大蛇
右肩に灼熱が奔った。吹き出た血が己の肩を、己の服を、そして抱きかかえたティニアの顔をどろりと汚す。
「ぐぅううっ……!?」
ルネッタは、それでも、悲鳴を、かみ殺す。せめてティニアに注がれる恐怖の量をほんの僅かでも減らすために。
「あらあら、庇っちゃうのねぇ。どっちが先かってだけの話なのにぃ」
その女――黒爪樹の一人は『ひゅんひゅん』とわざとらしく鞭を振り回した。その度に周囲に飛び散る血は、もはや何人分が混じっているのか想像さえつかない。
――どうする
自問する。痛みと震えと悪寒の中で、ルネッタは必死に考える。
けれども答えは、とっくに出ていた。
死ぬ。死ぬのだ。ここで二人、無残に引き裂かれて死肉となる。相手は不意をつく隙さえ与えない、ではない。不意をついても尚状況が変わらないほどの相手なのだ。
涙が出る。歯が鳴る。我慢する。我慢したい。でも、と思う。会いたい。二人に。
「もうめんどくさいから、予定へんこーう。あなたが最初に真っ二つねぇ」
鞭が来る。唸りをあげて、風を裂いて。
ルネッタは目を瞑った。そしてティニアを突き飛ばした。断じて巻き込むわけにはいかない。
怖い。生きたい。それでも、この子より後に死にたいとまでは思わない。無力すぎる自分の、精一杯の抵抗だ。
刃が身に食い込む痛みは――やってこず、変わりに鳴り響く金属音。
――あ
来たと思った。来てくれたのだと。涙が溢れる。一瞬呼吸さえ忘れてしまう。振り向いて、最初に目に飛び込んできたのは、あまりに長く威圧的な大矛。
――え?
漆黒の鎧を纏ったその体は十分すぎるほど大きく、一目で男のそれだと分かってしまう。
女の顔は歪んでいた。正に不愉快極まるといった様子で、低く低く、奴は言う。
「何のつもりかしらぁデューイ」
ルネッタと敵の間に立ちふさがるその姿に、そしてその名前に、覚えがあった。つい先日、陣を貫いて本陣で大暴れをした黒爪樹の一人だ。
デューイが静かに告げた。
「こちらの台詞だエラルディス。これは戦だ。無泉共をいたぶり殺す必要がどこにある」
「あら、ちゃんとあるわよぉ? そのほうがわたしが楽しいんだもーん」
けたけたと笑う。その笑顔に背筋が冷える。楽しいと言ってのけた表情に、一切の邪気が無かったからだ。
デューイが、静かに、構えた。
「やはり、貴様とは合わん」
「どーかぁん。だいたいさぁ、そっちのお譲ちゃんはわたしを殺すつもりで攻撃してきたよぉ? 殺意付きで行動に移してるんだから、立派に戦士じゃなーい。敵の戦士をどう殺そうが、そこはわたしの自由よぉ。あなたがどうこう言う問題じゃ無いわ」
「下らん詭弁を聞くつもりは無い」
「……ああ、そう」
エラルディスが変わった。その顔が、その気配が、あるいはその纏う魔力が。ルネッタにさえ感知できるほどに、女の全てが戦いのために塗り替えられていく。
ルネッタは、今度こそ本当に恐怖した。自分はこんな怪物相手に戦う気で居たのかと。
バケモノ同士のぶつかり合いが、手の届きそうな場所で始まった。絶え間なく響く金属音から、逃げるようにして後ろに下がった。ティニアが抱きついてくる。だからぎゅっと抱きしめる。
お互いに震えていた。死は間違いなく二人の首筋を撫でていた。運良く命を拾ったのは確かだが、同時にまだ抜け出したわけでは無いのだ。
――考えろ、考えろ
肩の痛みはもはや感じない。今取りうる最善はどれだろう。
目の前では大矛と刃の鞭が火花を散らして嵐を巻き起こしている。この隙に逃げるか。素直に逃がしてくれるのか。
