交渉
奇妙な地形だった。
視界の先には天にも届こうかと錯覚を覚える巨大な木、セルタの命である老大樹がある。背後には延々と連なる畑や果樹園と、それらを血管のごとく繋ぐ数々の農道。
そしてその間には、見るも鮮やかな草原が広がっていた。ここまでは遠くからなんとなく見ていただけでも分かるのだ。
こうして草原の直前までやってきて見えてきたのは、不思議な段差だ。畑から草原へはきつい下り坂を降りねばならず、同様に草原から老大樹へはそれなりに急な斜面を越えねばならない。
つまりは、ちょっとした谷になっているのだ。
――まるで
ごくりとルネッタは唾を飲んだ。
まるで、さぁここで戦えと、草木にお膳立てされているかのようだからだ。
もっとも、背筋にひりつくような恐怖の原因はそれが本命では無いのだけれど。
時刻はまだ昼前であり、予定よりも一時間近く早い。しかし相手はもう来ているようだ。ここからでも良く見える。とても、良く。
「いくぞ、ルネッタ」
声と同時に、優しく肩に手が置かれた。
「安心しろって、何があっても守ってあげると言っただろ。それに――」
わざと、だろう。ルナリアは少し意地悪そうにニヤリと笑って、
「あいつら全員足しても私一人のほうが強いぞ」
彼女が言葉で力を誇示することは、とてもとても珍しい。ようするに、それだけ不安が顔に出ていたということか。
「……はいっ」
出来る限り元気に頷いて、彼女と一緒に歩き出した。支えられて斜面を下り、さくりさくりと草を踏んで、草原を一歩一歩と進んでいって。
そうして草原の中央で、ルネッタ達はこのたびの『交渉相手』と対峙した。
ルナリアが小声で呟く。声音は皮肉げに。
「行儀良く並んでまぁ……」
言葉の通りに並んでいる。およそ数十歩の距離に、反乱軍の一味と思しきエルフ達が群れをなしていた。数は明らかに百を軽く上回り、およそ全てが手に武器を持って、半数は鎧まで着込んでいた。
無論全軍には程遠いのだろうが――こちらに非武装、二人までと条件をつけておいてこの様子、正直気分は良く無かった。
ルナリアが一歩を踏み出すと、明らかに彼らの空気が固くなった。
「伝えたとおりに、武器無し、二人である! そちらの代表者は誰か!」
魔術の風に乗った声は、草原に良く響き渡った。
かすかなざわつきの後、エルフの群れにさざなみが立ち――割れた中央から一人の男が現れた。
身に着けた鎧はおよそ半分が黒に染まり、手にした長剣はその全てが漆黒だ。背丈や体つきに特筆するべき要素は無く、絵に描いたような中肉中背。だというのに、周りを圧するだけの『何か』が、その男から放たれている。
薄暗い茶髪は短く刈り込まれ、年齢は見る限り三十半ばといったところか。瞳に写る強い光が、確かな意思を感じさせ――ようするに、一目でルネッタにも分かる『実力者』ということだ。
ルナリアが腰に手を当て姿勢を崩した。
「やはりあなただったか、ウェール殿。エレディア候に尋ねても一向に答えてもらえず困っていたところだったのだ」
あえてだろうか、柔らかく言葉をかけるルナリアに対して、ウェールの顔は険しく引き締まったままだ。
岩のように硬い表情のまま、ウェールは口を開いた。
「本題に入る前に、一つ質問をさせてもらいたい」
「答えられることであれば」
僅かに目を細めて、男は続けた。
「なぜ貴方が、そちらに立つのです」
「……どういう意味かな」
ウェールは――剣を抜いた。ルナリアは眉をしかめ、同時に無数の反乱軍達に殺気のような何かが満ちる。
彼はそのまま剣を地面に突き刺すと、柄の部分に両手を置いた。
「貴方は第三市民、無泉でも分け隔てなく受け入れると聞いております。持たざる者の側にこそ立つものだと聞いておるのです。この街の様子はご理解いただけたでしょう。聞けば不幸な無泉の少女の保護までしたとか。であればこそ、貴方が力を貸すべきは果たしてどちらか、明白ではありませぬか」
