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Elvish  作者: ざっか
第一章
8/117

王都へ 下

「安い茶番だろう」


 床まで木造の廊下を無言でしばらく進むと、ルナリアが静かにそう言った。

 首だけで、振り返る。


「だけど、あれで意外と馬鹿にならないんだ」


 副が締め上げ、長が緩める。なるほど、心の掌握としては基本かもしれない。

 ――怖かったけれど。

 エリスの様子は本気に見えた。ルナリアが来なければ――果たして止まっただろうか。それほどの問題児だったのだろうか。

 ルナリアは、瞳を僅かに曇らせた。


「すまんね、いつも嫌な役ばかりやらせる」

「問題ありません。団長の代わりに泥を被ることこそ、私のつと……め……」


 エリスが急に立ち止まった。何事かと思ってルネッタも止まる。ルナリアも同様だ。

 眉をしかめ、口を尖らせ、瞳はきょろきょろと動いている。何かを考えている、のだろうか。

 思いついたらしい。


「うう、いたい、いたいです」


 エリスは演技丸出しでそう言うと、大げさな動作で額を押さえた。血はとっくに止まっているし、もはや跡さえ残っていないはずだ。

 腰を曲げ、当てた手の平の隙間から、上目使いにルナリアへと視線を送る。


「あんまりではありませんか。私は己の勤めを果たしただけです。だというのにこの仕打ち。胸が張り裂けてしまいそうです」


 目には涙さえ浮かんでいた。天にも届く白々しさだ。

 ルナリアはげっそりとした表情で、呆れた声を出した。


「で、どうすれば良いんだ?」


 エリスの瞳が妖しく光る。


「舐めてください」

「……んぁ?」

「額がじんじんします。命に関わるほどです。これはもう、団長の舌で癒してもらう他にありません」


 ルナリアの頬は、ひくひくと痙攣していた。

 エリスはといえば、ほんのりと頬を染め、腰を曲げて目を閉じている。手は祈るように合わせられ、まさしく接吻を待つ乙女の構図だった。

 ――なんという。

 変わり身の速さを褒めるべきなのだろうか。あるいは心の強靱さだろうか。

 

 ずん、と重い足をルナリアが踏み出した。顔は紅く、唇は震え、怒っているのか照れているのかさえ分からない。

 勢いよく振り上げた右手に驚いて、ルネッタは思わず一歩下がってしまった。

 と――

 すぱん、と頭でもはたくのかと思った手は、エリスに触れる直前で止まっていた。

 

 ルナリアが、ちらちらと、流すような瞳でルネッタを見ていた。

 きっと、叩くまでが恒例なのだろう。いつまでも来ない衝撃が不思議だったのか、エリスの目が開かれる。腰はそのまま、首を傾げた。

 こちらを見ていたルナリアの瞳が、何かを決心したように瞬いた。両手でそっとエリスの頭を掴むと、


「へ?」


 その額に、優しく口づけをした。


「これくらいでっかんべん、して、くれ」


 上ずった声で告げる。呆然としているエリスは無視して、こちらへと顔を向けると、


「別にいつでも誰でも手をあげるわけじゃないんだ。だから、そ……そんなに怖がらないでほしい」


 早口でそう言って、勢いよく前を向いて、足早に去っていく。

 その背中を、これ以上ないほどにに目を丸くして、口を大きく開き、エリスは見送っている。

 表情はそのまま、ゆっくりと、顔がルネッタへ向けられた。彼女は、やや強めにルネッタの両肩を叩くと、


「原因があなたというのが若干納得いきませんが、この額に残る幸せの感触に比べれば些細なことです。よくやりました」

「あ、あはは……」


 興奮冷めやらぬ口調だった。どの辺りがルネッタの手柄なのかは良く分からないけども、エリスが嬉しそうなのでそれで良いとも思う。

 ゆるゆるにとろけた顔のまま、エリスは走り出した。追いつくためなのは分かるので、ルネッタも走る。床の立てる音が酷く心配になる。仮にも騎士団の本拠であるはずなのに。

 二階へと昇る階段で、ようやく追いついた。エリスの顔が一気に引き締まる。


「それはそれとしまして」

「うん?」

「あの二人……使い方を考えておいたほうがよろしいかと存じます。今日で五度目です。見えていない部分で何をしているのか、想像したくもありません」

「うん……そう、だな」


 軍規を守れぬ者の『処理』は、当然の仕事なのだと思う。同時に、嫌な仕事であることも、ルナリアの声音から良く分かった。

 階段を上り終えた。

 二階も似たようなものだった。窓だけが透明なガラスなのが、返って不釣り合いに見えるほどだ。

 簡素だが、同時に頑丈そうな扉の前で、ルナリアは足を止めた。


「ここだ」


 開けて、中に入る。後に続いた。

 さすがに広い部屋だった。

 申し訳程度の柔らかさを保った絨毯は、黒ずんでいた。中央に巨大な机が一つ、その周囲に椅子が四つ。僅かな紙とペンはあるものの、書物らしきものは無い。用途の分からない不思議な道具が幾つかある。

