久遠のようにさえ 三
それは次の日のことであった。
東の『王』からの直々の贈り物として、家と土地を頂けるというのだ。
事実上『ほとんど』を取り上げられたシアンにとっては、まさしく朗報であると言って良い。たとえそれが第二市民として見てさえ貧相な家であったとしても。
そして――その提案の裏にシアンを囲う用途があるとしても、である。あの男に比べれば遥かにマシであるはずなのだから。
思い出の品を幾つか、そして日常的に使用していた品をいくつか。許されたものはそれだけである。
数人の使用人をそのまま雇い続ける資金力など無い。不本意ながら、皆その場で解雇という形になった。アルセウスが死んだことにより錬団も解体、見知った顔は散り散りになってしまった。
残ったのはたった二人。いや、二人も、であろうか。
シアンは揺れる馬車から窓の外を見た。造りは中々に豪奢である。あるいは味わえる最後の贅沢かもしれない。
御者はドゥーガである。残った左手一本で、器用に馬を操っている。彼がこうしてシアンの傍に残ったのは、やはり責任感から、なのだろう。
「シアンお嬢様」
マティアの優しい声がする。彼女は小さなナイフで果物をむいて、小皿に乗せてこちらへと差し出した。
シアンは微笑んだ。困ったように。
「もうあたしは、お嬢様じゃないよ」
「いいえ」
大きく、それこそ少し大げさに首を振って、マティアは続けた。
「私にとって、あなたはいつまでもシアンお嬢様ですよ。たとえ何があったとしてもです」
「……うん、ありがとう」
口に含んだ果物は、少し酸っぱかった。
戦火で片腕を失った対価として、ドゥーガも家と土地をもらえるらしい。場所はちょうどシアンの住む目の前である。あるいは王からの提案すら、ドゥーガが頼み込んだ可能性さえあった。彼は聞いても何一つ答えてはくれない。
馬車での道程は長く感じた。
幾度かは馬車の中で夜を明かすことになった。マティアと身を寄せ合うようにして眠り、目が覚めれば窓から身を乗り出して、故郷の方角を仰ぎ見る。もはや豆粒のようにさえ見えないというのに。
そうしてたどり着いた王都は、想像よりも遥かに立派で、喧騒に満ち満ちており、そしてどこか不愉快だった。
シアンにとって、人ごみは生まれてはじめての経験なのである。
指定の場所で馬車から降りると、既に案内役が待っていた。
王の使いを名乗る壮年――あくまで外見の話である――の女性の後に続いて、新しい『住処』までの道を進む。
華やかな表通りを過ぎて、閑散とした裏道へ。空気はどこか陰鬱で、心なしか空も狭い。
第十一地区。第二市民と第三市民が混ざり合って暮らす、いわば下層であった。
シアンの才を持ってすれば第一市民の資格は優に取れる。しかし今回はいわば異例である。それこそ犯罪者扱いに近いのだ。これ以上の贅沢など言えまい。
木とレンガが混ざり合ったような、不恰好な建物の前で女の足が止まる。屋敷と比べるのは酷であろうが、それを抜きにしても狭い。住めてせいぜい三人といったところである。
「では」
一言告げて、あっさりと案内役は去っていった。態度からしても、歓迎されているとは思えない。
マティアは抱えた荷物を一度地面に置くと、家の玄関を開けた。
軋んだ音に、ほこりっぽい空気。地下の物置のようであるとシアンは思う。
それでも、これからの家なのだ。
「俺は自分の片付けを始めます。何かあればすぐに呼んで下さい」
ドゥーガは不器用そうに微笑むと、向かいの自宅に入っていった。彼には苦労をかけた。そしてこれからも苦労をかける。返すだけの何かは――あいにくと、今のシアンには無い。
両肩に乗せられる手の感触に、シアンは少しだけ驚いた。
「私が居ますよ、シアンお嬢様」
マティアは微笑んでいる。優しく、そして寂しそうに。手に手を重ねると、少しだけ棘が取れたように感じた。
新しい生活は、決して楽ではなかった。王からの援助は細々としたもので、食費を初めとした生活費は全て自力で稼がなければいけない。税の免除など、シアンには分かりづらい助けも多々あったのだが、何しろ実感としてやってこないのだから。
幸いにして、マティアはすぐに仕事を見つけられた。給仕や料理など、いわゆるその手の仕事らしい。魔力に優れているわけでも無いので、もらえる給料など高が知れていた。
自分も働こうかとシアンは何度も考えた。魔力はそれなり以上にある。扱いも歳相応を遥かに上回るはずである。金を生むだけならば、そう苦労はしない。
その提案を、マティアは柔らかく拒否した。子供には子供の努めがあると、彼女は毎回のように言った。
もう子供では無い。そう返すのがもっとも子供なのだと、シアンなりに理解はしている。だから、素直に甘えることにした。
やることがある。純粋に、一つ、やらねばならぬことがあるのだ。
小さな学校に通う選択肢もあったが、シアンは選ばなかった。何しろ金がかかる。この上余計な出費を抱えるのは無理がある。勉学など自力で十分だ、と押し切った。
