As Time Goes By,
曜日に関わらず、私が家を出るのはたいてい六時半。それだけが自分の中で決めた、最低限の高校生活のルールであった。
帰宅時間はバラバラだったが、それでも、登校時間は一度も変えたことがない。まず五時におきて、まずシャワーをあびる。髪を乾かしながら梅味のお茶漬けを作る。すると母が起きてくるから、「そろそろ私より先に起きて朝ごはんくらい作ってよね」とお決まりの小言を言う。母は私の話を二つ返事で聞いて、そのままソファで寝てしまうのだが。私はため息をついて母を横目で見つつ、朝ごはんを食べる。自室に戻り、着替えて、家を出る。これを一年とちょっと続けていたら、もう一秒の狂いもなく六時半に家を出ることができるようになっていた。
しかし、今日は違った。
昨日の放課後、珍しく私は教室に残っていた。いつもであればすぐに部活に行くはずだが、その日だけは尾越ワタルに呼び出され、私は彼を待っていた。何の話だかはなんとなく予想がついていた。
尾越は私のボーイフレンドだった。私にとっては初めての人だった。高校一年生の秋に付き合い始めて、もう半年が経とうとしていたところだった。きっかけは、文化祭の準備で会話をしているうちに意気投合したから。それだけだ。それだけでなんとなく付き合い始めた。
告白は、彼の方だった。だから終わりにするのも彼だった。
理由は、いまいちよくわからない。言い訳が多すぎて、彼の言うことは私には理解不能だった。私が彼の気持ちを理解しようとしないから。勉強と部活に忙しくて、会う時間がないから。もう、付き合うのが限界だと感じたから。自分の気持ちがわからなくなったから。考えてみたら最初の理由と最後の理由が矛盾している気がするが、そんなことはまあいい。私には彼がそんなことを言い始めた理由はわかっていた。どんな御託を並べたってそんなの詭弁だってわかる。彼は、私に心離れしてしまったのだ。そして他の人を好きになったのだ。根拠はあった。尾越が一年の後輩とともに帰宅したという噂を、部活の後輩か先輩から聞いていた。本当に帰宅したかどうかはさておき、火のないところに煙はたたない。その噂がたつということ自体の意味を、私はわかっていた。思春期の男女の心なんて秋の空なんかよりずっと移ろいやすいものだ。別にいい。そう思いながら私は話を聞いていた。
話が終わって、私は彼の話にわかったとだけ言って頷いた。引き止めないのかと彼は聞いた。あなたが終わりにしようと言ったんでしょうと私は言った。所詮、俺はその程度だったのか。尾越はそう言い残して教室をさった。
驚いたことに私は、予想していたにも関わらず、あんなに呆れ返りながら話を聞いていたにも関わらず、ひどく動揺していたようだった。妙な虚無感が私を襲った。その何とも言えない虚無感をどうしようもできないまま、私は何も考えられず帰路についた。
所詮、俺はその程度だったのか。
家について自分のベッドに腰掛けた瞬間、私は尾越の捨て台詞が頭の中で鐘がなるようにこだましていくのを感じた。その刹那、彼と一緒に帰宅した日が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていった。心臓の鼓動がばくばくと早くなっていく。息をするのが苦しくなった。気がつくと私は泣いていた。なんとなく付き合って、ただ日々をともに過ごしていただけなのに、なぜだか私はとても悲しかった。
ひとしきり悲しんだあと、次に襲ってきた感情は怒りだった。彼は自分の浮気の原因を私に押し付けようとして、罪から逃れようとしていただけなのだ。どうして私が悪者にされなければならないのか。尾越の一方的な話の最中押し黙っていた自分にも腹が立った。腹が立つと余計に泣けてきた。私は頭をかきむしりながら泣いた。
それでも、彼のあの言葉だけは頭から離れることはなかった。
