無泉
結局子供は第七騎士団が引き取ることになった。あくまで一時的なものということだったが、反乱が無事鎮圧されたとしてもこの子に行き場があるのかは微妙なところだろう、とルナリアは言う。
何しろ市民権が無い。それどころか、書面の上ではセルタには無泉など一人として存在しないことになっているらしい。少なくとも街の住人では無いというのだ。
結論を先延ばしにしつつ、とりあえずの騎士団預かり。そして直接の面倒は――なんとルネッタが見ることになった。
特に異論は無い。書類の整理など大した分量でもなかったので、現状極めて暇なのだ。持ち込んだ本を読んでいたりはするものの、そればかりでは職務怠慢になってしまうと思っていたところだった。
それに、子供は好きだ。悪意で育て上げられたような、貴族の子供を除けば、だが。
「ええと……」
顎に手をあて、さてどうしようとルネッタは考える。
ここは臨時宿の一室――即ち現状のルネッタの部屋だ。居るのは僅かに二人、つまりはルネッタとその子供だった。
とりあえずと騎士団の一人が風呂に入れておいてくれたらしく、どこから用意したのか綺麗な服に着替えてもいる。
髪も整えられており、隅々まで輝くように磨き終えた、といったところ。なんでもそういうのが好きな女兵士がいるのだとか。
不思議そうに、そしてやや不安そうに、おずおずとこちらを見上げてくるその姿。晴天のような色合いの瞳と、強い酒を思わせる色の茶髪。目鼻立ちはくっきりとしており、十二歳程度の背丈に反して整いすぎた相貌は、ある種犯罪的な印象さえ抱かせる。エルフの特徴である細長い耳は地に引かれるように少々垂れているものの、それがまた強烈にアレやコレを増幅している。
つまり、かわいい。ものすごく可愛い。
よくもまぁ、こんないきものを殴れるものだとルネッタは思う。
少し背を屈めて、ルネッタは優しく声をかけてみた。
「とりあえず、食事にしようか。おなかすいてるでしょ?」
返事は――無い。ぱちくりと瞬きをして、顔を逸らすことも無く、けれども口はピクリとも動かず。
言葉は通じている、はずなのだが。
――とにかく持ってくれば食べてくれるかな
時刻はとっくに昼を過ぎているが、ルネッタ自身もまだ昼食は取っていない。先ほど大量の料理が目の前にあったが、怒り心頭の副団長が全て平らげたばかりなのだ。匂いに当てられて余計お腹も減るというものだ。
「ここで待っててね。一緒に食べよう」
やはり反応は薄いけれど、逃げ出すような様子も無い。ルネッタは急ぎ足で食堂まで向かうと、二人分のスープとパンに適当なスプーンを木の板に載せて引き返した。騎士団への支給品、らしい。
品だけでは貧相に聞こえるが、当然そんなわけもなく。
パンはふかふかに柔らかく、スープには塊のような野菜や肉がごろごろと浮いている。人間であるルネッタと無泉の少女にとっては十分すぎる量だろう。
部屋に戻ると――少女は動いていなかった。先ほどの位置から一歩も、だ。
顔だけがこちらに向く。そして表情はなぜか申し訳無さそうだ。
ルネッタ自身も基本的に遠慮がちで引っ込み思案ではある。しかしその自分と比べてさえ、これは常軌を逸しているように見える。
とりあえずテーブルに食事を置いて、再びルネッタは考える。
――どーしよう
あまり急かすのもどうかと思うが、ただ待っていても一向に始まらない気もする。こういうときは、行動しつつ柔らかく、だろう。
ルネッタは先に椅子へと腰掛けて、
「さ、こっち来て。ここに座って、ね?」
促すと、少女は少々怯えたように体を縮め、足早に椅子までやってきた。腰掛けて背を伸ばし、目の前の食事へと視線を注ぐ。ごくりと喉を小さく鳴らし、少々前かがみにスープを覗き込んで――止まってしまった。
「えと、どうしたの? 食べて良いんだよ」
「……ごめんなさい」
声をかけると、なぜか出てくる謝罪の言葉。
少女はルネッタを上目遣いにちらちらと伺い、その後手元へと視線を落として、小声で呟いた。
