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Elvish  作者: ざっか
第二章
47/117

望みは


 ベッドに腰掛け、足をだらりと投げ出して、切なそうにルナリアは言った。


「結局休みのほとんどをこっちで使ってしまった……」

「むしろほぼ仕事でしたよね」

「お前は出歩けただけマシだろうに」


 仰向けに堂々と寝転んだエリスと、彼女はそんな会話をしている。

 それなりに滞在したこの部屋も、明日でお別れなのだそうだ。広く綺麗で居心地も良い。それは間違い無いけれど、ルネッタは二人の部屋のほうが好きだ。狭いが、だからこそ満たされている、気がする。

 

 ノックの音が響いた。

 侍女が顔を出して、


「ライール様がお呼びです」


 ルナリアが立ち上がり、エリスは起き上がる。自分もだろうか、とルネッタは悩んだが、誰か特定の者を呼ぶのであればそう言うだろうし。

 

 相変わらず、派手に輝く廊下を歩いて、大きな扉にたどり着いた。始めて来る部屋だった。

 ルナリアが扉を開ける。

 中から、アンジェの声が聞こえた。


「おかえりなさ……あら? あなた方でしたか」

「呼んだのはそっちだろー」

「いえ、良いのです。少し順番がずれただけですわ」


 促されて、素直に入る。

 どうやら執務室のようだ。赤い絨毯に、白い壁。立派なソファー。中央には巨大な机がある。見たところガラスで出来ており、しかも中には水が詰まっている。何かをはめ込むような隙間が幾つも空いているところを見ると、部屋にあった『不思議な装置』と同じ仕組みだろう。水彩版、だったか。

 アンジェが肩肘をついたまま、軽く手を払った。


「そのあたりに、適当に」


 ルナリアはどかりと。

 エリスは静かに。

 ルネッタはちょこんと。

 皆がソファーに座ったのを見て、アンジェが口を開いた。


「説明責任を、果たしておこうかと思いまして」

「説明……?」

「そうです。終わった後で申し訳なく思いますが、事情がありましたの」

「まぁいいさ。で、中身は?」


 促すルナリアには、けれどアンジェは答えず、椅子に座りなおした。

 ノックが響いて、声が聞こえる。

 これは、ディアのものか。


「アンジェ様、到着しました」

「通しなさい」


 僅かな音と共に開かれた扉の向こうには、二人の女エルフの姿があった。

 一人は、もちろんディア。やたらと裾の短いスカートから覗く太ももが艶かしい。とはいえ見慣れつつはある。

 

 もう一人は――誰だろうか。

 首にかかる程度の、濃い茶髪。鋭さを持った灰色の瞳。美形だが、どこか中性的な雰囲気を持っている。

 アンジェが声をかけた。


「長き勤め、ご苦労様でしたわね」

「ただいま戻りました、アンジェ様……もったいなきお言葉です」


 鈴が鳴るようだった。高く澄んでいて、そして可愛らしく。耳から魅了されそうなほどに、優しく甘い声。

 初めて見る顔、初めて聞く声、初めて会う彼女。

 

 なのに。

 粘りつくような既視感が、ルネッタの首筋を捉えて離さない。

 彼女は音も立てずに絨毯を進むと、アンジェのすぐ隣に立って、こちらを――正確に言うならば、ルナリア達を見た。

 アンジェが言う。


「紹介しますわ。彼女はイライザ。ただの、イライザです。わたくしの古き友人にして、大事な大事な片腕です」

「どうかお見知りおきを」


 頭を下げるイライザを、なぜかルナリアは軽く睨んでいる。

 とん、と高い音がした。ルナリアがソファーの肘掛を指でついたようだ。

 低い声で、彼女は言った。


「いつからだ?」


 にまりと笑って答えるのは、アンジェだった。


「もう十年以上前になりますかしら。それこそ第七騎士団の再起よりも昔の話になりますわね」

「ふん」


 ルナリアが、じろりとイライザを見る。


「農場のもお前か?」

「はい……あの時ほど、死を覚悟したことはありませんでした。逃げられたのは幸いです」


 すまし顔で答えるイライザが気に入らないのか、ルナリアは足を組んで頬杖をついた。


「いいさ、言い訳くらいは聞く。そのためにわざわざ姿を見せたのだろう? イライザ……いや、ザイル」


 ――ザイル?

