大樹
抵抗に意味が無いことは、無論ルネッタはいやと言うほど理解している。
だからこそウェールがこちらから手を離し、背を向け屈んだその隙にも逃げるようなことはしなかった。
酒場のカウンターの奥、床に空いた大きな穴。傍には剥がした木の板が置かれたままだ。
「こちらへ」
穏やかな声だ。不思議と――敵意が無い。彼は一足先に床の穴へ。あっさりと飛び降りたので浅いのかと思い、覗き込んでみれば、
「う」
深い。少なくともルネッタが真似して飛び降りれば怪我をするだろう。幸い梯子はついていたので、それを使う。
「いたっ……!」
右肩が鋭く痛んだ。そうか、と思う。エラルディスの鞭で切り裂かれたのだった。幸い軽症だったようで既に血はある程度止まっているが、痛いものは痛い。
我慢しつつ梯子を降りて、地下道に立った。
明るいのはウェールの魔術のようだ。丁度彼の肩のあたりに、光の球が浮いている。
こちらを見張るようなウェールの顔がふと歪んだ。
一歩、近づいてくる。思わず心臓がぞくりと揺れる。当然のことだが、彼は敵なのだから。
しかし、
「肩を怪我しているようだね。見せてくれるかな?」
「……え? え、と、ええと」
咄嗟に言葉が出てこない。ウェールは返事など待たずルネッタの傷口にそっと手を当てた。
強い光がウェールの手に灯る。傷口に心地よい暖かさが広がる。
「もう、大丈夫だ」
声音は柔らかく、しかし表情は硬く。彼は背を向けると、一言。
「ついてきてください」
結局は、追うしかないのだ。
地下道はそれなりに広く、十分すぎるほど長い。どうみても一朝一夕で出来るような代物ではなく、あの酒場の地下にまで伸びていることを考えれば、街中に張り巡らされていると考えるのが妥当か。
――こんな、ものを
いつからだろうとルネッタは思う。あるいはウェールは最初からこうするために、街の財務官の地位について、それで、
「君には申し訳ないことをした」
ウェールがそう言って足を止めた。顔を僅かにこちらへ向ける。
「いかなる手段を用いてここに居るのか私は知らないが、それでも君は人間だ。我らの下らぬ争いになど毛ほどの関係も無い。巻き込んだことを謝罪させてほしい。所詮……言葉でしかないが」
「あ……えっと」
どう、返せと言うのだろう。返答次第で態度が急変するだろうか。
それはなさそうだとルネッタは思う。だから、
「わたしは騎士団の書記官、です。無関係では、無い、と思います」
「無関係だよ。これは所属の問題ではなく、もっと根深いものだから」
彼は進む。顔も向けず。
しばらく無言で地下を進み、ウェールが再び口を開いた。
「君に信仰はあるかい」
ルネッタはまばたきをする。そして少し眉をしかめる。質問の意図がいまいち掴めない。
「……よく、分かりません。少なくとも自分の目で見たことが無い『何か』に全てを捧げる気には、えっと」
「それが人間の普通かい?」
「いえ、もっと敬謙な方はたくさんおります。でも私は、あまり……」
真剣に考えたことが無い。結局はそれが本音なのだ。
ウェールは歩みを止めぬまま、
「我らエルフに神はいない。信じるものなど無い。いや――捨てたのだ。あの樹を手に入れたその時からね」
「き?」
思わず聞き返してしまった。当然何を指しているのかくらい、想像がつくというのに。
言葉はそこで途切れて、無言のまま歩く。ひたすらに、どこまでも。湿った空気と、不可思議な匂い。左右は暗い土の壁。そして先の見えない長い道。彼の放つ魔力光が無ければ頭がおかしくなってしまいそうだ。途中幾つか分かれ道もあったが、入って逃げようとさえ思えない。
時間の流れも把握できず延々と歩き続けて、疲労が両足にたまり始めた時だった。
「ここだ」
ウェールがそっと壁際の梯子を指差した。見上げると、長い竪穴に木の天井。隙間からは明かりが漏れていた。
「先に上ってくれるかな」
逃がさぬために、だろうか。ルネッタは頷いて梯子へと手をかけた。肩の傷はもはや毛ほども残っていない。木の天井は軽く押しただけでぱかりと開いてくれた。
湿った土の床に、新しい木の壁。同じく木の天井からは光がところどころ漏れている。倉庫だろうか。とはいえあたりにはゴミのような木屑が散乱しているだけなのだが。
這い出て待てば、すぐにウェールも上がってきた。彼はルネッタを一瞥すると、無言のままで倉庫の出口らしき扉に向かう。
彼はゆっくりと扉を開けた。入ってくるのは光と、声だ。
「ウェールさま!」
子供の声だ。聞き覚えがある。
外へと軽い微笑みを一つ送った後、ウェールはこちらに顔を向けて手招きをした。
――う
一瞬悩んだ。ここはまさに敵地なのだ。とはいえ『嫌だ』が通じる状況では無い。
誘われるままに外に出て、目に入ったのは人影だ。一足先に出ていたウェールの傍に軽く十数人。それを遠巻きに見ている数十人。視界に入る全てを足せば軽く百に届くだろう。
身なりや雰囲気からすれば恐らく第三市民か、無泉。
視線を上へとずらせば、もはや天にも届こうかと言う巨木が佇んでいた。
――ここは砦の中?
