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Elvish  作者: ざっか
第一章
6/117

鉱山街 下


 閉ざされた視界を切り裂いたのは、身に食い込む刃の感触ではなく、風を穿つような轟音だった。

 開いた目に飛び込んできた光景に、ルネッタは大きく息をのんだ。

 

 黒ずくめが死んでいた。側頭部には深々と剣が突き刺さり、そのまま壁に縫い付けられている。いったいどんな力で投げ放ったのか、剣はその柄の部分まで食い込んでいた。

 形に、見覚えがある。


「腹に開いた風穴一つ、塞げずして何が戦士か、などと申しましてね」


 重い体を押して、ルネッタは声のするほうへと視線を送った。

 扉はいつの間にか開いている。

 黒い長袖に、白のエプロン。短いスカートからは白い脚。紅の瞳。炎色の髪。

 エリスが、立っていた。

 顔には――うっすらと笑みが浮かんでいるようにさえ見える。


「我らを相手にするのであれば、頭蓋を砕くか心臓を抉るか……いずれにしても、確実に息の根を止めることです。己の維持と治療は、魔術の基礎も基礎ですから」

 

 言い終わった次の瞬間に、エリスは深く体を落とした。

 背後へと蹴りを入れ、その反動で宙を飛ぶ。ルネッタの近くに降り立つと、振り返った。

 自分とそう変わらないはずの背中は、まるで城壁のような安心感をルネッタに与えてくれる。

 

 扉のあたりに、影が動いた。

 ――もうひとり。

 同じだった。全身隈無く黒で被われ、瞳だけが浮かんでいる。手に持っている剣は、さっきの黒ずくめよりもだいぶ大きい。

 影はそのまま動かず、剣を胸元に構えた。左右は壁だ。自由に避けれはしないが、代わりにこちらも正面からしか斬りかかれない。

 

 エリスの右足が動いた。死んだ黒ずくめの剣が、足下に落ちていたらしい。それを蹴り上げ、右手で受け止める。

 ゆっくりと。

 彼女は、剣を、真横に構えた。

 呼吸も忘れるような緊張は、しかし一瞬だった。

 躊躇も無く、エリスは地を蹴る。影が迎え撃つ。剣。弧を描く。耳を揺さぶる高い音。

 

 ――うそ。

 左右の壁。木の扉。剣の腹。押さえた腕。先にあった首。

 エリスの放った横薙ぎは、その全てを一太刀で切り裂いていた。

 二つに割れた扉が廊下へと崩れる。部屋の絨毯に、ぼとり、と血を吹き出す生首が落ちた。

 切り裂かれた布が、その反動で顔から剥がれた。

 白い。肌も。髪も。何もかも白い。長い耳から、エルフだということだけは分かる。

 

 エリスが、こちらを振り向いた。

 と――

 ぱきん、といっそ心地よい音を立てて、手にした剣は根本から折れてしまった。


「……安物ですね」


 呟いて、柄だけになったがらくたを放り投げる。そのままルネッタの傍まで駆け寄ってきた。

 ――うすうす分かってはいたけど。

 エリスも相当な化け物らしい。少なくとも、今ルネッタが殺されかけた相手などまるで問題としない程度には。

 彼女はルネッタを優しく抱き起こすと、傷口へと手を添えた。


「まずは血止めから」


 うっすらと光るエリスの手が、斬られた跡に添って動く。暖かい。痛みが嘘みたいに消えていく。

 全身を包む柔らかな感触に、ようやく助かったのだという実感が湧いてきた。

 そう思うと、既に流れていた涙が、滝のような量になってしまう。


「う……ひっく……」


 情けないとは思う。恥ずかしいとも思う。それでも、止まらない。こんな目にあったら大抵の人は泣くんじゃないか、という言い訳じみた思考も出てくる。

 頭に何かが触れた。

 エリスの手のひらだ。

 目が合う。彼女はまるで逸らさない。

 穏やかな声で、エリスは言った。


「魔術も使えぬ無泉に等しき身。細い腕に小さい体。心の準備さえ出来ていない襲撃という事態。いくら相手の無知につけ込み、知らぬ兵器を用いたとはいえ、そんな手札で奴らに一矢報いて見せました」


