3.
※
(ヒーロー業が世間に認知されてたらいいのに……)
ついでにスポンサーでもついて欲しい、と詩都香は思った。
私立水鏡女子大学附属高校の授業は一日六時限。一時限は六十五分。その内の半分以上を寝倒し、さらに不覚にもそれが教師にバレてしまった詩都香は、放課後に担任の綾乃に呼び出されてまたもやお説教をもらってから、重い足をひきずるようにして部室に向かった。なんだか昨夜から叱られてばかりな気がする。
「失礼します」
部室に入った詩都香を待っていたのは、昨日の放課後と同じく机に向かう部長の吉村奈緒ひとりだけだった。
「やあ、高原。ちゃんと来たな。まあ座れ」
詩都香の顔を認めるや、奈緒は立ち上がって出迎え、長机の一隅に座らせた。そして自分もその隣の席に腰を下ろす。
「ま、話というのは昨晩のことなんだが」
「はい……」
予想はしていた。
「綾乃ちゃんは言ってたぞ、職員室に部室の鍵を返しに来た高原に会ったって。その後部室で寝ていたという高原の話、昨日もらった電話では、綾乃ちゃんはほとんど疑っていなかったようだが――」
「綾乃ちゃん……?」
思わず口を挟む詩都香。
「おっと、知らなかったか? 北山先生は私の“エス”の一人と噂されているはずだが」
「はぁ?」
確かに教職員との関係も噂される奈緒ではあるが、そのお相手が自分の担任だとは、さすがに想像の埒外だった。
混乱する詩都香を余所に、奈緒の一人芝居が始まった。
『大丈夫だよ、綾乃ちゃん。高原はそんなヘマはしない』『で、でも。高原さんが誘拐されていたりしたら、ちゃんと送り届けなかった私は、責任を問われて……』『平気さ、その時には私が綾乃ちゃんを守ってあげる』『吉村さん……、『綾乃ちゃん、誰も聞いてやしないよ。いつもみたいに呼べばいい』、『は、はい。お姉さま……』、『それでいいんだ。職を失うのが怖いだなんて、綾乃ちゃんらしくないな。身分を忘れて私にすがりついてきたあの子はどこに行っちゃったんだい?』『や、やめてください。恥ずかしい……お、お姉さま』『いいんだよ、もしもの時は私にだって責任の一端がある。うちの家が信濃追分に別荘を持ってるんだ。ほとぼりが冷めるまで、そこで二人で過ごさないか』『えっ?』『碓氷峠にもほど近い。綾乃ちゃんが憧れていた、帽子を飛ばされるあのシチュエーションも、いつだってできるんだよ。薬売りは通りかからないと思うが』……
「――と、このように、お前の所属するこの部の部長である私に連絡が来たわけだ。綾乃ちゃんを安心させる一方で、私も嫌な予感を覚えて夜の街へと飛び出したわけだが」
(な、なな、なーにがわたしの所属する部の、だ! 北山先生ってば、わたしをダシにして、ただ部長にすがりついただけじゃない!)
というか、詩都香がかどわかされたのが前提のように話が進んでいる。途中から聞いていられなくなって、詩都香は逃げ出したくなった。奈緒に襟首を捕まえられていなかったら、実際にそうしていただろう。
いやでいやで仕方なかったが、このままではいつまでも終わらなさそうなので詩都香は口を挟んだ。
「――で、わたしに話って何なんですか、部長?」
「おお、そうだったな」
奈緒は再び部長席の椅子に腰かけた。
「さて、と。高原」
「はい」
机の向こうの奈緒の雰囲気が変わった。少し気圧されそうになりながら、詩都香は頷いた。査問委員会か何かか、と思いながら。
「みんなは誤魔化せたようだが、綾乃ちゃんはそうもいかんぞ。彼女は抜けているようでいて、違和感をいつまでも抱えているタイプだ。何かの弾みで思い出してしまうかもしれん」
「あ、ええと……」
詩都香の話が創作であることが見破られているのは、明らかだった。
「部室の鍵を返して帰ったはずの高原が部室で寝ていた――おかしいよな? 顧問には鍵の返却があった際に部室の施錠を確認する義務がある。うちの顧問の高橋先生は真面目な人だから、怠らなかったはずだ。では高原はいったいどうやって部室に入ったのか。綾乃ちゃんはその内きっとこの疑問に思いいたるだろう。……というわけで、この状況を矛盾なく可能なものにするために、私はこんなものを用意した」
そう言って再び立ち上がった奈緒がスカートのポケットから取り出したのは、鍵だった。
