隣人からのこんにちわ
揺り起こされて目を開けると、視界に広がるのは白い肌。ふにゃりと潰れた大きな胸に、赤い髪。くうくうすやすやと可愛い寝息を響かせながら、エリスが幸せそうに寝ている。
そう、寝ている。つまり今ルネッタを起こしたのは彼女では無いということになる。目をこすり、ごろりとベッドで寝返りをうてば、その誰かはすぐにわかった。
「おはよう」
女神のように美しく、そして少女のように愛らしく、ルナリアがこちらを見て微笑んだ。ベッドに半身で腰掛ける様は、とても女性的に見える。
「……おはよ、う、ございま、す」
寝起きと見蕩れで上手く声が出ない。宝物のような金の髪が、白い服の上でさらさらと揺れる。
そう、彼女はいつもの礼服を着ていた。つまり朝の支度は済んでいるということになる。
「っ!?」
慌ててルネッタは跳ね起きた。上官だから、好きなひとだから、どちらにしても自分だけだらだらと寝ているわけにはいかないと思う。たとえよくあることだとしても。
――あ
そこで気付いた。全裸だ。ルネッタはパンツの一枚さえ身に着けていない、完璧なまでに生まれたままの姿だった。幸いというべきか、答えにはすぐにたどり着いた。何しろ昨夜は、それこそふやけるまで三人で、えっと、
「起きれるか?」
「はっ……はい、だいじょうぶです」
ルナリアは微笑み頷いて、ゆっくりで良いよと言ってくれた。
顔を洗い、脱ぎ散らかした服を拾い集めて着込んでいく。その間彼女は、いまだ夢の中にいるエリスの胸をぷにぷにと指先でつついていた。
ここはまだ、セルタの仮宿、その一室。そして今日は休みらしい。戦が終わった褒美の一つとして、セルタにて丸一日の休暇を与えるというのが表向きな理由。本当のところは治安維持の手伝い、らしい。
何しろ昨日まで斬り合っていた連中が、武器を捨てたとはいえ同じ街に居るのだ。完全な自由までは与えていないが、約束どおりに牢に繋ぐような真似もしていない。
その気になれば、似たようなことがもう一度出来る。だからこそ第七騎士団が睨みを効かせておくのだ。たとえ僅か一日の間だとしても。
そんな大事な日に、彼女は言うのだ。
「今日は私に付き合ってくれるかな」
もちろん、頷く以外に無い。
朝食を簡単に済ませて、ルナリアに付き添って宿の外へと出た。彼女はいつもの白い礼服を着込み――右手には漆黒の斧槍。威圧を増すためか、あるいは本当に荒事に警戒しているのか。
緊張が奔るルネッタへと、けれどルナリアは柔らかく笑って、
「歩こう」
ただそれだけを、真っ直ぐに。
だから歩く。ルナリアの隣をてくてくと、戦禍の傷跡も浅くないセルタの街を踏みしめるように進んでいく。
戦闘直後だというのに、表通りには怪我人の姿が無かった。皆一様に元気そうで、ひとだけを見ていれば戦の直後には到底見えない。これもまた彼らエルフの長所であり、同時に即座に戦へと踏み切ってしまう欠点ではないかとルネッタは思う。
無泉やひ弱な下層市民を除けば、彼らは死か全快の二択なのだ。手足さえも拾ってくれば繋ぎ合せる。それどころか、上位の錬騎兵ともなれば時間をかければ丸ごと『生やせる』のだという。さすがに一日二日の作業ではないが、次の戦には五体満足へと戻っていることに変わりは無い。
だから戦える。死ななければ被害が薄いから。だから息の根を止める。確実に殺しきらなければ意味が無いから。
部外者であるルネッタには、やはりそれは恐ろしいことに思える。戦士や兵士を嫌う気持ちなど無いが、戦い自体は嫌いだ。仮初めの役割とはいえ、武器を売りつけている自分にそんなことを言う資格が無いのは、重々承知しているのだけど。
「大丈夫そうだな」
ルナリアがほっとしたように呟いた。言葉の通り、街は静かで穏やかだ。活気まで求めるのは贅沢が過ぎるというべきだと思う。
「ルネッタ」
「はい、なんでしょう」
「もう少し付き合ってくれるかな」
頷く。彼女は嬉しそうに、それでいて少し疲れたように笑った。