 その一言で、粘ついた既視感が溶けて消えてしまった。

 しかしと思う。

 まず声がまるで違う。作るにも限界があるだろう。顔だって似てはいるが、同じには程遠いのだ。

 そういう魔術、なのだろうか。

 

 要求されたからか、アンジェで無く、イライザが口を開いた。


「まずは誤解無きように……あの黒ずくめ達はあくまでアスルムが用意したものです。暗殺計画の種も彼自身が埋めたもの。無論――大いに炊き付けたのは私であり、ルナリア殿とエリス殿がご一緒であるという、最悪の機を狙って放ったのも私ですが」

「……信じよう。そして一つ聞きたい」

「何なりと」

「あの盗賊騒ぎ、立案は誰だ」


 返事が遅れた。口を開きかけたイライザに先んじて、アンジェが告げる。


「わたくしですわ」

「アンジェ様、それは……」

「かまいません。ルナには出来る限り嘘をつきたくありませんもの」


 ルナリアが、アンジェを見る。

 アンジェも、ルナリアを見る。


「根無し草共をそこそこの金で雇い、死人が出ない程度の騒ぎを起こさせました。無論こちらの正体は隠したまま、境界線上の微妙な土地を狙って、です。予想通りアスルムは何もせず、助けを呼ぶ声はわたくしのほうにやってきましたわ。役立たずの領主、己らを守らない領主。そこに現れる古老の軍。見返りも要求せずに始末をつけて、こっそりと帰る。ふふ、繰り返すと馬鹿にならないものですわ。あなた方が現場に居たのは完全に計算違いでしたけど」


 言葉を最後まで聞いて、静かなため息を一つついて。

 ルナリアが、立ち上がった。

 警戒するようにイライザが動く。アンジェとの間を塞ぐように、瞳には強い光を灯して。

 最初に口を開いたのは、イライザだった。


「私の務めは、ライール様を守ることです。たとえどこに居ようとも、たとえ誰が相手であろうとも」

「……へぇ」


 ぞっとするような声を、ルナリアは吐いた。

 室温が下がる。そう錯覚するほどの強い『何か』が彼女の体から漏れつつあった。


「出来ると思うか?」

「可、不可の話ではありませぬゆえ」


 台風に立ち向かう苗のようではある。そんなことは、彼女自身が一番理解しているのだろう。

 決死にさえ見えるイライザの顔は、場違いなほどに美しい。

 けれども、


「いいのよイライザ。下がりなさい」

「しかし」

「二度言わせないで」

「はっ」


 机の脇まで、彼女は退いた。

 再び、ルナリアとアンジェの間に線が通る。

 ルナリアは――大きく息を吸って、吐いた。


「終わってから蒸し返すものでは無いな」

「……アスルムの地は、それだけわたくしにとって重要だったのですわ。それを理解してもらえるかしら」

「するさ。するとも。ただし、これだけは言うぞ」


 再び正面からじろりと睨んで、ルナリアは告げた。


「二度とするな」


 鋭い言葉に、イライザが反応した。


「さすがにそれは言葉が過ぎませぬか、ルナリア殿。いくらあなたとはいえ――」

「ですから、下がっていなさいと言ったでしょう」

「……申し訳ありません」


 アンジェの口元に裂けるような笑みが浮かぶ。直前まで石のように硬かったことを思えば、彼女もだいぶ安心したらしい。


「古老であるわたくしに対して、その言葉。本来であれば万死に値するところですが……ルナにはそれだけの資格がありますわ。資格に見合うだけの力が」

「そりゃどうも」


 ぼふん、と勢い良く音を立てて、再びルナリアはソファーに腰掛けた。こちらも、だいぶ落ち着いた、らしい。


「後二つ、聞きたいことがある」

「どうぞ」

「契りの玉はどこからだ」

「わたくしのツテから。細かくは、ルナであっても明かせませんわ。今はまだ、ですけれど」


 ルナリアは天を仰いだ。足をしっかりと組みなおして、膝をとんとんと指で叩く。考えているのだろうか。

 指が止まった。


「最後だ。あのダークエルフはなんだ?」


 アンジェは――目を閉じて、ゆっくりと首を左右に振った。


「アレは正真正銘、本物のダークエルフです。私の手駒でもなければ、アスルムの刺客でもない。予定調和に混ざった極大の異物ですわ。ルナ達が居なければどうなっていたか……あまり考えたくはありませんわね」

