6.
※
何か想定外のことが起こっているようだ。私たちは高原の〈モナドの窓〉の反応が消えた地点へと向かうことにした。
「まったく。変なドジ踏んだんじゃないでしょうね。今日の「家政婦はミタ」、生で見られないかもしれないじゃない」
姉さんの独り言を背に受けながら、ドアに施錠。オートロックの玄関をくぐり、ひとまず外に出る。
向かうべき場所は市の地理的な中心部。魔法で身体能力を強化しても、徒歩で行くには少し辛い距離だ。
「飛んでいきますか?」
「そだねぇ。――お?」
やはり誘拐事件の影響が及んでいるのか早々と人通りの絶えた道を、誰かがこちらに向かって走ってくる。顔はよく見えないが、背は高い。男性のようだ。
「お~い、そこのシスコン!」
向こうがこちらに気づくよりも先に、姉さんが声をかけた。それを聞きつけて小走りに駆け寄ってきた彼の顔が、マンションの前の照明灯に照らされた。
高原くんだった。初めて見る彼の私服は、ジーンズと黒いシャツというラフなものだった。
歯磨きしておいてよかった、と私はひとり胸をなで下ろした。
高原くんは汗びっしょりだった。屈めた膝に両手を突いて上体を支え、息を整える。
「へ、変な呼び方すんなよ……」
ようやくのことで、彼は抗議の言葉を絞り出した。
「どうしたんですか?」
少しずつ落ち着きを取り戻していく呼吸の合間を見計らって、尋ねてみた。
高原くんは服の袖で額の汗を拭いながら、顔を上げた。
「……ああ、なんか姉貴が帰ってこなくってさ。誘拐事件のこともあるし、さすがにちょっと心配で、心当たりをな」
「やっぱシスコンじゃない」
姉さんがじと目になる。
「いやいやいや。仕方ないだろ、こんな物騒なご時世なんだしさ」
高原くんはふう、と大きめに息を吐いた。だいぶ回復したようだ。
「心当たりって、この辺にお姉さんの知り合いでも住んでいるんですか?」
「……いや、プラモ屋。姉貴の行きつけの。行ったらもう閉まってたけど」
答えに躊躇があった。高原くんは姉の趣味にあまり感心していないようだ。
そういえば近所に、星のマークの看板を掲げたお店があったかもしれない。
「あ、お前ら姉貴見てないか? ……っても、わからないよな。えーと、ミズジョの制服着てて、もっさい髪を長く伸ばしてて、堅物そうな女。身長はお前らよりちょい高いくらいで……百六十あるかないかくらいかな? 痩せ形で貧乳体型。仏頂面浮かべて、女にしては速いスピードでせかせかとこの辺歩いてるのがいたら、たぶん姉貴だから」
説明されるまでもなく、よく知っている。それにしても、容姿だけならかなりレベルの高い高原姉に対して、ずいぶん悪意の感じられる描写だった。姉さんからシスコン呼ばわりされたせいもあるのかもしれないが、兄弟ってこんなもんなんだろうか。
「美人?」
姉さんが尋ねた。
「う~ん……」高原くんはちょっと考える素振を見せた。「身内だからよくわからないけど、どちらかといえば、まあ、そこそこかな」
即答しないのが、逆にわざとらしい。なんとなく姉さんの言い様が理解できた。
「ごめん、あたしたちは見てないな」
姉さんのその言葉は嘘ではない。情報を隠してはいるけれど。
「そうか……。ところでお前らはなんでこんな所にいるんだよ」
危ないだろ、と気遣いを見せてくれる高原くん。
「……ああ、うん。恵真が予定よりも早く急に始まったから、そこのコンビニまで買いにね。家のストック切らしてたし」
「んなっ!?」
さらっと言ってのけた姉さんの、そのあまりの誤魔化し方に、私は二の句を継げなかった。なんてことをおっしゃる。
「そ、そっか……」
高原くんは気まずげに頬を掻いた。姉がいるだけあって、言葉の意味が飲み込めたらしい。
――いや、何か言ってよ。……いや、何か言われても困るよ。
私は結局何も言えなかった。もう、これじゃ姉さんの言葉を肯定しているみたいだ。
