久遠のようにさえ 五
シアンは自室のベッドに寝そべったまま、眠れぬ夜を過ごしていた。
報酬が二つあるらしい。
一つは金。命懸けの戦いにふさわしく、その金額はマティアの稼ぎにして一年分を超える。これでもう外に行かせる必要も無いと、シアンは心底安堵した。どうやらドゥーガもシアンに財産全て賭けていたらしく、しばらくは互いに裕福に暮らせそうだ。
もう一つは――格名、である。
あの戦いぶりを称えるために、ラグの名を王が直々に授けてくださる、らしい。以前の父と、形にしては並んだことになる。無論、実感は毛ほども湧かない。
ごろり、とシアンは寝返りをうって、ぐるりと薄暗い自室を見渡した。といっても、あるのは訓練道具とベッド、僅かな服に、水槽くらいなものである。
狭い部屋にはとっくに慣れた。シアンはマティアと同じ部屋で寝れば良いと提案したが、彼女が拒否したのだ。そのため彼女の寝室は半ば物置になってしまっている。
――もの、ね
むくりとベッドから体を起こすと、シアンは部屋の隅にある水槽へと向かった。
水彩版の再生機である。安物で壊れかけだが、有るだけありがたい。これのおかげで、数少ない継承財産であるセルフィアス英雄譚が只の石版と化さずに済んでいる。
上面に、シアンはそっと手を添えた。
とはいえ、あれきり話は見れていない。ドゥーガにも再生できないので、どうしようも無かったのだ。
――今なら
魔力を篭めた指先で、表面をそっとなぞる。時には滝のように激しく、あるいはそよ風のように優しく。数多の強弱を使い分けて、水槽に魔力という命を篭める。
「……あ」
動いた。
水槽にゆっくりと、しかし確実に、色のついた絵が動き出した。
達成感があった。これまでのどんな訓練より、あるいは闘技場での殺し合いより、今この瞬間が、何よりも強くなったのだと、確かな思いが体の隅々まで――
「あれ?」
流れる絵と文字に見覚えが無い。なぜだろうとシアンは思う。あんなにも繰り返し繰り返し、言葉の一つ一つを覚えるほどに見たというのに。
――そうか
今水槽に嵌っているのは、父が決して見せてくれなかった部分。セルフィアス始まりの物語。
「……なに、これ」
鮮やかで、煌くように、力強く、美しく。シアンがその物語に抱いている思いを表すとすればそんなところである。
だというのに、映し出される絵は暗い。セルフィアスの顔つきも別人のようで、そもそも若すぎる。いや、若いだけならば良い。この泣き顔はなんだ。この血は誰のものだ。なぜ彼女は、歯を食いしばって剣を取った。
「……あは……あはは」
長い時間をかけて物語を読み終えると、シアンの口からは笑いが漏れた。
自嘲のような、悲しい笑いが、どうしてもどうしても止まらなかった。それから少しだけ、シアンは泣いて、繰り返し繰り返し物語りを見た。朝日が昇るまで、ずっと。
王への謁見は一人で行う。付き添いは許可されていないが、当然であろうとシアンは思う。
服装には少々悩んだが、もらった報奨金で薄手の皮鎧を買うことにした。合わせて小奇麗な長剣も揃え、脇に吊ったまま城に入った。
この場合、武装していないほうが返って不敬に当たるから、であった。
城門から玉座までは一直線に続いている。意図的に防衛を困難にするその設計が誰の指示によるものか、シアンは知らぬし、興味も無い。
脇を固める兵士達の好奇の視線を受け流して、シアンは王の前へとたどり着いた。
金細工の王冠。赤い外套。白銀の鎧。権威の象徴たる様々を、引き締まった体に纏い、玉座に深く腰掛けている。
リムルフルト。所詮は仮初めの王である。権力の頂を持つのは、彼では無い。しかし、あるいはそれでも、確かにここでは王なのだ。
玉座の隣には女が一人、座っている。王妃は既に死んでいることを考えれば、彼女が王女か。儚げで、どこか線の細い女だとシアンは思う。
リムルフルトが片肘をついた。
「来たな」
「はい」
