何しに来たのか忘れるくらいに
窓から差し込む光が紅く変わりつつある。
純白のシーツ、簡素な室内、あるいは己の肌の色まで、全てが夕焼けに染められている。
過ぎつつある昼、訪れつつある夜。そんな隙間の中でひとり、ルネッタは小さなあくびをした。
結局何もせず、だらだらとベッドで過ごしてしまった。体調はとっくに元に戻り、それゆえ暇が体中を包むように広がって。
生まれかけた二度目の欠伸は、扉の開く音で収まった。
「ルネッター」
にこにこ笑顔のルナリアが、両手に荷物を持ってやってきた。
右手には柔らかそうな布。左手にはそれなりに大きな桶。中は透明な液体で満たされている。そういえば――体を拭いてもらう約束だった。
彼女は足で蹴って扉を閉めると、ベッドのすぐ傍に桶をごとんと置いた。ちゃぷりとゆれる液体は驚くほどに透明で、だというのに仄かに甘い匂いがする。かすかな湯気が見えるあたり、お湯ではあるのだろうけれど。
「え、と……なんですか、それ」
「んー? 体を拭くだけだともったいないなーと思って、専用の香水を溶かしてもらったんだ。嫌な匂いか?」
ふるふると首を横に振る。香り自体はとても良い。ちょっと予想外だったのと、高そうだなと頭に過ぎったくらいだ。
ルナリアはそっと微笑んで、
「じゃあ始めよう。服、脱いでくれよ」
頷いて、上のシャツへと手をかけた。
――えっと
何度も一緒にお風呂に入って、それどころか肌さえ重ねた仲ではあるけれど。
それでも、この裸になる瞬間はいつも緊張する。
「下もだぞー。全部」
びくりと思わず肩が上がった。汚れやすいのはどこかと言われれば当然の話、なのだけど。
なぜかルナリアの顔に邪なものを感じる。演技というか、楽しんでいるだけなんだろうとは思うけど。
まさしく全裸になったルネッタは、ベッドの上にだらりと足を投げ出した。そのほうが拭きやすいから、らしい。
「始めるよ」
白く輝く柔らかな布は、少し湿って暖かい。そんな優しい感触が、右のつま先にそっと触れた。
――ん
足の裏まで丁寧に、甲を滑らせ足首をくるりと覆い、そのまま脛とふくらはぎをなぞり上げる。気持ちよさとむずがゆさが同居して、たまに直に触れるルナリアの指がそれを数倍に増幅してくる。
一言で言えば厳しい。何が厳しいのかというと、声を上げずに我慢するのが厳しい。
それでも我慢する。何が何でも我慢する。何しろこれは体を拭いているだけなのだ。あくまで看護の一種なのだ。それを逸脱してはいけないと、少なくともルネッタは思う。
布がだんだんと脚を這い上がってくる。甘い桃の香りに、ルナリアの香りが混ざり始めて、軽く頭がくらくらする。ルネッタは目を閉じて下を向いた。僅かに歯を食いしばる。我慢するんだ。絶対に。
「ルネッタ」
呼ばれた。だから顔をあげる。それは当然のこと。
「んんっ!?」
理解が追いつく前にやってきたのは、唇に伝わる柔らかな感触。こじ開けてくる何か。慣れた味。
三秒。そして離れたルナリアの頬はしっかり赤く。
彼女は――悪戯をした子供のように笑った。
「……我慢できなかった」
風邪がうつったら困る。彼女が何者かを考えれば病気などありえない。そんな冷静な思考は、残る味と感触に押し流されている。
「へへ、ま、良いか。続き続き」
ぽわりと腑抜けたルネッタを無視して、ルナリアはなぜか服を脱ぎ始めた。相も変わらず巨大な胸がぶるりと揺れて、白い肌は日を反射するようにきらきらと輝いている。
さすがにその光景にルネッタの目も一気に覚めた。
「えっ……ちょっ、何してるんですかっ!?」
「いやほら、この香水は凄く良い香りだし、ついでに私も、と。ダメだったか?」
嘘を言っているようには見えない。そして無言で考えていると彼女の顔がどんどん曇る。
「ダメなんかじゃないです。ぜんぜん、えっと、大丈夫、です」
もはや言葉も綺麗に出てこない。そんな答えでもルナリアは満足してくれたようで、試しとばかりに布で己の体をふきふきと。
彼女は大きく息を吸い込んでから、満面の笑みで続けた。
「うーん、買った価値はあったな。じゃあ本番に戻るか」
再び手が伸びてきて、今度は逆の脚をすりすりと拭う。先ほどとの違いは目の前の美しいエルフが上半身裸であること。伝わる手の感触は倍の鋭さに思えてきて、気恥ずかしさやら何やらで喉が渇いてしまう。
腰のあたりまで拭き終わると、ルナリアが言った。
「背中から拭こうかね。ルネッタ、向きを変えてくれるか?」
「はっ、はい」
慌てて脚を引っ込めて、ベッドの上で半回転。ぎしり、と僅かに軋んだ音が響いて、それきり部屋は静かになった。
――あれ?