 ぱぁ、とまるで花が咲いたように、


「大したものではありませんか」


 出会ってから初めて見る、心からのエリスの笑顔だった。

 硬質な印象。鋭い顔つき。そんな彼女が突如見せた表情は、思わず魅了されてしまいそうなほどの――て。

 ――いやいや。

 ひとの腹に鉛弾をたたき込んだことを、こんな素晴らしい笑顔で褒め称えられても良いんだろうか。

 

 軍人、として考えれば別に間違っては居ない、のだろうか。

 悩んでいたら、涙が止まってしまった。

 鼻をすすって、呼吸を整え、治療を続けているエリスに声をかける。


「彼らは……その、何者なんですか?」


 紅の瞳に、わずかに暗い影がかかった。


「森の精の民……そう呼ばれる宗教団体の教徒だそうです。なんでもこの国を乱す不逞の輩を成敗して回るのだとか」

 

 表向きは、ですけどね。そう彼女は続けた。

 ――表向き?

 その建前ですら驚くほど物騒に聞こえる。裏はいったいどうなってしまうのだろう。

 不逞の輩とは誰なのか。王に属する騎士団長と、その部下らしき者が狙われることなんてありえるのだろうか。ルナリアの民衆からの人気を考えれば、暗殺を狙う者が出ることも無いとは言わないけれど――それは不逞の輩、と言えるのか。

 

 ――まさか、わたし?

 そうした基準で見るのならば、間違い無くルネッタは当てはまる。協定違反の犯罪者だ。殺されても文句は言えない。

 ――でも。

 こんな数日の間に、暗殺騒ぎになるほど知れ渡るものだろうか。第一、ルネッタが狙いなのだとしたら黒ずくめの反応は余りに不自然だった。

 

「心配しなくても、あなたが狙われたわけではありませんよ」 

 

 考えていたことが顔に出てしまったのか。

 そう言って、顔にこびり付いた血をエリスは布で拭ってくれた。


「逆に、我々の所為で襲われたとも言えます。その点は大変申し訳なく思っております」


 エリスが背後へと移動した。背中にそっと手が触れる。心地よさに、頬が緩みそうになった。

 丁寧に撫でながら、エリスが言う。


「我らエルフが長寿だという話は、聞いたことはありますか?」

「一応、は」


 不老不死だという記述すらあった。部屋に転がる二つの死体が、それが嘘だということを雄弁に物語っているけれど。


「あれは、少し違います。我々本来の寿命は長くても百程度。おそらく人間と変わりません」


 手が、腰のあたりまで下がった。少しくすぐったい。


「我々は、成人の儀式として『固定化』を行います。本人が望む歳に体の記憶を作るのです。魔力を用い、魔術を行使し、残りの生で可能な限りその記憶を維持し続けます。やがて魔力が衰えると、徐々に体を老いが蝕みます。百か、二百か、あるいは千か。個の力による部分はあまりにも大きく――結果として、我らの生に平均という言葉はありません。親より先に子が老いて死ぬ、というのもありえない話ではございません」


 背に伝わる暖かさが、一際強くなった。


「こうしてあなたの治療をする術も、いわばその『維持』の応用です」


 少し弾んだ声で、エリスは続けた。


「己以外の他者の治療……これだけは、私の技術が団長の上を行きます」


 背後に居るので表情は見えないが、とても誇らしげなのが分かる。意外だと思う。

 ――気になることはいくらでもあるけど。

 まずは、と思ってルネッタは口を開いた。


「お二人の年齢は……その、おいくつくらいなんでしょう」

「女性に歳を聞くものではありませんよ」


 耳元で囁かれた。びくり、とルネッタの体が固まる。


「冗談です。私もまだまだ若い、とだけは言っておきますよ。正確な数字は秘密です」

「分かりました。ええと、ルナリアさまは……」

「あの方は」

 

