日々 上
小一時間にも及ぶ激論の末、一日交替ということに決まった。
無論、ルネッタがどちらの部屋で夜を過ごすのか、ということだ。団長副団長での同衾は通る余地も無かった。
食事を取り、風呂にも入った。木造な上に狭かったが、個室に備え付けてある時点で大変な贅沢なのだと思う。
置かれた石けんらしき物体は驚くほど泡立ちが良かった。全身隅々まで洗ったので、変な匂いはしない、はずだ。
ごくり、とつばをのむ。
裏返りそうな声を必死に正して、ルネッタは頭を下げた。
「よろしく、おねがい、し、します」
「そういう言い方するな、ばかっ」
戻した視界に写ったルナリアの頬は、僅かに赤かった。
決して大きくは無いベッドの上に、向かい合うようにして二人は座っている。相変わらず、彼女は上下に薄布一枚しかつけていない。白い肌がやけにまぶしく見えてしまう。
ルネッタは、エリスが寝間着としてくれた黒いシャツを着ていた。胸元がすかすかなのが多少カンに触るものの、文句を言える立場でも無いし、貰えるだけでありがたいのは本当だった。
ルナリアの私室には、私物らしきものがほとんど無い。立派な机が一つあるが、置かれているのはペンと数枚の紙のみだ。残りはクローゼットがある程度で、本棚すら無かった。部屋に帰ってくるのは寝るときくらい、なのだろうか。
やはり木造の床には、申し訳程度の絨毯が敷かれている。壁はむき出しだ。
ベッドのみが柔らかく高価そうであるところが、睡眠用の部屋であることの証明かもしれない。
詰めれば二人寝れるだろう。詰めれば。
「ああもうっ」
ルナリアが天上に手を翳した。室内が、薄明かりに包まれる。
「もう寝る。寝るったら寝る」
早口でそう言うと、毛布の中に潜り込んでしまった。
――ええと。
こうして座っていても何にもならない。ルネッタはおずおずとルナリアの隣まで這って進むと、隣に寝転んだ。
彼女は、背を向けている。ルネッタは、天井を見ている。
甘い匂いがふわりと香る。体温が半身に伝わってくる。小さな呼吸まで耳に届くし、僅かな身じろぎまで感じられる。
――寝れる、のかな、これ。
鼓動は痛いくらいだった。自分はどんな顔をしているのだろうか。
馬車の中では安眠なんて出来なかったし、旅につぐ旅で疲れてはいるはずなのだが――そんなもの、今隣で寝ている彼女に比べれば些細なことに思えてしまう。
ルナリアが、ごろり、とこちらを向いた。
心臓が止まるかと思った。
顔は天井へと向けたまま、目だけを動かして彼女を見る。
瞼は閉じられ、呼吸は浅くも安定していた。寝ているように見える。恐ろしい寝付きの良さだと思う。
長い耳に整った鼻梁、柔らかそうな頬から小さな唇、細い首筋と豊かな胸元まで、ほとんど凝視するように見てしまった。
ルネッタの右肩に何かが触れる。どうやら彼女の手、らしい。
体の向きを変えた。ルナリアが起きていれば、ちょうど見つめ合うような位置になった。
手。じっくりと見る。ほっそりとした指の先には、歪み一つ無い爪がついている。丸みを帯びたそれは、艶を放っているようにさえ感じられた。
こんな指先まで、彼女は美しい。
手に触れたい。
――寝てる、のに。
少し卑怯だとは思ったが、一度生まれた欲求は、どうにも押さえ込めないようだ。
そっと、右手を伸ばす。彼女の手首を、自分の指で摩ってみる。反応も声も無い。寝ている。
指を手の平まで進める。滑らかで、柔らかい。我慢できず、彼女の手に、自分の手を重ねてしまう。
掴まれた。
同時に、ルナリアの目も開かれた。
飛び退きたいほど驚いたが、彼女の口元に浮かんだ笑みを見て、落ち着いた。
いたずらっぽく微笑んでいる。
「……ずるい、と思います」
「そうかなぁ?」
宝石のような両の瞳が、薄明かりを飲み込むように緑に輝いている。
「寝てる相手にあんなことやこんなことをしちゃうほうが、ずるいと思うのだけど」
くすくすと笑う彼女の言葉に、ルネッタはうつむいた。
頬はもう一種の焼きごてのようになっていると思う。熱いのか痛いのかすら分からない。
――でも。
そんなことを言うわりに、彼女は握った手を離さない。それどころか、一本一本の指を丁寧に絡ませてくる。伝わる感触は小さな波になって、ルネッタの背筋にぞくぞくとした快感を奔らせる。
ちらりと見ると、ルナリアの頬も立派に赤い。薄暗い部屋でも分かるほどに。
彼女とて、恥ずかしく無いわけでは無い、らしい。
ルナリアが上を向いた。手は、握ったままだ。
「なぁルネッタ」
声は、浮かれてはいなかった。
「なんでしょうか」
「お前の目から、この国はどう見える?」
「どう、とは」
どういう答えを望んでいるのか、良く分からなかった。
「人の世と比べて、でもいいさ。特に根拠も無い感じたままでも良い。思ったことを、素直に聞きたい」