少しの間漂ったどうしようもない空気を振り払い、高原くんは携帯を取り出した。
「あ、よかったら連絡先交換しないか? 姉貴を見かけたら連絡欲しいし」
と、そこで思い出したように、二、三度ボタンを操作してから、ディスプレイを私たちに示す。
「そうそう、これが姉貴な」
高原詩都香と一条伽那のツーショット写真だった。照れて引きつったような笑みを浮かべる高原姉に抱きつき、カメラに向かってこちらは満面の笑顔を向ける一条。親友の背に回された右手でピースサインを作っている。
「どっちですか?」
そう尋ねてみた。本当は知っているんだけど。
「左の、暗そうな方。右のは姉貴の友達」
またそんな言い方をする。
「なんだ、美人じゃない」
姉さんの下した評に、高原くんは「そうかぁ?」などと鼻をひくつかせた。別に否定するところではないだろうに、男の子というのは変なところで意地っ張りだ。
「よし、お姉さんの顔覚えた」
「んじゃ、連絡先交換しようぜ」
高原くんが携帯を取り出し、私もそれに続く。私が赤外線で二人分のデータを送信し、向こうからも受け取った。
「うん、来てる。じゃあ、俺が姉ちゃんの方にワンギリして――」
「あーもしもし」
「って、出るなよ! 通話代かかるだろうが!」
姉さんの悪戯にツッコんでから、「メアドの方は泉の方から姉ちゃんに送ってやってくれ」と言い残し、高原くんは慌しくまた走り去っていった。
「お姉さん想いなんですね」
「ああいうのはね、シスコンって言うのよ」
このやり取りも二度目な気がする。
高原くんの背を見送ってから、私と姉さんはマンションの脇に設けられた駐輪場に足を踏み入れ、〈モナドの窓〉を開いた。次いで、飛行の魔法を行使する。
「行きますか」
「そだね」
私たちは同時に地面を蹴り、飛翔した。
※
詩都香は奈緒を抱えて南棟へと戻ってきた。
魔力を探知に回したところ、南棟の二階から、微かな、しかし異様な気配が漂っているのを感じ取ったのだ。
満月を過ぎてもまだ丸みを帯びた月が、薄汚れた窓ガラスを透して浅い角度で青白い光を投げかけ、軋む階段を上る足下を照らしてくれている。なんとも頼りない光量だが、今の詩都香には十分だった。
二階に上がると、やや広い廊下が南側を通り、それに沿って幾つかの部屋が中庭に面した北向きに作られていた。
ボロボロに劣化したタイル張りの床を、二人分の体重を支える二本の足が踏みしめていく。気配は近い。
「医院長室、ね……」
その部屋にかかるプレートには、旧漢字でそう記載されていた。
両手がふさがっているため、念動力を発動させて扉を開けた。鍵がかかっていたが、面倒なので強引にドアノブごと破壊した。
軋みを上げて開け放たれた扉の向こうは、先ほど脱出してきた霊安室くらいの、わりと広めの部屋だった。その真ん中に、誰かが立っていた。
詩都香は目を凝らした。霞のように実体の把握しづらい人影だった。おそらく、〈モナドの窓〉を開いていなかったら認識できなかっただろう。
『こんばんは、お嬢ちゃん』
人影の方から声をかけてきた。といっても、詩都香に届いたそれは、物理的な音声ではなかった。精神感応と同じく、直接脳裏に響く思念だった。
「……こんばんは。あなたは?」
『室井治彦。――というより、その残骸と言った方が正確かな』
詩都香の声は向こうに届いたようだ。残留思念という奴か、と詩都香は当たりをつけた。
この手の曖昧なものを感知する能力に関して、詩都香にはまったく自信がないが、精神感応を使える今の状態なら感じ取れることもあるかもしれない。――あるいは、室井と名乗った人物が、よほど強い念を抱いていたか、だ。
『そのなり、お伽話に聞いた魔女の恰好そのままだ。魔術師なんだね、お嬢ちゃんは?』