振り返ろうかと考えた、次の瞬間。
むにゅり、としか表せない至上の感覚と、肌の触れ合う暖かさ。
どうやら、真後ろからルナリアに抱きしめられた、らしい。裸のまま。
――うわ、わ、わ
焦る。いや、正確に言うのであれば――その、こみ上げてくる。彼女の大きな胸は背中で潰れ、心臓の鼓動が確かに聞こえる。シミもシワも無い幻想の肌が、水の零れる隙間も無く、ルネッタの肌に密着している。もう何回も味わって、それでも一切色あせない甘い感覚が、後から後から噴出してくるようだ。
「ルネッタ」
「ひゃいっ!?」
耳元でそっと名前を呼ばれて、確かな雷が背筋に奔った。鼓動がどんどん強くなる。彼女のものも、自分のものも。
ルナリアの両手がするりと動いて、ルネッタのお腹をそっと撫でる。肩を強く抱きしめる。ルネッタはぐっと唇をかみ締めながら、彼女の次の言葉を待った。
「ルネッター」
「はいっ」
再び甘く名前を呼ばれて。ルナリアはもぞもぞと動いて頬ずりを二回。抱きしめ、さすり、三度目の言葉が囁かれる。
「るねったぁ」
「えっと、その……」
どうやら特に意味があって呼んでいるわけでは無いらしい。なんとなく名を呼び、なんとなく抱きつき、何をするでもなくただ抱きしめ合う。時には一言も発さずに。
どうやら――ルナリアは『こういうの』がとても好き、らしい。
肌を重ねてからは一日に一回はかならずこういう時間があるくらいだ。それがルネッタの風邪で中断された所為で噴出したのかもしれない。
とても幸せな静寂の時間。ようやく破ったのは、やはり彼女の一言だ。
「寒いか?」
「いえ、大丈夫です」
密着した彼女の柔肌は熱いくらいで、裸の寒さなんてものは欠片も残さず消し飛んでいる。
「風邪は?」
「もうほぼ治った、と思います。たぶん」
元から症状は軽かった。大事を取って――というよりは二人が心配するから休んでいたようなものだ。
ルナリアはそっと体を離すと、わざわざこちらの正面まで回り込むように動いた。そんな僅かな動作でも、むき出しの彼女の胸はそれはもう派手に揺れる。うらやまし――くもない。差がありすぎてそんな感情さえ抱けない。
彼女は目をきらきらとさせて、
「じゃあ問題無く今日は一緒に寝られるな」
頷く。彼女に包まれて眠りたいのは、ルネッタだって同じなのだから。
しかし彼女は僅かに顔を曇らせて、首を傾げつつ右の人差し指を唇に当てる。子供っぽく、あるいは少しわざとらしく。
「寝るだけ?」
ごくり、と思わず唾を飲む。
――う
意味は、わかる。それはもう。
咄嗟に返事が出来なかった。するとルナリアは大げさに口を尖らせ、少しすねたようにもう一度。
「寝るだけ……?」
遊んでいる。からかっている。そして楽しんでいる。まるでエリスのような悪戯は、以前の彼女には無かったもの、だと思う。
ルネッタは返事の変わりに距離をつめて、深い深い口づけをした。
えへへ、と笑う。彼女も笑う。そしてルナリアはぽつりと言う。
「幸い夜まで暇だしな」
伸びてきた彼女の手を握る。指を絡ませ距離を近づけ、今度は口づけしつつも肌を合わせる。吐息も汗も、何もかも、二人の全てが交じり合うような距離の中で、ふとルネッタは考えた。
――そういえば、ルナリア様は何しにきたんだっけ
呆けてぼやけた淡い思考を、ルナリアの存在が塗りつぶすのに、そう時間はかからなかった。