彼女は進む。斧槍を肩に掲げたまま延々と道を前へ前へと。付き添い歩いてたどり着いた先は、もう街の外れだ。道はそこで途切れている。
「こっち」
けれどルナリアは止まることなく、道を外れて草の上へ。向かう先は――セルタを取り囲む森、そのものだ。外へと出るつもりなのだろうか。無論付いては行くのだけれど。
「やっぱり元気だなぁこの辺は」
森の中、獣道は歩くたびにざくざくという音を立てる。草木、虫、あるいは潜み暮らす獣のものか、森が活気に溢れているのは確かだと思う。
「このまま維持できれば、良いんだけどね」
この豊かさが老大樹の恩恵であれば、いずれ失われるのは間違いないと、たぶんルナリアは言いたいのだろう。
「なんとか……」
「ん?」
ルネッタの漏らした言葉に、彼女は小首をそっと傾げた。
「えっと、なんとか治したり、誤魔化したり……出来無いのでしょうか」
「さあな。分からん」
肩を竦めて、それでいて足を止めず、ルナリアは続ける。
「私は樹の専門化じゃないし、アレに関わる技術はほとんど一部の古老独占状態でね。東はただ借りてるだけに過ぎん。私の母やアンジェならあるいは、だが……母は若くして本家を出ているし、ライールが樹の扱いに詳しいのかまでは、私も知らん。仮に詳しくても手伝ってくれるのか、そもそも対策があるのかさえ不明。調律するだけと一から作る、あるいは死んだのを蘇らせるのはもはや別次元の話になってしまう」
溜息を、一つ。
「でも、ま、なんとかするさ。手段はこれから考えるにしても、それだけは諦めるわけにも行かないだろう。ウェールのため、というわけでは無いがね」
力強く、そして少しわざとらしく。ルネッタには送る言葉が思いつかない。代わりに彼女の空いた左手をそっと握った。
ルナリアは少し驚いたように目を見開いて、やがて柔らかく微笑んだ。ルネッタは頷く。それしか出来無い。だからそれだけはするのだ。
手を繋いで、指を絡めて、そして尋ねる。
「あの、どこまで進むのでしょう」
「まだまだ。もう少し」
彼女はルネッタに歩調を合わせてくれてはいる。しかし向こうは悪路でも一切速度に変化は無く、こちらとしては実は無理している速さなわけで。
とはいえ弱音は吐けない。なんだかんだと二人きり、せっかく手まで繋いでいるのに、情けないことなど言っている場合かと思う。
歩く。歩く。まだ歩く。息が少々辛くなってきた。それを悟らせまいと強引に整え、さらに歩く。
ついに、ルナリアから聞きたい言葉が発せられた。
「お、ついたか」
彼女は繋いだ手をさらりと離して、少し足早に三歩、五歩。遅れてルネッタも六歩、七歩と。
そして二人は森を抜けた。
「わぁ……」
思わずルネッタは声を出していた。広がっているのは草原。ただの草原だ。しかしそれも地平の彼方まで伸びていれば話は変わるというものだ。
ルナリアはさくさくと草を踏んで、そしてこちらに振り返った。
ゆっくりと顔を右から左へと流してから、彼女は言う。
「わかるかな」
首を、傾げる。
ルナリアは指をそっと横に払った。
「まるで刃物で切り落としたかのような不自然さで、森がそこで終わっている」
言われて、あたりを見渡した。
――本当だ
水平に、それこそ奇妙なまでに一直線に、森の木々が途切れていた。
「要するに、その線までが老大樹の範囲だったんだ。もちろん西側は違うよ、もっともっと森も深い。ただ東側は広げても利点が薄いから、調律の段階で地脈に乗せた魔力を短く仕切ったんだろう」
ルナリアは、少しだけ低い声を出した。
「不自然だよな、やはり」
言葉の意味は――今なら良く分かる。地平の彼方まで届くような一直線。その片側は光も飲み込む深い森で、もう片側は豊かとはいえただの草原だ。本来であれば、どちらもただの草原だったろうに。
彼女はこちらに背を向けた。
「何かを得れば何かを失う。腹が減れば食わねばならない。これだけの……そう、奇跡を起こしているのだから、果たして何を食っているのやら。ウェールに言われるまでもなく、考えたことはあるけどね」
