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Elvish  作者: ざっか
外伝三
57/117

久遠のようにさえ 二

 朝日が目に染みた。

 応接室の椅子に体をだらりと沈ませたまま、シアンはずっと窓の外を見ていた。

 夜中から今に至るまで、水の一滴も飲まずに、ただ見ていた。

 

 アルセウスが死んだらしい。

 シアンの瞳から涙は零れない。悲しくも無ければ、苦しくも無い。なぜなら実感が湧かないからだ。

 

 ぽつぽつと、そして心苦しそうに、ドゥーガは事の顛末を語ってくれた。

 それはまさしく異常であったという。

 一欠けらさえも士気の途絶えぬ反乱兵。数ばかりでまとまりの無い騎士団と防衛隊。結果として本来あるべき戦力差は埋まり、泥沼の膠着戦がだらだらと繰り広げられる有様であった。

 

 幽鬼のような民兵を斬り殺し、どうにかこじ開けた戦線を進むと、ぽつりぽつりと白髪混じりの兵が現れ。

 粘りつく違和感がある種の確信に変わったのは、見るも巨大な黒い獣を確認した時であった。

 

 細い山道である。正面から左右までを敵に取り囲まれ、後方に控えていたはずの兵の姿はどこにも無い。

 敵は悪路を物ともしない黒犬。そしてついに姿を現した『黒塗り』共である。

 

 背中を向けて逃げ出せば追いつかれて皆殺しにあう。

 この場で迎え撃っても同じことであろう。

 深く頷き、そして有無を言わせぬ空気を纏い、アルセウスは決断を下した。

 

 剣を構え、魔力を漲らせ、たった一人で殿を務める。それはまさに勇者の所業であろう。たとえ――結果が死であっても。

 

 ドゥーガは死体を確認していない。しかしアルセウスが死んだことを確信していた。なぜかと言えば理由は単純で、足止めていたはずの黒い獣に、部隊を背後から抉られたからである。

 あのアルセウスが、そんな真似を許すはずが無いのだ。それこそ、既に命が尽きていない限りは。

 

 ほんの僅かな時間であった。そして十分すぎる地獄であった。

 半数を失った彼らの部隊を救ったのは、追いついた王の騎士団ではなく、援軍として派遣された古老の直轄部隊であった。

 

 凄まじい錬度と素晴らしい装備。無傷とは言わぬまでも、獣を蹴散らしダークエルフ共の命を残らず刈り取るその姿に、ドゥーガは感動を覚えたという。

 

 今は、何よりもそれを恥じていると、彼は呻くように言った。

 部隊の長は、先日も館を訪れたあの男。彼は軽蔑と侮辱だけで構築されたような、恐ろしく冷たい瞳で、言ったらしく――

 

 来客を知らせる音が、シアンの耳に滑り込んできた。

 シアンは席を立った。そして走った。なぜ走るのか。父のはずが無いのに。

 

客はまさしく『その男』であった。


「残念なお知らせがあります、シアン嬢」


 舌が長いわけでも無い。肌が緑なわけでも無い。だというのに、どうしてここまで蛇のように思えるのか。

 動揺を悟られぬように、シアンは静かに言った。


「どうぞ、こちらへ」


 玄関先に立たせるわけにもいくまい。仮にも古老の直系、将来のこの国の頂点候補である。

 戻った応接室には既に二人居た。侍女服の裾を握り締め、固く口を引き締めたままのマティア。そしてもはや敵意を隠そうともしないドゥーガである。

 

 促されるままに男はソファーに腰掛けて、シアンはその正面に。ドゥーガは、まるで守るかのようにシアンの背後に立った。

 男が一枚の紙をテーブルに置いた。同時に、持っていた剣をもテーブルに置いたのだ。シアンの手が届く場所に。

 

 鎮痛な面持ちで――まさしく役者のような――男は大げさに首を振る。そして言う。


「シアン嬢、あなたが授かりえた格名のレム、そして現在のラグ……そのどちらも剥奪せねばなりません」

「なっ……!?」


 声を上げたのはシアンではなく、マティアだった。男はちらりとそちらを一瞥したが、すぐに視線を戻した。再び目線が絡む。温度の無い瞳が、シアンの心をざわつかせた。


「あなたの父、偉大なるアルセウス殿は――信じられぬ恥ずべき行いをしました。眼前に迫る軍勢に怖気づき、背中を向けて逃げ出して……あまつさえ、追いつかれて死んだのです。これは戦士としての名誉も地に落ちるほどの行為です」

「馬鹿な……馬鹿な!」


 ドゥーガは声を張り上げた。


「隊長は我らを逃がすために殿をつとめたのです! それをそのような扱い……到底納得できませぬ。事の次第によっては――」

「ええ、私もドゥーガ殿に同意致します」


 なだめるかのように、男は穏やかに言った。表情はとても柔らかである。


「あのアルセウス殿が、そのような真似をするはずが無い。しかしこれは『上』からの決定……私にそれをひっくり返すだけの力はありません。心苦しい話ですが」


 男の目線がくるくると動いた。間を作るように。あるいは――シアンに受け止めるだけの時間を与えるように。

 再び、瞳はシアンを捉える。一層強い光が灯っている。


「どうでしょうか、シアン嬢。あなたのように才溢れる子が平民の中に潜み暮らすのはあまりにもったいないと私は考える。それゆえ一つ提案したいのです。もしもあなたがよろしければ、だが……我が一族に加わりませんか。形式上だけの妻でも良く、あるいは単に養子でも良い。相応以上の待遇を約束させていただきます。今回の件についても何か出来るかもしれません」


