1.
「お前はいつだって私の予想を裏切るな。こんな所にいるだなんて思いもしなかったぞ」
奈緒が話しかけてきたとき、詩都香は薄暗い海面に浮かぶウキを睨んでいた。時刻は午前六時前。他の部員たちは、まだ布団の中で太平楽のはずである。
「宿で道具を貸し出してましたので」
よくここがわかったなぁ、と詩都香は思わず感心してしまう。
「――早朝から制服姿で釣りをする女子高生か。なかなかシュールな光景だな」
「そうですか?」
奈緒の言う通り、詩都香はハゼ釣りをしていた。一番手軽なウキ釣りの仕掛けで、リールはない。四・五メートルのカーボン製万能竿ともども、宿舎から借りてきたものである。海の近くだけあって準備がよかった。ただ、せっかくここまで来たのだから、と釣り船を雇って沖に出る者が多いらしく、駿河湾に向かって伸びる突堤の上の釣客はまばらだった。
「このシチュエーション、太公望に声をかける文王といったところか」
それは自己評価高すぎだろう、と詩都香は内心苦笑する。太公望扱いされるのはやぶさかではないが。
椅子代わりのボストンバッグから立ち上がり、仕掛けを引き上げてエサの切り身がついているのを確認する。そうしてから、背面でハリスを引きながら竿を振り、再度キャスティング。“タスキ振り”と呼ばれる投入法である。普段は座ったままでの“回し振り”が主だが、奈緒が傍にいるので危なくてできない。
「おおおっ、慣れたものだな。この分だと、自分のスカートを引っ掛けてサービスとかも期待できないか」
「変な期待しないでください」
詩都香は脱力してボストンバッグの上に座り込んだ。
「エサは何だ?」
「そこの小箱に入ってますが、見ない方がいいですよ」
そんな忠告を聞きもせずに箱を開けた奈緒が、「ぎょええっ!?」と声を上げて箱を放り出した。心の中の「釣餌」カテゴリーにしまって蓋をしている詩都香とて、多毛類はやはり見て気持ちいいものではない。
「す、すまん、高原。エサをぶちまけてしまった。回収してもらえるだろうか」
珍しくおずおずと奈緒が言うので、詩都香は少し微笑ましくなって、それでもこみ上げる不快感をこらえながら、防波堤の上に飛び散った“奴ら”をつまみ上げて餌箱の中に戻した。
「すまなかった。もう邪魔はしない」
奈緒は詩都香の隣にしゃがみ込んで黙ってウキを見つめ始めた。詩都香としては、おとなしくしている奈緒の方が違和感を覚えてしまうのだが。
「部長」
「なんだ?」
「わざわざこんな所まで何をしに?」
「海から上る日の出でも拝もうと思ってな」
「ここは『西』伊豆の海岸ですよ。後ろの天城山系にでも登ってきてください。それにもう日の出時刻過ぎてます」
「これは手厳しい。しかし相手に逃げ道を与えようとしないその態度、私は好きだが、人により場合により対立を生むぞ」
「部長は逃げ道があろうがなかろうが、なんだかんだでのらりくらりと逃げちゃうじゃないですか。……話があるんですよね?」
「バレバレか」
奈緒が足元の石をぽちゃんと海面に投じる。おいおい、邪魔はしないんじゃなかったの、と詩都香は眉根を寄せた。
「昨夜の魅咲との喧嘩のことですよね」
「……ああ。というか、お前だってそれで気持ちが落ち着かないからこんな朝早くからウキを眺めているんだろう? お前と相川に喧嘩してもらえるなんて、三鷹は幸せ者だな」
こちらのこともバレバレか。誠介のことが全てではないが、結局そこに行き着くのは確かである。
「三鷹とつき合う気はあるのか?」
詩都香は少し考えてから首を振った。
「……今のところはありません」
「ふむ、まあそうだろうな。なんにせよ一度、相川が先に決着をつけなければいけない、お前はそう思っているんだろう?」
「……はい」
「だけど、それと昨日の喧嘩は別だ。そう思っているのなら、やっぱり言うべきじゃなかったな、あの言葉は」
爆発したのは魅咲だし、雷管を込めたのは琉斗とノエマだったが、スイッチを押したのは間違いなく詩都香だ。
「わかってます。ていうか部長ってば、盗み聞きしてたんですか?」
