教本
エルブラクにとって、正に会心の戦であった。
己が率いるは父から譲り受けた精兵達。歩兵四千五百、騎兵千五百の計六千。地方の一領主として考えるならば十分すぎる規模である。
対するは歩兵三千、騎兵千の計四千。傭兵混じり、練団混じりの寄せ集め共であり、質量ともにこちらが明確に上回っている。負ける要素など微塵も存在しえない。
その惰弱な軍を率いる将の名はグラハス――エルブラクの弟である。
戦場となったのは山地に広がる僅かな草原。グラハスは見る限りでは全ての兵をその平地へと配置しており、対するエルブラクは五百の兵を護衛とし崖上に本陣を置いた。それでも残りは質に勝る五千五百。圧倒的に有利である。
眼下に広がる戦風景をまなこにしかと収めつつ、エルブラクは深く微笑み、振り返りもせず言葉を吐いた。
「まさしく予想通りになりましたなぁ父上」
草原では既に歩兵同士、騎兵同士がかみ合っていた。予備兵を置く余裕さえ無い正面決戦ではあるが、いずれの戦列においてもエルブラク兵が押しに押している。誰の目から見ても勝利は目前であった。
思えば下らぬ戦だ。エルブラクは財産継承権一位であり、相応の魔力も持つ。大軍を率いた戦の経験こそ無いものの、それを補うかのように熱心に学び、身に着けてきたのだと自負している。対するグラハスは継承権四位、纏う魔力も貴族としてみればいたって凡庸に過ぎない。得意なのは金勘定ばかりという、エルブラクからすれば軽蔑にさえ値する男であった。
父もそれを理解していたのか、全ての兵を譲り、いくらかの領地を譲り、順調に跡継ぎへと橋渡す準備をしていたのだ。少なくともほんの一月前までは。
エルブラクは首を捻って、視界の端に父を捕らえた。白く、そしてくすんだ髪。顔中に広がる深い皺。曲がった背に、小刻みに震える足と、もはや衰えきった老人以外の何物でもない。本来であれば自室に閉じこもるべき時期であろう。
今更世継ぎをグラハスへ、などと言い出した時はついにもうろくしたかと呆れたものであった。当然異議を申し立てたエルブラクに対して、ならば戦で決めよと告げたのも父である。武才も魔力も凡庸で、挙句兵すらろくに持たないグラハスと力で競えと。あまりに支離滅裂、そして浅慮。偉大なかつての父はもはやどこにも居ないのだと、エルブラクは僅かな寂しさをおぼえたものだ。
「息子……よ」
しゃがれた声である。弱弱しい声である。まさしく『終わった者』の声である。頼りない足取りでこちらまでやってくる父を、エルブラクは冷たい瞳で見つめていた。
「なんでしょう父上」
「勝ったと、思っておるか。終わったと」
「見ての通りでありましょう。戦力は全てかみ合い、互いに遊兵無し。事前の情報と眼下の数も合うようだ。もはやこのまま押し切って終わりでございます。なによりも愉快なのはグラハスの位置。旗を信じるのであれば歩兵隊の中列に混ざっていることになる。はは、これでは生け捕るのも困難でしょうな」
父が僅かに首を振った。
「高所に本陣を構え、騎兵を左右に置き、歩兵で正面から押し切る。数質共に上回るが故にこれが最善。それが定石。息子よ、お前は……本当に教本通りなのだな」
「それのどこが問題でしょうか。現に戦況は当初に描いた絵の通りに進んでおります」
「息子よ。お前は戦を大きく捉えすぎている。細部に目が届いておらぬ」
エルブラクは眉をしかめた。言葉の意味を図りかねたのだ。問いただそうと口を開く、まさにその瞬間であった。
「エルブラク様!」
帯剣した鎧姿の男――側近の一人であった。血相をかえたその表情を見れば、尋常ならざる状況であることは一目で分かる。
「何事だ」
