攻守
ノックをすれば、即座に返事が返ってきた。
「エリスか?」
「そう。入っても良い?」
「どうぞ」
時刻は既に深夜だが、エリスは仕事着のままである。慣れない――というよりは嫌いな書類仕事を片付けて、こうしてルナリアの部屋まで持ってきたのだ。
開けて入れば、彼女もまた机に向かっていた。服装は既に下着姿であった。
部屋は無論暖かいが、さすがにその格好は寒く無いのか、というのは愚問の極みだろう。
「終わったよ」
「ん、おつかれ」
まとめた書類を机の端に置いた。
ルナリアが手を止めて、
「使えそうか?」
「まぁそこそこ。どうせゴロツキと似たようなもんだろうと思ってたんだけどね、これがなかなかまともだよ」
言うまでも無く、アンジェからもらった兵のことだ。
形式上は練団――平たく言うなら傭兵を雇った形になる。数百にも上る兵数は三つの合計ということになっており、それぞれの代表者が百人長扱い。さらにそれらを束ねる総隊長が第七騎士団の四番隊隊長という扱いになった。
名はラクシャ。ライール領の裏路地で出会った、あの男である。
エリスはわざとらしく肩を竦めた。
「正直言うと、うちの連中より使える」
「……喜ぶべきか微妙なところだな」
結局のところ、第七騎士団は他からあぶれた者の集まりなのだ。質の話をするのであれば、こちらのほうがよほどゴロツキに近い。
エリスはにまりと笑った。
「特にあの隊長、ラクシャは面白い。良い腕をしてると思うよ」
なぜかルナリアが眉をしかめて、低く言う。
「壊すなよ、頼むから」
「しーないっての。あたしを何だと思ってるんだか」
「暴走馬車」
ぼそりと。反論しようかと思ったところで、ふと机に広げられた書類が気になった。
「そういや、新人共の給料は平気なの?」
「たぶん。いや、なんとかする」
「古老からもらったなんて話になると、文句言う奴も多そうだけど」
「形としては傭兵を編入しただけだ。さすがに表立っては喧嘩も売れんさ」
ルナリアが書類を机に置いて、大きく伸びをした。
「今日は終わり。ルネッタは?」
「もう寝てた」
帰ってみれば睡眠中。寂しくはあるが、寝顔の可愛さで帳消しである。
エリスはてくてくとベッドまで進むと、勢い良く倒れこんだ。
ぼふんと良い音がして、沈み込むからだは気持ちよく。
何より、ルナリアの、匂いがする。
「あー……」
「何してるんだお前は」
「堪能してるの」
「……何を?」
「内緒」
枕に顔を沈めれば、たまらない幸福感が体を駆け巡る。本人がそこにいるのにこの行動。少々ひねてはいるけれど。
「靴は脱げよー」
「はいはい」
脱ぎ捨て投げ捨て、姿勢を変えて仰向けに。
見慣れぬ天井と風景がそこにある。結局ここで寝たことなんて無いのだから、当然の話であった。
瞳を閉じて、体の隅々までを溶け込ませる。
ルナリアのベッドに寝ている。それがどれほどのことか――
「おっふ!?」
突如腹部に奔った衝撃に、エリスはそんな声を上げてしまった。
目を開ければ、ルナリアが居た。
そう、彼女はエリスのおなかの上にまたがっていた。
「え……? ちょ……? な……」
ルナリアは――何も言わずに目を細めると、一気に、腰を曲げて。
「んむっ!?」
唇に感触がある。柔らかく、甘く、そしてあまりに気持ち良い。
甘い匂いに、柔らかな肌の感触。現実感が薄いほどに美しい彼女の顔が、すぐそこにある。
なんとか、エリスは言葉を捜した。
「……えっと……急、に……ど、どうしたの」
ルナリアの顔は赤い。それこそワインのような色で、呼吸だって不自然に早い。だけど。
「なんだよ、好きなんじゃなかったのか?」
「そっ……そりゃ好き、だけど。いきなりすぎて、ほら、えっと」
ルナリアが笑った。意地悪そうに、唇を歪めて。
「真っ赤だなーエリス」
エリスは息を呑んだ。そっちこそ、と言い掛けたがすぐに思いとどまった。彼女がわざわざそんな言葉を吐いたのだ。ようするに今の自分の顔色は『それほど』だということになる。
なにしろ耳があつい。焼きごてでも押し当てられているかのようだ。
どうしようか、どうするべきか、ここからどう進むのか。
悩んでいるとルナリアの手が伸びてきて、エリスの耳をそっと撫でた。
「ひゃっ!?」
声がでた。どこかの誰かみたいな、高い悲鳴が漏れてしまった。雷のような快感が一瞬からだを駆け巡り、視界が上下左右にぐるぐる回る。
ルナリアは――腹が立つくらいに楽しそうだ。
「新鮮な反応をするもんだな。もっと前からこうすればよかった」
にやにやと笑う。にやにやと。
エリスは唇を震わせ、やがて強く噛み、そして腕を勢い良く伸ばした。
「う、う、うるさい、ばかぁっ!」
がしり、と。少し強いくらいに。
両手でルナリアの胸をわしづかみにしてやった。柔らかい。素晴らしく柔らかい。そして圧倒されるほどに大きい。
彼女はまじまじと己の胸を見て、段々と小刻みに震えたかと思えば――、
「痛いっ!?」
頭突きを、された。
己の胸を庇うように抱いて、ルナリアは叫んだ。
「じゅっ……順番ってものがあるだろ!」
ひりひりと痛むおでこを擦りながら、心の奥底でエリスは安堵した。そうそう、こうだ。こうでなくては調子が狂う。どうしていいか、分からなくなる。
互いに無言になった。
呼吸の音だけが、静かな室内に弱弱しく響いた。
そのまま、見詰め合って、数秒。
少し呆れたように息を吐いて、ルナリアがのそりとベッドから降りた。
背中越しに言う。
「今日はもうおしまい。寝るんだから、部屋に戻った戻った」
「……へいへい」
ずりずり動いて靴を履き、足早に立ち去ろうと扉に手をかけ――ふと、妙な感触があった。
首だけで振り返ると、すぐそこにルナリアがいて。
手を軽く、握ってきたのだ。
彼女は微笑んだ。今日の、いや記憶にある中でも上位に入るほどに柔らかく、優しく。
「おやすみ」
――う、ぁ
「お、や、すみっ」
喉から言葉を搾り出して、エリスは廊下へと出た。
胸を押さえる。左右を見て誰も居ないことを確認すると、大きな深呼吸を一つ。
――収まれ、収まれってば。
心臓が痛みを感じるほどに暴れていた。肌で感じる感触にしろ、彼女の甘い声にしろ、今まで散々味わってきたはずなのに。
エリスが求めて、彼女が応える。ずっとそうやってきた。それでも十分幸せだった。だけど、とエリスは思う。
彼女から『行動』に出られることが、これほど強烈だとは。
呼吸をする。何度も、何度も。あまりの幸福感をなんとか腹に押し留めるように。
どうにかこうにか平常に体を戻し、エリスは呟いた。
「これが、一歩進むってことなのかな」
とりあえず戻ろう。そしてもう一つの幸せを胸に抱いたまま、今夜は素直に寝ようと思う。