ひとしきり泣いた後、私はそのまま寝てしまったんだと思う。時計は午前六時を指している。夕御飯も食べずに寝てしまったし髪の毛はボサボサだし目は腫れていたから、三十分で用意するのはさすがに無理だろう。今日だけはいいか。そう思って私は一階に降りる。すると、母が朝ごはんを用意していた。私を見つけると母は私に近寄り頭を撫でて、大丈夫、と遠慮がちに尋ねた。私はなんだかまた泣きそうになってしまって、もう大丈夫だからと笑う。夕ご飯は食べるべきだったな、と思った。
そうして今日、私はルールを破って七時に家を出たのである。
三十分の差だというのに、通学路は全く違う風景のように思えた。通勤の人がいつもより多い。顔を見たことがない同級生も、違う学校の高校生も、なんだかはるかに多い気がした。いつもは人気のない道もたくさんの人が通る。私は違う場所にでも行こうとしているのだろうかと思うほどだ。駅までの道のりはいつもより遠い。
街の様子も少し違った。七時に開店する店は多いらしい。開店間際のパン屋の香ばしい匂いがあたりを包む。毎朝シャッターを閉めているところしか見たことがないから新鮮だ。ガラス越しに、焼きたてのパンを眺めて悩んでいる年配の女性が見えた。今度ここに来てみよう。
足取り軽く上機嫌で歩いていると、パン屋の隣のボロ家が目に飛び込んできた。そういえばこの家は人がいるんだかいないんだかわからない。いつもは何となく通り過ぎるこの家にも三十分後の今だったら誰かいるのが見えるのだろうか。私は草がぼうぼうと生い茂る庭の奥、暗い部屋を見てみる。
そこには人がいた。
暗くてよく見えないが、体操座りで電気もつけずにぼうっとしていることだけはわかった。それだけしかわからなかったのに、なぜか私はその人を見た瞬間、体が鉛のように重くなってその場から動けなくなった。何か見てはいけないものを見ているような気持ちになる。
私はこの人を知っている。直感的にそう思った。
不意に部屋の中の人が立ち上がった。縁側の方に歩いてくる。びっくりして私は歩いていくフリをした。気づかれたのだろうか。少し歩いてそうっと振り返る。その人は私になど見向きもせず、物憂げな顔で空を見上げていた。
ほっとした。でもそのあとすぐに、その人の顔を見て私の心臓は大きくはねた。私は本当にその人を知っていたのである。
その人は小学生の頃転校してしまった、ヘラヘラこと平川オサムだった。
くたびれた制服を着ているから一応高校には入学したのだろう。小学校の頃と比べて顔立ちも結構変わったし、顔つきもヘラヘラだとは思えないほど大人びて――いや、ヘラヘラというあだ名がもうそぐわないほど顔に生気がなかったけれど、ヘラヘラを思わせた。
ヘラヘラ。そのあだ名の通り、彼はいつも笑っていた。笑顔の可愛い男の子だった。小学校低学年の頃は女の子にもてはやされたり、クラスの中心だったりしたけど、小学校中学年になると周りの男子の嫉妬を買った。理由はたくさんあってわからないけれど、でも彼の存在は邪魔だったんだと思う。幼さは時に純粋で、時に残酷だから。だから、彼がいじめの対象になるのは理にかなっていたと思う。無視から始まり、暴言や喧嘩。最初のうちはその程度だった。
でも彼は、何をされても笑っていた。
それが周りの反感を買ったのだろう。いじめはだんだんエスカレートしていった。彼が笑うたび、周りはもっとひどいいじめを考えた。いつの間にか彼に近寄る人は誰もいなくなっていた。彼の名前を呼ぶ者は先生だけになり、皆が当たり前のように誰かがいつの間にか思いついた彼のあだ名を使った。皆が皆、彼のことをヘラヘラと呼んだ。
私ももちろん、その一人だった。正直私も彼のことは気持ち悪かった。だって、嬉しいことなんて何もないのに笑っていたから。それが気持ち悪くて仕方がなかった。張り付いたような笑顔を見るたびぞっとした。
そんなヘラヘラが私のことを好きだという噂が流れたときは、私のいじめが始まったのだと思った。
