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Elvish  作者: ざっか
外伝三
59/117

久遠のようにさえ 四

 段取りはドゥーガに任せた。

 彼は職業柄このてのツテが豊富であるらしく、同時にシアンにはそもそもの登録方法さえ分からない。なにぶん世間知らずなのである。

 

 現状はともかく、血はまさしく英雄のものだ。只それだけで興味の対象になりうるほどであった。日付、相手共に選べるほどの、破格の待遇と言って良い。

 そのはずだったのだ。

 

 空は夕焼けに赤く染まり、冬の引き締まった空気が路地の隅々までを満たしている。

 シアンとマティア、二人の眼前に佇むのは、見上げんばかりに巨大な闘技場である。行き来する無数の人々は、賭けるためか戦うためか。

 

 待ち合わせの相手――即ちドゥーガは時間通りにやってきた。彼は闘技場の中から出てきて、足早にこちらへと向かってくる。事前の『準備』を済ませておいてくれる、という話だったのだが、どうにも雰囲気が妙である。

 傍までやってきて早々、


「やっぱりやめませんか、シアン嬢」

「……今更なにいってんの」


 ドゥーガは神妙な顔つきで、低く低く声を出した。


「横槍が入りました」


 申し訳なさそうに縮こまって見せる。巨体でその仕草はどうにも滑稽である。

 

「横槍?」

「はい。詳しくは分かりませんが『誰か』の要望であなたの相手が変更されるようです」

「ドゥーガちゃんは、誰に代わるか知ってるの?」


 彼は首を横に振る。


「ほんの数時間前の話です。等級は三、相手も甘めということで話がついていたはずだったんですが……俺にも何がなにやら。ただ、嫌な予感はします。背筋がひりつくほどにです」

「……ふん」


 シアンは歩き出した。慌てたように追いかけるマティアと、諦め気味のドゥーガへと首だけで振り返り、言う。


「やることは一緒でしょ」


 二人は小さく呻くだけだ。無視して足を速めようとすると、ドゥーガに肩を引かれた。


「止めないでってば」

「いえ、そうではなく」


 彼は――なにやら横へと首を向けた。


「どうやら場所も変わったようです」

「場所? だってここが闘技場でしょ」


 少し逡巡するようにドゥーガは目線を動かすと、


「王都には三つの闘技場があります。一つはここ。一つは霊決用に向こう。そして……地下にもう一つ」

「地下、ね」


 シアンは強く息を吐いた。それが何を意味するのか、分からないほど鈍くは無い。

 ドゥーガはシアンを見た。まっすぐ、瞳の中心を捉えるように。


「いきますか?」

「当然」


 僅かな間も無く、シアンは答えた。やがてドゥーガは目を逸らしてため息をつき、マティアは不安そうにエプロンの端を握り締める。

 それでも止まるつもりはさらさら無かった。

 

 ドゥーガに先導されて、闘技場の隅へと向かう。壁は石、そこに埋め込まれるように小さな扉。開けば薄暗い照明の中、下へ下へと階段が伸びている。

 不安げに体を竦ませるマティアに微笑み、シアンは落ち着いた歩みで地下へと進む。

 恐怖は無かった。動揺さえも無かった。

 

 迷宮のような道を抜けて、現れた巨大な扉を開けると、随分とひらけた部屋に出た。幾つかの人影に、部屋の壁には幾つもの剣。控え室といったところか。

 部屋中の視線が一斉にシアンへと注がれて――すぐに散った。

 重苦しくも湿った空気。なるほどとシアンは思う。ここがどういう場所なのか、一目で分かるというものである。


「どうすればいいの?」

「少し待っていてください。あそこに到着を届けて、準備を……ん?」


 ドゥーガの言葉が止まった。理由は――まっすぐこちらへと近づいてくる、一人の男であろう。


「お前があのアルセウスのガキか。保護者同伴とは恐れ入った」


 言葉というより嘲笑であろうか。

 凄まじい巨漢である。ドゥーガよりも更に頭一つ大きい。

 魔力の乏しい第三市民が、その力を筋力で補うことはある。そうした類の『足掻き』でないことは、男の体に満ちる魔力が雄弁に語っている。

 