 部屋は、閑散としている、と言えた。

 

 男が二人居る。

 細身、長身。髪は黄金色で、やや長い。青みがかった礼服を纏い、腰には細剣をさげている。顔付きは目がほそいが、やはり美形と言って良い。キツネのような印象を受けるものの、嫌な感じはまるでしない。人好きのする空気を纏っていた。

 

 もう一人は巨漢だった。刈り上げたように短い髪は鮮やかな茶で、背は細身の男より頭一つは高い。腕などまるでルネッタの腰だ。服は小綺麗ではあるものの、礼服というよりは訓練用だろう。表情は険しく、顔の造りは鋭い。その立派な体に見合うだけの剣呑さを、全身から放っているようにルネッタは感じた。少なくとも道ばたで会ったら逃げる。

 細身の男が、言った。


「おかえりなさい、団長。早かったですね。何日か羽を伸ばしてくるのでは無かったんですか?」

「ま、いろいろあってね。鉱山のことは?」

「連絡はきております。大変でしたね」


 その返事に、ルナリアは軽く肩を竦める。

 突然、怒気を含んだエリスの声が響いた。


「ガラム、またあの二人です。あなたの部下でしょう。何を見ていたのですか」

「……下の騒ぎはそれか」


 巨漢が応えた。ガラム、というらしい。響きは力強く、体を良く表していると思う。


「すまん」


 深く、ガラムは頭を下げた。印象からすれば意外とさえ思える姿だ。

 エリスは口を開きかけ――噤んだ。こうも素直に謝られては追求も出来ないのか、小さく舌打ちをする。

 ルナリアは机まで進むと、椅子に深く腰掛けた。頬杖をついて、視線を細身の男に向ける。


「ジョシュア、何か変わったことは?」

「特に何も。鉱山での襲撃と下での一悶着以外は、ですが」


 男が応える。彼はジョシュア、か。

 それで、とジョシュアが言葉を紡いだ。視線はルネッタに向けられている。ガラムも同様だ。


「彼女は?」


 ルナリアは軽く微笑んで、言った。


「フードを」


 脱げ、ということだと思う。ルネッタは一瞬躊躇したが、ここで拒否しても何の意味もないだろう。

 ゆっくりと、頭を出した。


「……は?」


 絶句、していた。

 キツネを思わせる細い目は、驚くほど丸く大きく開かれている。

 ガラムの大きい体が、細かく震えているのが見て取れた。


「不幸にも両耳をそぎ落とされた女性ですか?」

「そんなわけないだろ。人間だよ、に、ん、げ、ん」


 ジョシュアの言葉に、なぜかエリスがぴくりと反応していた。

 彼は大きなため息をついて、右手で両目を覆う。深く落とされた肩が、彼の心中を表していた。


「どうだ、かわいいだろう」

「……正気ですか」

「私はいつも本気だし正気である」


 ルナリアは誇らしげに胸を張っている。対するジョシュアの表情は深刻一色だ。


「ただでさえ疎まれているんですよ。堤防に攻城弓をたたき込むようなものじゃないですかこれ」

「その辺は考えようだ。人間すら受け入れる、という売り込み方だって出来る」


 何より、と続ける。


「こんなかわいい子を始末する気かお前」

「……まぁ保護欲をそそる外見をしている、という点だけは同意しますが」


 ルネッタは顔を下げた。褒められている、のだと思う。それがより恥ずかしい。


「かわいいのは大事だが、何もそれだけじゃないんだよ。ルネッタ、あれを」


 彼女はとんとん、と机を指で叩いた。

 ルネッタは背嚢を下ろすと、布でくるまれた棒を取り出した。丁寧に布を解いて、机の上に置く。


「これは?」

「銃、と呼ばれる兵器だそうだ。中で破岩灰を爆発させ、その力で鉛の塊を撃ち出す。精度は不安定だが、威力はただの石弓よりは上だ。装填に時間はかかるがな。効果のほどは、私が自身で確かめた」