ルナリアはそこで言葉を切った。遠くを見たまま動かずに、風が草木を撫でる音だけがさらさらと響いた。
もっとも、音で言えばもう一つだけあるのだけど。
「息が荒いな、大丈夫かね」
「はい、だいぶ楽に……え?」
声の出所はルナリアではなく、背後から。
振り返る。そして見る。
深い灰色の瞳に、華奢な顎と薄い唇。おとなしそうな顔の造りに反して、表情は力強い笑みが張り付いているかのようだ。背丈は小さく、それこそティニアより僅かに上といった程度。歳のころは十三、四くらいだろう。身に着けた服はまるで異国の踊り子のそれだが、違和感を塗りつぶすだけの力が、全身から放たれているように感じてしまう。
美人というよりは、美少女。それも極めて美しい、とつけたくなるほどの相手だが、見過ごせない特徴が、二つ。
さらさらと風に靡く髪は、銀。木の陰に隠れてなお分かるその肌は、浅黒く。
「ルネッタっ!」
ほとんど、倒れこむように後ろに飛んだ。
入れ替わるように金色の風が隣を駆け抜けた。手にした漆黒の斧槍が、まさに破壊を撒き散らすように振るわれる。
数本の木をバターのように切り裂く一撃を、しかし相手はあっさりと回避して後方へと逃げていた。
ダークエルフが、言う。
「いきなりだな、私は戦いに来たなどと言ったつもりは無いぞ」
「……どこから来た。いや、いつから後をつけていた」
敵はまるでからかうように、ひらひらと片手を振った。
「偶然だとも。天気の良い日に散歩をしていたら、興味深い奴らが目に入った。だからこうして挨拶に伺ったというだけだ」
みしり、と。空気が軋んだと勘違いするほどの威圧が、ルナリアの体を覆った。ダークエルフはにまりと笑い、
「冗談だ。お前の気配は強すぎる、地平の彼方からでも探れるぞ。無論、こうして肉を持って会いにこれたのは、奴が樹を焼いてくれたおかげだがね」
「おまえは、誰だ」
敵は腕を少し引き、気取ったように腰を捻る。それはまるで、役者が視界を集めるための動作のようだ。
「私はアルティラ。貴様らの怨敵、大敵、ダークエルフの女王だよ。よろしく願おう、偉大なる英雄ルナリアよ」
ルナリアが息を呑んだのが、はっきりとこちらにまで伝わってきた。だって、今の言葉を素直に受け取るなら、
「女王がわざわざご苦労なことだ。無用心が過ぎると思うが、何をしに来てくださったのかな」
「愚問である」
アルティラは両手を開いた。まるで神父のそれのように。
「お前に会いに来たのだ。会って見たかったのだ。まさに当千たる最強のエルフよ、こうして向かい合うだけで確かな力が染み渡ってくるようだぞ。以前も会ってはいるのだが、やはり肉の有り無しは大きく響くものだな」
ルナリアは――応えず、斧槍を低く構えた。背を向けたまま、彼女はこちらへと言葉をかける。
「すまんルネッタ、戦うぞ。離れててくれ」
言われるまでも無かった。だんだんと足に纏わり付き始めた恐怖を必死に振り払って、ルネッタは足早に後ろへと逃げる。近くに居てはならず、それでいて離れすぎてもいけない。敵が一人の保障は無い。
突然、アルティラが口を尖らせた。
「戦うつもりで来たのでは無いというのに。そして心外だな。私がそのかわいらしい少女を狙うようなことがあるとでも?」
「さあね。何しろ私はあなたを知らん」
躊躇など欠片も無いように、ルナリアが一気に踏み込んだ。斧槍の描く軌道は頭上から股下へと一直線。その凄まじい一撃は、硬く重い金属音に阻まれた。
「まぁ良い。これも立派な触れ合いか」
アルティラの右腕には、いつの間にか武器が握られていた。一言で言えば奇妙に捻れた鉄の杖だが、先端には剣呑極まる刃が付いている。足元の土は今の一撃でひび割れて、あたりの草や葉は風圧で撒き散らされた。
しかしダークエルフは、その衝撃を片手で止めている。
僅かな静寂、そっと挟んで。
壮絶な斬り合いが始まった。
――ひぃ!?