「何の鍵です?」
歩み寄ってきた奈緒の手の中の鍵を見つめ、詩都香は首を傾げた。見覚えのある形状ではある。
「もちろん、この部屋の鍵だとも。合鍵だ。先手を打って綾乃ちゃんと高橋先生に話すことにした。私が勝手に作った合鍵を高原に渡していた、とな」
「でも、部室の鍵の合鍵を作ることは……」
「そうさ、一応禁止されている。だけどあくまで一応であって、徹底されているわけではない。顧問が部員に合鍵を配っているところもあると聞く。だから、問題にはなるだろうが、そんなにキツく叱られることはないだろうし、綾乃ちゃんはかばってくれるだろう」
最悪でも私が停学になるくらいで済むさ――などと奈緒は嘯いた。
「……そんな、部長。悪いのはわたしなのに」
「でも、これが一番ベストな解決策にして予防策だろう。高原にも何か事情があったのはわかっている。それを他人には言えないことも。男との密会とかではない、と信じているが」
詩都香は胸がいっぱいになって、なかなか言葉が出せなかった。
「ぶ、部長、わたし……」
「なぁに、部員のしたことの責任をとるのは部長の役割だろ。私は『被害者の所属する部活の部長』とかいう字幕つきでテレビに出ずに済んでほっとしているんだよ」
気がつけば詩都香は奈緒に抱きついていた。説教続きで気が弱っていたのかもしれない。
「……おおっと。珍しいな、高原」
「す、すみません」
茶化されながらも、離れない。涙の滲んだ両目を見られたくなかった。
「役得だな。まあ、なんだ。泣きたくなることがあれば、いつでも来るといい。私でよければ胸を貸すぞ」
バレていた。しかもデリカシーがない。それでも詩都香はしばらくそのままの体勢でいた。
「……ところで部長――」
気分を落ち着け、奈緒の胸から顔をもぎ離してから、詩都香は口を開く。
「なんだ?」
「その合鍵、昨日の今日で作れるものじゃありませんよね? 昨日はわたしが確かに職員室に返しましたし、このために用意したものじゃないんでしょう?」
「さすが高原、気づいたか。実は以前から逢引に適当な場所として、この部屋を……」
詩都香の顔面が一気に耳まで紅潮した。もちろん怒りで。少しでも感激した自分が馬鹿だと思った。
「――部長のバカ! 恥知らず! 信じらんないっ!」
しかし奈緒はどこ吹く風だ。
「そう怒るな。遠方から通ってくる子も多いし、場所には気を遣うんだ。しかし、私の不実さを詰ってくれるということは、脈ありと見ていいのかな?」
「あるわけないでしょうっ!」
詩都香は鞄を引っ掴んだ。これ以上の長居は無用である。
「だけどな、高原。これだけは覚えておいて欲しい。お前のことを心配する人間は、お前が思う以上に多いんだぞ。危ない橋を渡るなとは言わないが、もっと気を配った方がいい」
ぷりぷりしながら部屋から出ようとしていたところで、その背に向かって奈緒が言った。
詩都香はその言葉を突っぱねることができず、かといって今さら振り返るのもためらわれたので、部室の外に体を半分出した体勢で軽く頭だけ下げた。
「うん、じゃあな、高原。そろそろ文化祭に向けた準備も本格始動だ。他の部員にも召集かけるから、明日も来いよ。松本さんも一緒にな」
詩都香はもう一度だけ頭を下げてから、後ろ手に扉を閉めつつ部屋を辞した。
※
放課後。帰り支度をしていると、後ろの席の水野さんが背中をつついてきた。
「ね、ね、恵真。今日映研見学に来ない?」
「え? えーと……」
また突然だ。今までしばらく部活が禁止になっていたので、気持ちはわからないでもないが。
「ごめん、今日は姉さんと用事があって……」
嘘を吐いて断ってしまった。
そもそも、私はいつ日本を離れるかわからない身なのだ。もし部活に入って、本当に何らかの役を任されたら、そして急にドイツに帰ることになったら、大きな迷惑をかけてしまう。
……というのは後からつけた理屈だ。ただ単純に、部活などという新しい人間関係に入っていく勇気がなかっただけである。
「ふーん、そっか、残念。ならまた今度ね。えーと? お・るぼわーる?」
「えっ? ……うん。さようなら、また明日ね」
「やった、通じた!」などと顔に喜色を浮かべて、水野さんは教室を出ていった。
どこで覚えたんだろう? 映画か?