「いや、布団に入った後で相川に聞いた。ちゃんと話してみるといい奴だな、あれは」
「魅咲に変なことしてないでしょうね」
詩都香は横目で奈緒を睨んだ。
「おいおい、そこまで信用がないのか、私は。――ええと、その、なんだ、相川はものすごく悔やんでいたぞ」
『あたしの気持ち、全部詩都香に見抜かれてました』魅咲はそう奈緒に語ったという。『それなのにあたしは誠介と詩都香をくっつけようとしてたんです。たぶん詩都香は、そんなあたしのねじくれた心さえ把握してたのに、なのにあたしは偉そうに説教して、しかもそれを指摘されるとひっぱたいちゃって……もうどんな顔して詩都香の前に立てばいいのかわかりません』と。
「…………」
詩都香は黙ってウキを見つめていた。
奈緒の言う通りだ。詩都香はたった一言で魅咲の逃げ道をふさいでしまった。
「まったく。鋭かったり鈍かったり、お前は厄介な奴だな」
「……わたし、どうしたらいいんでしょう?」
「根本的な解決にはならないが、一番冴えたやり方は、昨日の口論自体をなかったことにして今まで通りにつき合うことかもな。相川がそれに合わせてくれるかはわからないが」
「問題から目を逸らして逃げるっていうのも一つの手、ってことですね」
「どうしてお前はそうネガティブな言い方をしたがる。解決を時間に委ねるということだ。いずれにしろ相川の出方次第だな。今日はお互い頭を冷やした方がいいかもしれない。相川は私たちと回ることにして、お前は松本さんと一緒に行動するか?」
「……そうですね、そうします。ていうか、調査の方はいいんですか?」
「いいとも、いいとも。もともと名目だけの調査だ。明日以降でも構うまい」
「そんな適当な。……今、魅咲は?」
「お前と同じくあまり眠れなかったみたいだ。体を動かしてくると言ってジョギングに出た。あのペースなら今頃石廊崎で朝日を拝んでいるかもな」
くっくっ、と奈緒は喉の奥で笑った。
と、そこで、波間にたゆたうウキがそれまでにないリズムで微動したかと思うと、すっと沈んだ。詩都香は慌てず焦らず、少し間を置いて手首のスナップでアワセる。ヒットだ。
「おっと、かかりました」
「ほお、私は生で魚が釣れるのを見るのは初めてだ」
奈緒も腰を浮かせた。
詩都香とて別に釣果を期待していたわけではないが、ヒットすれば嬉しい。適当に引きを楽しもうと立ち上がる。
が――
「お? おおおお!?」
いきなり海に引きずり込まれそうになった。この引きはハゼではありえない。なんとか重心を取り戻して踏ん張りながら、奈緒に向かって叫ぶ。
「部長! タモ、タモ!」
「タモって何だ? 木材か?」
「そこのっ、手網です!」
リールがない万能竿では少々厳しい相手だ。だが、こういうことも想定されていたのか、ミチイトはハゼ釣りにはオーバーな二号、ハリスも一・五号である。無理をしなければそう簡単には切れない。向こうの疲れを待つのが得策である。
「おわわわわっ」
また引きずり込まれそうになった。防波堤の縁の出っ張りに両脚をかけ、後ろに体重をかけて耐える。
「見ちゃおれん」
奈緒が後ろから詩都香の腰の辺りに片手を巡らせた。詩都香は奈緒が変な所に手を回すのではないかと警戒したが、奈緒は真面目に体を支えてくれた。
大物といってもマグロやサメではないのだ。さすがに高校生二人を引きずり込む力はないらしい。二十分近い格闘の末、どうにかその銀に輝く魚体を引き上げることができた。
「なんて魚だ?」
両手で支えたタモの中でぴちぴち跳ねる銀色の魚を、奈緒が息を整えながら観察する。体長は八十センチ近い。奈緒以上に疲弊した詩都香は、息を荒げたまま口を開いた。
「す、スズキですね。シーバスです。ハゼ釣りをしてるとたまーにかかることがあるって聞いたことありますけど、釣り上げたのは初めてです」
「スズキというと、三国志で曹操が左慈に所望したあれか?」
詩都香は思わずふにゃふにゃと笑ってしまった。スズキと聞いてなぜ最初にそのエピソードが出てくる。
「あれは別物らしいですよ」