もっとも机に向かうのはせいぜいが日に一時間。残りは全て剣を握った。最初は一人で黙々と、次はドゥーガを相手にひたすらに。しばらくすると彼は街にある訓練場に連れて行ってくれるようになった。
そうして、剣を振るった。魔術を研ぎ澄ました。マティアはそれほど良い顔はしなかったが、彼女も諦めているように見えた。
半年などほんの一瞬なのだと、シアンは寒空を見上げて、そう思う。
シアンはいつものように、家の前に出てマティアの帰りを待った。訓練は可能な限り日が落ちる前に終わらせて、彼女を出迎えるようにしていたのだ。
自分が顔を見せることにそれだけの価値があるのか、正直なところシアンには分からなかった。それでも彼女が喜ぶなら、とシアンは思う。
――あ
ちょうど、マティアの姿が暗い道の向こうに見えた。
「ただいま戻りました、シアンお嬢様」
職場から帰ってきたマティアの顔には、疲労が色濃く見えてしまう。朝も早くから出て、碌に休みも無いまま働きづめであろう。彼女はそれほど体力も力も無い。無茶をさせているのは明白であった。
「すぐ夕食に致しますね」
それでも彼女は不満の一つも言わない。今日に至るまで、涙の一つも見せていないのだ。父が死んだ衝撃は、彼女とて等しいはずだというのに。
扉を開けて中に入ろうとしたところで、二人の背後から声がかかった。振り返れば、ドゥーガが居る。
「どうも。ちょっと今日はもらい物があるんです」
そう言って彼は手元の袋を掲げた。ずいぶんと大きい。
「いつもありがとうございます」
マティアが微笑んで中へと促した。こうして三人で夕食を取るのも、そう珍しくは無い。
「森豚を丸々一頭もらえたんで、適当に切り分けて来ました」
テーブルを埋め尽くすほどの量である。どうやらほとんど全てを持ってきたらしい。
しかしこれも、数日あれば消えてしまう。その九割はシアンの胃袋の中に入るのだ。
僅か半年でシアンの体は随分と成長した。胸は膨らみ、体つきは女らしさを増している。背が伸び悩んでいることを除けば、劇的な変化であろう。しかしそれは、大食の理由にはならない。
目に見えて、そして日に日に増し続けるシアンの内在魔力は、相応の対価を要求する。維持し、使うために山のような食料を必要とし、そして使えば更に鍛えられ、魔力の量は膨張する。そうして更に更にと食事の量は増えてしまう。
もはや男数人分は軽く超えるほどに食べているが、シアンの体に無駄な肉は無い。腹も手足も細いままである。
それら全てが、魔力に『喰われて』いる状態なのだ。
マティアの給金は、そのほとんどがシアンの食費に消えていた。
使う魔力を抑えればだいぶマシになろうというものだが、それではまともに訓練も出来無い。何のために打ち込んでいるのか分かったものでは無いのだ。
だからこうして甘えている。身を削るようなマティアの労働に、あぐらをかいて座っている。
――それも、ここまでだよね
夕食の支度も終わり、いつものように三人で囲む。
テーブルにずらりと並んだ肉を、ナイフで突き刺し口に運んだ。香辛料をすり込んで焼くだけの単純な料理だが、それゆえ肉の旨みが深く出る。シアンの好物である。
「おいしいですか?」
「うん」
頷くと、マティアは微笑んだ。疲れもいくらか和らいで見える。
一通りの肉を平らげパンをつまみ野菜を詰め込み、差し入れのおかげで豪華になった夕食を終えた。
機はやはりここであろうとシアンは思う。
「マティア、いつもご苦労様」
「はい? どうなさったのですか突然」
「お仕事大変でしょ?」
「……いいえ、お気になさらずとも大丈夫ですよ」
マティアの顔が曇った。どうやら違和感を察したらしい。
それでも、既に決めたことである。
「お金、あたしが稼いでくるよ」
顔を歪めてため息をつき、そうしてマティアはゆっくりと顔を振った。
「シアンお嬢様、あなたはまだ成人前でございます。固定化も済んでおりませんでしょう。私に気を使っていただけるのは大変ありがたく思いますが……どうか――」
「だって、ほとんどあたしの食費じゃない」
シアンは笑う。努めて明るく。
家と職場を往復するだけの生活を続け、日に日にやつれていくマティアを見るのも、そろそろ限界であった。
それに、とシアンは思う。
「良いんだよ、あたしの目的にも役立つから。ついでにお金もたっぷりもらえるんだし、やらないと損でしょ」
怪訝そうに眉を潜めていたマティアは――急に目を見開いた。ほとんど睨みつけるようにドゥーガを見て、
「まさかっ!」
「ドゥーガちゃんを責めないでよ。頼んだのも言い出したのもあたしだし」
マティアは勢い良く席を立つと、シアンの傍で屈みこんだ。表情は固く、少し震えているように思う。
彼女は両手をシアンの肩に置くと、
「シアンお嬢様、ご自身のなされることの意味、確かにわかっておりますか?」
「もちろん」
マティアの手に自分の手を重ねて、シアンは言う。
「ねえマティア、父さまの仕事は何?」
「そ、れは……」
「マティアはどこで、父さまとあったの?」
口を噤んで俯いた。そんな彼女をそっと抱きしめる。
「大丈夫だよマティア。だってあたしは――あのアルセウスの娘なんだから