「なるほど。そういうことか」
ルナリアは頭を軽くかいて、空を見上げた。それは考える動作というよりも、空白を作りたいのかと思う。
彼女は再び視線を戻すと、落ち着いた声音で言葉を紡いだ。
「セルタの状況は良く見せてもらった。確かに問題は無数にある。見過ごすべきとは私もまるで思わん。しかし」
「しかし?」
「物事には取るべき手段というものがある。反乱はあまりに短慮、あまりに無謀だ。はっきりと言わせてもらうが……あなた方にはもはや先が無い。ここで勝ってどうなる。エレディア候の首を落とせば解決すると思うか。その後ウェール殿が椅子に座り、セルタを立て直すようなことを、王が果たして許すと思うか」
ルナリアが踏み出した。一歩、二歩。より強く反乱軍に満ちるそれをルネッタは殺気だと思ったのだが――どうやら違うようだ。
色が変わるほどに武器を握り締め、血走る瞳でルナリアを見るその感情は、恐怖以外の何物でもない。
「降伏せよ、ウェールならびに反乱軍の諸君。そうすれば君達の身の安全と財産の安全を約束しよう。たとえエレディア候が何を言ったとしても……いや、王の言葉であっても、君らには手を出させんと私が約束する。全て元に戻したのちに、どうすればセルタが良くなるか、一つ一つ埋めていこうじゃないか」
ざわついた。彼女の言葉は強い春風のように反乱軍の間を撫でて、大きな動揺を生み出したようだ。
ウェールの顔は、変わらず。
ルナリアは続けた。
「これが私の条件だ。君らが受け入れてくれるのであれば、必ず約束は果たす。同時に――」
彼女はくるりと横を向いた。こきりこきりと首を鳴らし、少し大げさに伸びをする。ルネッタをちらり、その後反乱軍をちらりと見て。
右足を高く振り上げると、渾身の力で振り下ろした。
地震かと思った。大砲かと思った。思わず両手で顔を庇い、徐々に首を戻して再びルナリアを見れば――巨岩で抉ったような大穴が、地面にぽかりと空いていた。
「受け入れてもらえなければ、この私と戦うことになる。セルタの復旧は急務である。ゆえに手心を加える気は無い。こうして蹴り潰すことになっても『仕方が無い』で済ますことになるのだ。それは互いに不幸なことだとは思わないか。繰り返すが、降伏してもらえれば悪いようにはしない。絶対にしない。以上だ」
正直、これは決まりではないかとルネッタは思う。天地のような落差なのだ。どうして戦いを選べるだろうか。
次に言葉を発したのは、ウェールではなかった。
「ひ、ひとつ、よろしいでしょうか」
声の主は、後方の反乱軍の群れにいるようだった。掻き分けるように出てきたのは、くたびれた様子の初老の男だ。髪にもいくらか白いものが混じっている。
「ル、ルナリア様、初めてお目にかかります。シャード・フォグと申します。力不足ながらも測量魔師をやらせていただいております」
「シャード殿か、名は聞いたことがある。とても良い腕の測量魔師だと」
「お、恐れ入ります。それでは、私からも質問が、ございます」
「答えられることであれば」
先ほどと同じように、ルナリアは返した。
シャードは咳払いをすると、震える声で尋ねた。
「わ、私は様々な場所で、様々な方に仕事をいただけました。古老の大貴族様にも使っていただけました。リムルフルト陛下にお会いしたこともございます。力のあるエルフの凄まじさを、幾度もこの身で感じたことがあるのです。う、生まれつき魔力の量はありませんが、その質を探るのは得意でありました。ゆえに、ふ、不思議に、思うのです」
「何を、だろう」
「あなた様はお強い。あまりにも、お強い。古老のどなたであっても、失礼ながら王陛下本人であっても、魔力という一点であればルナリア様には遠く及びませぬ。天秤の対にさえなりませぬ。あなた様ほどの強い光を、私は感じたことがありませぬ。まるで、老大樹を思い起こさせるほどにございます」