「じゃあ、熊野詣の途中で平清盛の船の中に飛び込んできたというあれか。清盛と同じく、熊野権現の吉兆だといいな」
「熊野は対岸百八十キロです」
「海はひとつだろう。細かい奴だな。なら、浅間大菩薩でもいい」
そう言って奈緒は右手を指した。少しずつ高度を上げてきた太陽が、朝もやを貫いて聳える富士の威容を浮かび上がらせていた。それならありか、と詩都香も納得する。
「……でだ。どうする、これ? お前、魚捌けるか?」
と、奈緒の指が今度は手網の中の魚に向けられる。
「捌けますけど、宿の厨房は貸してもらえないでしょうね」
だいぶ消耗させたので、リリースもかえって残酷かもしれない。
「まあ、宿で釣具を貸しているくらいだ、釣って帰った魚を料理してくれるくらいのサービスはあるかもしれない。ダメだったらその辺の魚屋にお願いするか」
奈緒が携帯で宿に電話をかけた。
先方は快く了承してくれ、郷土史研の一行には朝食にあらいとムニエルがついた。
※
午前九時五十分。私たちは駅の北口で落ち合った。
「待った?」「いや全然、俺も今来たところ」――などというベタな会話を交わすこともなく、二人とも時間十分前に、ほぼ同時に待ち合わせ場所に着いた。
「あれ? なんで制服なんだよ」
だから、高原くんの第一声はそんな身も蓋もないものだった。
「生徒手帳に書いてあるじゃない。『休日の外出の際にも本校の生徒であることを自覚すべし、よって制服着用が望ましい』って」
「んなもん誰も読んでねーって」
高原くんが口を尖らせた。もちろん私も真に受けていたわけではないけど。ひょっとして、私服姿を期待されていたのだろうか?
……まあいい、これは自分への戒めなのだ。浮かれるな、という戒め。ついでに言えば、変にはしゃぐ姉さんへの反発もある。
一部の新幹線も停まる京舞原東駅は、なかなか立派なものである。思えば姉さんと私も、この駅のホームにて京舞原での第一歩を記したわけだ。少し感慨深いものがある。
――新幹線って仰々しいもんだねえ。ICEみたいなもんだって聞いてたけど、わざわざ専用の線路を走るんだ。
ホームに降り立った姉さんの第一声がそれだった。
「だからこそ、ICEほど遅れたりしないんでしょう」
フランクフルト国際空港でバタバタしたのを思い出す。私たちが旅慣れぬせいもあるが、電車の延着が一番大きく響いた。
「お、街が見える!」
姉さんは歓声を上げ、ガラガラとスーツケースを引っ張りながら壁際に駆け寄った。私はその背を追った。
壁面はガラス張りで、高架式のホームからは京舞原の街並が望めた。
「見てよ、エマ! 海だよ!」
私たちが降りたホームは南西方向に面していて、姉さんの言うとおり、ガラス越しに一キロほど先の海が見えた。地図は頭に入れてきたが、実際に見るとまた別物である。姉さんの口からこぼれたドイツ語も大目に見てあげることにした。
「う~んっ、なんか燃えるねえ。ね、ね、もっと近づいてみようよ」
「先にマンションとやらに行って荷物を置いてきませんか?」
「駅のロッカーにでも預けときゃいいでしょ。ほら、早く」
姉さんに引きずられるようにして、私も結局海岸に足を運ぶ羽目になった。
あの時、堤防の上に立って傲岸に太平洋の彼方に目を向けていた姉さんは、果てしなく広いあの眺望に、これから始まる新生活を重ね見ていたのかもしれない。
――だけど私は、その漠たる海原に、むしろ不安の方を強く感じたのだった。
私たちは駅の構内を抜け、南口に出た。目指すはこの先のショッピングモールに併設されたシネコンである。
「泉って、向こうでもよく映画観に行った?」
「ううん、全然。一度も入ったことない」
マジかよ、と高原くんは驚いた様子だった。
「姉貴が言ってたけど、向こうは映画安いし映画館もたくさんあるんだろ?」
「そうみたいだけど、うちは田舎だったから……」
姉さんはその辺も勝手に設定してクラスメートに話して聞かせているかもしれない。余計なことを口にしないように気をつけなければならなかった。
「それじゃあ、今回が泉の映画館初体験か。俺となんかでよかったのかな」
