わたしは
わたしは嘘をついている。
全てをきちんと伝えていない、というほうがあるいは正しいかもしれない。
アンジェ様の問いに対して、わたしは大商会の娘であると答えた。こんな場所までやってきたのは妾の子だからだ、と。
妾の子。もしそうならどんなに良かったろうと、今でも思う。
わたしの母の名は、ソレーヌ・ドレンス・オルファノ。大海を股にかける大商会の長、アウグスト・ドレンス・オルファノの妻だ。父の名は――知らない。結局誰も教えてくれなかった。
つまりわたしは妾の子、なんて『ありがたい』立場ではなくて。
不貞の妻と間男の間に生まれた、忌むべき存在なのだそうだ。
もちろん全て詳しくは知らない。何でもアウグストが数年規模の旅からようやく戻った時、ちょうどわたしが生まれたという話だ。
その直後にわたしは母ソレーヌから引き離され、彼女は田舎の屋敷に半ば幽閉された。それから今に至るまで一度も母とは会えていない。
父である間男のほうは行方不明。恐らく殺されたのだろうけれど、こちらに関しては多少調べた程度では何一つ分からなかった。
両親と会えないことが、特別悲しいとは思わない。優しく抱きしめてもらったことも、柔らかく撫でてもらったことも無い。それどころか顔も知らない。父に至っては名前さえ知らない。これで情を抱けというのは無理があると思う。
わたしが生まれた経緯から今の状況に至るまでの『それなり』を説明してくれたのはアウグスト本人だった。けれども本当の父のことだけほとんど教えてくれないのは、それだけ憎んでいるから、なのだろうと思っている。
もちろんわたしのことだって憎んでいるはずだ。最初はすぐに殺す予定だったと答えたのは他でも無い、アウグストなのだから。
しかしどこかで予定は捻れて、わたしはこうして生き残った。憎き男の子、されど愛した女の子。コーヒーに溶かしたミルクのように、感情というものは極めて複雑な代物なのだ、と言える程度にはわたしも大人になったのだろうか。
とにかく、あるいはそうしてわたしは生き残った。
対外的にはソレーヌとアウグストの娘。正統なる商会の後継者の一人。時期が合わないことなんて、幾らでも誤魔化しが効くようだ。
物心ついて、程ほどに成長したわたしに待っていたのは、まさしく息が詰まるような生活だった。
比喩でなく、ありとあらゆる知識を頭にねじ込むような授業の数々。合間に挟まれる運動の時間は、もっぱら武術に費やされる。文と武を共に兼ね備えるようにと、国にも等しき商会の血に相応しいようにと。
二十近くいるというアウグストの子達と同じだけの義務を背負わされながら、わたしだけはほとんど『見返り』は無かったようだ。食事は使用人と同じかそれ以下。服は必要な時にのみ輝くドレスを纏わせて、部屋に戻れば簡素を通り越して襤褸切れのようなシャツとズボン。友は居ない。腹を割って話せる知り合いも居ない。授業は専属の教師と一対一。部屋に戻れば、次の授業まで外出も許可されない。他の『家族』とは何かの行事で僅かに顔を合わせる程度で、当然の如く会話なんてものは無かった。
仮にこの場でアウグストの期待に十分に応えることができていたなら、わたしの人生もだいぶ違ったものになったように思う。
わたしには無理だった。教え込まれる知識は半分を吸い込めれば良いほうで、剣術や体術のほうはおちこぼれのようなもの。銃の扱いは少しだけ得意だったが、その程度こなして当然、という評価だったと思う。
不出来な姿を見せるたびに烈火のごとく怒り狂うアウグストが、ただひたすらに怖かったのは覚えている。なぜ他の子には出来て貴様には出来無いのだと。言外に――己の子では無いからだと言っているも同然だった。
歳が十に届くころに、アウグストの態度が変わった。授業は一対一から集団授業に変わり、同時にがんばればこなせる程度にまで緩和された。その分なのか、武術や体術の訓練が増えた。もちろんそれで劇的に上達するわけでもないが、情けない姿を見せても彼は怒らなくなった。
わたしはその時、子供ながらにもちゃんと理解できた。ああ、ついに見捨てられたんだ、と。
それから乾いた時は過ぎて、初めての仕事は十五の時だったと思う。
内容は簡単だ。単に商会の者数名を連れて、商談に行く。場所は遠方、異国の地。情勢は不穏。我らとは不仲。けれど向こうには資源があり、やや好戦的だが力はさほどでも無い。そしてこちらの提案する条件は相当な『えげつなさ』を孕んでいる。
誰も説明してくれない、わたしの役目は、主に二つ。
商会はわざわざ実の子さえ寄越すほどにこの商談に本気である、と訴えるための材料になること。
もう一つは――余りに傲慢な条件を前に逆上した相手に、その場で殺されることだ。大規模な私兵団さえ持つオルファノ商会の力は、そこらの小国を優に凌駕している。もっとも大国を支配云々などという次元には程遠く、各国の目を考えれば実力行使には相応の大義名分が必要である、と。
わざわざ送り出した実の娘が、死体になって帰ってきた。なるほど、戦端を開くには十分すぎる理由かもしれない。
商談は破綻し、刃まで向けられ、けれどわたしは生き残った。同行していた仲間が、あらかじめ逃走経路を確保しておいてくれたのだ。