「信じていいな?」

「名に懸けて。もし嘘ならルナの体という体に口づけをして回るという罰を受けてもよろしいですわ」

「……あっそ」


 ぽん、とアンジェが手を叩いた。


「さて、これであなた方の仕事も終わり。報酬を渡さねばなりませんわね」

「報酬……兵の話か?」

「もちろん。既に宮殿の前に並ばせてありますわ。顔を出してあげなさい。今後はあなたの兵なのですから」

「そう、だな」


 ルナリアが動くと、先ほどから沈黙を守っていたエリスも続いた。エリスにしては――失礼な言い方だけど――不思議なほどにおとなしかったと思う。ルナリアが主導権を握っている間は見守るのが仕事、なのか。

 ルネッタも一緒に出ようと立ったところを、アンジェに止められた。


「ルネッタ、あなたは残りなさい。少し話がありますわ」

「え……あ、はい。わかりました」


 ルナリア達と目を合わせる。大丈夫、だと思う。だから頷いた。

 二人が部屋から出てしばらくすると、


「ディア、イライザ、あなた達も退室なさい」


 異論も無く、側近は出て行く。ルネッタに危害を加える力など無いのだから、当然かとも思う。

 ――でも。

 何の話だろう。敵でないとは思うのだけど、緊張はどうしても避けられない。

 アンジェの声は、静かだった。


「ねぇルネッタ」

「はい」

「戦においてもっとも重要なもの……あなたは何だと思うのかしら」

「え、と……」


 突然の質問だった。

 模範解答は幾つか浮かぶものの――アンジェの意図が読めないので、うかつなことは言えたものでは無い。

 アンジェは柔らかく微笑んだ。まるでこちらを落ち着かせるためのように。


「それは数。結局は物量ですわ。兵士の数はもちろんのこと、兵站から武器に至るまで、あらゆる要素の量。絶対的な多数でもって押しつぶす。これ以上の手は存在しません。残念ながら、ね」

「はぁ……」


 アンジェが席を立った。履いているのは蔓のサンダルで、足元はふかふかの絨毯だ。だからほとんど音はしない。


「けれどそれも万能ではありませんわ。物量に頼った力には、明確な欠点があります。たとえば――この部屋。どれだけ詰めても百人は入れませんわね。仮に入れてもまともに武器も使えません。つまるところ、量を生かすには相応の空間が必要であると」

「それは、そう、だと思います」


 気付けば、アンジェはルネッタの真後ろまで来ていた。ルネッタの両肩に、そっと彼女の手が置かれる。奇妙なくすぐったさと、少しの恐怖に鼓動が早くなってくる。


「極めて鋭利な槍の穂先に、数だけを頼った無数の皮で対抗するのは、実は非常に困難なのですわ。何が言いたいか、分かるかしら」

「い……いえ」

「あら、とぼけてるのかしら。まぁいいですわ。とにかく――ルナという存在は、極めて特殊である、ということです」


 首元に、アンジェの吐息がかかった。


「仮に……あの子が今後の生、周囲の者、姉妹から親、家族の全てに至るまで、何もかもを捨てられるのなら――ルナリアに殺せないものなど、国中探しても存在しませんわ。たとえ古老の一角であろうと、東の王であろうと、です。寝室に千人の兵を配置など到底出来ませんものね」


 アンジェの気配はさらに近づいて、耳元で囁くように、続ける。


「ルナリア・レム・ベリメルス。古老最強足るベリメルスの子にして、前例が無いほどに飛びぬけた力を持つ『ばけもの』。要するに彼女は、存在そのものが政治の道具になってしまうのですわ」