「そういうのいいから」
くすくすと笑ってしまった。
上映時間まではまだ時間があるので、モール内の書店で暇を潰すことにした。開店直後だけあって、客の姿はまだまばらだった。
「私でも楽しく読めるのって、何かあるかな?」
文庫本コーナーの棚を覗きながら、傍らの高原くんに尋ねてみる。
「なんだぁ? 泉って、本とか読むのか?」
「日本語の読み書きにもっと上達したくて。この間、高原くんにバカにされたし」
「お前って結構根に持つ性格なのか? ……あ、これ今日観る映画の原作らしい」
『ついに映画化』というポップの下から、高原くんが平積みにされていた一冊の文庫本を手にとって示した。厚さから察するに、五百ページ近いだろう。しかも上下二巻本である。
受け取ってページを開けば、目がチカチカするような細かい活字がぎっしり詰まっていた。カタカナのルビが振られた専門用語もそこかしこに散りばめられている。
「無理」
私がそっと本を戻すと、高原くんがニヤニヤと笑う。
「なに?」
「いや、くくっ、泉って真面目な優等生っぽいのに、活字が苦手なんてな、って」
「活字が苦手なわけじゃないよ、もう」
「ま、これは純正日本人の俺でも尻込みするけどさ。こういう軽い感じのミステリならどうだ? ドラマになったやつ」
高原くんが指したのは、すぐそばに積まれていた別の文庫本だった。剣呑な軍用機のイラストが描かれたさっきのものと違い、ドラマ版のキャストと思しき俳優たちが表紙を飾っている。
その本を手にとり、最初の方のページをめくってみた。
「……うん、まあ、これなら。でもミステリって、筋さえつかめればそれで楽しめちゃうし、文章を細かく味わう感じにならなくない?」
高原くんは呆れた顔をした。
「ミステリだって読めば面白いしレベル高いぞ。最近はもう犯人だの謎解きだのがオマケみたいな、ブンガクと遜色ないのが多いし。それにそういうゴタクは『手』の書き順くらい覚えてから言えよ」
そんな風に諭されると、ぐうの音も出ない。おとなしく薦められた本をレジに持っていった。
「高原くんはどんなの読むの?」
会計を終えて店を出る際にそんな質問をしてみた。
「俺? 俺は本なんて全然読まないよ。漫画くらいかな」
……さっきのゴタクは何だったんだ。
そろそろいい頃合いだろう、と私たちは映画館に向かって歩き出した。
「あー、本といえばさ」と、高原くんが前を見ながら口を開いた。「お前、休み時間とかによく本読んでるじゃん。ドイツ語?」
「ドイツ語とか英語とか。私だって活字くらい読むんだから」
少し胸を張って答える私。
「根に持つなって。――あのさ、ものすごいおせっかいかもしれないんだけど、もし、もしさ……いや、やっぱやめよう」
高原くんは小さく首を振った。相変わらずこちらを見ない。どうも言いづらいことのようだ。
しかしそれではかえって気にかかる。
「どうしたの? 言ってよ」
「……いや、もし、俺――クラスのみんなのと話すのが嫌じゃなかったら、少しだけ控えた方がいいかも」
意表を突かれる言葉だった。
「どうして?」
「だって……やっぱお前は特別なんだ、って意識しちゃう。壁作られてるみたいだ」
「お前は特別なんだ」――違う、都合のいい箇所だけ切り取ってる場合じゃない。
私は動転していた。そんなつもりは毛頭なかったのに。
「そんな、だってあれは……」
「どういうの読んでんの?」
高原くんがやっと私の顔を見る。
今度は私の方が視線を逸し、うなだれながら答えた。
「……日本についての本。……みんなに早く追いつきたくて」
それを聞いた時の高原くんの顔と来たら。写真に撮って残しておきたいくらいの屈託のない笑顔だった。
「ははははっ、そうだったのか。いやいや、そんなのわかんなかったら俺らに訊けっての。ほんっとばっかだなー、泉は」
「『右』と『左』の書き順もわからない高原くんに言われたくないよ」
ああ、憎まれ口を叩いてしまった。
だって……。
――だって、もう彼の顔をまともに見られない。