 薄手のシャツに、頑丈そうなズボンとブーツ。そして無骨な長剣。強い。恐らくは片手を失った今のドゥーガよりも、である。

 そのドゥーガは、シアンを守るように一歩前に出た。


「何だ?」

「……思っていたよりさらに幼いな。まぁいい、出るところはちゃんと出ている。そうじゃなきゃ面白くねえし、客もよろこばねえってもんだ」


 巨漢はドゥーガをあからさまに無視すると、粘ついた視線でシアンの全身をなぞった。

 口をゆがめる。舌なめずりをする。ぎょろりぎょろりと瞳が動く。


「俺がお前の相手だ。等級は二、つまりお前の生死は俺の手の中にあるわけだ。これから『長い付き合い』をするっていうなら生かしてやっても良い……と言いたいところだがな、そうもいかねえ」


 男はシアンの背丈に合わせるように身を屈めると、囁くような声音で続けた。


「お前は殺す。絶対に殺すんだ。そういう仕事なんでな。もちろん楽には死なせねえよ。嬲って嬲って嬲りつくして、生まれてきたことを後悔させて、これでもかと命乞いをさせて――最後に殺す。今から言葉と態度を考えておけよ。そうすりゃほんの少しだけトドメが早くなるかもしれねえ」


 笑う。下品に、大声で、シアンとまっすぐに見つめあったまま、巨漢はげらげらと笑っている。

 ――うそばっかり

 舐めきったような態度に、見え見えの挑発。それら全てが、この後の戦いを有利に運ぶための演技である。外見よりも遥かに慎重な男のようだ。

 

 なにしろ。

 男の瞳には、愉悦も侮蔑も映ってはいないのだから。

 シアンは、にこり、と笑った。


「よろしく」

「……ふん」


 男は振り返り、肩をいきらせ去っていく。対戦前の二人を引き合わせることさえ異例であろうに、咎める声など聞こえない。どうやらよほどの後ろ盾があるように思える。


「辞めましょう、シアン嬢」


 予想通りのドゥーガの言葉を軽く聞き流して、シアンは尋ねた。


「知ってる奴なの?」

「……新人殺しのバズガック。これ以上の説明はいらんでしょう」

「なるほどね」


 仇名だけで十分すぎる情報である。

 さして動揺も見せないシアンに業を煮やしたのか、ドゥーガは少々声を張り上げた。


「奴は強い。格名こそ持っていませんが、腕は下層の錬騎兵に届きます。宣言すればいつでも誰かの『お抱え』になれるほどで、正直今の俺の手には余るほどですよ」

「そ」

「……っ。等級も二に上がっています。負ければ只では済まんのですよ、シアン嬢。奴の仕事が分かりますか。なぜここを主戦場にしているか分かりますか。反吐を吐きたくなるクズ共が喜ぶような、血と肉の惨劇を演じるのが奴の務めだからです。殺されるだけでは終わりません。止める者もおりません」

「だろうねー」


 大きい音がした。ドゥーガが勢い良く床を踏みつけたのである。

 今度こそ大声をあげかけた彼を制するように、シアンは視線を送った。ほとんど――睨みつけるように。


「ドゥーガちゃん」

「どっ……どうか冷静になってはくれませんか」

「ドゥーガちゃーん」


 一歩詰めて、彼の腹部にそっと手を当てる。そして見上げる。


「あたしはだれのこ?」


 ドゥーガが息を呑んだ。すぐにシアンは彼から離れると、沈黙したままのマティアへと振り返る。


「大丈夫だからね」


 渾身の微笑みには、けれど笑顔は返ってこない。それでも引くつもりなど毛頭無い。




 武装は貸し出された。実績を積めば持ち込みも許可されるというが、あいにくシアンはこれが初の決闘である。

 選んだのは――両手剣。区分の中では小型だが、シアンの体を思えば十分に巨大だ。

 

 鎧は無し。厚手の皮さえ無し。引っ張れば千切れてしまいそうな薄い布が一枚である。自由なのは靴くらいであった。

 汚らしく狭苦しい控え室で着替えを終えて、確かめるように剣を一振りした。軌跡は綺麗に宙を抉り、今の体調をこれ以上無いほどに表してくれる。

 