小学五年生の初夏、クラスに一人はいる、噂好きな女の子がそう言った。ヘラヘラ、ユイのこと好きらしいよ。付き合っちゃえば。大きな声で、クラス中に響く声で。しかも、教室にはヘラヘラがいたのに。私は顔がかあっと熱くなるのを感じ、そして全身が震えだした。それに比例するみたいに、クラスの男子がまじかよーっと騒ぎ始めた。いいじゃん、付き合っちゃえよ。フウフじゃん、フウフ! あの年の男子なら言いそうな幼いからかい方だけれど、当時の私は性分上、そういうことに慣れていなかった。気がつくと私は真っ赤になって泣き出した。赤くなってやんの。照れてなくほど嬉しいのかよ。本当に容赦ない物言い。私は全身がカッと熱くなる。
気がつくと私は端で固まっているヘラヘラを突き飛ばしていた。
教室がどよめいて、みんなが固まる。
「なんでなにも言わないのよっ! なんでヘラヘラのせいで私がからかわれなきゃいけないのよっ! わたしあなたに何もしてないじゃないっ! 私になんのうらみがあるの!」
私はものすごく真っ赤な顔で、泣きそうになりながら絞り出すように叫んだ。からかう者はもういなかった。彼らもそんなに無神経じゃない。ヘラヘラも、依然として固まっていた。それでも頭が冷えない私はこうも言った。
「ヘラヘラなんて、いなくなっちゃえばいいのに!」
私がそう叫んだ瞬間の彼の顔は、今でも明瞭に覚えている。びっくりしたような、悲しいような、それでいて初めて、彼の瞳が揺れたところを。
私はその彼の顔を見た瞬間、一気に自分の言った言葉の残酷さを感じた。癇癪を起こして言ってはならないことを言ってしまった咎を感じた。それは、幼い私にだって理解できることだった。
少しの沈黙のあと、カラカラの喉から私は声を絞り出そうとする。ごめん、という言葉が喉まで出かかった時だった。
「……ごめんね」
ヘラヘラは、ひきつる笑顔でそう言った。
その後、私はどうしたのか記憶が朧気だ。教室を飛び出したのか何も言わずにいたのか。でも、謝った記憶はない。だって彼はあの状況でも笑ってたから。そういうところが気持ち悪かったのだ。私がいなくなれと言ったのに、傷ついているのに変わりはないはずなのに、彼は笑ったから。
その後、その噂とあの時のことを引き合いに出して笑う者はいなかった。けれど、小学五年生の夏休み、彼は人知れず引っ越し、転校した。
皆がそれを知ったのは二学期のはじめだった。それより前に知っている人は誰もいなかった。先生は彼が引っ越すことになった明確な理由は言ってくれなかったと思う。家の都合、としか話さずにその話は終わった。興味を示す人はいなかった。
私はそんな中一人、家の都合というのが嘘だと思った。私がいなくなれと言ったからヘラヘラはいなくなったのだと思っていたのだ。だってあの時から私は一度も謝っていない。今でも、私のせいだと思うことがある。引越しの理由がどうであれ、私のせいじゃないかという、漠然とした罪悪感が私の中には存在していた。
そんなヘラヘラが今、私の通学路にぽつんと佇む粗末な家に住んでいる。
あの漠然とした罪悪感が不意に蘇ってきた。ヘラヘラの無表情は、彼の笑顔よりも気持ち悪かった。不気味で、暗くて、そして、重かった。私は鉛のような体をどうにか動かしてここから去りたかった。ここを早く通り過ぎたいのに、完全な無で空を見上げる彼に目を離せない。
ふと彼が踵を返し、暗い部屋の中に入っていった。彼の姿が見えなくなると、体からこわばっていた力が抜けていった。緊張が一気にほぐれた。鉛のように動かなかった体は解放されたのだ。
一つ息をついて私も踵を返した。早くしないと遅刻してしまう。こんなに固まっていたのだから、きっと今から学校へ向かったらギリギリだろう。そう思って腕時計を見ると三分も経っていない。私は驚いて苦笑してしまった。私には、ヘラヘラを眺めていたあの時間は十分にも二十分にも感じられた。彼がいてびっくりしたからだろうか。
所詮、俺はその程度だったのか。
昨日の尾越のセリフが不意に頭に浮かんできた。なぜなのかはわからない。歩きながら、私の頭の中にまた鐘が鳴るようにその言葉がこだまする。こう考えていると、ヘラヘラに言われているみたいだ。所詮、お前が俺に感じた罪悪感はこの程度だったのか、そう言われているよう。所詮、俺はその程度だったのか。ヘラヘラがあの無表情で言っているところを想像したら、寒気がした。初夏のまだ少し冷たい風が私の目の前を通り過ぎていた。
