暗雲
仕事という表現をしたのは、きっとルネッタを気遣ってのことなのだろう。
あっさりと本陣まで貫かれたのも事実ならば、運が悪ければ死んでいたのもまた事実だ。足手まといを抱える余裕は、もはやどこにも残っていない。
だからルネッタは言われたとおりにティニアを連れて、街の中央付近にあった安宿までやってきた。逃げてきた、という表現が正しいかもしれない。
部屋の片隅に荷物を置くと、埃がぼふんと巻き上がる。咳き込みつつ手で払って、窓まで小走りそのまま開けた。部屋へと入り込む夜のひんやりとした空気の中、深呼吸を一つ、二つ。そしてくるりと振り返る。
相変わらず不思議そうに、彼女はこちらをじっと見ている。中々部屋に入ろうとしないのも、らしいと言えばらしいのだけど。
「あの、ルネッタさま……」
「さまはやめてってば」
否定はするが、あくまで優しく、柔らかく。正直なところ、こんなにも可愛らしい子に冷たく当たれるはずも無い。
手招きすればおずおずと傍までやってくる。愛らしさが七割に、なんとなくの親近感が三割ほど。
とても真剣な顔をして、ティニアが言う。
「では、なんとおよびすれば」
「普通に呼び捨てで平気だよ」
と、言ったくらいで納得してくれるのであれば、そもそも苦労はしない。ティニアの顔は困惑に染まり、これがやがて恐怖へと変わってしまうのだ。
そこでルネッタはふと思いついた。悪戯半分、恥ずかし半分。冗談っぽく伝えて見よう。
「ルネッタおねえちゃん、てのはどうかな?」
ティニアがぱちくりとまばたきをして――返事は無い。
――あれ
馬鹿げた提案だったか。さすがにこれは酷かったか。羞恥が耳元を覆い隠して、頬のあたりがじゅわっと熱くなる。
取り繕う言葉を捜す、その最中。
「ルネッタ、おねえ、ちゃん」
小首を僅かに傾げつつ、遠慮するかのように小声でぽつりとティニアはその言葉を口にした。
――うわ、わ、わ
背筋にぞわりとしたものが奔る。耐え難いほどのくすぐったさと、身震いするほどの気持ちよさ。頬がにやける。顔が綻ぶ。それを必死に押さえつけていると、
「えと……ルネッタおねえちゃんとよんで……いい、ですか?」
上目遣いで、遠慮がちに、長耳は少々へたりと垂れて。
――おおおお……
思わず目を閉じてしまった。初めての言葉だ。初めての表現だ。初めての立場だ。それがこれほど『効く』とは思わなかった。
ルネッタは目を開き、微笑んだ。力の限り優しく。
「うん、いいよ。よろしくねティニアちゃん」
はにかんで、少しだけ頬を染めて、ティニアはえへへと笑った。
それで我慢が出来なくなった。思わず駆け寄る。そして抱きしめる。かわいい。なんとかわいい。この子こそ正にかわいいという言葉を表しているとルネッタは思う。
「あの、えっと……」
苦しそうな声に、弾かれたように離れる。
「ご、ごめんね。痛かった?」
「いえだいじょうぶ、です」
ならばともう一度抱きしめる。もちろん今度はしっかりと加減をしてだ。
小さな背中に手を伸ばして、体温をしっかりと感じながら、ルネッタは言いつけられた仕事の内容を思い出す。
連れて逃げろ、はあくまで手段だ。与えられた勤めは――ティニアを守ること。無論それは、ルネッタを戦場から遠ざけるための方便でもある。守られているのは自分なのだ。だからこそ、この子には傷一つ負わせてはいけないと強く思う。
ティニアからそっと離れて、少し屈み顔の高さをあわせた。
「ちょっとここで待っててね」
「はい」
そう言ってルネッタは部屋を出た。扉も廊下も動かし歩けば仲良く軋む。安宿とは、どこもそういうものだろうけれど。
――隣、だからここだよね。
ノックすると、中から一人の女エルフが出てきた。
目が合う。彼女は不思議そうに眉をしかめる。
ルネッタは言葉を考え、二秒ほどかけてようやく搾り出した。
「その……よろしくお願いしますね」
ぱちくりとまばたきをして、彼女は言った。
「それを言うためにわざわざ?」
「は、はい」
彼女は第七騎士団の兵であり、ルネッタ達の護衛としてつけられた一人だった。ちなみに総勢で一人だ。遊ばせる戦力など欠片も無いのだから当然の話ではある。
女エルフはくすくすと笑った。
「真面目ねぇ。まぁそこがかわいいんだろうけどさ」
「あ……その」
「大丈夫よ。黒爪樹相手じゃなんにも約束できないけれど、ここを狙うとも思えないし」
ひらひらと手を振りながらお休みと一言告げて、彼女は静かに扉を閉じた。護衛の割には相当な自由さだとは思うが、確かにここが狙われるなんて考えづらいというのも事実だ。
部屋に戻るとやはり直立不動のティニアが居た。解き解すように優しく撫でて、ルネッタは部屋のベッドに腰掛けた。
時刻はもう完全に夜だ。不穏極まる戦況に対して、自分が出来ることは無い。
「もう寝よっか」
「はい」
ティニアは静かに答えると、そのまま床にごろりと寝転がった。
「ちょ、ちょっとティニアちゃん?」
「はい、なんでしょうルネッタおねえちゃん」
思わず駆け寄ってしまった。ティニアはただ不思議そうな顔をするだけで、行動に疑問も無いらしい。
「なにも床で寝なくても良いんだよ」
「でも……ベッドはひとつしかないです」