周囲はぐるりと丸太で作った城壁に覆われている。あたりには武器防具も散乱しているのだ。そう考えて間違いは無いはずだとルネッタは思う。
子供の一人がルネッタを見て不安げに顔を曇らせた。ウェールの鎧をそっと掴んで、問いかける。
「あの、ウェールさま……なにか、います」
別の子供――見た顔だ――が大きな声で言った。
「覚えてます! あいつ、敵だ! あのとき、ルナリアの隣にいた人間だ!」
ざわつきが波の様に広がって、視線が針のように注がれた。間違いなくほとんどが敵意だ。
思わず身を竦めて、同時におなかに力を入れる。座り込むわけにはいかない。
子供は険しい目つきで睨んでくる。ウェールはその頭をそっと撫でた。
「落ち着きなさい。大丈夫、彼女は話し合いに来てくれたんだよ」
「はなし、あい?」
「そうだとも。だからそんな目で見てはいけないよ」
言って、ぐるりとあたりを見渡した。何も敵意に満ちているのは子供だけでは無い。周囲にいる全てのエルフに、ウェールは釘を刺したようだ。
正直言えばありがたい。同時に、なぜそんな真似をしてくれるのだろうとも思う。
ウェールはそのままゆっくりと歩き出すと、とある数人の前で止まった。全員が武装し、顔には深い皺。見たところ四十歳程度だろうか。その顔を見る限り、魔力はそう強くないのだろう。
彼が静かに尋ねる。
「外はどうなっている?」
「変わらず睨み合いのままです。幸い被害もありません」
「そうか」
大きい深呼吸を挟んで、ウェールは続けた。
「みんな、良く聞いてくれ」
今度の声は大きかった。
「全員武器を捨て、砦から出るんだ。その後外にいる者と合流し、降伏するように伝えてくれ」
「こ、降伏?」
口を挟んだのは、まだ若いエルフの男だった。
「どういうことですウェール様!? 降伏なんて……お、俺達は負けたんですか?」
「そうかもしれん。とにかく、武器を捨てて騎士団に投降するように。後は向こうに任せなさい」
「そん……な……だって、それじゃ……」
今度は年老いたエルフが、かすれ声で叫んだ。
「ウェール様、それでは私達は殺されるのですか? どうせ死ぬのであれば降伏など御免です。それならばここで腹でも裂くほうがよほどマシではありませんか」
空気がざわつく。頷いてる者さえ居る。ウェールは、しかし慌てずに、
「落ち着きなさい。君達が両手を揚げれば、誰一人として殺されはしないよ。相手がエレディアのみならばともかく、今は……」
なぜか彼はそこで一度言葉を切った。目を閉じ、何かを飲み込むように喉を動かす。
そして続けた。
「今の敵はあの英雄ルナリアだ。投降した市民兵を殺すことなどありえない。同時に、全てが終わっても処刑されるようなことは無い。身の安全は保障される。絶対に。だから安心しなさい」
しん、と静まり返った。
もちろん、ルネッタだってそう思う。既に戦う意思の無い市民を殺して回る姿なんて絶対に見たくないと思う。
同時に疑問も生まれる。なぜウェールはこうも敵を信頼できてしまうのだろうかと。
ウェールは大きく手を振った。それは少々大げさなほどの動作だった。
「さあ、行くんだ」
「あの……」
ウェールの鎧に、子供がそっと手を触れた。
「ウェールさまは、どうなるんですか?」
彼は、微笑んだ。どこまでも柔らかく。
「大丈夫。私はまだ少しだけやることがあるんだ。だから心配せず、行ってくれるかい」
「……はいっ!」
その言葉で皆が動き出した。百に届くエルフ達が敗北を受け入れ行動を開始したのだ。渦の中心が誰なのか。これ以上無いほどに分かりやすい絵だった。
皆が正面門のあたりまでたどり着き、重い音と共に門が開かれる。丁度その最中だった。
エルフ達の背にウェールが声をかける。静かに、しかし力強く。
「安心してくれ。セルタは必ず君達が住める街になる。必ず、必ずだ。だからもう少しだけ我慢していて欲しい」