学校に着いて教室に入ると、違和感を感じた。いつもより遅いせいか、いつもより人が多い。いつも朝早くに来て勉強しているから、この時間がこんなに着席率が高いとは思わなかった。
私は自分の席について鞄を下ろす。腕時計を眺めると午前八時を指している。結構余裕で間に合うものだ。
「おはよう、ユイ」
教材を取り出していると後ろから羽田ミズキが話しかけてきた。彼女はいつも私よりも何十分も遅く登校するのに、自分より先にいるのはまた違和感がある。彼女もそれは感じていたようで、今日はどうしたのと心配そうな顔で尋ねてきた。
「昨日、尾越と喧嘩でもしたの?」彼女は私が昨日尾越に呼び出されたことを知っている。彼女は私と同じ部活に所属しているのだ。「目も腫れてるよ? そんなにひどい喧嘩しちゃったの?」
「……ううん」
「じゃあ、何かあったの?」
人の良さが顔ににじみ出ている少女だとつくづく思う。心配そうな顔が私を覗き込んでくる。嫌な感じはしなかった。むしろ彼女の気遣いは心地よい。
だから私は素直に、昨日のことを話す。でも昨日のことはあまり思い出したくないから、できるだけ淡白に。できるだけ他人事のように淡々と話した。終わりにしようと言われたこと。理由はよくわからないけど、いろいろあるらしいこと。でも多分、一番の原因は彼の浮気だということ。
「……それで、ユイはなんて言ったの?」
「わかった、って」
「なんで?」ミズキは珍しく声を荒げる。私は吃驚して何も言えなかった。普段、彼女は大きな声すら出さないのだ。そんな私を知ってか知らずか、続けて彼女はまくし立てる。「ユイは尾越のこと好きなんじゃないの?」
「……まあ、好きか嫌いかって言ったら、好きだけど」
「ユイは何も悪いことしてないじゃない。あっちが悪いのに、なんでユイが悪いみたいに」
感情が高ぶったミズキはすでに涙目だった。彼女が泣くことはないだろうと思いながらとりあえず彼女を落ち着ける。
「もういいんだ。浮気されたのに未練がましく付き合ってるのもあれだし」
「ユイは本当にそれでいいの? 本当に納得してるの?」
ミズキはそう静かに私に言った。頷こうとした私はわからなくなる。私は確かに昨日悲しくて泣いて、悔しくて怒ったけれど、ミズキの言うとおり、私は尾越との関係を終わらせたことを本当に納得しているのだろうか。頭の中からあの捨て台詞が離れないのは、私が納得していないからなのかもしれない。心のどこかで、彼のことを諦めていない私がいるのだろうか。尾越は、あんなにあっさりと諦めていいような存在なのだろうか。
「ユイ?」ミズキが私の顔を覗き込む。先ほどよりもっと心配そうな顔で。言葉を探って、私はやっと口を開く。
「……自分でも、よくわからないんだ」
朝のショートホームルームの予鈴が鳴った。ミズキは慌てて自分の席に戻る――後でゆっくり話そう。そう言って。
その後ろ姿を見送りながら、私は考えていた。自分でもわからないことを言葉にしようとするのは難しい。ミズキには、あんまり好きじゃなかったんだと嘘をつこう。人に話して何かがわかる気はしなかった。私が考えなければ、わからないと思った。
ふと、廊下を走っていく尾越がガラス越しに見えた。いつもギリギリで登校してくる彼。もう少し計画的に来ればいいのに、と自然と顔がほころぶ。不思議と胸は痛まなかった。彼の姿を見ても何も感じない。さらにわからなくなる。私は納得しているのか、納得していないのか。
そういうわけで、今日の授業は必然的に上の空になった。自分の気持ちがどうしても理解できない。そのくせ考える度にあの言葉が頭をよぎる。私は迷路のような思考回路から抜け出せなくなっていた。自分の気持ちがわからないというのは、こんなにも不安になるものなのか。頭の中がパンクしそうになって、私は一度考えることをやめ、窓の外を眺める。今日は少し気温が低めで、初夏の風にしては少し寒い風が私の髪をなびかせた。それでも初夏の独特の匂いは私の鼻をつく。外には涼しげな空が広がっていた。