「ど、どうぐの、つかいかたが、わかりません。手でたべてはいけないのは、わかり、ます」
ルネッタは、思わず目を見開いた。
まばたきをする。数回、大きく。この言葉の意味するところ、今まで少女のおかれた環境、だというのにしっかりとした言葉遣い。軽い吐き気さえ、する。
動揺を悟られないように、ルネッタは努めて明るい声を出した。
「えっとね、こうするの。細い木の部分を持って、丸いところにスープとお野菜やお肉を入れて……できそう?」
やって見せればすぐに真似しようとするものの、やはり動作は覚束ない。硬く握り締めたスプーンからは、ばしゃばしゃとスープがすぐにこぼれてしまう。
そうして失敗を一つするごとに少女の顔は深く沈み、恐怖にも似た暗さが覆う。
これは駄目だ。ほとんど勘だが、失敗を繰り返させるのは非常に良くない気がする。
ルネッタは椅子から立ち上がった。少女がそれを見て怯えたように体を縮こませたので、出来る限り柔らかく声をかける。
「大丈夫だよ。食器の使い方を覚えるのはまた今度にしよう。今日はわたしが食べさせてあげるから。いや、かな」
ぱちくりとまばたきをして、再び少女は固まってしまう。。予想通りではあったので、沈黙を肯定として行動に移ろうとルネッタは思う。
椅子を持ち上げ少女の隣まで移動する。困ったようにきょろきょろと視線を動かす彼女にルネッタは微笑んで、スプーンに並々とスープを満たした。
「はい、口をあけて」
考える。考えている。そして明らかに迷っている。
遠慮か恐怖かは判断がつかないが『何かしら』があるのだろうとは思う。
それでも、体は正直なもので、きゅうという可愛らしい音が少女のおなかの辺りからこぼれたのだ。
我慢できなくなったのか、僅かに開いた小さな口へと、ルネッタは少々強引にスプーンを滑り込ませた。
吸い込み、頬張り、噛んで、噛んで、そして飲み込む。
「……っ! んぅっ!?」
目を白黒とさせ、奇妙な声を幾度かこぼして、少女はルネッタをまっすぐに見た。
「おいしい?」
尋ねると、何度も何度も頷いた。陰気だけを放っているかのようだった表情に、はっきりと明かりが灯るようだ。
少女の口元へと二口目を運ぶと、勢い良く食いついてきた。やはり――食事の欲というものは全てのしがらみを吹き飛ばすだけの力があるらしい。
――わたしもこんな、だったのかなぁ
あまりにかわいらしい少女の姿に思わず微笑みながら、ルネッタは少し前を思い出していた。
ちょうど、エルフの国へとやってきたころ。宿で食べたエリスが作った鶏肉を挟んだパン、鉱山の屋敷で食べた目も眩むようなごちそうの数々。それまでの人生全てが粗食だったとまでは言わないけれど、アレと比べてしまえばとてもとても。
だからこそ今の少女の様子が、それこそむさぼるように食べ続ける気持ちが良く分かるというものだ。
あっという間にスープの具を平らげて、柔らかなパンを千切って残りにつけては食べる。そんな普通の――そして素晴らしい食事を終えて、満足げに息を吐く。少女も、そしてルネッタもだ。
「おいしかった?」
「はいっ!」
元気良く返事をして、その後少し申し訳なさそうに顔を下げた。本当に、よほどの環境に居たのだろうとこの仕草だけで理解できてしまう。
「あ、そうだ」
僅かに首を傾げる少女に尋ねる。
「あなたのお名前を教えて欲しいんだ。良い、かな。わたしはルネッタ・オルファノ。ルネッタでいいよ」
少しの間。そして言う。平坦に。
「餌やり、です」
「……え?」
少女は、僅かな疑問も持たないような瞳で、もう一度。
「餌やりです。それがわたしのつとめと、なまえです。いやしき無泉ではありますが、はたすべきせきむをいただけたのはとても素晴らしいことなのだと、いつもおしえていただいています、たいせつなかちくに餌をあげて、同じ場所で寝ます。必要の無いときにはぜったいにそとにはでません。」
すらすらと、それこそ決められた文面をそのままなぞるかのようにすべらかに。
ルネッタは言葉に詰まった。めまいさえする。これが。
――これが、この国の闇か