あるいは、と思う。もしかするとデューイと名乗るこの黒爪樹が、守ってくれるのだろうか。逃げた先に敵が居ない保障など無い。だとすれば、圧倒的な強者であるこの男に頼れるのであれば。
――だめだ
あまりにも都合の良い思考を、ルネッタは半ば強引に打ち切った。どう見ても今は『たまたま』が重なっているだけだ。気に入らない己の仲間に、ついに我慢できなくなった。ただそれだけのことだろう。
ティニアの手を引く。逃げる。逃げるんだ。少しでも早く、少しでも遠くに。
背を向け踏み出した、その瞬間。風が舞い、音が響いて、ルネッタの真横の路面に凄まじい長さの『切れ込み』が出来た。
「逃げちゃだめよぉ。酷いことしたくなっちゃうでしょぉ?」
息を呑む。エラルディスは戦闘の最中、僅かな隙にこちらへ一太刀送ったようだ。軌道を見る限り、当てようと思えば容易い。それだけの余裕は、維持している、のか。
膝が笑う。ティニアの手を強く握る。もはや望みは、デューイの勝利しかない。
「もーいい! めんどくさーい!」
鞭がうねった。まさしく大蛇のように矛へと巻きつくと、その動きを封じてしまう。
距離を保ち、武器を引っ張り合って膂力比べ。両者の体格は余りに差があり、人間の常識からすればエラルディスの敗北は確かだ。そんな理屈が通用しないことを、無論ルネッタは知っている。
ミシミシと音が響いて、石畳を削って両者は力を注ぎあう。
勝ったのはデューイ。少なくとも最初はそう見えた。体ごと宙に浮いて、凄まじい勢いで引き寄せられるエラルディス。彼女は無様に体勢を崩されたまま矛へと一直線に飛んでいく。
そこで、奴は笑った。そして手を捻った。
鞭が暴れる。その勢いがエラルディスの体を空中で動かす。軌道を操作し地に下りると、そのまま一気に踏み切った。
「ぐっ!?」
「あはっ」
矛を掻い潜り懐まで一気に飛んだエラルディスの、槍のように鋭い蹴りが、デューイに胸に突き刺さった。
男は弾丸のように飛んで、路地の壁に叩き付けられた。轟音と共に凄まじい大きさのヒビが入って、破片があたりに撒き散らされる。
血のように赤い髪をなびかせて、エラルディスはさらに踏み込んだ。
「デューイぃぃぃぃぃいいっ! 忘れちゃったのかなぁぁあ?」
振り回す鞭の先端には、未だに大矛が巻きついたままだった。
ひゅんひゅんと、勢いをつけて、それを一気に、叩きつける。
「がっ!? ぐぁあああああっ!?」
大矛が、デューイの腹部を貫通した。壁に縫い付けられた男へと、更なる追撃の鞭が奔る。
鎧など物ともせずに、四肢の全てを丁寧に刺して、暴れる大蛇はようやくエラルディスの手元に戻った。
滴る血をべろりと舐めて、女は言う。
「黒爪樹で団長の次に強いのは、わ・た・しぃ。勢い任せで喧嘩売るなんて、あたまわるすぎなーい?」
勝ち誇ったようにエラルディスは笑う。それも当然か。どう見ても勝ったのは彼女なのだから。
――う、そ
終わった。あっさりと、助けの手は途中でぽきりと折れてしまった。
苦しげに呻くデューイはそのままに、女の顔がこちらを向いた。
「あなたはそこで見てるといいわぁ。今からあの子達を刻んであげるからぁ」
口元は裂けたように開いて、瞳は爛々と輝いて、首が左右にふらりと揺れて。間違いなくエラルディスは二人をこの場で殺すだろう。表情が何一つ嘘を言っていないのだから。
予想の外からやってきた障害も、問題なく取り除いた。彼女が緩むのも当然だと思う。それでも、デューイとの交戦によって確かに失ったものがあるのだ。
それは即ち時間であり、時間はそのまま猶予となる。その黒爪樹が戦ってくれたからこそ、間に合ったのだとルネッタは思う。
「……なによっ!?」