そういえばこの空を、ヘラヘラは何とも言えない物憂げな顔で眺めていた。今この空を見上げている私の顔は、ヘラヘラのあの顔と似ているのだろうか。ヘラヘラは、何に悩んであんな顔をしていたのだろう。
いつの間にか私はヘラヘラについて考えていた。結局どうして引っ越したのかというところから今日の朝の様子のことまで、考えれば考えるほど色々な可能性が出てくる。出てきては、消えていく。何にも帰着しないこの堂々巡りは、私の頭を悩ませなかった。
明日からは七時に家を出よう。いつの間にか、私は頭のすみでそんなことを考えていた。
翌日も、そのまた翌日も、私は七時に家を出た。別にルールを破ったわけではない。ルールが変わったのだ。毎朝七時に家を出る。決まった生活習慣をこなすことを高校生活の最低限のルールとしていたのだから、七時でも問題ないはずだ。それに、七時だといいことはたくさんあった。お母さんがごはんを作ってくれる。髪をセットする時間も長くとれるから、幾分かおしゃれすることができる。家族全員におはようがいえる。家でだって、起きてからの数十分間は勉強することはできる。
ミズキは私が七時に学校に来るようになった理由を、まだ尾越のことを好きな気持ちが私にはあるから、と思ったらしい。七時は確かに尾越が登校してくる時間と一緒だし、髪を小綺麗にしている。だから彼女の中では私が彼ともう一度話したがっている、という結論に至ったらしい。ちなみに彼女には尾越のことはもう諦めたと断言したつもりだ。あんまり好きじゃない、ともいったはずだ。それが彼女には虚勢をはっているように見えたのだろうか。それなら、彼女は彼女なりに考えて気を使ってくれているのなら、それはそれでいいと思えた。尾越の顔を見るために七時に家を出るという理由がないわけではないからだ。尾越の顔を毎朝見ることで、なぜか私は安堵感を味わうことができた。
しかし、本当の理由は違うところにあった。私が七時に学校を出るのは、ヘラヘラにあうためだ。
ヘラヘラはいつもあのボロ家で一人物思いに沈んでいた。私が通りかかるとき、七時から何分か経ったときには、絶対に外を眺めていた。縁側から外に向かって無表情に視線だけ空に向けている。ただ、ひたすらに。理由があるようには思えなかった。だが、何も考えていないようではなかった。私はヘラヘラの様子を見ることにも安堵することができた。最初は何となく気持ち悪かったけれど、それもいつしか私の中から消えた。よく、わからないけれど。
そうして日々が過ぎた、ある日のことだった。
部活がない、ということを直前まで忘れていた私は、部室でダラダラと過ごし誰も来ないことに違和感を覚えていた。そして、今日は顧問が出張でいないから部活がなくなったことを結構時間が経ってから気がついた。部室から出てミズキを探したけれど、彼女はもういなかった。そうして私は一人帰路につくことになってしまった。こんなに早く帰るのは久しぶりだし、一人で帰るのも久しぶりだ。私は仕方なしにイヤフォンを耳にはめて学校の校門から出た。私はバラードは聞かない。聞くのはたいてい洋楽かJポップ。流行りの歌は聞きたくなかったから、少し古めの曲をかけて歩き始めた。
このあとの時間はどう使おう。私はイヤフォンから流れる音楽をBGMに歩を進めながら考えていた。勉強をするのも気乗りしないし、部活があるものだと思っていたから何をしようにもやる気が起きない。いっそ家に帰ったらすぐ寝てしまおうかとも思う。しかし、眠気すら襲ってこない。ただ、ぼうっと家まで歩く。何となくやるせないような感じが私を襲った。疲れているのかもしれない。私は電車に乗り、ドアの近くの席に腰掛けた。この時間に帰る学生や大人は多くない。座ったら、私はすぐ寝てしまった。自分でもびっくりするほど深く、最寄駅まで一度も起きずに寝こけていた。やはり疲れていたのだ。こういう時は休むに限る。早く家に帰って眠ってしまおう。私は帰路を急いだ。駅からおりて、家までの道を急ぎ足で歩く。先程まで寝ていたから体がだるい。あくびをしながら早足で歩く。
