平等に
目じりにうっすらと溜まった涙は、普段なら演技の道具だと軽く流すものだ。ルネッタもそのくらいには、彼女との付き合い方を覚えたのだから。
だけど、今回のは、どうだろう。
エリスはベッドの中央に、あぐらをかいて座っていた。服装はいつものメイド服で、ブーツは広い客室の隅に放り投げられている。むき出しの白い素足を手で何回もさすりながら、エリスは薄目でルナリアを見た。そして言う。
「……抜け駆けは無しだって言いませんでしたっけ」
――う、わぁ
これはダメだ。涙声だ。洒落になっていない。
ルナリアは、ベッドから少し距離を離して、立っている。両の手は困惑をそのまま表すかのように、そわそわと落ち着き無く動いていた。
「ええと、そんなこと言ったっけ……あああいや、ごめん、言った、言ったから。確かに約束してた、だからごめん、ごめんて」
ルナリアがとぼけた瞬間に――実際は知らないけど――エリスの目じりの涙が倍になった。こんなの謝るしか無いと思う。
じろり、と。
エリスの瞳が、今度はルネッタを捉えた。
「あなたにも言ってるんですよ……?」
「え、あ……ご、ごめんなさい」
謝る理由と必要性は――もちろんわかる。痛いほどわかる。ルネッタとてそこまで鈍くは無いのだ。
むすっと口を尖らせて、涙を浮かべたエリスは素晴らしくかわいい。普段との差異でより一層強烈にそう思える。そんなこと言ってられる状況では無いけれど。
エリスが、動いた。
幽鬼のようにベッドを這いずって、ぺたりと裸足で床に下りる。
「済んだことを引きずっても無駄です」
「う、うん。そうだと思うよ、うん」
上目遣いに、いやもうほとんど睨むように、エリスは、じ、とルナリアを見て――小声で、言った。
「……分かってますよね?」
「うぇ……?」
ぺたぺたぺた。エリスが三歩進む。ルナリアは一歩下がる。
距離はだんだんと詰まっていくけれど、片方が徐々に引く分、密着にはまだ少しあって。
足が、止まった。
ほとんど消え入るような、初めて聞く声音で、
「あたしは、いやなの?」
すぅ、と涙のスジがエリスの頬を伝って床に落ちた。
ルナリアが大きく目を見開く。彼女の瞳はちらりと横を向いて、ルネッタを捉えた。
視線が絡んで、互いに表情を伺うような間があって。
ルネッタは、大きく頷いた。
何が正しいのかはさっぱりだった。愛人やら第二何々なんてものは貴族王族金持ちのもので、その心情を想像することさえルネッタには不可能だ。そもそも今の状況がそれにあたるのかさえ全然分からない。
それでも。
一つだけ確かなことがあった。
エリスが悲しむのだけは――たまらなく嫌だ。
一歩も動かなくなってしまったエリスの傍へ、ルナリアは迷い無く近づくと、腰へと手を回した。
まばたきして、見詰め合って、言葉は無くて。
二人はそっと、本当に音も立てずに、静かな静かな口づけをした。
――ああ。
なんて、綺麗な光景だろう。
現実感が喪失している。絵画から抜け出てきたようだと感じたが、すぐにそれ以上だと考え直した。どんな名画家にだって、こんな絵をかけるとは思えないのだから。
唇が離れる。再び、二人は見つめあう。
はにかむようなエリスの照れ顔は、遠くから見ているというのに、心臓がどきどきと音をたてるほどだった。
彼女は微笑んで、言うのだ。
「好きだよ。大好き。今更すぎるけどさ。ルナリアは?」
「それも今更だろ。好きじゃなかったら誰がこんな――んむ!?」
先ほどとは打って変わって、エリスは勢い良くルナリアの唇を奪った。右手は後頭部へ、左手は背中へ。胸の形が変わるほどに体を押し付ける。
――う、うわ、わ
見ているだけで恥ずかしいけれど、目を逸らすのもためらわれる。
息継ぎのために少し離れて、再びついばむように再開して。細かく震えていたルナリアの手をエリスが掴んで、指をこれでもかと絡めて。
一分近くの接触の後に、ようやくエリスが顔を離した。息は荒く、顔は赤く、そして表情は凄まじく満足げだ。さっきの涙はどこへやら、だった。
エリスは深く息を整えてから――嬉しそうに微笑んだ。
――おおう……
直前までの透き通るような透明さは掻き消えて、もはや淫靡さすら感じてしまう。