 エリスの手が背から離れた。


「見た目通りだと思って頂いて結構ですよ。ちょうど二十歳でしたかね。『固定化』も、ついこの間済ませたばかりです」


 だから、団長は特別なのです。エリスはそう言って、再び背中に手を当てる。


「誰が何だって?」


 唐突に、部屋の入り口から声が聞こえた。既に扉は無く、足下には死体が転がったままだ。それを大股で乗り越える。

 ルナリアが、帰ってきた。


「派手にやったなぁ副長」


 彼女は苦笑混じりに呟いた。


「ふくちょう?」

「そういえば言ってなかったか」


 ルナリアはビっとエリスを指さすと、


「そいつは私の付き人でもなんでも無いぞ。第七騎士団副団長、エリス・ラグ・ファルクスだ」


 姿勢はそのまま、どこか意地悪そうに顔をゆがめて、ルナリアは続けた。


「ちなみにうちで一番けんかっ早いのがエリスだ」

「……極めて心外です。団長の次に、と言って頂きたい」


 抗議の声はさらりと流して、ルナリアが傍までやってきた。


「傷は?」

「深傷はありません。多少中も傷ついているようですが、今夜の内に治せます。酷い、というのであれば拾った時の手足のほうがよほど酷い」

「そうか、不幸中の幸いだな」


 くしゃりと、彼女はルネッタの髪を撫でる。触れる手の感触が、とても心地よかった。


「そちらは?」

「無傷さ、私はな。奴らも明日には豚の餌だ。が――」


 言葉を切って、ルナリアは自分の髪をかき回した。服には返り血らしき跡が点々と残っている。


「まさか、住民が」

「死者は出ていない。しかし軽くない傷を負ったものが三人いる。数日で問題無く回復するだろうが……精神的な衝撃は大きかったようだ。そっちが本命だった、のだろうな」


 ルナリアが大きなため息をついた。ぽつり、と小さく言う。


「今期の税を二割減らす」

「それは――」

「仕方ないさ。この鉱山にそっぽを向かれるわけには行かない。警護の兵も十名ほど増やすことにした。帰ったら適当に見繕っておいてくれ」

「……分かりました」


 黙って聞いていたルネッタの頬に、ルナリアの手が添えられた。顔が、すぐそこにある。


「顔色が良くないな」

「けっこうな血を流したようですから。命に影響するほどではありませんが」


 エリスの返答を聞いて、ルナリアの表情が暗くなった。瞳に嘘は見えない。心から心配してくれていると思う。

 それが、とても嬉しい。にやけるわけにも行かないので、唇を強く噛んだ。

 ルナリアが立ち上がり、壁に刺さった剣を握った。もちろん死体を貫いたままだ。

 ゆっくりと、引き抜く。死んでしばらく経ったからか、血は僅かに漏れただけだった。

 

 崩れ落ちた死体を遠くに蹴り飛ばして、剣にこびり付いた血を絨毯で拭う。

 刃に自分の指を当てると、そのまま引いた。

 切り口。血。彼女の白く綺麗な指から、赤い液体が滑り落ちる。

 再びルネッタの前に屈むと、右手を眼前に差し出した。


「飲むと、少し楽になる。信じるか?」


 愚問だった。彼女を疑うことが、考えられなくなりつつある。

 ――でも。

 ごくり、とルネッタはつばを飲んだ。信じる信じないよりも、遙かに大きな問題がそこにある。

 

 ――指を、なめるんだ。

 純白の指先から、真紅の液体が滴っている。本当に良いのかな、という気持ちで胸がいっぱいになっていた。

 急かすように、ルナリアが指を振る。

 ――よし。

 心を決めて、ルネッタは彼女の手を掴んだ。ゆっくりと、口に含む。


「ん……」


 漏れたルナリアの声が、ルネッタの鼓動を早くした。気恥ずかしくもある。緊張に少し震えてもいる。だけど、舌が止まらない。

 甘い、と思った。

 血が甘いのか、彼女の指が甘いのか、良くわからない。

 