「素直に……」
栄えた町並みが目に浮かぶ。おいしい食事も思い出せる。どれ一つとっても、人間の世とは比べものにならないだろう。
「とても豊かだと思います。食べ物も豊富で、味も良い。町並みも立派ですし、治安も……怖い思いはしましたけど、普通に生きている人々にとっては悪いものには見えません。少なくとも、わたしの故郷よりもよほど」
「ざっくり言うなら……いい国だと?」
「はい」
「じゃあたとえばだ」
ごろり、と彼女が体をこちらに向けた。握った手に、少しだけ力が籠もる。
「お前が一人だったとしたらどうだ? 私やエリスが居らず、それでもここで暮らすとしたら? 協定は考えなくて良いぞ。ただ純粋に、この国の一人となって生きるとしたら?」
「え、と……」
彼女は、何を言いたいのだろうか。悩むが、分からない。だから答える。望まれたように素直に。
「それでも、悪い国には見えません。繰り返すようですけれど、わたしの故郷よりよほど暮らしやすく思えます」
「本当に?」
こくり、と頷く。それを聞いて、ルナリアはゆっくりと目を閉じた。
堅い声で、言った。
「――明かり一つも満足に消せないのに、か?」
「それ、は」
言われれば当然のことだった。この国の豊かさも、便利すぎるとさえ感じられる道具も、魔術の恩恵あってのものだ。それは魔力があって初めて使える利便性でもあるのだ。
ルネッタは口を噤んだ。確かに明かりさえ使えない。まだ見ぬ施設や道具にも、魔力を前提としたものは掃いて捨てるほどあるだろう。人間が一人放り出されて、生きて――いけるのだろうか。
頬に、ルナリアの手が優しく触れた。
「ごめんな、寝る前に言うことじゃなかった」
そのまま彼女に抱き寄せられる。体中が触れ合って、体温を分け合う。
「今度こそ、おやすみだ」
ルナリアが目を閉じた。吐息が少しだけ、頬にかかる。
握り合ったままの手。彼女の匂い。柔らかさ。
悩みも不安も恐怖さえも、簡単に塗りつぶされていく。
心地よい浮遊感に包まれながら、ルネッタもゆっくりと目を閉じた。
目が覚めた。ような気がしなくもなくて。ここどこだっけ。シーツがつやつやですりすりで。明るいような。朝なのかな。眠い。起きなくちゃ。いけないんだっけ。寝てて良いんだっけ。暖かくて。柔らかいような。丸いのが目の前に二つある気がして。誰かと一緒に寝てる。ルナリアさま。だったっけ。じゃあこれはきっと胸で。さわるとまずいのか。でも柔らかいなぁ。気持ちいいなぁ。顔埋めちゃおう。ぐりぐりと。おしつけて。
「あぅ……ふふ、積極的ですね」
――声が違うのですが。
跳ね起きた。勢いでベッドからも転げ落ちた。そして見た。
いつも通りの服装で、エリスがベッドに横たわっていた。
「……何をしているんでしょうか」
「添い寝です」
当然だろうとでも言いたげな表情だった。
口元を歪めて、続ける。
「お望みならば次の段階にも進めますが」
「え、えええ、えんりょしておきますっ」
荒い呼吸を押さえて、どうにか言い返す。朝から心臓に悪い。
きょろきょろと部屋を見渡すが、居ない。
「ルナリアさまはどこへ」
「団長はもうお出かけになりました。まぁ、金策、でしょうね」
そういえば、鉱山で二割税を削ると言っていた気もする。その埋め合わせのために奔走している、のだろうか。
エリスはもぞもぞとベッドから降りると、気怠そうなため息をついて、机を指さした。釣られて視線を送れば、昨日は無かったものがうずたかく積まれている。
本だった。駆け寄って開いて見れば、中は白い。ここに写せ、ということなのだと思う。
エリスの声がした。
「基本的に言葉が通じているわけですので、音に合わせてこちらの文字に直すだけですね。まずは対応表を作りましょう。その後、こつこつと訳して書き写してくれれば良いのです。それと、ページの不一致は気にしないで良いと。どちらにしても最後は水彩写にかけてしまいますからね」
そう言うと、エリスが傍に立った。なんだろう、と首を傾げるルネッタの両頬に、彼女の手の平が当てられる。
ふにふにふにふに、と勢いよく頬を揉まれた。
「という説明を団長はあなたにしようとしたらしいのですけどね、あなたの寝顔があんまりにもかわいいので、起こすのが忍びなくなった、だからお前を叩き起こしたんだ、と言われましてね。どういうことなんでしょうねこれは。私の安眠はどうでもいいと?」
「ご、ごめんなひゃい……」
震えた声で謝ると、エリスは盛大なため息をついた。
「まぁあなたが悪いわけでは無いです。申し訳ありません。つい、ですね」
許してくれるのであれば頬を揉むのを辞めて欲しかった。
たっぷり十秒ほど弄んだあたりで満足したのか、にこりと笑ってエリスは手を離した。思わずルネッタは自分の頬を摩る。別に痛いわけでは無いけれど。