重く低い声に対して、出来る限りシアンははっきりと答えた。
膝をついて頭を下げると、
「やめよ。下らぬ作法を真似る必要など無い」
「……はっ」
立ち上がり、見据える。彫りの深い顔立ちである。王族というだけあってさすがに美しいが、潜む凶暴さを隠せていないように思える。
王が微笑んだ。
「偉大なそなたの父に恥じることの無い、素晴らしい戦いであった。今だ成人前の身ではあるが、格名を授けるに十分すぎる力であろう」
「恐れ入ります」
「アルセウスは極めて優れた戦士だった。レムの名を持つにふさわしき男であったが……今回のことは、私も心を痛めている」
シアンは深く頭を下げた。よくもほざく、とさえ思う。
「しかし、娘であるそなたにその才が確かに受け継がれている。それをはっきりと確認できただけでも僥倖である。ラグの名に恥じぬよう、今後も研鑽を続けてくれるな?」
「……陛下」
「どうした」
王に対して言葉を挟むのだ。いくらシアンとて、緊張が節々まで入り込んでくる。
なんとか声を整えて、シアンは言った。
「お願いがございます」
王は僅かに眉をしかめたが、すぐに無表情に戻った。
「申して見よ」
「纏名を頂きたく思います」
王はわずかに目を見開いた。
纏名とは、言葉の通りに仮の名前を己に纏わせることであった。
とうの昔に途絶えた、古い習慣である。盛んであったのはそれこそ千年以上も前であり、もっぱら目的とする『何か』を終えるまでの、一時の呼び名を授かるのだ。
「……して、なんと名乗る」
つばを飲み込み、息を吐いて、シアンは己の新たな名を伝えた。
王が、王女が、そして周囲の兵士までもが、一斉に目を見開いた。ざわついた声が聞こえぬのは、それだけこの場が精鋭ぞろいの証左であった。
――どうせなら全部だよね
セルフィアス英雄譚の一と二。幼少期に見ることの許されなかったその内容は、シアンの臓腑を抉るような代物であった。
幼名はセルフィアス。そして真の名もセルフィアス。しかし一と二では、彼女は纏名を持っていた。
幼くして父を殺された彼女は復讐の鬼となった。修羅の道を突き進み、数多の死を撒き散らして、長き旅と研鑽の果てに遂に目的の首を切り落とす。十年以上の戦いを終えて、そうして彼女はセルフィアスに戻った。
シアンは夜の闇に紛れて泣いた。下らぬ思い込みだというのは分かっている。単なる偶然なのだとも理解している。
それでも。
それでも自分が彼女にあこがれてしまったから、その所為で父が死んだのだと、思わずには居られなかった。
朝日と共に涙を拭いて、シアンは心から決意した。であれば、今後の道も間違いなく物語と同じにしよう。研ぎ澄ませた刃となってあのレシュグランテの首を削ぎ落とす。
それまで、彼女の名を借りて、この身に纏わせていただこう。古き戦女神に届くように。
王は――少々困ったように、首を振った。
セルフィアスの復讐相手は、当時の古老の一角だったという。であればこの名が何を意味するのか、分からぬはずも無い。
シアンは王を見る。僅かにも視線を逸らさず、決意の強固さを伝えるように。
「よかろう」
王が頷いた。
シアンは再び頭を下げた。
剣を抜き、己の前に翳す。護衛は反応しない。単なる表明だと、皆分かっているようだ。
赤い髪を僅かになびかせ、紅い瞳に光を灯して、シアンは静かに宣言した。
「エリス・ラグ・ファルクス。確かに拝名いたしました」
長い長い夢から、ようやくエリスは目を覚ました。
見飽きた天井である。そして寝なれた狭いベッドである。とある時を境にして倍狭くなったはずであったが、今日はそうでも無い。
はて、と思うと声がした。
「あ、起きました?」
体を起こしてそちらを見ると、珍しく早起きしているルネッタの姿があった。服装は寝巻きの黒シャツ一枚である。
彼女は礼箱から水瓶を取り出すと、コップに注いでこちらへと持ってきた。
「どうぞ」