忘れていた。見ないようにしてもいた。度が過ぎるほどに豊かな国、貧民層でさえ食うに困らない恵まれた環境。そしてあまりに優しく、暖かな周りの者達。そんな全てが上手く回る夢の世界なんて、あるわけが無かったのに。
かつてのルナリアの言葉を思い出す。この国がどう見えるのかとの問い、今ならその意味も良く分かる。
この程度、人の世にだっていくらでもあるだろう。だからこそ、エルフの世界にだって当然存在するのだろうと、理性は訴えかけているのだけれど。
「あの……」
不安そうに体を縮める。その仕草、可愛らしさ、悲痛さ。
重い。これまでいくらか見えた魔力弱きものへの差別など、消し飛んでしまいそうなほどに。
肩に手を置くと、少女は僅かに震えた。その瞳を覗き込んで、ルネッタは出来る限り優しく微笑んだ。何もかもを解き解せればと強く思う。
「あのね」
どこから伝えるべきなのか迷いながらも、ルネッタは静かに語りかけた。
「あなたのことは、私達第七騎士団が引き取ることになったの。だから、もう家畜の餌やりもしなくて良いし、好きなだけ外に出ることだって出来るんだよ。住む場所は……まだどこになるか分からないけど」
反応は――無い。言葉の意味を理解できていないのかもしれない。だから言う。わかりやすく、もう一度。
「あなたは自由になったんだよ。ほどほどに、だけどね」
「じゆう……?」
初めて聞く言葉のように、少女はぽつりと繰り返した。ルネッタは少女の頬をそっと撫でる。相変わらず、表情は動かない。
「だから、名前が餌やりというのはまずいよね。なにかこう……」
名乗りたい名はあるかと尋ねかけて、そこで辞めた。こんな環境で育った子に、そんな質問をするのは、残酷なだけではなかろうか。
「あなたの名前。これから新しくなるための大事なもの、わたしが考えてみてもいいかな?」
正直なところ、そんな権限がルネッタにあるのだろうかとは思う。騎士団での立場としても、異物である人間としても、行き過ぎた行為になってもおかしくはない。
少女は――頷いた。ほんの少し、目を輝かせて。
――ありがとう
心の中で礼を言う。なぜかは、己でもいまいち分からなかった。
「……ティニア。ティニアってのはどうかな」
「ティ、ニ、ア」
少しだけ考えるような顔をして、少女は再び頷いた。小さく一回、大きく二回。
――ああ
我慢できずに少女――ティニアを抱きしめる。ふわりと優しい匂いがして、あまりに華奢すぎる体の感触が伝わってくる。
「よろしくね、ティニア」
「はい、ルネッタさま」
「……さまは辞めてね」
困り顔の少女の額を撫でて、精一杯の笑顔をルネッタは作った。
助けたのはエリス。引き取ったのはルナリア。自分は食事を一緒にとっただけ。それでも少女は笑顔になった。ぎこちないながらも、確かに笑顔を見せてくれた。現状をどこまで理解しているのかはともかく、この愛らしい表情だけは真実だろう。
それだけでも嬉しい、と思う。でもそれ以上に、これは恩返しのようなものなのだ。
エルフの国に来て、血を流した。死にかけた。殺しもした。悲惨な目に沢山あった。けれどもそんな不幸が消し飛ぶだけのものを、確かにもらえたのだ。
それを僅かにでも、何かに返せればと思う。だからこそ、少女の笑顔が今のルネッタにはたまらなく嬉しかった。単なる下らない自己満足だとしても。
ティニアを撫でる。そうするとティニアが笑う。くすぐったそうに、けれど嬉しそうに。だからまた撫でる。また笑う。
そんなやり取りを繰り返していると、ノックの音が室内に響いた。
「はい」
「ルネッタ、いるな」
扉を開けて、ルナリアが入ってきた。ティニアを見て、ルネッタを見て、彼女は小さく微笑んだ。
「うまくいってるようで何より。で、それはそれとしてだ」
「なんでしょうか」
「早速になるが、明日の昼になった。心の準備をしておいてくれ」
一瞬悩み、そしてすぐに思い当たった。
ルネッタはごくりと唾を飲み込んだ。この反乱において、ある意味もっとも重要な時間。
敵方との交渉が、すぐそこに待っている。