 部屋の隅にはドゥーガとマティアが暗澹たる表情で立っている。苔の生えた壁が彼らの気持ちを代弁しているかのようだ。

 先ほどから、言葉は交わせていない。

 軋んだ音と共に、扉が開かれた。頑丈そうな皮鎧に身を包んだ女である。


「時間です」


 知らせに来たのか、あるいは逃げぬよう見張りに来たのか。

 軽く息を吐いて、シアンは女の促すままに歩き出した。暗く湿った石造りの廊下は、死地へと向かう剣闘士の心を爪で引っ掻くようであろう。

 しかし――シアンは違った。


「シアンお嬢様」


 ここに着いてから、初めてのマティアの声だった。彼女とドゥーガはシアンの後に続いている。どうやら身内は最も近くで見れるようになっているらしい。極めて悪趣味であるとシアンは思う。

 肩越しに振り返って、シアンは言う。


「どうしたの?」

「……いえ」


 言葉はきっと山のようにあるのだろう。ありすぎて出てはこないのだろう。それが痛いほど良く分かった。シアンとて似たようなものである。

 長い長い廊下の向こうに、強い強い光が見える。どうやらあの『先』のようだ。

 

 広場に出てしまえば話す時間も無く、二人に許されたのは廊下の突き当たりまでだった。故にここが最後である。

 今度はしっかりと振り返り、微笑んだ。


「いってくるね」


 シアンはその一言で済ませた。二人の返事を待つことも無かった。死ぬわけが無いと、確信に近い何かがあるからだ。

 剣を無造作に肩に掲げて、シアンは一歩一歩と確かに進み――そうして、闘技場へと出た。

 

 歓声である。

 ただしそれは、品も無く大声で騒ぎ立てる物とは違う。

 値踏みでもするかのようにクスクスと。

 暗い情欲を期待するかのようにニヤニヤと。

 それらはいずれも『持ちうる者』ゆえの顔である。

 

 広々とした空間に、随分と高い客席の数々。腰掛ける一同は一目で富裕層と分かる服装であった。下品なまでに派手な羽細工で口元を隠し、あるいは美しい琥珀色の液体が注がれたグラスを手に、彼らはシアンを迎えたのだ。

 

 ――ふん

 不愉快ではある。だからといって睨みまわしたりもしなければ、あからさまに顔にも出さない。何しろこれから命のやりとりをするのだから、そんな瑣末に関わる余裕は無かった。

 

 正反対の鉄格子がゆっくりと開かれて、対戦相手がようやく広場へとやってきた。

 新人殺しのバズガック。シアンのような訳ありの者を、あるいは『表』で名を売った期待の果実を、可能な限り残虐に弄び嬲り尽し最後に殺す。歪みきった『かねもち』共を喜ばせることによって、地位を維持する処刑人である、らしい。

 

 もっとも、そんな男となぜ戦うことになったのか。ドゥーガがどんな間違いを犯したというのか。

 ――だろうね

 観客席の最上段、そしてその最端に、見知った男の姿があった。それだけで十分である。

 

 思考を切り替えて、シアンは敵を瞳の中心に捉えた。

 巨躯である。闘技場の端と端、それだけの距離があるというのに威圧を感じるほどのものだ。身近で見た先ほどよりも今のほうがより大きく見えるのは、やはりこれが『本番』だからであろう。

 

 薄く、しかし頑丈そうな皮鎧を身に纏い、やや長い片手剣を右手にぶら下げている。明らかにシアンよりも装備が良いのは、ある種の『力』が働いているからだ。

 表情には微塵の油断も無い。固く硬く引き締まった口元が、バズガックの心中を表すようである。

 

 やはり先ほどのは演技かとシアンは思う。奴とて必死なのだ。負ければ死ぬのは、互いに変わらないのだから。

 シアンはゆっくりと歩き出した。応えるように、バズガックも一歩一歩と距離を詰め始める。

 

 相手は、魔力の不足を強引に肉体で補うような弱者では無い。全身に満ちる魔力はドゥーガと変わらず、技量のほども似たような物か。

 紛れもない一流。下層の錬騎兵と同等。考えるまでもなく、今のシアンの手には余る。そう、今の。

 

 剣を両手で握り締めて、シアンは一気に地を蹴った。一歩で縮み、二歩で詰まり、そして三歩で肉薄する。

 小細工無し。真っ向からの袈裟懸け。


「ふん……!」


 バズガックは正面から受け止めた。渾身の反動は柄から全身に広がって、最初の疲労をシアンの体に刻み込む。

 通じない。なぜなら力で負けている。無論そんなことは、シアンとて承知の上であった。

 