幾人かは振り返り、残りは聞こえなかったのかそのまま進み、そうして全てのエルフは砦から外に出た。
残ったのは、ウェールとルネッタ、二人だけだ。
「では行こう。ルナリア殿を待たねばならない」
彼は歩き出した。砦の中心、街の中核、膨大な生命の塊とでも言うべき老大樹の根元へと。
もちろん後を追う。
「一つ、聞きたいことがある。人間の君に、そして部外者である君にこそ聞いてみたいことが」
「……なんでしょうか」
「我らエルフの国を見て、どう思う? 素直に答えてくれると嬉しい」
それは、前にルナリアに聞かれた言葉、そのままだった。
「最初は、楽園のようだと思いました。食べ物は驚くほどおいしくて、信じられないほど便利な魔法も沢山あって、みんな綺麗で……でも」
「でも?」
「全てが都合良く出来ている場所なんてないのだと、最近はようやく分かってきました。無泉のことも、ダークエルフのことも。小さな差別や喧嘩だって、人間の世と何も変わりません」
「そうか」
彼はそれきり話さなくなった。
樹に向かって歩く。段々と近づく。そうして距離が詰まるごとに、息苦しいまでの迫力を感じる。
幹の太さはまるでちょっとした城だ。枝の本数は矢にすれば草原をまるごと埋め尽くしてしまうだろうし、葉の数は一体何人分のベッドになってしまうだろう。
そして何よりも、
「脈、みたい」
どくん、どくんと。
もうはっきりと分かる。まるで動物のように、人間のように、その余りに巨大な一本の樹は、一定の間隔で鼓動を響かせていた。
根元までやってきた。
その威圧感に、恐怖のような何かさえ感じる。
ウェールが幹に手を触れて、ぽつりと言う。
「人間とエルフに、昔は交流があったことは知っているかい」
最初は独り言かと思って、反応が遅れてしまった。
「しっ……知っています。えっと、一応」
「その交流を絶つに至った切欠が、この樹なのだそうだ。もはや我らは外になど頼らずともやっていけると」
初耳、だった。そんな情報は人間の書物には無い。当然、かもしれないけれど。
ウェールが振り返った。瞳は、ぞっとするほど、冷たい。
「そしてもう一つ。この樹が無かったころ、人間との交流があったころ、つまりは千と数百年の大昔には……無泉などという存在はどこにも居なかったそうだ」
ルネッタは、またばきをした。
何を言っているのだろう、というよりも。
何を言いたいのだろうと思ってしまう。
彼は――勢い良く、振り返った。そして一言呟いた。
「来たか」
言葉の意味を飲み込むより速く、ルネッタも背後を見た。
漆黒の鎧と、漆黒の斧槍。金色の髪を風に流して、けれど表情はどうしても暗い。
――本当に
ルナリアは一人で来ていた。仮にも総大将が、敵地の真ん中に、護衛も連れずにたった一人で。
もちろん、彼女にとって危険などそうは無い。現状を考えれば、一人で砦に乗り込むことなど大した賭けでは無いだろう。
それでも、と思う。こんな自分に、騎士団長などという立場の彼女が、たった一人で、わざわざ。
ルネッタは零れそうになった涙を抑えた。
だからこそ、決めていたことがある。絶対にそれだけはしようと心に誓ったことがある。
もしもウェールが自分を人質に、ルナリアに自害を要求した場合、舌を噛んで死ぬ。たとえそれをルナリアが望まないとしても、絶対に、絶対に自分のためなどに彼女を死なせてはいけないと思う。その程度の意地は、何が何でも通してみせる。
第一声は、ウェールだった。
「皆はどうなりましたか、ルナリア殿」
「投降は受け入れた。危害は加えていないし、今後も加えるつもりは無い」
「……ありがとう」
ルナリアの瞳が鋭くなった。ぶるりと恐怖をおぼえるほどに、険しく、恐ろしく。そして彼女は言う。
「誰にそそのかされた?」