伝わる思念の波長から見て、室井の残留思念は老人の形態をとっているようだった。おそらく死んだときのままなのだろう。
「そう。わたしは魔術師……駆け出しだけどね。それで、あなたはここで何をしてるの? 室井ということは、あなたがここの医院長なんでしょう? あの怪人と無関係とは思えないけど」
『あいつを知っているのか。それは話が早い。そう、お嬢ちゃんの言う通り、あいつは私の作品だ。私があの化け物を作ったんだよ』
「作った? じゃああれは、人工生命体……!」
合点がいった。あの怪人の風貌は到底まともな生物とは思えなかったが、〈夜の種〉とも違って見えた。
『ホムンクルス、と私は呼んでいた。少し長い話になるがいいかな? それから、使えるのなら精神感応とやらを使ってほしい。現世の音を拾うのは、この身にはいささかしんどいものでね』
詩都香は頷き、いい加減腕もくたびれてきたので、奈緒を床に横たえた。この部屋は室井老人が最期まで過ごしていたのだろう、他と比べて埃の積もり方が幾分マシだった。臭いもあったが、あの霊安室に比べれば我慢の利く範囲だ。
部屋の奥にベッドがあるのが辛うじて見えた。その上には干からびた老人の死体があるにちがいない。詩都香は極力そちらに目を向けないようにした。
〈器〉に働きかけて精神感応の準備をする。使う魔力は微々たるものだが、そう頻繁には使用していないので、若干の集中力が必要である。
室井の物語が始まった。
『もうわかっていると思うが、私は医者だった。外科が専門だが、内科も呼吸器科もこなしたものだ。ウィーンとベルリンに留学して医学を修め、帰国してしばらくは修行のために他の病院に勤めてから、生まれ故郷のこの地で開業した。まだ三十代だった。それなりに腕に自信もあった。若気の至りで、世界中の病人を救ってやる、とそんな風に考えていたのだな』
『それでその理想は脆くも打ち砕かれた、と』
詩都香が後を引き取った。
『その通りだ。限りない信頼を寄せていたとはいえ、医学には限界があった。この時代でもそうだろう?』
詩都香は首肯した。
『最初はよかった。私はこれまでの研鑽の成果を遺憾なく発揮した。しかし私の腕が認められ、病院が繁盛していくにつれて、重篤な患者が多く運び込まれるようになった。結果として、毎週のように患者は死んだ。霊安室から遺体が絶える間もなかった。そうしていつしか私は人の死に慣れ、麻痺していった。だが、一方でこうも考えていたのだ。――この私の力を以ってしても救えない病人がこうも多いのは、人間が不完全だからではないか、と』
室井老人は、医者としては恥ずべき考えを淡々と語った。肉体の束縛のない残留思念は正直なのかもしれない。
『それで、道を踏み外した、ってわけ?』
詩都香は容赦のない言葉を念に込めて送った。
『そう、私は道を踏み外した。人の死という運命に、どんな手段を使っても抗ってみたくなった。きっかけは、留学先から持ち帰った一冊の本だった。何の気なしに読み始めたゲーテの『ファウスト』。よくできた作品だとは思うが、内容以上にそこに登場する魔術と……ホムンクルスという存在に心を奪われた。私はファウスト博士と同じく、この道に進もうと考えた。その頃にはもう壊れかけていたのかもしれない。自分の幻想を追うために禁断の知識を得ようと、雇い入れた若い医師たちに病院を任せ、本業そっちのけで世界中から文献を集めた。千冊買って一冊程度だったかな、多少なりとも有益なことが書いてあったのは』
千冊に一冊なら運のいい方だ、と詩都香は思った。〈リーガ〉が幅を利かせるようになってからは、魔法の核心に触れる本はほとんど出回らなくなった。