 剣の軋む鍔迫り合い。強引に押し、ゆるりと引いた。バズガックの体勢が僅かに崩れる。シアンは一気に懐まで踏み込んで、柄を相手の鳩尾にねじ込んだ。バズガックの顔が歪む。膝を蹴りつつ飛び上がって、今度は肘を鼻面に。大きく仰け反ったその隙に、胸元を蹴って距離を取ると、シアンは深く剣を握りなおした。

 

 そうして放った渾身の横薙ぎは――再び、あっさりと止められた。


「器用だな、アルセウスのガキ」


 つう、と垂れた鼻血をぺろりと舐めて、バズガックは嗤った。

 隙を突いた、これ以上無い一撃がまるで通じなかった。当然のことである。シアンの拳や蹴りでは、到底痛打になりえない。であれば、バズガックは剣のみに注意すれば良い。

 

 魔術を防ぐ指輪はつけていないが、決闘において使用は禁止となっている。とはいえ、そんなものが通じるとも思えない。


「すぐ死ぬなよ」


 呟き、駆けてくる。風を裂いて振り下ろされる上段を止めれば、それだけで腕がびりびりと痺れた。

 剣戟は止まらない。

 獣が猛るように振り回される長剣を、いなし、受け止め、そしてかわす。いずれも死の一歩手前である。反撃の糸口など毛ほども見えない。


「おらよっ!」


 地から救い上げるような一撃。対抗して真上から振り下ろした。激しい金属音が響き渡り、同時にシアンの体は宙に浮いた。

 ――しまった

 時間にすればほんの一瞬である。しかしバズガックは器用に剣を躍らせると、今度は斜めに切り下ろしてきた。

 

 剣の腹で受け止めるも、足での踏ん張りが利かせられない。重く湿った音と共に、シアンの体は背中から床へと叩きつけられた。


「……っは……」


 あまりの衝撃に呼吸が止まり、涙が目じりに滲み出た。手足の感覚が消える。体が鉛のように重くなる。

 ――うごか、ないと

 寝ていればどうなるか、これほど分かりやすい愚問も無い。

 

 全身を流れる魔力を痛んだ背中へと流し込み、なんとか動けるように治療を施す――その、直前であった。

 腹部にずしりとした重さが奔った。見上げる。そして見下ろされる。


「さあお待ちかねだ」


 バズガックは、シアンの腹の上に馬乗りになっている。体格の差は大人と子供を超え、魔力の量でさえバズガックが勝る。周囲から見ればまさしく絶望、そして終幕であろう。あるいは、開幕なのかもしれないが。

 

 手始めとばかりに、男はシアンの手から両手剣をもぎ取ると、遠くへと放り投げた。

 歓声が上がる。上品な仮面を貼り付け続けていたはずの観客席から、安酒場のような声が飛ぶ。

 

 バズガックは――わざわざぐるりとあたりを見渡した後、シアンの顔へと向けて、巨大な拳を振り下ろした。


「がっ……」


 腕を交差させて防いだ。だというのに衝撃はあっさりと突き抜け、鼻の芯にツンとした痛みが奔る。

 味わう暇も無く、二発目が来た。

 がつんがつんと音がする。一撃ごとに防御が崩れ、後頭部は強かに床へと打ちつけられる。

 五発目。ついに腕が弾かれた。六。顔面に、拳がめり込む。七、八、九。口の中は血の味。十。

 

 そこで、一度止まる。


「どうだ? 後悔してるか? まだだぞ。まだまだ。予定の二割にも届いちゃいねえ」


 騒ぎ立てるように嗤う。客が喜ぶように演技をする。

 ――思ったとおり。

 バズガックは剣をくるりと返すと――その柄をシアンの腹部に叩き込んだ。


「ぎっ……げぶ……」


 喉奥からせりあがってきた血が、閉じた口から漏れて吹き出た。痛み。焼けるような熱さ。それもだんだんと薄れて。


「大した才だな、アルセウスのガキよ。五年もすればてめえのほうが強い。圧倒的に強いだろうな。しかし今は違う」 


 柄がぐりぐりと、シアンの腹部を執拗に抉る。

 ――ああ、やっぱり。

 再びの拳。今度は腹へ。肘。顔へ。手が伸びてきて喉を絞める。どちらにしても、呼吸などまともに出来ていない。歓声。歓声が蔓延る。

 

 陵辱に等しき暴力の中で、シアンは。

 ぎちり、と嗤った。

 ――やっぱり、すぐにころさない

 