エラルディスが横に飛んだ。ほんの一瞬前まで彼女がいた路面に、天から武器が落ちてくる。
深々と突き刺さったのは――漆黒の斧槍。一目で分かる。安堵する。膝から力が抜けてしまう。
疾風のように駆けて来た彼女は、迫る刃の鞭をかわし、あるいは篭手で弾いてエラルディスの懐まで一気に入り込んだ。
迎撃の蹴りをするりとかわし、背後まで回りこむと片腕を掴んで捻りあげた。
「ぎっ……!? あなた、なんで、どうしてっ!?」
丁度間接でも極めるような形になっている。その程度で済ますつもりが無いのは、見れば誰でもわかるだろう。
「銃というのは便利なものだな。ずいぶん遠くまで音が届く」
ルナリアの顔は仮面のように硬く――同時に震えるほどの怒りが見える。
彼女はエラルディスを締め上げた形のまま、ちらりとこちらを見た。目が合う。微笑んでくれる。そして視線が僅かに動いて、ルネッタの肩の辺りに注がれた。
びしり、と。
息をするのも苦しいほどの魔力が渦巻いた、気がした。
「わっ……わたしの仲間は!? うちの団員はどうしたのよ!?」
「殺した。次はお前だ」
あたりの圧力が、彼女の元へ帰っていくようだ。
ルナリアが力を篭める。極めきったエラルディスの間接から、嫌な音が響き始めた。
「い、いや、痛い、いたいたいいたいっ……いやあああああああっ!?」
千切った。
骨を折る、などという生易しいものではなかった。ルナリアはまるで虫でも壊すかのように、エラルディスの右腕を根元から『引っこ抜いた』のだ。
どぼんどぼんと血をこぼしながら、女は路面を転がった。あたりが一気に朱に染まっていく。
「ぎぃいいいいぃいいっ!? いや、いや、わたしの、うでえええぇええ!?」
喚き、泣き叫ぶ彼女へ――欠片の容赦も無い、ルナリアの蹴りが飛んだ。枯葉のように吹き飛んで、壁にめり込み血を吐いて、それでも死なないのはさすがの黒爪樹なのか。
ルナリアは底冷えするような声音で言った。
「ルネッタを傷つけたな? 血を流させたな? あっさり死ねると思うなよお前」
彼女の横顔は、はじめて見るほどに恐ろしげで。
思わず、ルネッタは退いてしまった。一歩、二歩と道の脇に。背中に何かが当たる。壁、ではなく木の扉か。ここはあの酒場で、これはつまり入り口で。
扉が開いた。何かの気配を感じる間も無く、ルネッタの首筋に、冷たい感触が奔った。
ごくりと喉を鳴らす。悲鳴も出ない。だって今押し当てられているのは、剣だ。
何者かの手が伸びてきて、ルネッタの体を――なぜか、気遣うように優しく――押さえつけた。
「ルナリア殿」
知った顔。聞いた声。なぜ、ここに居る。店の中から出てくる。
ウェールの言葉にルナリアは振り返り、大きく目を見開いた。生まれた隙に、エラルディスが動いた。逃げる、逃げる。もはや背を向けて全力で逃走を開始する。凄まじい速さだ。片手を肩から失い、とんでもない威力で蹴り飛ばされたというのに。
だが、ルナリアは追わない。それどころでは無いと顔が言っている。
理由は無論分かっている。なにしろ今危険の渦中に居るのは、ルネッタ自身なのだから。
ウェールが穏やかに告げた。
「一時間後に老大樹で。あなた一人でお願いします」
「……分かった」
言葉はそれで十分なようだ。
暗い酒場へと引っ張り込まれる。それでもあくまで優しく、傷つけぬように。人質なのだから当然か。
――ああ
ルナリアの表情が目に焼きついて離れない。ティニアが掠れ声で自分を呼んだのが聞こえた。
現状を――深く飲み込んで、ルネッタは唇をかみ締めた。血が出るほどに強く、強く。
ルナリア達の足を引っ張る。それだけは絶対に嫌、だったのに。