「食事をお持ちしますね」
言うが早いか、あっという間に出て行ってしまった。見送って、一つ頷く。
――とりあえず着替えよう。
顔を洗って食事を掻き込み、エリスの協力を得て対応表も完成した。
後はひたすら書くだけだ。
――ここからが死ぬほど長いけれど。
ルネッタは三つ、言語を話せた。これも覚えさせられただけなのだが。
ルナリア達との会話に使っているのはその一つであり、もっとも古い言語でもあった。なんでも異領協定が出来る遙か前から存在するものらしく、発祥がどこなのかすら定かでは無いと聞く。元からしてエルフの言語なのかもしれない。
繊細にして複雑なその言葉は多彩な表現を可能にしてはいるものの、それ故習得が難しいとされていた。
古代では知識階級のたしなみとして広く使われていたと言う。現在ではさらに特化され、もはや趣味に生きる貴族か学者でも無ければ使わないのだとか。もっとも、表現力に優れているのは確かなので、使えるものには人気があった。集まって会話するだけのクラブすら存在する。何が面白いのか、残念ながらルネッタには理解出来ない。
人間の世では、音は残ったが文字は変わってしまったのか。
それともエルフ達の文字こそが、変質してしまったのか。
考えるには情報が足りなかった。出来たからどうなるというものでも無いけれど。
「ふう」
慣れないペンに悪戦苦闘しつつ、どうにか一ページを書き写した。費やした労力と残りの分量から計算出来る道のりに軽く絶望するが、
――いやでもしかし。
こうして安全な部屋の中でかりかりと腕を動かしている。それだけで食事が出る。服ももらえる。お風呂にも入れる。ルナリアと、一緒に、寝られる。
なんという贅沢か。今までの生からすれば信じられないほどに恵まれている。
「その贅沢に私と過ごす時間は入っていないのですか?」
「ひゃあああああっ」
心臓が止まるかと思った。転げ落ちかけた椅子をどうにか戻して、背後を見る。
分かってはいたが、エリスが立っていた。音も無く部屋に進入できるのはとてつもない技能だと思うのだけど、出来れば遠慮してほしい。
もう一つ、気になることもある。
「……声に出てました?」
「贅沢だなぁとだけ。後は推理です」
さらっというと、机の隅に小さなトレーを置いた。上には湯気立つお茶が乗っている。わざわざ持ってきてくれたらしい。
「ありがとうございます」
「良いのですよ。それより――」
彼女は両手でこぶしを作ると、大きな胸の前で合わせた。目にうっすらと涙すら浮かべて、
「私と過ごす時間は贅沢に含まれないのですか?」
うるうると紅い瞳を輝かせている。完全無欠なほどに演技なのだが――中々どうして、美人は何をしても絵になる。ずるいと思う。
「そんなことありません。エリスさんと居る時間だって……その、幸せです」
「んふふー」
言葉にすると、さすがに少し照れる。
エリスは答えに満足したのか、無邪気な笑みを浮かべたまま、執拗なまでにルネッタの頭を撫でた。涙は一瞬で消えている。
嘘はついていない。むしろ心からの声と言える。ただその、無節操に好意を振りまいて良いものか悩む、というだけだ。
嬉しそうなエリスの顔に、心地よい彼女の手の平の感触が、そんなことはどうでも良いと思わせてしまいつつあるけれど。
ひとしきり頭を撫でると、エリスはルネッタの耳元に口を近づけた。
囁くように、告げる。
「今夜は私と一緒ですね」
声。吐息。言葉の内容。全てが背筋に甘い感覚を奔らせた。頬が染まるのも自覚できたが、言葉を返す暇も無く、風のようにエリスは出て行ってしまう。
胸に残ったしこりのような何かは、不思議と少しも不快では無かった。
――で、こうなるんだ。
胸の上にどすんと乗せられた腕を、起こさぬようにゆっくりと退かしながら、心の中で毒づいた。
夜も更けきり、日付すら変わるころにようやくエリスは戻ってきた。流れるように風呂へと直行し、出るが早いかベッドに倒れ込んだ。髪も湿ったままだったが、もうどうでもよさそうだった。おやすみなさいの一言だけを交わすと、あっという間に寝てしまったのだ。ちなみに寝間着はおそろいの黒シャツだった。
あんなに思わせぶりなこと言っておいてこれですか、というのが四割。
こんなに疲れるほどの激務だったんだろうな、という思いが六割。
怒るのは筋違いだということくらいは分かる。それでも、この期待とも不安ともつかない胸のもやもやに悩んだ時間を返して欲しいとは思う。
今も体中が触れ合っており、彼女を全身で感じているとも言える。
しかしこれは抱きつかれているのではなく、悪い寝相に巻き込まれているだけだった。振り回される彼女の手足に耐えながら、ルネッタはどうにか睡眠の世界へと踏み込んだ。