シャードは咳き込んだ。しかしはっきりとした言葉で続けた。
「それほどに、もはや枠の外のように強いあなた様が、どうして弱い我らのことを気にかけてくれるのでしょう。なぜ道端の小石の如き無泉などに、手を差し伸べるのでしょう。私にはそれがわかりませぬ」
ルナリアが息を吐く。沈黙があたりを包む。草を撫でる風の音だけが、あたりに静かに響く。
それを破ったのは、やはり彼女だ。
「私の母はな、音楽が好きなんだ」
「は?」
「幾度か母を喜ばせようと思ってな、私も練習したことがある。音は出せる。曲も奏でられる。けれどそれだけだったんだ。母は褒めてくれたけれど、やはりそれは子供を傷つけ無いための優しい嘘でね。結局向いてないの一言なんだろうな」
シャードは微かに眉をしかめるが、ルナリアは言葉を止めない。
「魔力が誰よりも強いか。まぁそうだろうな、私自身それは自覚しているさ。自慢かどうかも分からんが、少なくとも今まで戦って勝てないと思ったことなど一度も無いからね。しかしね、シャード殿。それでも……いや、だからこそ、見えてくるものもあるんだよ。私にも出来無いことがある。そして他の誰かにはそれが出来る。たぶんそれが世界ってものなんだろう。未熟な私にだって、その程度は分かってはいるんだ。だというのに、魔力一本で全てに白黒つけるのは、あまりにつまらないとは思わないか」
「……そ、それが、弱き者を助ける理由でしょうか」
「そうだ。足りないかね」
感心したのか、呆れたのか、シャードは深く深く息を吐いた。
――これは
たぶん、今なのだとルネッタは思う。逡巡する。でしゃばることになるのだろうか。だけどここで役に立たねば、何のためについてきたのかとも思う。
だから、踏み出しながら声を出す。
「あ、あのっ」
視線が注がれる。息が詰まる。それでも、ここは行かねばならない。
「失礼しました、わたしはルネッタ・オルファノと申します。見ての通りの……えと、人間です。本来であれば死罪ですが、わけあって今は第二市民権を頂いております。そして、第七騎士団の書記官でもあります」
「書記官……殿? 人間が? 失礼ながらそれは本当に……」
疑問に答えるように、ルナリアが大きく頷いた。
ありがたいと思う。そして彼女の微笑む口元が、上手くやれと言ってる気がする。
だから、
「わたしは倒れたところをルナリアさまに拾っていただきました。当時は市民権など持ちえていませんが、それでも本当に優しくして頂きました。無泉より遥かに下の人間の身であってもです。で、ですから皆さんのことを助けるという言葉、信じてはもらえないでしょうか。少なくとも無駄な血を流すよりはずっと良いはずです」
言葉を終えて、息を吸う。刺さる視線ごと飲み込むように。
ルナリアが満足そうに頷いてくれた。それだけで、体が浮き上がるように軽く思えた。
大きくざわつく反乱軍の中から、再び新たな人影が躍り出てきた。
「ルナリア、様!」
子供だ。恐らく十三、四の男の子で、剣を手にした姿はどこか痛々しかった。
叫ぶように、悲痛な顔で彼は言う。
「助けてくれる皆には、ウェール様も入ってますよね!?」
返事を待たず、子供が訴える。
「代表だからって、殺したりしませんよね? 責任を一人に取らせたりはしませんよね? ウェール様が死ぬのなら、降伏なんて絶対に出来ません。ウェール様のおかげで、おれは生きてるようなもんなんです。もしそうなら、おれが、かわりに、し、しっ……」
「大丈夫だ」
微笑む。深く、柔らかく。アレは強烈だとルネッタは思う。正面きって微笑まれて、落ちない者がいるのか聞いてみたいほどだ。
「降伏してくれるのならば責任は問わない。それは一つの例外も無い」
子供は驚いたように目を見開いて、やがて涙を滲ませつつ、列の奥へと戻っていった。
あんな子供に、変わりに死ぬとまで言わせる。どうやらウェールとは――本当に立派な人物らしい。
ルナリアが空気を切り替えるように、言う。