言葉の通りに、寂れた部屋にあるのは少々埃っぽいベッドが一つ。床などに比べれば多少綺麗なのは、宿としての最低限の維持だろうか。
急遽部屋を取ったのである意味当然ではあるが、だからといってこの子を床になんて寝かせるわけには行かない。だから、
「じゃあわたしと一緒に寝よう。ちょっと狭いけど、我慢できるかな」
ティニアは言葉を飲み込むように頷くと――急に首を左右に振った。
「そ、そんな……わたしなんかと……ルネッタおねえちゃんにしつれいです」
少し舌足らずな発音に、不自然な口調。今までの『道のり』を想像させるソレは、ルネッタの胸の奥をざわざわと撫でる。
だからルネッタは、ティニアを優しく抱きしめた。床に座ったままの彼女を、包み込むようにそっと、そっと。
「良いんだよ、そんなこと。わたしが一緒に寝たいと思ってるの。いや、かな」
先ほどの繰り返しのように、一瞬の沈黙を挟んで、首を左右にいったりきたり。もっとも意味は逆だ。受け入れてくれたのだ。
彼女を立たせて一緒にベッドへ。服を脱ぎつつ寝巻きを荷物から引っ張り出して着替える。丁度上着に首を通したあたりで、ティニアと目があった。
彼女は僅かに頬を染めて、目をきらきらと輝かせつつ、こちらの様子を伺っている。もちろんかわいい。凄まじくかわいい。それでも、ふと思う。
――この子は
たぶん、あまり『優しくされた』ことが無いのだ。ルナリア達に会う前の自分のように。
一緒にベッドへともぐりこんで、ティニアと向かい合う形で寝転んだ。彼女の瞳は少々潤んで、とても幸せそうに、見える。ルネッタの思い上がりかもしれないけれど。
手を伸ばして引き寄せると、受け入れるようにティニアも体を密着させてきた。
いつも思う。どうしてエルフというのは、こんなにも良い匂いがするのだろうと。
長耳をそっと指で撫でると、くすぐったそうに体を震わせて、くすくすと笑う。その仕草があまりに愛しくて、繰り返し繰り返し耳を撫でる。そしてルネッタは考える。
――読めない、か
ジョシュアは当初、反乱には時間の余裕が無いと言っていた。理由は単純で、老大樹の調律が不可能だからだ。
魔力と地脈の元締めたる木は、強力な力に相応の危険を孕んでいるらしい。なんでも制御できずに放置し続ければ、あたりの地脈と魔力を吸い上げ、溜めて、最後は爆発してしまうという。事実それで消えた街も一つ二つはあるのだとか。
今は丁度その前段階であり、辺りに流す魔力が強くなりすぎているのが証拠なのだ。もう一押しで吸い上げる方向へと変化すると。
ウェールに老大樹を制御する力は無く、それゆえこの反乱はどう進むにしろ短時間で決着するはずだった。
誤算はもちろん黒爪樹だ。
元古老であるルースを筆頭に、いずれもエリスに匹敵するような凄まじい力を持った錬騎兵。緻密さを求めぬというのであれば、老大樹の制御程度あっさりこなして当然の連中なのだという。
これで事実上の時間制限は消えた、と取ることも出来る。同時に、戦が何よりも好きな連中を抱えてしまった結果、だらだらとした作戦など通せなくなった、とも考えられる。
正に何があってもおかしく無いということだ。
考える。考える。いつ終わるのだろう。どう終わるのだろう。二人に会えるまでどれくらいあるのだろう。次の被害はどれくらいになるのだろう。勝敗は――無事に勝てるのだろうか。無事に。
すぅすぅという寝息が聞こえてきた。ティニアは眠ってくれたらしい。起こさぬようにそっと、それでも確かに体温を感じるようにじっと。
――この子を
もちろんルネッタは自覚している。不幸の海から拾われたこの子供に自分自身を重ねているだけだということに。それでも良いと思う。感情の出所がどこであっても、守ってあげたいという気持ちは本物なのだから。
更にティニアへと体を寄せて、ルネッタは目を閉じた。守ろう。何からも、誰からも、この身に出来る限りをしよう。それが今出来る恩返しだと思うから。
気付けば寝てしまったらしい。仄かに冷たい空気に、窓からもれる弱弱しい日の光。部屋の隅に置かれた光石は消す術が無いので無論付けっぱなしだ。
ティニアはまだ寝ている。起こさぬように静かにベッドから出て、窓を半分だけ開けた。空の半分は暗い雲で覆われ、街はなんだかどんよりと暗い。
早朝も早朝だ。反乱騒ぎも加わって人影なんてほとんど無い。目に付くのは三人、四人、五人六人。
――あれ?
多い、気がする。目を凝らすと半数は武器を持っている。鎧もつけている。セルタの兵だろうか。
口論が聞こえた。反射的にそちらを見る。青年と青年が、剣呑な雰囲気をかもし出しながら短く叫び、鋭く叫び。
斬った。
本当にあっさりと、武器を持っていた片方が相手をさくりと切り倒した。血が、吹き出る。周囲の者は――叫ばない。
――なんで?
ルネッタは咄嗟に窓の影に隠れた。少し考えれば分かる。皆切った男の仲間だからだ。
――なんで
這いずるようにベッドまで動いて、ティニアを揺り起こした。声を出さぬように小声で言い聞かせると、ルネッタは急いで普段着に着替えた。
――なにが
おきているのか、それは分からないけれど。
荷物の奥には拳銃。部屋の隅には軽めの長剣。
震える手で、震える胸を、押さえ込む。
守るべき時は、突然やってくるものなのだと、弱い自分に言い聞かせた。