正面
行軍とは難しいものだとシンシアは思う。皆が思い思いの速度で走れば隊列はばらけ、烏合の行進となりえてしまう。かといってあまりに遅い者に合わせて進めば、それだけ目的地が遠くなる。
僅か二千そこそこの軍勢とはいえ、歩を合わせるその労力だけで一苦労である。それが、緊急を要するとなればなお更であった。
兎にも角にも、ルナリアを先頭に二千は道を駆ける。ひ弱な第三市民の兵は既に息が上がっているようだが、隊長格を中心とした『上澄み』達は苛立ちを隠せない程度の速度である。
畑を過ぎて、郊外を抜け、道は綺麗に舗装がなされて、左右には十分な高さの家が立ち並ぶ。喧騒、怒号、血と戦乱の匂い。愚かしくも悲しい戦いの様子が、肌に感じるほどに近づいてきた。
幸い大通りゆえ道は広い。このまま真っ直ぐと進み、左に折れれば第一市民の区画に入る。恐らく主となる戦場は、そこから領主の館までの空間全てであろう。
「止まれ」
ルナリアが右手を掲げて、足を止めた。躓く様子も無く、二千は綺麗にその場に留まる。統制は取れている。問題は無い。問題は――
「ジョシュア、探れるか」
「可能です、が、二度目を放てばさすがに後に響きますよ」
「頼む。穴は私が埋める」
二番隊隊長ジョシュアの体に目を見張るほどの魔力が集まって、弾けた。これは彼がもっとも得意とする魔術で、あたりを隈なく『調べつくす』類のものだ。原理は単純で、魔力を探るだけならば誰にでも出来ると言って良い。特筆するべきはその範囲だった。本気になれば街の一区画丸ごと舐め尽すほどだというのだから、大貴族というのは本当に恐ろしいものである。
ぼたぼたと滝のように汗を滴らせながら、彼は団長に告げた。
「少なくともこの辺りはアレで全てです。あの『見えている』ので全てです」
「――そうか」
そう言って、ルナリアは斧槍を構えた。皆に足を止めさせたその原因に対して、静かで濃厚な圧力を向ける。
道の向こうには、五人。一直線に横に並び、武器を携え姿勢を崩し、気後れの欠片も無い様子でまっすぐこちらに視線を注いでいる。
五人で軍団を止める。本来であれば失笑物の喜劇であろうが、それが何一つ冗談でないことは昨日の戦で思い知らされた。
ルナリアが静かに告げる。
「シンシア、お前の部隊はここに残ってアレの相手だ。残りは左の裏道から抜けて第一地区へと進め」
命令を受けた。勤めを授かった。それだけで昨日を思い出す。体が、震える。
だが退けない。決して。
現状取りうる選択肢は二つあった。背後のセルタ兵をぶつけて時間を稼ぎ、ルナリア達主力が第一市民の区画まで走り抜けてしまうこと。あるいは逆に、少数の精鋭で黒爪樹を迎え撃ち、多数の兵士を区画へと送り込む。
前者の利点はより早く街内部での反乱鎮圧に手をつけられること。欠点は、恐らく残したセルタ兵が壊滅状態になるであろうこと。
後者の欠点は、やはり事態の収拾は先延ばしになるであろうこと。利点は確実にこちらの被害が減ることと――何よりも、黒爪樹を殺しうる一手だということだ。無論、勝てればの話であるが。
ルナリア、ジョシュアが前に出る。その背後を追うのはシンシアと直下の第七騎士団兵、百だ。
百三対五。こちらには化け物のように強い長。それで五分だ。ようやく五分なのだ。
蟻の巣のように張り巡らされた裏路地へと、セルタ兵が順々に入っていく。広さは我慢できる程度はあり、数も所詮は二千である。時間はかかろうが、問題無く進むことが出来るはずだ。
何よりも。
そうして脇に抜けていくセルタ兵に対して、正面の五人は一切の行動を起こそうとしない。下手に仕掛けて隙を見せれば、ルナリアに横腹を食い破られる――そうした想定はあるのだろうが、本音のところはどうでもいいのだろう。反乱がどう進もうが、街の中で軍隊同士の衝突が起ころうが、どうでもいい。返って望ましいのかもしれない。いずれにしても奴らの目的は戦いであろう。ルナリアやジョシュアとの、血を塗して吹き散らすような戦であろう。
「事前に言った通りだ。頼むぞ」
団長は肩越しにそう告げて、地を蹴った。矢のような速度で突き進む彼女、続くのは――ジョシュア一人である。シンシアと百の兵はあくまで待機、あくまで観戦だ。
黒爪樹の面々に奔る僅かな動揺。しかしそれも一瞬である。真っ直ぐ突っ込んだ暴獣の如き団長に対して、彼らは周囲に均等に散った。ルナリアは足を止める。具足が石畳を削って砂埃が上がる。
円を作られた。素直に入れば串刺しである。