しかし私の歩は、何かの衝撃をうけたようにいきなり止まってしまった。
そこは、ヘラヘラのボロ家。いつも朝にヘラヘラが外を眺めているボロ家。私はそこに、ヘラヘラを見つけた。今日の朝ぶりのヘラヘラだ。私は彼の目の前で歩を止めてしまった。眠気が、一気に覚めたような感覚だった。
ヘラヘラは、今までで一番無に近い顔をしていたのだ。
驚いた、というよりは息が詰まるような感覚に苛まれた。あまりにも無だったから。動くことも、息を吸うことさえ忘れてしまうほど、ヘラヘラは尋常でなかった。人間離れした、その表情に何もできなかった。
だから、気づかなかったのだ。私が長いこと、彼を見つめていたことに。私にとっては数十秒に感じられたその静寂は、実は何分もの時を刻んでいたのだ。そして、私は彼に、初めて気づかれてしまった。最初は気のせいだと思った。いきなり、ゆっくりとヘラヘラと目があった瞬間、私は夢を見ているように感じた。現実味がなかった。しかし、ヘラヘラは私の存在を認識し、そして私が小学校の頃にいた小佐平ユイだとわかった。きっとわかったのだと思う。
なぜならヘラヘラは、私に微笑みかけたから。あの時の――傷ついたような、ひきつる笑顔で。悲しそうに。寂しそうに。
私は本当に動けなくなった。すべてが固まったような気がした。目もそらせず、指一本動かせず、思考も停止してしまった。あの時のカラカラの喉の感覚が蘇る。何か言おうとした。ヘラヘラ、と口を動かそうとするけれど、金縛りのようにかたまった私の体は融通がきかない。
いきなり、口が開いた。瞬間、涙が頬を伝った。何も言えないのに、何も考えられないのに、涙だけがボロボロと流れてくる。何が悲しいのかわからないのに、涙は止められない。
ヘラヘラが困ったようなびっくりしたような顔で私を見つめている。私は何がなんだかわからず、その場を駆け出した。思ったより体は軽かった。金縛りはとけたのだ。
そのまま私は家まで走っていった。すれ違う人々に異様な目で見られようが、息が切れようが構わず、私は必死に走った。走って、走って、それでも、涙は止まらなかった。叫びだしそうな衝動を抑えながら、私はただひたすらに走る。走って、家に駆け込む。
部屋についた瞬間、私は思いっきり叫んだ。叫んで、泣いた。何が悲しいのか、なんて考えなかった。ただ、悲しい。ただ、悲しかった。胸が張り裂けそうで、本当に張り裂けてしまうのではないかというほど痛かった。声がかれるまで叫んで、体じゅうの水分がなくなるほど泣いた。理由のわからないこの強烈な悲しいという感情に、ただ、身を任せるしかなかった。
どれだけそうしていたことだろうか。私はいつの間にか眠りについていた。目をあけて起き上がると、時計はもう夜の十一時を指していた。多分二日酔いもこんな感じなんだろうというような頭の鈍い痛みを感じる。泣き叫びすぎたらしい。私は一階に降りてから、親の目を盗んで水をのみ、すぐに自分の部屋へ戻った。ごはんを食べる気にはなれないし、あんまり起きているとまたあの感情に苛まれそうで怖かった。
私はもう一度寝た。次に起きたのは、朝の十一時だった。
起きてすぐめざまし時計を見て、私は呆然とした。そしてすぐぷっと吹き出してしまった。十二時間睡眠とは私もまだまだ若い。冗談めいたことを一人で思って笑う。あの悲しさはとりあえず消えたようだった。
十一時になってもお母さんは起こしてくれなかったから、きっといろいろ察してほうっておいてくれたのだろう。一階に降りたら、まず温かいミルクを用意してくれた。私の異常に腫れた目を気遣ってくれた。大丈夫、私はそれだけ言ってミルクに口をつける。お母さんはこういった。かわいそうに、この前より辛いことがあったのね。