 彼女の目が細まった。


「ジョシュア・レム・ラナティクシア二番隊隊長、この武器の利点を、考えられる範囲で答えよ」


 ジョシュアは少しの沈黙を挟んで、堅い声を出した。


「相手に向けて撃つだけです。訓練が容易い。威力も聞いた限りでは十分でしょう。凡兵であれば殺せます。爆発の音も利点となるのでは無いかと考えます」

「ふむ、まぁ合格だな」


 彼女の目が、ちらりと巨漢を捕らえた。


「ガラム・クィントス三番隊隊長、残った利点を答えよ」


 巨漢が顎を掻いた。岩で擦ったような低い音で、答える。


「もしや、使用に魔力が必要無いのでは」

「そうだ」


 満面の笑みだった。


「魔力がいらぬ。誰でも使える。その意味するところは、お前らも十二分に理解しているだろう。これはまさしく我らの望むものである。金塊に等しき貴重な矛を、彼女、ルネッタ・オルファノは授けてくれた。故に私はルネッタを受け入れようと思う。たとえそれが大きな危険を伴うのだとしてもだ。異論はあるか?」


 沈黙が部屋を覆う。

 ゆっくりとルナリアが頷いた。それに、と続ける。


「品は他にもある。ルネッタ」


 促されるままに、本を取り出し机に並べた。


「軍事、法、農や商など、人の世の営みを書いたものだそうだ。今は読めんが、彼女が訳す。当然だが、人間は魔力を持たない。故に作られるさまざまな『しくみ』も魔力に依存しないものであるはずだ。銃と同じく、これらも役立つだろうと私は考えている」

「……わかりました」


 諦めたような、ジョシュアの声だった。ガラムは黙って頷いている。


「今日はもう遅い。細かい話は明日の昼にでもする。以上だ」


 二人の男は大きく頭を下げた。そのまま一言も発することなく、扉へと向かう。部屋から出る直前、一度だけルネッタへと視線を送ってきた。

 籠もった感情は、読み取れなかった。


「食事をお持ちしますね」


 そう言って、エリスも出て行ってしまった。

 二人、だ。

 

「思ったよりごねなかったな。銃か、本か、あるいはルネッタがかわいいからか?」


 くすくすと、からかうように笑っている。反応に困る。

 ルナリアは、机から一枚の紙を取り出した。相当に大きく、色までついている。

 地図に見える。


「ご褒美、とは違うが、せっかくだからお前に説明しておこう」

 

 広げられた紙を、ルネッタは覗き込んだ。


「我らエルフの国、エルヴィシュは偉大なるリムルフルト王の統治の元、その雄大にして清廉なる歴史を紡ぎ、またこれからも永遠に存続させていくものである――というのが、まぁ現在主流となっている建前だな」

「……え?」


 彼女は地図のある部分を指さした。


「王室なんぞ出来て百年だ。そこらの中年エルフより若い。なにより分かりやすいのは場所だ。今私達が居るのがまさしく王都なわけだが……地図で見るとここだぞ、ここ」


 そういって彼女の指がなぞるのは――なるほど、縦で見れば中央だろう。しかし横は東のぎりぎり、まさしく極東だった。

 国土はどこまでも左に伸びている。国家の中心と呼ぶには、確かに『隅』にもほどがあった。


「良いか、ルネッタ。三つだ」


 そう言うと、彼女の指は線でも引くように地図の上を動いた。

 ちょうど、横に三等分した形になる。


「右。つまりは東方だな。この範囲が王の力と権威が直接届く場所だ。とはいえここですら、王の力は強力である、というだけだ。絶対ではない。万に届く軍勢を集められる最強の豪族である、というだけで、それ以上でもそれ以下でも無い。各地には無数の領主が居り、それぞれが税を取り立てている。その一部をさらに王が取り立て、改めて分配している、というのが現状だ」


 指が、地図の左端に触れる。


「こちらが西方。王の権威はもちろん『もう一つの力』もそれほど浸透してはいない。常に不穏であり、富も比較的乏しいが、故に自由だ。小領主が半年で交代するなど日常茶飯事だからな。己らの土地を広げようするのであれば討たれもしようが、今のところそうした動きは無い。見逃されている、ともいうな」


 とん、と強めに、地図の中央にルナリアが触れた。


「そしてここが中央。まさしく我らの中心地だ」


 言葉を切って、じ、とルネッタを見つめてきた。ごくり、とつばを飲む。

 ルナリアが続けた。


「大貴族の長の集まりがあり、それを古老と呼ぶ。数は現在十名だが、定数は無い。一つ一つは王に及ばないが、三つも集まれば簡単に逆転する。そして彼らの結束は――堅い。事実上、国を牛耳っているのはこの連中だ」