しばらく睨み合いになるだろうというシンシアの予想は、向こうの一人があっさりと踏み込むことによって粉と消えた。
振るわれる大剣。あっさりと弾くルナリア。彼女が反撃するであろう機に合わせて、次の黒爪樹が襲い掛かる。斧が地を薙ぐ。彼女は飛ぶ。二刀が踊る。彼女は受ける。長剣が伸びる。彼女の顔が、苦痛に歪む。
空中の彼女へと、長い槍が吸い込まれていく。金属音。同時に少し湿った音。鮮血が散る。一目で分かる傷が見える。一瞬でそれが治るのも見える。
地に下りた。五つの影が同時に襲い掛かる。たまらずか、ルナリアは大きく後方に跳んで――入れ替わるように前に出たジョシュアが、その長槍を大きく真横に払った。
突風が起きるほどの速度である。凡兵などまとめて殺せるほどの鋭さである。しかし相手は、控え目に見てもジョシュアと同格の怪物だ。
軌道上に居た二人がまず避けて、三人目となる大斧の女が槍を柄で受け止めた。轟音がする。衝撃が風になってあたりを襲う。ジョシュアに生まれた隙は死に値するほどのもの。しかし彼は一人ではない。それどころか、主ですら無いのだ。
ルナリアが反転するように石畳を蹴った。馬鹿げた勢いで加速し、足元の石にはヒビが入る。
全身を丸ごと使った、正に叩き潰すための一撃が、ジョシュアの隙を狙った敵へと襲い掛かる。もはや爆発音に近い何かと、巻き上がる粉塵。地には巨大な穴、飛び散るのは赤い液体。
衝撃に思わず目を閉じて――すぐに開き見えたのは、再び離れてにらみ合う両陣営の姿だった。
黒爪樹は全員生きている。しかし、昨日の戦で長剣の男は片腕を失ったままであり、槍を持った男は今の一撃で胸元から激しく出血しているようだった。無論、見る見る間に止まってしまうのは当然の話ではあるのだが。
ルナリアに傷など残っていないが、表情は険しい。ジョシュアに関しては探索魔術の疲労が濃いのだろう、既に肩で息をしていた。
ジョシュアが呟く。小さいが、不思議と通る声で。
「厳しいですねぇ」
「まったくだ」
軽口のように言い合うが、余裕は毛ほども無いはずである。
黒爪樹の一人――二刀の女がけたけた笑い、
「だったら後ろの使わないのぉ? そのために残したんでしょ?」
「もちろん使うさ。そのうちな」
あっさりと返し、そして再び始まった。
今度は攻守が逆転した。足を止め、その場で迎撃に徹するルナリアへと、五人の練騎兵が襲い掛かる。まさしく化け物染みた速度で斧槍を振るい、一人弾き二人弾いて三人四人。さすがに崩れかけた一瞬の隙を、ジョシュアが見事に補ってみせる。
敵はあくまでルナリアを狙う。既に動きが鈍くなりつつあるジョシュアには目もくれない。
考えられる理由は、これも二つ。僅かとはいえルナリアから視線を逸らせば、次の瞬間には肉片にされるかもしれない。それほどの怪物が相手なのだということ。
そして、既に疲労困憊の相手などこうして均衡を保っているだけで勝手に潰れてしまうだろうということ。仕留めるのは片手間で済むほどに消耗してからで良い。
絶え間なく響き渡る金属音は刻々と激しさを増していく。繰り広げられる戦の激しさも同様である。これだけの距離がありながら、シンシアは刃の軌跡を追うので精一杯である。背後の兵にはもはや視認さえ困難であろう。
ルナリアが止まり、辛うじて敵の刃を弾き続ける。思えば先手となった最初の会合のみがまともな『攻撃』であり、残りは防戦一方である。鎧には既に無数の傷、修復は間に合わない。幾度か斬りあえば血が吹き出て、すぐに止まる。けれども確かな消耗にはなる。
ジョシュアの動きはますます鈍く、鈍く――そしてついに、破綻の時がやってきた。ルナリアへと伸びた槍を、ジョシュアが己の槍で弾いた。あくまで防御。あくまで妨害。だというのに彼はその衝撃を支えきれず、背後へと吹き飛ばされてしまった。
尽きたのだ。何もかも。
黒爪樹の動きが止まる。ルナリアから一定の距離を保って、再び円を描いた。ジョシュアは何とか膝立ちになるが、それ以上は動けないようだ。
「終わり、かねぇ」
呟いたのは、隻腕長剣の練騎兵。最初にシンシアと切り結んだあの男だ。
長剣をそっとかかげると――その切っ先が遠くのシンシアへと向けられた。
「今がちょうど『そのうち』だろ。生きてるうちに使わんともったいないぞ」
「いらん心配だ。私はまだ元気に生きてる。さっさと来い、続きをしよう」
その返答に、隻腕の男は顔をしかめた。
――まずい、か?