無理はしなくていいのよとお母さんは言ったけれど、学校を休むわけにはいかない。たとえ遅刻したとしても学校には行っておこうというわけで、比較的のんびりと準備をして、お昼ご飯は食べて、家を出た。
私はルールを破って十二時半に家を出た。高校生活始まって初の遅刻だった。
学校へ行くことに抵抗がなかったわけではない。目が腫れていることをいろんな人に聞かれるのは嫌だったし、気をつかわれるのも得意な方ではない。それでも学校へ行こうと思ったのは、あの悲しさの原因を突き止めたいという理由があったと思う。どうしてヘラヘラのあの顔が頭から離れないのだろう。あの顔が、「悲しい」と思ってしまうのだろう。その理由が、もう一度ヘラヘラにあったらわかる気がした。
私は歩を進める。いつもより心なしか足取りが重い。ヘラヘラへの不安と恐怖もあった。もう一度あって、あの日のことを責められたら? あの笑顔を向けられたら? そう思うと、怖かった。でも、と、私は思う。けじめをつけよう、と。彼に謝って話をしたら、きっと私の中の色んなことがスッキリするのだ。逃げてはいけないのだ。
ヘラヘラのいるボロ家へ近づいてきた。あの曲がり角を曲がれば、見える。私は深呼吸を一つして、歩き出した。
人だかりが、あった。
そこは確かに、ヘラヘラのいたボロ家だった。
人の隙間から見えるボロ家が、外界と家をブルーシートで遮っていた。
私はボロ家の前でしばらく止まっていた。事態が飲み込めない。近所のおばさんが、妙におどろおどろしい声音で言った。自殺ですって。しかも道路から見える部屋で首吊って。
その言葉を理解するのに、私は数秒かかった。そしてゆっくりと、誰が、と聞いた。おばさんは答える。ここに住んでた、高校生の男の子だって。おばさんはなおも話し続ける。が、私には聞こえていない。直感で、私はわかった。ヘラヘラだ。彼が、昨日の今日で死を決意して、逝ってしまったのだ。全身が震えだした。嘘、という言葉を出してからまた怖くなった。ブルーシートで外観がわからなくなったボロ家と、毎朝縁側から空を見上げていたヘラヘラがいた光景がダブって見え、昨日と同じで私は動けなくなる。その場でただブルーシートを見つめるしかなかった。
その場から離れることもできず、何か行動することもできず。私は人だかりがだんだん減っていくさまを目の前で見ながら、最後の一人になってもその場から動かなかった。ヘラヘラが、この世にいない。もう、本当にいないんだと、信じられなかったし、信じることができた。悲しいのに涙は出てこない。ただ、ショックだった。
数時間経って、見かねてひとりの男性が私に話しかけてきた。この家の大家さんだそうだ。ここで死んだ子の知り合いですか、と聞かれた。私はブルーシートから目をそらさずにただ頷いた。男性は静かに、そうですか、と言って私の前に一冊のノートを出した。遺書だと思います、そう男性は言った。先ほど見つけて、もう、警察に提出しようと思っていたところですから、よかったら。私はブルーシートから目線をはずし、ノートを見る。表紙には何も書いていないけれど、1ページめくったら、ヘラヘラの字がそこにはあった。ヘラヘラは小学校の頃習字を習っていた。そんな、彼らしい、達筆で整った字だった。
ノートの内容は、本当に遺書だった。彼の体験した出来事が事細かに書かれていた。転校するたびいじめられ、親に頼ることもできず、勉強すら手につかなくなり、教師にそんなだからいじめられるのだと罵られ、……など、前半は物語調に綴られている。しかしある時期から日記調になった。高校でのいじめに耐えられなくなって家出してきたボロ家での毎日だった。
それは、ここでの毎日だった。毎日六時に起きて、買い溜めたおにぎりを食べて、一日中ぼーっと過ごし、ねるというもの。家出した日に買ったおにぎりが尽きたら死ぬつもりだ、と、毎日の締めくくりに書いてある。ある日は、あと十五個。ある日は、あと九個。