 その呼称に、うっすらと聞き覚えがある。

 声に籠もった感情は、少し怖かった。


「そもそも王を生んだのは古老だ。税を取りすぎ、賊は放置し、あまりに高まった民衆の声の矢面として作られたのが、今の王室なんだ。もっとも、そんなごまかしが通用したのは僅か十数年で、今やすっかり元通りといった有様だが。むしろ元通り以下か。王という、別の勢力を作ってしまったのだからな」


 彼女の手が、地図から離れた。自分の髪を軽くかき回す。


「西方、東方、共に古老共への反発は根強い。王側などそれでまとまっているようなものだ。矢避けとして作られたのだから当然ではあるな。とはいえ奴らからすれば子供の反抗にしか見えないのだろう。なにしろ東西全ての戦力を合わせても、古老ら大貴族の七割にさえ届かん。それどころか、王属騎士団の軍費のうち、四割以上が古老持ちだというのだから、本格的に逆らうなぞ笑い話にしかならん」


 表情はどこか自嘲気味に笑っている。


「唯一古老共の脅威になりうるのが、国民だ。税にしろ賊の放置にしろ、中央から外れるほど、郊外に行くほど酷くなる。それらをかき集めることが出来れば、これは見過ごせない驚異になる――というのは理想論でな。税は五十年ほど前からだいぶ緩和された。どこも都会は豊かで、田舎にしても死ぬまで尻を叩くわけでもない。食料なぞ余るほどあるし、輸送も保存も容易いので飢えるものなどほとんど出ていない。嫌いだが、殺すほどではない、厳しい田舎ですらそんな程度だ」


 さらに、と彼女は言う。


「国民が脅威となり得るのは確かな方向性が与えられた場合だけだ。烏合の衆では役に立たず、また持続もしない。鉄粉を束ね、穂先に練り上げる『何者か』が必要なんだが――これが現れない。居たとしても続かない。なぜならば――」


 瞳が、暗く、光る。


「国を守ると自称する宗教団体に、端から殺されてしまうからだ」


 ぞくり、と悪寒が背筋に伝わった。言葉の意味を理解して、足が震えるのを止められなかった。

 ――だってつまりそれは。


「そうだ、ルネッタ。あの黒ずくめ共は、古老の暗殺部隊そのものだ」


 はっきりと、喉が渇いていた。


「しかし追求は出来ん。証拠も無い。なぜならあの黒ずくめ共は何も喋らんからだ。捕まえた端から自害する。追われているとわかれば自害する。強固に施された魔術は、そうした狂気をなんの疑問も無く行わせる物のようだ。まぁ欠点もあり、細かい命令を実行できなくなるらしいがな。お前への剣が鈍っていたのはそういうことだろう」


 ルナリアが体を乗り出してきた。顔が近い。なのに不安しか覚えない。


「まだあるぞ。今の説明で私が古老共に文字通り『死ぬほど』嫌われているのはわかって貰えただろう。では王にとってはどうか」


 瞳に映る光は、もはや自棄に見えてくる。


「うぬぼれではなく、私は民衆に人気がある。それこそ王も王女も問題では無いほどにな。無論意識して作った物だが、それゆえ王からすれば面白く無い。心証はこちらも最悪と言って良い。まだまだある。騎士団は本来第六までしか存在しないんだ。数や管理の問題もあるが、何より予算だ。一つ増えれば、それだけ他にしわ寄せが行く。ご覧の通り、我らに回る金は少ないが、無視できるほどでは無い」


 しかも、と彼女は小さく呟いた。


「立ち上げ方も強引だ。細かいことは省くが、言い出した当初は反対派が明らかに優勢だった。強固だったのは古老の息がかかった者ではあったが、正論ゆえ皆同意した。その逆風を私は――」


 一度言葉を切った。瞳は、何かを思い出すように閉じられる。

 開かれた。


「古老共が選出した、奴らの最も優れた手駒を、衆目の中で『括り殺して』なぎ払ったんだ。成功だったさ。力を見せつければそれだけ靡く。エルフの国民性だ。その倍する敵は得たがね」


 ゆっくりと、ルナリアの顔が離れていった。

 微笑んでいる。酷く寂しそうに。


「この通りだ、ルネッタ。四方全てが敵とは言わない。せいぜい三方だな。それでも――圧倒的に憎まれているほうが多いというわけだ」


 笑顔が深くなった。寂しさも、増したと思う。


「私は国の中心部になど近く無い。むしろ反する側だろう。共に居れば苦労もする。理不尽に死ぬかもしれない。お前に他の選択肢など無いことも、良く分かっている。こうして聞くことさえ卑怯だと思う。それでも、聞きたいんだ」