ルナリアはと顔色を伺うと、なにやら彼女は焦点の定まらない瞳で遠くをぼう、と見つめている。顔はゆでだこのようだった。
放心状態のルナリアが、ぺたりと床に座り込んだのをにこにこ笑顔で見つめた後に、エリスはこちらへ顔を向けた。
目が合う。彼女は進む。ぺたぺたぺたと。もちろんルネッタは引かない。
ルネッタの肩に、エリスの手が、そっと置かれた。
囁くように、彼女は言う。
「もし嫌なら、辞めますよ」
ルネッタは大きく首を左右に振った。嫌なわけが無い。二人を思う気持ちに差は無かった。自分が異常なのだろうか。あるいは彼女達が異常なのだろうか。この状況が異常なのだろうか。
些細なことだと思う。
エリスの手を握る。彼女は少しだけ驚いたような顔をして――深い笑みを、浮かべた。
ゆっくりと唇が近づいてくる。
自分から受け入れるように、ルネッタは少しだけ前に出た。触れた唇は温かく、柔らかく、そして少しだけ、湿っていた。
――あ。
エリスが顔を離した。なごりおしい、と思ってしまった。
彼女は笑う。何一つ隠さぬような素顔で。
「あはは……なんか照れるね」
そう言って、もう一度。今度はもっと深く。彼女の唇が少し開いて、ルネッタの唇を甘く噛んだ。体が震える。背筋にぞくぞくとした何かが奔る。
握り合った手に力を篭めて、お返しとばかりにルネッタも自分の唇で彼女の唇を挟んでみる。互いの吐息が混ざり合って、体の芯まで分かり合うように。
再びエリスの顔が離れた。
真っ赤だ。息も荒い。そしてその軽く二倍は、ルネッタの息は荒いと思う。苦しくて、少し目の前が怪しく見える。ふわふわと浮いてしまうようで、それがどうしようもなく気持ち良い。
「好きだよルネッタ。ルナリアと同じくらい。ちょっとずるい言葉かもしれないけど」
「私だって大好きです。その……選べない、くらい」
もう一度。じっとエリスの瞳を見て、そう考える。彼女も気持ちを汲んでくれたのか、再び顔が近づいて――ぴたりと止まった。
にまりと笑う。少し意地悪そうに。
「今度は、ルネッタからしてほしいな」
言葉。表情。あまりのかわいさに心臓がどきりと跳ね上がった。おずおずと握り合った手を解いて、彼女の腰を掴んだ。一歩、踏み出す。彼女の胸がこれでもかと当たる。ぞわぞわという不思議な快感が、もう体中を奔りまわっていた。
エリスが瞳を閉じて、少しだけ唇を突き出した。
ごくりとつばを飲む。彼女の桃色の唇に、狙いを定めるようにして、さらに前へと踏み出して――
にゅ、と。
白い腕が、なぜか彼女の背後から伸びてきて。
エリスのおなかを、がしりと抱えた。
「やりっ! すぎっ! だっ!」
そのままエリスを持ち上げると、ぶん、と勢い良くベッドに放り投げた。
あまりの不意打ちだったからか、エリスは見事に顔面からベッドに落ちた。お尻を高く上げた体勢のまま、ぴくりとも動かない。
ぜぇぜぇと肩で息をするルナリアが、ぎろりとこちらを睨んだ。思わず背筋が伸びる。少し怖くて、固まってしまう。
肩をつかまれ、一気に引き寄せられて――そのまま唇を奪われた。最初のよりもずっと、深い深い口づけ。舌が、少しだけ、絡んで、離れた。
真っ赤な顔と潤んだ瞳。ルナリアは何かを言おうとして――結局口を噤んでしまった。
エリスがむくりと起き上がり、こちらへと向き直って、あぐらをかいた。
「むぅ、何も投げなくても」
「明らかに私よりお前のほうが! その、なんだ、ええと……」
彼女は再び、むき出しの素足をすりすりと撫でる。最初と同じような体勢だが、表情はまさしく真逆だった。
「んふふ。おおむね、満足しました」
「そりゃそうだろうよ……まったく」
満面の笑みを浮かべるエリスに、呆れながらもまんざらでもなさそうなルナリア。そんな空気と雰囲気が、たまらなく、心から、嬉しかった。
「へへ、えへへ……」
「どうしたルネッタ、突然笑い出して」
心情をそのまま吐露するのは、やっぱり少し恥ずかしいけれど。でも良いことは、出来るかぎり言葉にするべきかとも思う。
だから、顔をあげて、しっかり言う。
「幸せ、です」
照れて笑う二人の顔は、本当に、本当に可愛かった。