「て、敵襲です! 右側面よりこの本陣を突くべく敵が…」
「右、側面?」
おかしな話である。背後であればまだ分かるが、左右は切り立った崖である。一体どうやって。
生まれた疑問に静かな口調で答えたのは、父であった。
「生えた木を足場に、崖を駆け上っただけであろう」
「駆け上る……? 馬鹿な、そんな真似が」
確かに、出来なくは無いのだ。たとえばエルブラク自身、あるいは護衛の中でも選りすぐりの数名ならば。
いや、とエルブラクは首を振る。そもそも、なぜ敵の接近に気付かなかったのか。エルフはそこにいるだけで魔力を放つ。それが数百の集団にもなれば僅かに探るだけで『筒抜け』になるのだ。
エルブラクは鋭く言った。
「数は? 敵影はどれほどなのだ」
「それは……」
どうやら答えられぬらしい。一目で分からぬほどの大軍かとエルブラクの背筋に氷が奔った。
それを拭ったのは、次にやってきた別の護衛である。
「現在こちらの右翼が敵影と交戦を開始しました。数は……おそらく八」
「……八? 確認できたのがそれだけということか?」
「それもあります、が……少なくともこちらと交戦状態にあるのは八のみです」
エルブラクは――噴出した。
「聞きましたか父上。気付かぬわけです、それほどの寡兵とは」
「おかしいか、息子よ」
「無論です。あなたから頂いた我が兵。その最精鋭で構成された五百の本陣。どうしてたかが八名で破れますか」
父の小さなため息が聞こえる。それがやけにエルブラクの癇に障った。睨みつけ、歯軋りをし、反論しようと口を開く。
それを止めたのは、三度目の伝令と――音であった。悲鳴が聞こえる。轟音が聞こえる。戦の声が聞こえてくる。
「え、え、エルブラク様、敵が、敵が――」
慌てふためく兵の声は、しかしまるで頭に入っては来ず。
エルブラクは、ただ、見ていた。下り坂の先、音に釣られて眺めた戦場、五百対八の虐殺場を。
吹き飛んでいく。千切れ飛んでいく。五百積まれた強固な壁を、僅か八の点の群れが、手にした漆黒の武器で容易く砕き、削っている。
敵が身長の数倍はあろうかという大矛を払えば、それだけでこちらの兵が五人は死ぬ。まばたきひとつの間に幾度も槍が放たれては、鋼鉄の鎧が落ち葉のように貫かれている。
最精鋭のはずであった護衛五百は、まるで蹴散らされる子犬のように、ぽろぽろと鏖殺されていく。全身全てを黒に包んだ、悪魔のような八の姿に。
言葉が漏れた。極自然に。
「なんだ、あれは」
「練騎兵、じゃろうて」
諭すように、呆れたように、そんな父の声音が僅かに正気を取り戻させた。
「ふざけたことをおっしゃる! 錬騎兵なぞ我が護衛にも数十とおります。この私も、そしてかつてのあなたも錬騎兵の称号を持っているではありませんか!」
道理が合わぬとエルブラクは思う。多少の質の差など、十倍以上の数で容易く押しつぶせる。当然のことであろうと。
父は――告げる。極静かに。
「息子よ。あれが『本物の錬騎兵』である。私やお前、部下に混ざった有象無象とは別種の、我らがエルフ、戦士の頂点」
ぽかんと口を開けたまま、エルブラクは絶句していた。錬騎兵は錬騎兵である。何が違う。何が変わる。
もはや意味の分からぬ父の言葉と対照的に、確かな事実が一つある。護衛の残りは、ついに百を切った。
エルブラクは左方を見た。終着は険しい断崖であるが、飛んで降りれぬことは無い。そうすれば、
「逃げるか、息子よ」
「……っ!? この私は大将です。討たれればそこで戦は終わるのですよ。当然の選択といえましょう!」
「そうとも。お前は大将である。その代表たる将が背を見せ逃げれば、兵の士気は粉と消える」