金属と金属のぶつかり合う音が響く。絶え間なく響く。これが果たして一対一の戦いが奏でる音だろうか。
豪雨のようなルナリアの斬激を、しかしアルティラは一歩も退かずに正面から受け止めている。互いの武器はもはやブレて碌に見えず、それどころか体捌きさえ視認が困難な域だ。
飛び散る火花は花火のように、昼の森を確かに照らす。ぶつかり合った衝撃はまさに大砲そのもののように、あたりの草をごうごうと揺らし続ける。
信じられなかった。何かの冗談かと思った。まさしく怪物であるルナリアと互角の戦いができる生物が居ることも。両者の戦いがもはや神話のソレにしか見えないことも。
ルナリアの体がさらに大きくブレた。
「ちぃっ!?」
アルティラが吼える。鮮血が散る。そして退く。
当然ルナリアは追う。武器が暴れる。襲い掛かる。
押し切れる、とルネッタは思った。その直後、
「いいなぁ、お前は!」
大きく退いたアルティラの周囲に、炎の嵐が渦巻いた。唸るような大火は、それでいてなぜか草原を少しも焼かない。
ルナリアが追撃を諦め、大きく退いた。アルティラは凶悪に微笑み、左手を大きく振った。
炎にはついに雷が混じり、弓矢のように引き絞られると――ルナリアへと向けて一直線に打ち出された。
彼女は手を翳す。いつものように、防御の壁で弾くために。
まるで水が蒸発するような甲高い音が響いて、炎と雷が掻き消えて。
「な、に……?」
目を疑った。散らばったはずの雷のみが、再び姿を取り戻してルナリアへと突き進んだのだ。それは彼女の防壁で一瞬止まり――直後、鉄壁であるはずの防御魔術を貫いた。
「ぐぅううっ!?」
雷が、ルナリアを焼く。直視するのも厳しいほどの光が、彼女を包み込んで、再び掻き消えた。
防いだ、らしい。肌が少々こげているようだが、それも即座に再生していく。
それでも、敵の攻撃魔術が彼女の防壁を貫いた事実に変わりは無い。基本的に防御側のほうが有利なはずだというのに。
アルティラは、
「はは、大したものだな」
あくまで嬉しそうに続けた。
「斬った張ったで僅かにお前。魔術のぶつけ合いなら僅かに私。足して引けばだいたい互角、といったところか」
ルナリアは応えない。あくまで静かに、斧槍を敵へと向けなおした。言葉を発したのは、再びアルティラだ。
「しかし妙だな。個で私と渡り合えるエルフなど、この世に居るはずが無いのだが……いやなに、これは自信や過信とは別の根拠があってな」
彼女は左手の人差し指をそっと立てて、口元にあてた。そして、よく分からないことを言った。
「お前、本当にエルフか?」
「……どういう意味だ」
「言葉の通りよ。とはいえ、その様子では知らんのかな……おっと」
彼女はなぜか己のすぐ右へと視線を送った。
「どうやら彼もお前に興味が出たらしい」
一瞬、ルネッタは己の目を疑った。さっきまでは何も居なかった。瞬き一つする前は、絶対にそこに何も無かった。
だけど今は、それが居る。
姿はあの『黒犬』に似ているが、大きさはずいぶんと小さい。せいぜい大型の狼といったところか。体毛は銀。瞳さえ銀。鬣のように顔周りを覆う毛だけが、炭のような漆黒。
犬、狼、虎。どれにも似ている。どれも違う。
だけど一つだけ、分かる。
あれは危険だ。とてつもなく、危険だ。
アルティラが再び口を開いた。
「その前に」
彼女は己の得物を地面へと突き刺した。
「英雄ルナリア、お前に一つ提案がある」
ルナリアは沈黙している。アルティラは気にせず続けた。
「お前、私と手を組まないか?」
「本気で言っているのか」
「無論」
彼女は姿勢を崩した。安心させるため、だろうか。
「私の敵はお前ではない。単に途中に居るから小競り合いをするハメになっているだけだ。同様にお前の敵も私ではない。違うかな?」
「ふざけたことを。貴方は敵だ、女王アルティラ。ダークエルフとの戦で私の部隊が何人減ったと思う。何人死んだと思う」
「それこそ愚問よ。こちらも何人死んだと思う? それもお前が直接手を下した者だけで恐ろしい数になるぞ。まぁそれは良い。仕方の無いことだ、お互いに。だからこそ今後は無駄な潰しあいを避け……本陣たるあの古き者共を一緒に殺さないかと、私はそう言っている」
凄まじいことを、言っている。ルネッタにもそれは分かる。どういう返事をするのかと思う。予想なんて、まるで出来無い。
ルナリアは一度斧槍を下ろして――再び、構えた。