ごくりとシンシアは息を呑んだ。疑問に思ってしまっただろうか。気付いてしまっただろうか。あまりに露骨過ぎただろうか。
僅かな沈黙。そして静寂。しかし相手は戦狂いである。望みどおりの反応をしたのは、二刀の女だ。
「あっはは、いいねぇあなた。好きだよぉ」
猫のように体を沈めて、石弓のように踏み込んでくる。
一人が始めれば他も追従せざるをえない。四人は順々にルナリアに。そして槍の男のみが、遠くで動かないジョシュアへと。
ぶつかり合う、まさにその瞬間。
「放て!」
響いた声は、男の物。場所は左右に立ち並ぶ家々の、屋根、その一つから。
魔力を隠し、気配を隠し、じっと機会を伺っていたラクシャ隊長が、己の部下へと投げた号令だった。
一斉に立ち上がる部下の数は僅か十。しかしそれはセルタ兵や第七騎士団古参とは違う。ライールから授かった練団、その精鋭たる十名である。
それぞれが手にした槍を、眼下の黒爪樹へと一斉に投げ放った。
「ちいぃっ!?」
単独ならば脅威ではない。正面切っていれば相手ではない。しかし今はどちらも違う。
不意打ち気味に投げられた槍を、それでも黒爪樹は弾き、かわし、やり過ごしてしまう。
当然これも想定の範囲だ。ラクシャを含めた十一名は武器を構えて屋根から飛び降り、それに合わせてシンシアは叫んだ。
「突撃だ!」
百の声。咆哮。それは決して小さな音ではない。
突如放った全力の一手。混乱の極み。その中で最初に動いたのは――やはりルナリアだった。
彼女は恐るべき速度で踏み込んだ。体を捻り、武器を引き絞り――そうして狙ったのは周囲の四人ではなく、ジョシュアを仕留めようと動いた槍の男であった。
ありえない距離を一瞬で詰め、放たれるのは綺麗な横薙ぎ。
反応が遅れる。受けようと動く。間に合わず。
槍を持った黒爪樹の体が、腹から綺麗に二分された。
血が吹き出て、臓物がこぼれる。本来ならば。
それより速く、ルナリアの縦からの二発目が飛ぶ。
そうして四つに裂かれた錬騎兵の一人は、断末魔さえ無く絶命した。
「ナーザル、あんた」
それは誰の声だったか。仲間の死に対する言葉だろうか。
衝撃があった。たとえ百戦錬磨の黒爪樹といえども、目の前で死なれれば動揺もあろう。
それで十分だったようだ。
ルナリアは既に動いていた。斧槍を頭上へと振り上げて、全てを押し潰すような一撃を残った四人へと放つ。
隻腕の男は逃げた。二刀の女も逃げた。大剣の男は転がった。
大斧の女が、不幸にも真っ向からぶつかり合った。
軌道は縦から真っ直ぐ。捻り無し。敵は持った斧を構えて、綺麗にソレを受け止める――はずだった。
振り下ろされた斧槍の威力は敵の、あるいは周囲の全ての想像を超えて、防御の上から黒爪樹の体を真っ二つに引き裂いてしまった。
斧を砕き、頭を割り、鎧を裂いて、体を切り開く。斧槍の勢いはそれでも止まらず、バターのように石畳をさくりさくりと斬り進んで、ようやく止まった。
見事に真っ二つ。疑問の余地も無く即死であった。
――う、あ
恐ろしい。味方である。己らの団長である。だというのに膝が笑い、背が震える。とはいえここで足を緩めればもはや百人長失格であろう。
百人の兵。十人の兵。そしてラクシャ。新たな戦力を上乗せて、二人を失った黒爪樹を皆殺す。それこそが今求められている作戦である。
だが、
「ちっ……こりゃ駄目だな」
隻腕の男の声と同時に、残り二人が後方に飛んだ。
それはもはや間合いを取る、などという距離ではない。明らかに撤退の様子である。
ルナリアは――動かず。
「なぁルナリア殿よ、今回は見事にあんたらの勝ちだ。このまま続けると俺らが全滅しそうなんでな、逃げさせてもらうよ」
「逃がすと思うか」
「思うね。第一にあんたらに俺らを追い掛け回す余裕なんて無く……第二に、負けた俺らがこれ以上戦に付き合う理由も無い。そういう話になってんのさ。心配しなくても民間人を殺して回るような真似はせんよ。俺らはここで退場。俺らはな」
ルナリアは斧槍をぶん、と振る。血が石畳に飛び散る。
彼女の表情は、苦い。
黒爪樹は堂々と背を向けると、
「じゃあな。俺はエルカシャ。またどこかで」
あっさりと、本当にあっさりと駆けていってしまった。
ルナリアは追わない。追えとも言わない。理由は男の言った内容が全てである。嘘かもしれない。信用など出来無い。それでも、信じるしかないのだ。
彼女は大きな大きな溜息をつくと、こちらへと振り返った。
戦は何も終わってない。目も覆うような殺戮が、鼻の先で起きている。
その鎮圧こそが今の騎士団の役目である。ゆえに彼女は命令を下す。
「急ぎ先行したセルタ兵に追いつくぞ。そのまま一気に――」
言葉が止まり、ルナリアはあらぬ方向を見た。
呟いたのは、ジョシュアである。
「これは銃声ですか……?」
シンシアにも微かに聞こえたのだ。乾いて響く、奇妙な音が。