『最初に思い立ってから二十年余りも知識と技術の習得に努め、ようやく私は自分の〈モナドの窓〉を認識するに至った。それを開き、〈炉〉に点火することができるようになって、世界が変わった。最初の頃は失敗続きだったがね。なぜ急にあちら側からの魔力の供給が途絶えるのか、そしてその途端に頭が割れるように痛み出すのか、さっぱりわからなかった。気絶して私自身が病院のベッドに運ばれたことも、一度や二度ではない。』
『独力でそこまでできたんなら大したもんよ』
詩都香の言葉は慰めというより、素直な賞賛だった。〈フィルター〉をかける技術の習得や〈不純物〉の存在の覚知は、誰かの指導なしに到達するのはほとんど不可能だ。
ぼんやりとした人影が、相好を崩したように感じられた。
『……ありがとう。私は慎重に自分の限界を見極めながら、魔法を医療にも応用していった。私の技術では大したことはできなかったが、それでも死者を減らすことはできた。私はそこで満足すればよかったのかもしれん』
魔法は禁断の果実も同然。使えば使うほど、さらなる高みを目指したくなる。
『だが、より高等な知識を得るため、私はいつしか積極的に魔術を使うようになった。この広い世界に魔術師が自分だけだと考えるほど、私は傲慢ではなかった。切断された手足の接合、潰れた目の再生、当時の技術では不可能なことをやってのけ、しかもそれを大々的に喧伝した。あの組織が接触してきたのはそんな折だった。組織に属して働くか、世の秩序を乱さない程度に魔法の使用を制限するか、それともここで死ぬか、そう迫られた。剣か法かコーランか、という奴だな』
詩都香もつい五か月前に通った道だ。詩都香は迷うことなく“剣”を選んだ。
『私は第二の道を選んだ。医術こそ我が本業という自覚はまだあったのでな。その代わりに私は知識の教授を求めた。人間にとっての不死の知識を。組織から派遣されてきた魔術師はこう答えた――魔術師自身は寿命を延ばすことができる、だが、他人にこの知識を授受することは認められない、と。それでは私の本願にとって無意味だ。私は食い下がった。ならば、生命を作り出す技術を教えて欲しい、と。
相手は呆れていたよ。だが、同時に面白がってもいた。そうした飽くなき知識欲こそが魔術を発展させる、とか。人工生命の技術は、組織の中でもまだまだ未完成なものだったが、私がそれを完成させることが期待された。私は病院をたたみ、建物の周りを結界で覆って研究に没頭した。研究資料を受け取り、最初の試作品が形になるまで二十五年もかかった。それが、あの化け物だ』
『……あなたはあんなものが作りたかったの?』
思った以上に険のある念になった。か弱き存在である残留思念を、それだけで吹き散らしそうなほどに。
『もちろん違う。とんでもない失敗作だった。できたのはただの生存本能を持った細胞の塊だった。それを人型に成型し、自分の魔力を込めた黄紫水晶を埋め込んでみたものの、私は早くも廃棄を考えていた。このホムンクルスには、魂がないのだ。だから、魔力を必要とするくせに、〈モナドの窓〉も〈炉〉も持たない。他人から魔力を供給されなければ死に絶えてしまう。私が作りたかったのはこんな不完全なものではなかった。
……ただ、それでも自分の作品ゆえの愛着もある。最初に与えた魔力が切れるまで生かしておくことにした。多少の魔法が使えるホムンクルスは、私の研究の助手としてもそれなりに有能だった。今思えば、あいつに研究を手伝わせたことが、暴走の引き金になったのかもしれない。乏しい知能しか持ち合わせていなかったとはいえ、自分の生みの親は自分に満足していない、研究が進めば自分は用無しになる、と考えたとしても無理はない。事実私はその予定だったのだからな。そして、そろそろ奴に与えた魔力も切れる頃になって、事件は起こった。こちらの目を盗んで結界を抜け出していたあの化け物が、私のコレクションの魔道具を使って近所の少女を殺害し、魔力を奪いとったのだ。若い少女、特に処女は強い魔力を身に具えているからな』