 ルナリアは、そっと目を伏せた。


「私と居てもお前の商は上手く行かないかもしれない。むしろ、どうにかして古老側につくのが一番だろう。それでも……私で良いのか?」


 ルネッタは背筋を正した。手を祈るように合わせて、ルナリアを見る。

 まっすぐ、出来るかぎりまっすぐに。

 彼女が顔をあげた。瞳を見る。視線を合わせる。自分でも驚くほど、迷わない。

 

「十九年、生きてきました。長くはありませんが、短くもありません。その間に感じることは二つだけ。辛いか、辛くないか。今まで幸せというものが良くわかりませんでした。辛くない、というだけのことだと思っていたからです」


 声は、はっきりとしている、と思う。


「ルナリアさまと出会って、はじめて、胸の中に何か暖かいものが生まれるのが分かりました。優しくて、少しくすぐったいのです。これを幸せというのかな、と考えています」


 瞼を閉じて、開けた。もう一度、彼女の瞳をしっかりと見つめる。


「今から他に移るのは、雪山で死ぬのと変わりません。たとえ許されたとしても、ルナリアさま以外に拾われるなんて考えたくも無いのです。ですから、どうか――どうか、あなたと共に歩ませてください」


 胸の内を全て吐いた。心からの、本音だった。

 不思議と、恥ずかしいとは思わなかった。言い終えたことが、誇らしくすらある。

 言葉を聞いたルナリアの顔に浮かんでいるのは――仮面のような、無表情だった。

 ――あれ?

 冷や水をかけられたような悪寒が、ルネッタの全身を包んだ。反応があまりに予想外すぎる。どの部分が失言だったのかさえ分からない。

 

 怯えから一歩引き、それでも彼女の顔へは視線を送る。反らすほうが怖かった。

 と――

 白一色だったルナリアの顔に、ほんの僅かな赤みが差した。それは枯葉につけた火のようにぞわりぞわりと広がって――やがて彼女の美しい顔は、ゆでたタコのように真っ赤になった。

 かたかたと不自然に動くと、深く椅子へ腰掛ける。そのまま頬杖をついたが、手ははっきりと震えていた。

 上ずった声で、彼女は言った。


「な……中々言うじゃないかルネッタ」

「え、と、はい」


 どうやら、気に入らなかったわけでは無いらしい。

 かわいい、と思った。綺麗だと思ったことは数え切れないほどあるが、かわいく見えるのは珍しい。エリスの意見が実感を伴って良く理解できた。

 彼女は火が出そうな顔色のまま、沈黙している。

 何か、こちらから話したほうが良いのか。迷っていた矢先に、


「なぁんですかねこの不愉快な空気は」

「ひゃあああああっ」


 突然視界に、長い耳が飛び込んできた。


「いちゃつくのは結構ですが、目に見えるところでしてください。混ざれないではありませんか」

「……いつの間に帰ってきたんだエリス」

「ちょうど今です。扉を開けても気づかないほど盛り上がっていたのですか?」


 手にはトレー。上には大量のパン。いつかを思い出す構図だった。

 そういえば、とエリスが続けた。


「問題が一つあります」

「なんだ?」

「彼女の部屋がありません」

「二つくらい空きが無かったか……?」

「新規の志願兵をまとめて詰め込んだのが一つ。倉庫代わりになってしまったのが一つです。集合部屋に放り込むなら入れるでしょうが……それは無理な相談でしょう」

 

 ルナリアが小さくうなった。

 エリスがピっと三本の指を立てる。


「現状取れる選択肢は三つです」


 つばでも吐きそうなほど顔を歪めて、言う。


「団長の部屋でルネッタが寝ます」


 あっという間に表情が変わり、今度は満面の笑みになった。


「私の部屋でルネッタと一緒に寝ます」


 笑みが大きく崩れた。次なる表情は――邪としか言えない。淫らとも言う。


「私が団長と同衾しつつ、空いた部屋でルネッタが寝ます」


 よだれでも垂らしそうだった顔は、全てを言い終えると再びいつもの無表情に戻った。

 堅く怖いというのは何だったのだろう。ルナリアに負けず劣らず表情豊かだと思う。


「三番はまず却下だ」

「なぜです」


 長引きそうな言い合いをよそに、ルネッタはこっそりとパンを手に取った。

 口に含む。柔らかく、おいしい。きっとこれからの時間も、このパンと同じようだと信じられる。

 二人の様子を見て、そんなことを思うのだった。

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