「断る。貴方はここで殺す。そうすれば一つの戦が終わる。後のことは『それから』にさせてもらう」
「それは残念。もっとも、まだ諦めるつもりなど無いのだが……彼がついに我慢出来なくなったらしいのでな。少々遊んでやってくれ」
銀の筋が、昼の森を、切り裂いた。
ルネッタの目が捉えたのは、その『狼』が動いたと思しき軌跡。吹き出る鮮血。空中に跳ね飛ばされたルナリア。その三つだけだ。
狼が、もう一度動く。どさりと地面に落ちたルナリアへと、一直線に。再び血が出て、宙に浮いて。
――い、や
「いやああああああっ!?」
叫んだ。それしか出来なかった。
三度目が来る。既にルナリアが生きているのかさえ分からない。
交錯する。声を出したのは、アルティラ。
「ほうっ!」
あふれ出た血は、さらに多かった。地面に投げ出されたルナリアの体は真っ赤に染まり、左手が、根元から、無かった。
銀色をした『狼』は再びアルティラの横へと戻った。
口には、腕。そして背中にはここからでも分かる大きな傷。地面に転がったルナリアの斧槍から血が滴っている。
ルナリアが震えながら体を起こした。特に目立つのが片腕の欠損だというだけで、全身が数え切れないほどの傷で覆われている。
アルティラが言う。
「死なぬどころか、反撃までする。やはりお前は必要だ。たとえどんな手を使っても……ん?」
彼女は眉をしかめて『狼』を見た。
もはや生き物なのかさえ分からないソレは、咥えたままだったルナリアの手を口の中へと飲み込んだ。咀嚼する音が聞こえる。吐き気のするような音が。
飲み込むのかと思われた直後『狼』はなぜか体を震わせると、肉片と化した彼女の腕を地面に吐き出した。
震えている。銀色の『狼』が、なぜか体を震わせている。それはまるで、怒っているかのように見えた。
「何をしているのだ。今日はこのくらいで――」
言葉を遮って、そして誰の予想も裏切って『狼』は再び銀の弾丸となってルナリアへと突き進んだ。
「止めろと言うのに!」
それを抑えたのは、他でもない、アルティラだった。彼女の体を淡い光が包み込み、その結果なのか『狼』の放った銀の軌跡は倒れたルナリアを僅かに外した。
犬は何かに押さえ込まれるかのように、体を深く沈みこませている。
「勝手をされては困るな。これでは契約違反だろう。そもそもなぜそんなにも不機嫌なのだ。何が気に入らな……」
アルティラはそこでなぜか言葉を切って――遠くを見た。森の奥を、じっと、じっと。その先には、セルタがあるはずだ。
援軍でも来たのかと思ったが、違うようだ。やがて彼女は視線を戻すと、
「そうか。そういうことか。だからお前の力はそれほどの……気に入らんのも道理だな」
突然だった。地面に伏せていた『狼』の体がぶるぶると震えると、霧となって消えてしまったのだ。
「ふん、やはり樹が消えたとてすぐには無理か。私もそう長居はできんな」
彼女は歩き出した。自然に、今の戦闘など無かったかのように。
丁度、ルネッタのほうへと。
「やめ、ろ……」
消え入りそうなルナリアの声が聞こえた。それだけで涙が溢れる。恐怖さえ消えてしまう。
アルティラの足がぴたりと止まった。
「同じことを言わせるな。こんなか弱き少女など殺さんよ。何より、お前に嫌われてはたまらん。私はお前の敵では無いし、諦めてもいないのだからな」
再び歩き始めた。こちらへ、まっすぐ。退こうと思う。なのに足が動かない。思考が混乱している。頭がまともに動かない。思わず胸元を探る。念のためのアレを探す。
だというのに、
「止めておけ。拳銃ごときで私は絶対に殺せんぞ」
その言葉が、もはや麻痺しかけていた恐怖を思い起こさせた。ルネッタはその場にぺたりと座り込んだ。背が震える。手が震える。
大好きなひとをこれほどの目にあわせた相手を前にして、何一つ出来る気がしない。
アルティラは、まるでこちらを安心させるような声音で言った。
「再び繰り返すが、ルナリアは私の敵ではない。だから殺さん。だから生かす。だからそう怯えるな。あるいは、もしかしたら――」
彼女は、少し悪戯っぽく笑って、言った。
「私達の本当の敵は、君達なのかもしれんからな」
ルネッタの隣を、褐色の少女が横切った。竦んだ背に活を入れて振り返ったが、もうアルティラはどこにも居なかった。
あまりに静かな草原は、何もかもが夢だったようで。
草原と森の破壊跡と、血溜まりに倒れ付したままのルナリアが、全てが現実なのだと教えていた。
ルネッタは泣いた。