 シアンは、己の背筋を得体の知れない何かが撫でるのを、確かに感じていた。

 ――こいつか

 表情は優しげである。蛇のような空気も消えうせて、まるで不幸な戦争孤児を拾う老人のようだ。だが。

 

 シアンは確信した。眼前の『奴』の瞳を持って、今確かに父の死が実感となってやってきた。滝のような激情が腹部を焼いて、目頭に焼きごてが当てられたような錯覚を覚えた。

 

 しかし、それでも涙は流さない。

 ――こいつが

 父を殺したのだ。直接か間接かは知らず、また興味も意味も無い。

 

 恐らく目的はシアンであろう。純粋に才ある身が欲しいのか、確実に強く美しくなる妻が欲しいのか、あるいは首輪でもつけて飼いたいのか。

 ――こいつを

 

 マティアは一言も発さない。衝撃に打ちのめされているのであろうか。ドゥーガは小さく震えていた。恐らく殴りかかりたいところを必死の力で抑え込んでいるのだろう。

 

 シアンは、ふ、とテーブルを見た。紙の脇に置かれた剣に、吸い込まれそうに思えた。

 ――このば、で

 そうして視線を戻した先で――確かに男が舌なめずりをした瞬間を、シアンは見た。

 

 ――ああ、そうか

 才ある身は確かに欲しい。妻にするのも良いだろう。奴隷として飼うのも悪く無い。だがそれ以上に、そして最大の男の望みを、シアンは察することが出来た。

 

 父の仇を目前に激昂する己を、その場で返り討ちにし、打ちのめし、そして殺す。それが、それこそが、それだけが、そしてそんなことが――この蛇のような男の目的だったのだと。

 

 シアンは手をテーブルの下に隠した。血が出るほどに握り締めたそれを見せるわけにはいかないからだ。


「ありがたいお言葉です。しかし……あたしは、そのご提案をうけることは出来ません。ありがとう、ございます」


 父、アルセウスはまさしく戦士であった。そしてその娘であるシアンも、既に半ば戦士であるのだ。

 

 男は古老の一族、万が一この場で斬りかかろうものならば、待っているのは無数の死であろう。権力そのものにつばを吐くような行為である。今この屋敷の外にさえ、手勢が控えているかもしれない。

 

 しかし。

 それさえも、余分な心配であろうことは間違いなかった。

 

 男は強い。アルセウスに匹敵するその力は、まさに圧倒的と言って良い。

 無謀にも襲い掛かったシアンをねじ伏せ、その後にドゥーガを一太刀で両断し、混乱極まる屋敷を単身で制圧したのちに――あらゆる手を用いてシアンを嬲る。その程度、簡単にやってのけるだろう。それが古老の直系、最上位の錬騎兵の力なのだから。

 

 男の顔が変わった。シアンが『おとなしいまま』であると察したからか、作り上げた親しさは消し飛んで、再びいつものような蛇に戻った。


「そうですか。それは残念……ではこの書面の通り、屋敷と財産の大半は没収という形になります」


 平坦な声である。興味の失せた、名を書くだけの下らぬ書類仕事を片付けているようでさえあった。

 男の言葉一つ一つに、シアンは小さく頷いた。感情を押さえ込みながら、激変する状況を可能な限り頭に収めるよう努力はした。もっとも――半分飲み込めれば上等、であったのだが。

 

 あっさりと、男は帰った。既にこだわりさえ消えたのか、あるいは再び『面白い』火が燃えるのを待っているのか。

 退去までの猶予は僅か一週間。その間に考えねばならなかった。せめてと残したい私物に、これからの様々を。しかし。

 

 シアンはゆっくりと振り返った。苦々しく顔を歪めたままのドゥーガに、固く唇を噛んだままのマティアが、先ほどから一歩も動かずに立っている。


「マティア」

「……はい」

「父様、死んじゃった」

「っ……は、い」


 一筋の涙が頬を伝って床に落ちた。


「とうさま、しんじゃったよ」

「シアンお嬢様……」


 マティアの胸元に飛び込むと、シアンは大声で泣き出した。彼女の不思議な侍女服を握り締めて、白いエプロンが涙で見る間に濡れていく。右の手の平から溢れた血が、黒い袖に染みを作る。

 シアンはそうして泣き続けた。日が暮れるまで、ずっと、ずっと。

 

 そして。

 涙は僅か一晩で枯れた。これからがある。この先がある。研ぎ澄まされた刃のような、鋭い道を進まなければならないと、シアンは夜の闇の中、己の心に刻み込んだのだから。

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