『魔道具……あのリングね』
“首環”と呼ぶのは何とはなしに背徳的な気がして、詩都香はその呼び方を避けた。
『そうだ。あの首環は中央アメリカから取り寄せたもので、本来医療用の魔法道具だった。装着した者の魔力を根こそぎ奪う。そして半日程度で装着者にそれを返還する。私の低い腕前では、魔法を使った治療が相手の魔力に干渉されることもあるから、重宝していたのだ。装着者は急激な魔力の消耗で気を失うが、あらかじめ麻酔をかけるので問題はなかった。病院をたたんでからはお蔵入りになっていたがね。
あいつはそれを見つけ出し、しかも奪った魔力を自分に補給する術を学習していた。そこで私は決断した。魔力が切れるのを待ったのでは、また遠からず犠牲者が出る。今すぐこの恐るべき化け物を葬らなければならない、と。』
『しかしあなたはそうしなかった。……どうして?』
『情けないことだが、返り討ちにあったのだよ。私はそもそもにして戦闘には不向きだった。そこに私の死体があるだろう?』
詩都香は曖昧に頷いた。見る気にはならない。
『魔法の腕も未熟だった。自慢じゃないが、私が〈モナドの窓〉を開くのには三十分程度の精神集中が必要になる。あの日、いつもの通り私はベッドに仰向けに横たわり、外界からの刺激を遮断して儀式を執り行った。〈モナドの窓〉を開いたら、次は〈炉〉で混沌を精錬し、〈器〉に魔力を貯め込まなければならない。これにも多大な集中力を要する。しかも相手はあの化け物だ。生半可なことでは勝てないかもしれない。集中して精錬した魔力の方がはるかに使い勝手がいいことは、経験から知っていた。
私は〈炉〉に点火し、そのまま魔力が最大限に貯まるのを待った。そしてすべての準備が完了し、目を開けたら、あの化け物の白濁した目がこちらを覗き込んでいたというわけだ。奴は私が〈モナドの窓〉を開いて十分な魔力を貯め込むのを待っていたのだ。何しろ私がいかに未熟な魔術師とはいえ、常人が身に具えている魔力とは三桁は違う量だ。あいつはずっと私の魔力を奪うことを考えていたのだろう。 その手に光るあの魔道具が喉元目がけて振り下ろされるのが、私が生の最期に見た光景だよ』
老人の長い話は終わった。
その後のあらましは想像できる。室井老人を葬った後、ホムンクルスは数十年の間生存できた。しかし、いかに潤沢な魔力があろうと、いつかはそれも尽きる。それを悟った時、彼は再び少女を襲う殺人鬼となったのだ。
『ひとつだけ教えて。あのリングはどうやって外すの?』
『とりたてて複雑なことは必要ない。一定の時間が経って装着者に魔力を返すと自然に外れる。それから、ある程度以上の念動力を働かせても外すことができる。その場合も魔力を返すことになるが、相手はすぐには目覚めない。個人差はあるがね。唯一リングに魔力を宿したままで外す方法は――』
『装着した相手を殺してから外す、ってわけね。それで、あなたはわたしにどうして欲しいの?』
詩都香は尋ねた。半世紀近くの間室井老人の思念がこの部屋に留まっていることから、答えは十分に予想できていたが。
『あいつに殺される時、私が感じたのは恐怖ではなかった。数十年来の宿願を断たれてしまう絶望でもなかった。こいつを野放しにしてしまうこと、それだけが心残りだった。いつかこいつはまた人を殺す――私の張った結界を隠れ蓑に、な。魔力を十分に貯めていたおかげか、それともこの部屋に配置した数多くの黄紫水晶のおかげか、私は自分のこの想いだけは残すことができた。お嬢ちゃんに望むことはただ一つ――あの化け物を滅して欲しい。それだけだ。しかし、私の意向など関係あるのかな、若き魔術師よ。私が何と言おうとお嬢ちゃんはあいつを滅ぼしてくれる、そうではないか?』
「約束する」
詩都香は念波と一緒に口に出して答えた。