 夢中で舐めた。吸い付くようにも舐めた。舌を這わせるごとに、体が楽になっていく。心に何かが入り込むように、暖かく満たされていく。

 どれだけそうして居たのか、上ずった声で、ルナリアが言った。


「そ、そろそろ良いかな?」


 指を含んだまま、上目づかいに彼女の顔を見た。ほんのりと赤い。唇は少し震えていた。


「ぷぁ……」


 名残惜しい気持ちになりながら、ルネッタは口を離した。銀の糸が空中できらきらと光っている。

 夢見心地でルナリアを見つめ、だんだんと余韻と熱が引いていくと――ようやく、自分が何をしたのか理解出来た。


「も、ももっ申し訳ありませんっ」


 必死に頭を下げる。少し飲んで辞めるつもりだったのに。自分でも信じられない。

 目を閉じて震えていると、ぽんぽんと頭が優しく叩かれた。


「まぁまぁ、多少なりとも元気になったなら良かったよ。顔も赤みを取り戻してきたし、後はエリスに任せれば心配な、いいいいいいぃぃぃぃっ!?」


 突然だった。ルナリアが嬌声とも悲鳴ともつかない声を上げる。それに驚いて、ルネッタは弾かれるように顔をあげた。

 ―ーんな。

 残った彼女の左手に、エリスが食らいついていた。口をすぼめて丁寧に指を吸うと、一本一本にゆっくりと舌を這わせていく。その様は息をのむほどに淫靡で――。

 拳が、躊躇無く振り下ろされた。


「痛いです」

「何をやっとるんだお前は」


 殴られた頭を摩りながらも、変わらぬすまし顔でエリスは応えた。


「彼女には指を舐めさせたではありませんか。私にも同じことをさせてくれねば不公平です」

「そ、それはあくまで血をあげるためであってだね」

「嘘です」


 ぐい、とエリスが一歩詰め寄る。ルナリアが押されたように一歩引く。


「血を飲むためだけに、あんなにも熱心に舐める必要などございません。彼女は恍惚としていたではありませんか。団長もまんざらでもなさそうでした」


 頬が、これ以上無いという熱を帯びてきた。

 自覚はしたはずだったのに、いざ他人に指摘されると、比べものにならないほど恥ずかしい。

 エリスは、驚くほど真っ直ぐな視線を、ルナリアにぶつけていた。


「お嫌なのですか?」

「い、いやとかそういんでなく、治療、で、あって」


 狼狽えるルナリアに、エリスはさらに距離を詰める。

 もう一度、言った。


「お嫌なのですか?」


 ルナリアの顔は、熟れたリンゴのように真っ赤だった。もごもごと口を動かしてはいるものの、言葉にならずに消えていく。動揺を分かりやすく見せるかのごとく、長い耳が不規則に揺れていた。