 殴られ、嬲られ、魔力が奔る。バズガックの拳に乗った魔力の束が、奴の体に流れる魔力の塊が、密着した体から伝わるようで、触発されるようにシアンの体は熱く、熱く、痛みは消えて、光が見える。

 シアンは『跳ね起きた』


「なっ……!?」


 弾き飛ばされたバズガックは、事態を飲み込めないようである。

 シアンは口内に溢れた血を床に吐き出すと、己の顔へと手を当てた。

 切れて腫れたまぶたを撫でて、折れ曲がった鼻を戻し、砕けた頬骨をもみこんで、ねじ切れかけた唇をなぞる。

 

 それで――全てが元に戻った。普段との違いは血まみれであることくらいだ。

 痛みきった腹に手を当てて、シアンは呟いた。


「やっぱり実戦はいいね。分からないことが分かるようになる。出来無いことが出来るようになる」


 バズガックは、一歩、下がった。


「なんだ、どうなってやがる!?」


 狼狽も、当然であった。

 全身から放たれる魔力の量は、先ほどと何一つ変わっていない。バズガックが優勢、シアンが劣勢。純粋な力関係に変動も無い。

 

 観客席からはどよめきが起きる。驚愕が半分、落胆が半分。奴の立場からすれば、このまま済ますわけにもいかぬだろう。

 

 バズガックは聞こえるほどの歯軋りの後、再びシアンへと突き進んだ。疑問を噛み砕く時間は無く、故に単調な直線を描いた拳の突きである。

 シアンは、それを、正面から弾いた。

 

 殴り飛ばされた手先を庇うようにしつつ距離を取ったバズガックは、苦々しく顔を歪めた。


「……これは」


 純粋な力比べに負けたのである。小細工では最初からシアンに分があった。その上腕力で負けるということが何を意味するか――分からないような腕でも無い。

 

 稲妻のような速度で己の体内を走り回る魔力の『塊』を実感して――シアンは、凶悪に笑った。


「コツがつかめてきた」


 バズガックの総魔力は下層の錬騎兵程度。十分に一流である。しかしそれを操る技術はどれほどか。

 踏み込む時の足に、そして殴りつける拳にどれほどの魔力を乗せられるか。見たところ、二割がせいぜいといったところである。

 

 シアンの総魔力はバズガックに二周りほど劣っているが、あくまでそれは『すべて』を比べた話だった。

 踵から太ももを通り腹を抜けて拳に篭める。瞬き一つの間に体内のほぼ全ての魔力を、必要な場所に流転させる。

 全てと、二割。たとえ元の力に差があっても、どちらが勝つかは明白であった。圧倒的な体格差を計算に入れた上でも、である。

 

 訓練はしていた。得意ではあった。しかしこれほどの滑らかさを身につけたのは、まさしく死地に追い込まれたからだ。少なくともシアンはそう確信している。元より後一つ、きっかけがほしかったのだ。

 

 シアンはとびきり妖艶に微笑んだ。確かな上達とその実感に、肉欲にさえ近い衝動が全身を駆け巡っている。

 バズガックの顔が歪んだ。怯えたのだとシアンは思う。

 だから走った。

 

 バズガックは迎撃に出る。剣を使わず拳なのは、簡単に殺すなと重々言われているからだろう。

 迫り来る巨大な拳に、シアンは自身の拳をぶつけた。

 骨の砕ける音がした。肉の潰れる感触が染み渡った。

 

 バズガックが悲鳴をあげる。大きく引いて、潰れた左手を見て目を見開く。激昂する。腰を捻り、丸太のような蹴りが飛んでくる。


「あっはは」


 ぞぶり、と。

 バズガックの右の太ももに、シアンの指が突き刺さった。

 ――こんなことも出来るのか

 そのまま引き抜くと、赤い血が飛沫をあげた。悲鳴を撒き散らし転がるバズガック。

 

 愉悦に飲み込まれつつ、それでもシアンは冷静に新たな手札を確認する。

 細い指である。白く華奢な木の枝のごとく。それでも滾る魔力を先端に篭めれば、鈍い刃物程度には変わってしまう。

 滴る血を一振りして払い、シアンは一歩一歩と距離を詰める。

 

 遂に、あるいは当然に。

 繰り出された剣での一撃をするりと避けて、シアンは懐にもぐりこんだ。

 腹に一撃を叩き込むと、バズガックは苦悶の声を上げて体を折り曲げた。シアンは嗤い、目を細めて。

 