『ありがとう。これで私も思い残すことはなさそうだ。肉体を脱け出たとはいえ、老いぼれの思念がこれ以上現世に留まるのも辛くなってきたところだったのでね』
室井老人の残留思念はその言葉とともに薄れていった。詩都香はどんな言葉をかけようかと考え込んだ。
その刹那だった。あの怪人――室井の生み出したホムンクルスが扉を破って部屋に飛び込んできた。さらに詩都香の背後に横たえられていた奈緒の体を引っ掴み、中庭に面した窓を破って外に飛び出す。
詩都香は咄嗟に反応することができなかった。相手の魔力があまりにも微かだったのと、精神感応での会話に集中していたためだ。
「部長っ!」
詩都香も後を追って窓外に身を躍らせた。
『ダメだ! 奴の狙いは……』
老人の伝える念はそこで途切れた。おそらく限界だったのだろう。
その警告を受信した詩都香だったが、着地した後も勢いを殺さず、迷うことなくホムンクルスを追った。
言われなくてもわかっている。
――あの化物の狙いは詩都香だ。
十メートル程先を行くホムンクルスは、やおら立ち止ると奈緒の体を乱暴に地面に振り落とした。手には先ほどの斧の代わりに刃渡り一メートル半はありそうな大剣を握っていた。
その剣を大上段に振りかぶるホムンクルスの目が、こちらに向けられた気がした。柄に両手を添え、その剣が振り下ろされる。
だめだ、今サイコ・ブレードで腕や剣を切断しても、切っ先は奈緒の体を貫く――詩都香は瞬時にそう判断した。
二歩目。刀身を収め、跳ぶ。
三歩目を踏み切った詩都香は、そのまま奈緒の体に覆いかぶさった。直後、ホムンクルスの振るった剣がその背を直撃した。
「がっ……!」
背骨が折れたかと思った。刃も弾丸も通さない特別製のマントがなかったら、胴を断ち切られていただろう。
勢いを殺されながらも奈緒の体を抱え、数メートル転がった。
どうにか立ち上がった時には、ホムンクルスは目の前に迫っていた。またも振り下ろされたその剣を、サイコ・ブレードで受ける。
「なっ!?」
詩都香は目を瞠った。
大剣はサイコ・ブレードと切り結んでも切断されなかった。ホムンクルスが残り少ない魔力を鋼の刀身に通しているのだ。
(学習してる……!)
左手に念動力を込めたが、既に遅かった。強烈な回し蹴りを胴に食らい、詩都香は軽々と宙を舞った。手の中のサイコ・ブレードから光が失われた。
西棟の壁面を半ば砕くほどの勢いで叩きつけられ、中庭の地面に墜落する。しばらくそのまま突っ伏して呻いていたものの、それでもなんとか詩都香は身を起こした。
ホムンクルスが奈緒に向かって手を伸ばした。あの銀のリングが奈緒の首から嘘のように掻き消え、いつの間にかホムンクルスの手に握られていた。
大剣を受けとめた背中と、蹴られた左の脇腹――奈緒の元に駆け寄ろうと一歩踏み出した途端、その二か所に電撃のように走った激痛に、詩都香は思わず膝を突いた。動きの止まった彼女目がけて、ホムンクルスがリングを投擲した。
避けようもなかった。
「は、きゅっ?」
取り立てた衝撃はなかったが、詩都香は自分の首にガッチリとその環が食い込んむのを感じた。
息苦しさは一瞬。
「あっ、あああああぁーーーッ!」
ありったけの悲鳴を絞り出された。〈器〉の中の魔力が、根こそぎ奪われていった。〈炉〉を通して〈モナドの窓〉がはちきれんばかりの吸引力だった。
今度こそ詩都香は身を支えられなくなり、腐葉土の上に倒れ伏した。意識だけはまだどうにか繋ぎ留められていたが、それも時間の問題だ。指先を動かすことも、声を上げることすらもできない。
(マジか……? わたし……、こんなところで……? ――せめて部長だけでも……)
視界が急激に闇に閉ざされていく。限界が近い。
奈緒を助けてあげられないこと、魅咲と一緒に伽那を守れないこと、そんな無念の想いが胸に去来する間に、とうとう詩都香は目を瞑った。