……ま、今のはドイツ語じゃないけど。
帰り支度を終えた私は、鞄を手に席を立った。
姉さんと用事があるというのは嘘だけど、何もなければいつも一緒に帰っている。今日は呼びに来てくれなかったので、まだホームルーム中なのかもしれない。
教室を出る前に、ちらっと中を振り返る。高原くんはもういなかった。荷物もないし、帰ったのだろうか。
三つ隣の姉さんの教室に近づくにつれ、中からおしゃべりの声が聞こえてきた。ホームルームはもう終わっていたようだ。
耳を済まさなくとも、おしゃべりの中心に姉さんがいるのがわかった。寄り道の相談をしている。どうやら今日は級友たちと遊んで帰るらしい。
これまでもしばしばこういうことはあったけど、少し寂しさを覚える。ただその寂しさが、姉さんと一緒に帰ることができないことに由来するのか、それとも姉さんと違って自分には一緒に帰る相手がいないことに由来するのか、判然としない。あるいはその両方だろうか。
姉さんの携帯に『先に帰ります』とだけメールを送ってから、私は中から見られぬようささっと教室の前の廊下を通り抜けた。
自由というのはやはり重い。城を出た姉さんと私は、今までほど互いを束縛することができなくなっていた。
私は姉さんを繋ぎ留めておくことができない。では、姉さんの手を離れた私は……?
教室内で響いたひときわ大きな笑い声が背を追ってきた。
※
昇降口で靴を履き替えていると、話題に上ったばかりの松本由佳里がやって来た。待ち伏せを疑ってしまうようなタイミングだった。
「高原さん、バス停まで一緒に帰りましょう。郷土史の研究のこと、教えてください」
詩都香としては否やはなかった。好きなこととなれば饒舌になる彼女である、この街の歴史の面白さと、地域史研究の重要性を説いていると、あっという間に校門を出ていた。
校門の外には二人の女子生徒が立っていた。髪の毛を右側頭部で黄色のリボンでくくった相川魅咲に、栗色のセミロングがふわふわした雰囲気の醸成に一役買っている一条伽那である。
二人とも詩都香の下校を待っていたのだろう。
「奇遇ですね、相川さん、一条さん」
そうお辞儀をする由佳里の声色には若干の棘が感じられたが、魅咲も伽那も、明るく挨拶を返すと、何食わぬ顔で合流して歩き出した。
「だからね、教科書に載ってるようなナショナルヒストリーももちろん大事なんだけど――」
周囲のぎくしゃくした雰囲気に息苦しさを覚えつつも、いや、むしろそれだからこそ、詩都香は一度始めた講義をやめられなかった。
バス停で由佳里と別れ、二人と連れだって駅の方へ向かう。
「今度は委員長かぁ。詩都香にはノンケでいて欲しいのに。誠介が可哀想じゃない」
「モテるねぇ、詩都香」
仏頂面を浮かべる詩都香を挟んで、左右から魅咲と伽那が冷やかす。
「そんなんじゃないっつーの。昨日ちょっとお話しただけだってば。吊り橋効果か何かで、一時的なもんでしょ」
「にしても詩都香って、ほんと変なところでモテるよねぇ。吉村先輩の後を継ぐのは詩都香なんじゃないかって声もあるみたいだけど」
後頭部に回した両手で鞄を持ちながら、伽那が言う。
「冗談! あ、あんな人の……っ!」
本気で嫌だ。
その剣幕に、魅咲と伽那は顔を見合わせた。
「何かあったの?」
「あちゃあ、とうとう手籠めにされちゃったってわけ?」
「ばっ、ばかっ! 魅咲、下品なこと言うなっ」
さっきのは一時の気の迷い、そう詩都香は結論づけ、自分に言い聞かせた。
それにしても、と詩都香は思う。
(この三人で集まると、なんでいっつもわたしがいじられキャラにならなきゃなんないの……)
――そういうんじゃなくて、わたしはもっと知的でクールな……。
ぶつぶつ言い始めた詩都香を間に挟み、魅咲と伽那は自然に駅前の大通りに向かって足を進めた。
――今日はどこに寄っていこう?
放課後。なんといっても彼女たちの時間だ。