 そのまま、バズガックの腹の肉を『むしった』

 悲鳴である。劈くように甲高く、獣のように言葉に出来無い代物であった。


「うるさい」


 胸のあたりを強く押すと、バズガックはその場に尻餅をついた。

 シアンは正面に座り込む。恋人のように、あるいは親子のように。視線と視線が交じりあうと、悲鳴がぴたりとやんだ。

 口から少なくない血を吐き、蒼白の顔のまま、しかしバズガックは静かに言った。


「助けてくれと言ったらどうする」

「……どうすると思う?」


 諦めるように、あるいは受け入れるように、バズガックは目を閉じた。今まで数え切れないほど嬲り殺してきた。次は己の番なのだと。たとえそれが努めであったとしてもだ。

 シアンは――男の手から零れた剣へと手を伸ばした。

 

 果物でも切るようにあっさりと、シアンは剣をバズガックの心臓へと突き立てた。

 びくんと一瞬だけ体が跳ねて、すぐに目から光が消える。

 死んだ。

 

 シアンは剣を持ったまま立ち上がると、バズガックに背を向けた。

 闘技場は、宵闇のように静寂であった。

 シアンは躊躇が無い。容赦が無い。戦いという異常に対して、一切の気後れを見せたことが無い。これは物心ついたころから変わらぬ性根であり、シアン自身でさえ気付けていないことである。優れた戦士を称えるエルフの中にあってさえ、突出しているといってよい。

 

 父アルセウスだけが、その凄まじさと恐ろしさを理解していた。

 たゆまぬ才に、ある種壊れた精神構造。まっすぐ順当に育てば悪鬼になる。それも国に名を刻むような脅威となろう。

 しかしそれを正すべき父は死んだ。奴らに殺されたのだ。もはや止めるものなど、どこにも居ない。

 

 シアンは突風のような速度で振り返った。無論、右手に剣を持ったままである。

 煌く刃は軌跡を残し、左下から右上へと風を裂いて。

 軌道上にあったバズガックの死体、その首を高々と跳ね飛ばした。

 首は観客席へ向けて飛んでいく。高く、高く、最上階まで。

 

 遊具のように流れた首はついに観客席の真上にさしかかり――とある男の手元に落ちた。

 シアンは奴を見る。睨むように。男もシアンを見る。手元の首など無いかのように。

 

 やがて男――レシュグランテの跡取りはゆっくりと立ち上がると、拍手をしてみせた。生首の髪をその指に引っ掛けたままで、である。

 顔はにこやかに笑っている。胸中など知ったことでは無い。

 釣られたように拍手の波が起こる。万雷となった『それ』に対して、シアンは恭しく礼をして見せた。ご期待に沿えず『ざまあみろ』と。

 

 跡取りは拍手を止めると、生首を宙へと放り投げ――手元から放った猛烈な光で、跡形も無く消し飛ばした。

 大した魔術だとシアンは思う。だが届く。今は無理でも、すぐ届く。

 鳴り止まぬ拍手を背に、シアンは闘技場を後にした。

 

 通路を抜けて控え室に戻ると、ドゥーガとマティアが待っていた。

 ――なんて言おう

 悩んでいると、マティアが足早にこちらまでやってきた。抱きつこうか、あるいは手でも握るか。

 しかし、


「……え?」


 飛んできたのは、平手打ちだった。ぱちんという高い音が、シアンの耳をも震わせる。

 無論、いくらでも回避できる。その手を掴んで止めることも容易である。シアンがなされるがままに受けたのは、事態を飲み込めなかったからだ。

 

 問いただそうとして、シアンは息を呑む。

 マティアの瞳から、大粒の涙が幾つも幾つも零れ落ちた。

 再び手が伸びてきた。今度は優しく、シアンの両の肩に置かれる。


「戦うな、とは申しません。私がアルセウス様に拾われたのも戦場です。あの方が戦士で無ければ、生きてこの場にいることさえ叶わなかったでしょう……ですが」


 腕は背中にまで伸びてきて、そのままシアンを包み込んだ。血塗れの体に構うこともなく、マティアはぎゅう、と痛いくらいにシアンを抱きしめる。


「どうか、どうかそれだけにならないでください。お願いですから……お願いです」


 そう言って泣き続けるマティアに、シアンは言葉を返せなかった。

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