 訪れる沈黙の中で、自分の鼓動だけがうるさいほどに聞こえていると、ルネッタは思った。

 喧騒らしきものが窓の外から聞こえてきたのは、ちょうどその時だ。


「忘れていたっ」


 声を上げて、ルナリアが足早に入り口へと向かった。一度振り返る。顔は、まだ赤いままだ。


「説明という名の言い訳をするんだった。外で対応してくるから、お前達は気にしなくていいぞっ。ちゃんと傷を治すんだぞっ」


 早口でまくし立てて、駆けるように消えていく。

 二人、残る。はっきりと気まずい。

 エリスが手で顔を覆った。

 小さな音が漏れてくる。泣いて――いるのだろうか。

 声をかけるべきなのだろうか。でも、なんて言えば良いのか。口を開きかけ、また閉じる。数度繰り返すうちに、音の正体が分かってきた。


「ふ、ふふ、うふふふふ」


 笑っていた。ぱっと手が開かれる。現れた表情は、恐ろしく上機嫌に見える。長耳も微かに震えている。


「ああ、あんなにも動揺した団長は久しぶりです。かわいいです。愛らしいです。幸せです……」


 誰に言うでもなく呟いて、それきり表情が戻った。器用だなぁと、どこか冷静な感想が出てくる。

 彼女が、こちらを見た。


「骨に軽いヒビがあるかもしれません。打撲などもございます。それらの治療に移りたいのですが……ここでは落ち着きませんね。部屋を変えましょう」


 死体が二つ。辺り一面に血。扉は真っ二つ。確かに落ち着けるような場所では無い。

 頷いて、立ち上がろうと力を入れる。と――


「いたっ……」


 右足に、鋭い痛みが走った。思わず倒れ込んでしまう。

 エリスが駆け寄ってきた。


「挫いたのかもしれませんね。無理に歩かないほうが良いでしょう」


 言うが早いか、彼女はルネッタを抱き上げた。膝裏と背中に手を当てて持ち上げる。


「えっと……」

「二度目です。今更恥ずかしがることもありません」


 そのまま隣の部屋に運ばれた。内装はほとんど同じだ。違いと言えばバルコニーが無いことくらいか。

 ベッドに下ろされ、腰掛けた。すぐ傍には窓があり、外が見える。


「服、脱がしますね」

「はい」


 風呂も一緒に入った仲だ。今更何を恐れるというのか。そういう文面を頭の中で三回ほど読み上げた。それでも少し頬は熱い。

 裸になった上半身を、エリスの手がそっと撫でていく。

 くすぐったくも心地よい。何よりも暖かい。鈍く続いていた体の痛みも、紙で水を吸い取るように消えていく。

 静寂が、しばらく続いた。

 一通り終わったらしく、彼女は立ち上がった。


「少し待っていてください」


 そう言って部屋から出て行く。程なく戻ってきたその手には、濡れた布があった。

 自分の血で真っ赤だったルネッタの体を、丁寧に拭いてくれる。


「ほんとうに……ありがとうございます」

「良いのですよ。巻き込まれたようなものですし」


 体にこびり付いた血は、もうすっかり取れた。満足げにエリスは微笑むと、


「さて、後は足ですね」


 器用にブーツを脱がせ、ズボンをまくり上げた。足に彼女の手が触れた。ひんやりと冷たい。

 ――これ、は。

 右手を足首に当てて、左の手の平で土踏まずを支えている。

 跪かせているような形になった。

 胸元を触られている時なんて比べものにならない。恥ずかしさをごまかすために、ルネッタは窓の外を見た。

 

 暗闇の中に、幾つもの明かりが浮かんでいる。ざっと二十はあるだろうか。

 状況を聞きにやってきた住民だろう。となればあのどこかにルナリアも居るのか。

 それにしても。


「すごいですね……」


 何が、とでも言いたげに、エリスが顔をあげて小首を傾げる。

 

「こんな騒ぎで、けが人まで出てるのに、みんな冷静で声を荒げてもいません。ルナリア様のお力……なのですよね」

「そうですね」

 

 エリスが再び顔を下げた。右手が優しく足首を包む。


「税も低めですし、定期的に自ら顔を出します。人当たりも柔らかいですし、力は過剰なほどにあります」


 それに、とエリスは続けた。


「なによりお美しいですから。なんだかんだと言いましても、結局皆美しいものが好きなのですよ。誰も、彼も、もちろん私も。あるいは――あなたも」


 じ、と。エリスの瞳が、ルネッタを射貫くように見つめてきた。

 ――それは。

 否定はしない。最初にルナリアを見たときの衝撃は、今でもしっかりと後を引いているのだし。

 でも、それを言うならエリスの綺麗さも相当なものだとは思う。少し、怖いというのはあるけれど。

 

 怯えている、と思われたのか、エリスが少し距離を取る。

 にこり、と微笑んだ。

 ――う。

 強烈だった。硬質な雰囲気が強い分、こうして優しく笑われるとどうして良いか分からない。

 それにしても。

 

 急に変わった、と思う。今までも笑顔を見せてはいたが、軽く口元をゆがめる程度の物だった。最初からこんなにも優しい顔を見せられていたら、大きく印象が違ったはずだ。

 何がきっかけなのだろう。あるとすれば――


「一番の魅力は、やはり多彩な表情ですよね」

「……え?」


 何の話か理解するのに、少しかかった。

 