一番後ろの方のページに差し掛かってくると、恨み言が増えてくる。しかし私が予想していたような、私への恨み言は一言も書いていなかった。ただ、いじめた奴らが許せない、というもの。復讐してやる。その文字をたどり、最後のページをめくった。
明日が、ようやく死ぬ日になった。死ぬのは怖い。怖いけど、もう、いい。夕方、外を眺めていたら、懐かしい人にあったから。小学校のときの初恋の人に。おぼろげだが、転校する前、最後に彼女のことを傷つけてしまった記憶がある。一度謝りたい。でも、こういう時、俺は笑ってしまう。笑って、気味悪がられてしまう。この時もまた笑ってしまった。また同じことを繰り返してしまった。
でも、彼女は泣いた。俺を気味悪がることなく、俺を見て、泣いた。それがどう言う意味を持つのかを俺は知らない。けど、俺のために泣いてくれたのではないかと思う。俺のために泣いてくれる人が、まだこの世にいたんだ。
それでいい。それだけで、もう、いい。
……ノートに、涙が落ちた。滲んだ字をぬぐおうとして、また涙がこぼれた。
その時ようやく、私はわかった。今更のように、全部、全部わかったような気がした。
私は、時が過ぎるのが悲しかったのだ。ヘラヘラの笑顔があの時のように引きつって悲しそうだったのは、きっと私が悲しそうな顔をしていたからだ。ヘラヘラは昔私が傷つけた人で、傷つけたまま時が過ぎて、傷つけたことすら忘れたみたいに、私は生きていた。時が過ぎて色んなことが忘れ去られていくのは、どうしようもなく悲しいことなんだ。尾越への思いも、あったはずの感情が時と共に忘れ去られて消えることが、私はとても悲しかったのだ。時がすぎることは、こんなにも、悲しいことなんだ。今更だ。本当に、今更。
それでも、と私は思う。一度、謝りたかった。あの時、あんなこと言ってごめんね。その一言だけでいいから、言いたかった。死を、選んで欲しくなかった。それだけでいいなんて言わないで、もっと求めて、生きていて欲しかった。
ノートを抱えて、私は泣いた。腫らした目に上乗りした涙は、熱く、燃えるようだった。この火傷しそうな感覚を、私は覚えていたいと思った。どんなに時が過ぎても、この感覚だけは覚えていようと思った。
曜日に関わらず、私が家を出るのはたいてい七時。それだけが自分の中で決めた、最低限の高校生活のルールであった。
帰宅時間はバラバラだったが、それでも、登校時間はあれから一度も変えたことがない。まず五時におきて、まずシャワーをあびる。髪を乾かしながら軽く髪をカールする。すると母が起きてきて、ダラダラしながら梅味のお茶漬けを作る。もうちょっと早く作れないの、と言っている私はそのあいだにリビングで勉強。朝ごはんを食べてから、自室に戻り、着替えて、家を出る。家を出て通学路に出ると、あのボロ家があるから、私は行ってきますと心の中でひと声かける。
一ヶ月に一回花を変えることを、私は忘れないだろう。きっと、ずっと、大人になっても。あの火傷のような感覚が、私の意識から消えないように。
As time goes by---直訳すれば、時が経つにつれて。私がこの表現に出会ったのは、冬休みの課題の中だ。asは接続詞、「つれて」という意味。timeは「時間」という意味で不可算名詞。単数形だからgoに三単現のsがついて、かたまりとしては副詞節……面白くない覚え方だ。多分、すぐ忘れる。そうして思いついたのがこの話だ。もっと言えば息抜きでしかない。六月に投稿した作品から約半年が過ぎて、はじめて完全オリジナルの話がかけたのは、単に時間がなかったから。その間に二つほど戯曲を書いて、源氏物語のレポートを書いて、そうして時間が少し余って、息抜きに書いた作品。それがこの話。
だから、拙い文章で、まとまってなくて、話も面白くない、という言い訳に使いたいわけではない。単純にその程度の作品と思って読んでくれたら幸いだというだけだ。そして、何か感じとってくれたら、私にとってそれ以上の喜びはない。誤字脱字、その他批評など、何かあったら書き付けてほしい。そして、最後まで読んでくれたこと、そのことに感謝を示したい。