寝起き一番で見る彼女のにこやかな笑顔は、くらくらするほど愛らしい。少々無様な動揺を悟られぬように、エリスは水を一気に飲み干した。
ふうと息をついて、エリスは言う。
「珍しいですね、ルネッタのほうが先に起きるなんて」
「いえその、どちらかというとエリスさんが良く寝てたと言うべきで……」
言われて時計を見れば――ああ、中々に酷い時間であった。
起きなければいけない。動かなければいけない。面倒くさい。寝なおしてしまいたい。いっそルネッタをベッドに引きずりこんで、絡み合ったまま寝てしまおうか。
そこまで考えてエリスは気付いた。
ルネッタが、なにやら心配そうにこちらを見ている。
「あの」
「どうしました?」
「えっと、涙、が……」
目元を擦ると、確かに少なくない量の雫が溜まっていた。頬にまで垂れたようである。
エリスは努めて明るく言った。
「大丈夫です。少し夢を見ただけですよ」
「ゆめ、ですか」
「そう。昔の夢です……昔の」
父の顔。家族の顔。夢で見たばかりの光景が脳裏にこびり付いて胸を焼く。
心地よさが半分に、やはり寂しさが半分か。
ルネッタは――何かを考えるように視線を左右に動かすと、やがて決意したのか小さく頷いた。
ぎしりとベッドが軋む。室内履きを放り出して、なぜかルネッタがベッドに乗ってきた。
「んん?」
疑問の声をあげるエリスへと、ずりずりとルネッタは近づくと、正面からぎゅう、と抱きついてきた。
――んんん!?
しがみつくように腰へと手を回して、顔はエリスの胸の谷間に沈み込むように。
ぐりぐりふにふにと五秒ほど体をこすり付けると、ぽこり、と顔をあげて、上目遣いで言う。
「お、お……落ち着きますか?」
真顔、であった。
「……ぷ、くく、くくく」
「どうして笑うんですかぁ……」
エリスはそんなルネッタの頭を掻き抱いて、再び胸の谷間に埋める。おでこに軽い口付けをして、耳のあたりをすりすりと撫でた。
くすぐったそうにルネッタが身をよじる。その体を持ち上げて、顔の高さを合わせたあとに、頬に再び軽く口づけをする。
ルネッタの頬はすでに赤く、瞳はとろんと蕩けていた。
おかしさに笑ったのではなく、あまりのかわいさに笑ったのだけど、それを説明するのもどうかとエリスは思う。
「今日はこのまま寝なおしますかね」
「あ、でも、その、えっと……」
「いやですか?」
少し震えて、その後ゆっくり首を左右に振る。
ルネッタが瞳を閉じた。薄紅色の唇が、誘うように少し開いている。
両手を頬に当てて、たまらなくおいしそうな彼女の唇へと、エリスは少しずつ近づいて。
部屋の扉が外から蹴破られた。勢い良く吹き飛んで壁に突き刺さる。驚きの余り飛び跳ねかけたルネッタを抱きしめて、エリスはじ、と侵入者を睨む。
「聞こえてるんだよさっきから!」
邪魔への抗議をしようかと思ったが、どうやらルナリアのほうが二倍ほど怒り心頭のようだ。
怖いのでやめておこうとエリスは思う。
「いつまで寝てるんだお前は! 今何時だと思ってるんだお前は! ルネッタも誘われるままほいほいベッドに入るんじゃない!」
そこまで途切れず言い切って、肩で激しく息をする。おおこわい。
「朝からそんな大声出さないでくださいよ。ほら、ルネッタまで怯えているじゃないですか」
実際びくびくと小さく震えているので、嘘では無い。
ルナリアは、ぐう、と小さく唸り、一度深い深呼吸をした。
「エリス」
「はい?」
「仕事だ」
「……少々引っかかるんですが。通常業務じゃ無い、てことですよねその声だと」
重々しく頷いて、彼女は続けた。
「細かい話は今日、王から直々に下されるらしいが」
「現時点での情報だとどうなってますか?」
「また遠征だ。それも今度は私たち個じゃなく、第七騎士団としての任務だそうだぞ」
エリスは――もう一度ルネッタを深く抱きなおして、大きな大きなため息をついた。
どうせ碌でもない仕事なのだろうと、ルナリアの表情が語っていた。