「私の分まで全部肉を平らげられても、申し訳なさそうに見つめられたら、許してしまうとは思いませんか?」

「え、ええ」


 確かに、全てがどうでもよくなりそうではあると思う。

 エリスの右手が、足首から膝元まで上がってきた。


「ちょっとしたすれ違いから死にかけるまで叩きのめされても、目に涙が浮かんでいれば、まぁ許してやらんでも無い、と思いませんか?」

「それは……どう、でしょう」


 エリスが死にかける状況ならルネッタは確実に死ぬので、そういう時はこないとは思う。

 右手が、ルネッタの腹を撫でた。


「予期せぬ仕事と共に大量の書類が届いても、久しぶりの休みで明日は家に帰れると満面の笑みを浮かべられていたら、彼女の代わりに処理してしまおう、とは思いませんか?」

「ま、まぁ」


 そんなことで彼女の笑顔を曇らせたくは無い、と思う。実際勝手に片付けるのは相当まずい気もするけれど。

 エリスの手が、ついに胸元にまで届いた。感触に、身が震える。

 だから、と彼女は言った。


「たとえルナリア団長が国家転覆を企む大罪人であったとしても、許せてしまうとは思いませんか」

「はい…………は?」


 いま、かのじょは、なんと、いった。

 エリスが急に立ち上がった。両手を伸ばし、ルネッタの顔を掴む。そのまま優しく、引き寄せた。

 目の前に、エリスの顔がある。

 吐息は当然のようにかかる。舌を伸ばせば、相手の唇を舐められる。それほどに、近い。

 

 二つの紅玉が、ルネッタを静かに見つめている。

 長いのか、短いのか。永遠とも思える沈黙の果てに、エリスはそっと距離を離した。


「どうやら本当に知らないようですね」


 顎に手を当て、何かを考えるように首を捻る。


「となれば、古老共の使い、という可能性は無しですか。残りは黒塗りの手先ですが……こちらはありえませんよね」


 何か話しているのは分かる。しかし意味を砕いて理解するには、冷静さが足りなすぎた。

 ぽかんと口を開けたままのルネッタを、エリスが優しく撫でる。


「今まで疑っていて申し訳ありません。ですがこれも仕事なのです。団長は恐ろしく聡明な方ですが、いささか素直すぎるところがあります。物事を斜めに見ることこそ、私の役目でございましてね」

 

 さ、足の仕上げです。そう言って屈む。足。ひんやりと冷たく、そしてほんのりと暖かい。

 ――こっかてんぷく? ふていのやから? くろずくめ? あんさ、つ?

 思考は渦を巻いていた。エリスが再び何か言った気もしたが、頭に入ってこなかった。


「終わりましたよ」

 

 その言葉で、ようやく現実に引き戻される。エリスは丁寧に足首を撫でていたが、何か思いついたように口元を歪めると、

 足の甲に、軽い口づけをした。


「にゃっ――」


 広がる甘い感触に、奇妙な叫び声を上げてしまった。


「にゃにを、す、す、するんですかっ」

「ああ……とても良い反応です」


 頬に手を当てて、たまらないといった顔をしている。やはり耳は震えていた。

 しかしそれも一瞬で、彼女はいつもの表情に戻ると、


「今日はもう寝てくださいね。失った血までは作れません」


 どこから引っ張り出したのか、代わりと思しき服をルネッタに握らせて、血だらけのシャツとセーターをひとまとめに抱えた。


「では」


 そう言って、彼女は手を掲げる。

 明かりが減った。

 ルネッタの返事を待つでもなく、あっという間に部屋から出て行く。

 ぽつん、と薄明かりの中に一人。

 

 ――ええと。

 とりあえず服を着て、もう片方のブーツを脱ぐ。ベッドに潜り込んで、毛布をかけた。

 国家転覆を企む軍人。差し向けられる暗殺者。民衆の人気。直轄の財源。未知なる兵器への反応。

 物騒な符号は嫌と言うほど線で繋がっていく。ふつふつと、悪寒にも似た予感が背筋を伝って頭を占める。

 

 だというのに。

 ルナリアの血と指の味。足に残るエリスの唇の感触。

 真面目な思考を、甘いそれらが押しつぶしていく。

 ――ダメだ。

 思考はまとまり無く飛び交って、軽いめまいすら覚えていた。

 まともに考えられるような状態では無い。というよりも、二人のことしか出てこない。


「寝る」

 

 自分自身に言い聞かせて、ルネッタはそっと目を閉じた。

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