なんとか生き延び、逃げ帰ったわたしを出迎えたアウグストの顔は、今でも忘れられない。怒るでも無い。悲しむでも無い。喜ぶでも無い。何も無くて、からっぽで、まるで道端の草でも見るかのように冷め切った顔で、彼は言った。まぁ良い、次も使えると。
同じようなことは、その後幾度もあった。
相手が素直に屈したこともあった。もちろん代わりに呪詛の如き言葉を散々に投げつけられるなんてのは飽きるほど経験した。どんな大商会であろうとも、伝統も歴史も持たない『成り上がり』なんて由緒正しき貴族さまからすれば下民そのものなのだ、と。
実際に刃で切りつけられたこともあった。逃げる過程で人も殺した。吐き気と悪寒は、安全な場所までたどり着いてからやってくるものだと学んだ。
繰り返される『仕事』の途中、一つ疑問に思った。アウグストはどこまで本気なんだろうと。
わたしが『商談』に出向くときは、必ず数名の護衛がついた。皆が皆素晴らしい腕前で、彼らの力が無ければわたしなんて初回で死んでいたはずだ。わたしの死を純粋に望むのならば、明らかにそれは余計だと思う。
矛盾している。けれどもそれは最初から、なのだろうか。
幾度も死地に送り込まれて、そのたびに生きて帰ってくる。どうやら悪運だけは人一倍強いらしいわたしにも、終わりのときはやってきた。
オルファノ商会の力は小国を優に上回る。裏返せば、本物の大国に睨まれれば白旗を揚げざるを得ないということでもある。
それはまさに難癖だった。細かい中身までわたしは知ることができなかったけれど、どうやらほぼ無条件で傘下に入れとの『脅迫』が来たらしい。
相手は大陸をほぼ手中に収めている大国家。かつて存在した帝国の末裔を語る、本物の強者だ。断ればオルファノ商会は滅ぶ。けれど出された条件をそのまま飲むわけにも行かない。
まさしく必死の交渉の後に、温情のつもりか、あるいは他国への示しなのか、一見救済にも見える提案がその『帝国』側から出されたらしい。もっとも――内容は困難を極め、実現の見通しは皆無に等しい。あるいはこの案こそが商会への最後の一刺しだったのかもしれない。一応は道の存在を強調させ、出来なかったおまえが悪いのだ、と。
商会側は、最後の手に出た。出来もしない馬鹿げた案だが、やり遂げようとした姿勢は見せる必要がある。それも渾身の、そして苦肉の一手であると証明する必要が。たとえ失敗に終わってもその結果を元に、せめてもの有利な立場を作る。同時に時間的な猶予も生む意味はあったのだろう。
お前はこのために生まれたのかもしれぬな、だったかな。アウグストの疲れた声は、今でもはっきりと耳に残っている。
そうしてわたしは旅に出た。到底不可能な目的を持たされ、伝説にのみ残る、交流の絶たれたエルフの国へと。
一族の一員という立場だけを背負い、命を懸けて死地に向かう。今まで幾度も繰り返してきたように。
違いがあるとすれば、今回はわたし一人だったこと。護衛は居ない。交渉役も居ない。わたし一人で『それっぽく』見えるように荷物を持たされ、死の雪山へと道を歩いて。
わたしは――たぶん、生まれて初めて、心から腹が立った。これはない。さすがにこれは酷い。誰から見ても幸せには見えない時を生きてきた結果が、交渉を僅かでも有利にするために死ぬだけの駒。
けれどわたしは叫べなかった。面と向かって反抗することも出来なかった。アウグストがそうしたわたしの性根をどれほど深く理解しているかは、見張りの一人もつけていないことからも想像がついた。
ますます腹が立つ。情けなくて涙が出る。けれど足だけはよろよろと前に進んだ。
だから、と思った。せめて、と思った。
せめて生き延びてやろうと。たとえ何がどうなろうと、エルフの地で立派に生き抜いてやろうと、決めたんだ。不可能と思われた任務をこなしでもしたら、あの男の顔も変わるかもしれないって。
そうしてたどり着いたエルフの国は、伝説にあるものとは大きく違った。
素晴らしく豊かで、極めて力強く、恐ろしく好戦的で、何もかもが大きくて『派手』で。
そして。
その地でわたしは、生まれて初めて恋をした。
相手は人間でなくエルフ、男でなく女、一人でなく二人。全てが常識とは違っていたけれど。
伝えるべきだというのは分かっている。わたしが何をしにきたのか、人間は何を考えているのか。ルナリアさまもエリスさんも、聞いた上でわたしを受け入れてくれるだろう。
それでも、と思う。どうしても思ってしまう。全てを伝えて今の関係が変わってしまわないか。わたしはあなたたちの敵なんですと伝えて、それでも柔らかく抱きしめてくれるんだろうか。針の先ほどの不安であっても、試す勇気がわたしに無い。情けなくて涙が出る。
そしてもう一つ。それを口に出すということは、まさしく認めるということだ。自分が単なる捨て駒に過ぎないと、自分自身で断言するに等しかった。
不思議に思う。今まで散々そういう扱いを受けてきたというのに、自分から言うのは怖いのかなと。
強くなりたい。本当に。ルナリアさまの、エリスさんの、彼女達の爪の先ほどでも良いから。けど、今は。
わたしは今、幸せだ。怖いくらいに幸せだ。任務も商会も仮初めの父も、全てがどうでもよく思えるほどに。
だから、せめて、もう少し、この甘くて暖かな風に揺られていたいと思う。決心がつくその日まで。
ごめんなさい。