「さて、ウェール殿。どうやら手札は揃ったようだ。返答を聞きたい」
ウェールは目を閉じ、しばらく黙っていた。
やがて答える。低く、低く。
「ここに居る者だけでは決められません。皆で相談をし、のちに届けさせてもらいます。構いませんでしょうか」
「……ああ。ではその時に」
ルナリアは踵を返した。帰るぞという瞳の合図もあったので、ルネッタもその背を追う。
背後では未だにざわつきが止まらない。上手くいったのだと、思いたい。
先ほどちらりと見えた、老大樹の周囲を取り囲むように作られた木の防壁が、やけに強固に見えた。
「すまん、ルネッタ」
「……へ?」
帰り道、畑のあたりで急にルナリアに謝られた。
「え? え?」
頭が真っ白になる。何が不味かったのだろう。いや不味いならなんで向こうが謝るんだろう。
彼女は、けれど落ち着いていて。
「私がウェールで、仮にまだ戦うつもりなら、間違いなくお前を攫う」
「……えっと」
「あんな場につれてくる時点で重要な人物であり、どうやら騎士団長との仲もずいぶんと良さそうに見える。直接勝てぬ相手ならば、あらゆる手を使うだろう。幸い他の隊長格に比べれば恐ろしくひ弱だ」
「それは、そうです、けど……」
「騎士団が無泉の子供を受け入れたことまで伝わっている。ということは街中に『向こう側』の奴が少なからずいるということだ。当然の話ではあるがな」
ルナリアが疲れたようなため息をついた。
「もちろんさっきの言葉は良かった。決定打になってくれたかもしれないほどだと私は思う。つまりはその効果と引き換えに、お前を危険に合わせるのが分かっていて私は……違うな」
彼女は足を止めて、頭をかいた。顔つきは――頼りなく見える。およそ始めて見るほどに。
「そういうのは結局二の次なんだ。私はただ……お前に隣に居てほしかった。騎士団長ルナリアとして務めを果たす、正にその時、一緒に居て欲しい、と……狙われる危険まで背負わせてな。酷い話だ」
向かい合う。ルナリアは、少し、笑う。
ルネッタは微笑む。出来る限り、優しく。同時に右手を彼女に伸ばして、
「手、繋いでくれますか?」
「……うん」
横に並んで、指を絡めた。指先は少し冷たくて、手のひらは温かかった。
歩き出す。ちらりと横目で見ると、丁度視線がかみ合った。彼女が照れて前を向く。だからルネッタは肩を擦り合わせるように近づいた。
「前と逆だな」
「何がでしょう」
「お前と居たくて、危険な目にあわせてる。お前のわがままではなく、私のわがままで」
「いいです、それでも」
ほとんどくっつくような距離で、おかげで随分と歩きづらい。仮宿に帰るまでずいぶんと時間がかかるだろう。今はそれが、ありがたいと思う。
「わたしはお役に立てるでしょうか」
「立ってるさ。今も、これからも」
足を止める。彼女も同じように止まる。
残った左手もしっかりと絡めて、正面から体を近づけると、彼女の大きな胸がふにゅりと潰れる。
そのまま止めず、まっすぐに、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
鼓動が早くなるほどに堪能して、ようやく距離を離した。
笑う。お互いに。
「戻りましょう」
「うん」
「このまま、平和に終わると良いですよね」
「終わると思うけどね、さっきの反応見る限りだと」
仮宿に近づくつれて第七騎士団の兵が増える。だからもう手は繋いでいないけれど、距離だけは、変わらずに。
少しふわふわと浮くような感覚で、ようやくルネッタは部屋に戻った。
食事を取り、ティニアの面倒を見て、エリスと一緒にお風呂に入り、そうして再び一日が終わった。
反乱軍からの返答があったのは次の日の昼だ。
使者が送られてきたわけでもなく、ウェールが直接やってきたわけでも無い。けれどもそれは確かに返答だった。
なぜならば。
反乱軍が、草原に布陣を開始したのだ。