「士気ごときがなんだというのです。既に大勢は――」
「あの八名の錬騎兵は、逃げたお前など追うまい。本陣壊滅を高らかに知らせた後に、我らの歩兵の背を抉る。正真正銘の錬騎兵に背を穿たれるのだ。中央は砕け、こぼれた水が左右を襲う」
いや訂正しよう、と父は続けた。
「逃げるお前を捕まえ殺す。僅か数分で済むであろうな。背を抉るのは、それからで十分か」
「なっ……」
「息子よ。お前は定石に嵌りすぎている。時として歩兵の中央こそがもっとも安全であることを知らぬ。お前は戦力を盤上の数で捉えすぎている。何よりも見るべきは力だというのに」
父の瞳には、奇妙な優しさが篭っていた。
「息子よ、お前の負けだ」
パタンと音を立てて、ルネッタは本を閉じた。
数はあくまで力の一要素であり、突出した個の存在も踏まえた上で総合的に図らねばならぬものこそを、戦力という、らしい。
――そんなこと言われてもなぁ
凄まじい個を見分けるには魔力を測る力が必要で、目の前で猛ってくれればルネッタにも分かるが、隠されればどうにもならない。そして分からなければ作戦の立てようも無い。これは少々無理のある分野かと思いながらも、本をそっとテーブルへと置いた。
ルナリアから借りたこの本は、なんでも軍隊へ進む子供に読ませるよう物語として構成した戦教本なのだとか。
一応現状のルネッタは軍属になる。文字に馴染む勉強に合わせて、こちらの軍事のアレやコレを学ぶべきだろうと、自分で考えたのだ。とはいえいきなり分厚い専門書を叩きつけられても無理があるので、程よい何かは無いだろうかと尋ねたところ、コレが出てきた。娯楽のように話を楽しみつつ、教訓となるべき事柄も出てくる、良い本なのだとなんとなく思う。
ただし物語といっても、起きた戦や出てくる人物は基本的に実在のものという話だった。エルブラクはこの戦で戦死。父も同じように戦死。ではグラハスが勝ったのかといえば、雇った錬団に払う金で破産したのだとか。順当ならば古老の一角となりえたかもしれないほどの貴族だったというのに、と記述にはある。
なんというか、誰も幸せになっていない話だとルネッタは思う。
――さて
時間だ。椅子から立ち上がり背伸びをする。仮住まいの部屋の隅には、急ごしらえの小さなベッドが一つ。中ではティニアがすやすやと寝息を立てていた。
起こさぬように部屋を出ると、廊下でちょうどルナリアと出合った。
「おはようございます」
「うん」
なぜか、返事に覇気が無い。
「えっと、何かあったのでしょうか」
「いや……時間が無いから歩きながらだ」
彼女は甲冑姿ではなく、上下ともに白い礼服を着ていた。始めてあったときの、そして普段着ているものだ。同時に、武器は持っていない。
仮宿を出て歩く。相も変わらず天気が良い。まだ朝も早いが、道には騎士団の兵がそれなりにいた。
「向こうの出した条件はな」
語りだしたルナリアの顔を、ちらりと見る。
「武装無し。そして二人まで、だそうだ」
「二人、ですか? えっと、それではジョシュアさんは……」
「うん、無しだ。交渉は私が直接やる。そしてジョシュアより優先されたのは、お前だルネッタ」
息がつまる。まばたきをする。深く、呼吸を、した。
「が、がんば、り、ま、す」
「そう気負うな。そこに居てくれるだけでいいよ」
彼女は微笑む。解き解すように。そして瞳を強く輝かせて、はっきりと言うのだ。
「何かあっても絶対に守ってあげるから、安心してくれ」
畑の向こう、草原の先、遥か彼方にそびえる巨木を見やりながら、ルナリアは僅かに足を速めた。
ルネッタはその一歩後ろをついていく。恐怖と不安と、確かな信頼を感じながら。