきた。そんな彼女たちに業を煮やしたのか、遂に戦功に焦る末端の構成員ではなく本物の正魔術師が送り込まれてきた。それがゼーレンブルン姉妹だった。
が、あまりにもまっすぐなその戦い方は、これまでの陰湿な刺客よりもむしろ組し易かった。わずかなダメージですぐに撤退するそのスタイルもだ。
夏休みの後半にやって来たゼーレンブルン姉妹とは既に三度も戦い、今に至る。
「そういえば、梓乃ちゃんと恵真ちゃんって、琉人くんと同じ学校なんだよね? 何か話聞いてる?」
と、これはサラダを平らげた伽那。詩都香はデザートのティラミスをフォークで削り始めたところだった。
「いや、これと言って何も。――あげないわよ?」
伽那のもの欲しそうな目から、ケーキをかばう。
「いらないよぉ」
そう言う伽那だが、ちょっぴり残念そうだった。
詩都香は心を鬼にした。この表情につられて甘いものを与えようものなら、後になって体重計の上の伽那から電話がかかってきて、「どうして食べさせたの」なんて恨み言をいただくに決まっている。十分細いくせに、たかだか二、三百グラムで騒ぐのだからこのお嬢様は始末に困る。
――ゼーレンブルン姉妹をノエシスとノエマという「本名」で呼ぶのは詩都香だけだ。変てこな名前だとは思いつつ。
かの姉妹は、夏休み明けに合わせて詩都香たちの母校でもある私立中学に転校してきた。派遣されてきた魔術師が居を構える――それ自体これまでなかったことである。しかも、詩都香としては勘弁してほしいところだが、弟の琉人と同じ学年らしいのだ。
「あー、でも、夏休み明けに転校生が来たって話は聞いたような気も」
いくら記憶の底をさらっても、琉人はそれ以上のコメントをしなかったはず。
「え~、あんなに可愛いのに。そういうことは言わないの、琉人くんって?」
何が「可愛い」だ、相手は敵なんだぞ、と詩都香は口を尖らせた。
とはいえ、たしかにゼーレンブルン姉妹はなかなかに可愛らしい、とは詩都香も思う。ハーフらしく、顔立ちは整っている。背中の半ばまで届く、夜目にも輝いて見える金髪がよく似合う。二人の髪は若干色合いが異なるが、左右対称にそれぞれ一房ずつ結っていて、そちらの方が見分けるポイントとなっている。右に結っているのがノエシス、左に結っているのがノエマだ。偉そうに“フォン”がついていることから、日本で言えば旧華族の家庭で育てられたものと思われるが、そのせいか、口調や戦闘スタイルはともかく、所作にどことなく品があるように感じる。
次はどんな老練な魔術師がやって来るのかと身構えていた詩都香など、拍子抜けして思わずつぶやいてしまったものだ。
――なんでこんな萌えキャラみたいな女の子たちと戦わなきゃいけないの、と。
「まあねぇ。姉弟ってそんなもんじゃない?」
魅咲はどこ吹く風。伽那も魅咲も一人っ子のくせに、適当なことを言う。
こうして、少女たちの反省会はいつ果てることもなく続いていくのだった。