「え、と、その……」


 なにを、言いたいのだろう。

 アンジェの指が、首筋を撫でる。ぞくりと背筋に悪寒が奔る。


「あの子のかわいらしい顔。素晴らしい体。素直で居て、照れ屋な性格。そしてきちんと回る頭に――神話の怪物のごとき力。わたくしはあの子が大切ですの。とてもとても、大切ですのよ。友として……そして道具として」

「どうぐ、ですか」


 嫌な表現だと思う。なのに言い返せない己の小ささを嫌悪する。

 アンジェの手が、首に回ってきた。もはや抱きしめられている。それは丁度いつかの――初めてルナリアに会ったときの、泣いてしまった時に似ていた。


「わたくしはあの子を利用しますわ。同じように、あの子もわたくしを利用しているでしょう。金、立場。古老たるこのライールには、それだけの価値がある」


 気のせい、だろうか。

 首に回った腕に、少し、力が篭っているような。


「別に悪いことだとは思いませんわ。今回だってそう。あの子はわたくしを助けてくれました。相応の見返りと引き換えに、ですが、無いなら無いできっとやってくれたでしょう。後のことを存分に考えて」


 後頭部に伝わるアンジェの体温は暖かくて。

 なのに。

 悪寒がまるで消えてくれない。


「ふふ、もう一度言いますけれど。あの子はわたくしを助けてくれましたの。だったらわたくしも助けてあげるべきだとは思いませんかしら――腹に黒いものを抱えた羽虫から」


 腕が、喉に、食い込んで、くる。


「がっ……ひっ……く、くるしい、で、すっ!?」


 自由な腕でアンジェの手をかきむしる。けれども傷一つつかない。首を絞める力は巨人のようで、もがいてももがいても微動だにしない。

 アンジェは、不自然なほどに落ち着いた声で言う。


「商人? 貿易に来た? 嘘をつくならもう少し考えなさい。あなたが今生きているのはルナに拾われたから。そしてその後も極めて稀な幸運が続いたからです。協定を破り線を越えれば死ぬのです。その代償が父や祖父を見返すだけ? 見合わない。あまりに見合いませんわ」

「わ、た……ぎっ……わたし、は……」


 視界がだんだんと狭くなって。

 聞こえるアンジェの声は死神のようで。

 突然、腕が緩んだ。


「……げ、げっほ……けほっ……けほ……」


 せき込んで、精一杯息を吸って、また咳き込んだ。涙が出る。ソファーから転がり落ちて、恐怖に包まれたまま背後を見る。

 氷のような視線のアンジェを見て、事態が何一つ終わっていないことを理解した。


「一つだけ、質問をしますわ」

「なに、を……」

「心して答えなさい。仮にその答えが嘘だとわたくしが判断すれば、この場で殺しますわ。そして本当だとしても、わたくしが気に入らない答えであれば、同じように殺しますわ」


 殺す。瞳に、嘘は、無い。

 アンジェの唇がすべらかに動いて、


「ねぇルネッタ。あなたの――本当の望みは何かしら。人間としてのあなたではなく、どことも知れない組織の一員であるあなたでもなく……ルネッタ・オルファノという個の、本当の望み。それを言って御覧なさい」

「のぞみ……」


 あたまはもう真っ白で。

 殺されるのもいやで。嘘つきだと抉られるのも辛くて。涙が流れて。だらしくなく口を開いて。

 子供のように。

 ただ、ルネッタは言った。


「いっしょに、いたいんです。ルナリアさまと、エリスさんと、もっと、ずっと、三人で、いっしょに、ほんとうに、それが、それだけが……」


 つっかえつっかえで、涙も混じった品の欠片も無い声で、ひたすらに言葉を吐き出した。

 なんという答えだろうと、数少ない、残った理性が笑う。立派からは程遠い。殺されても何も言えない。

 

 でも。

 だからこそ。

 嘘は、一つも無かった。

 さく、とわざと足音を立てて、アンジェが歩を進めた。

 もう怖いとさえ思えない。感情が後から後から溢れてどうしようもない。

 

 するりと伸びてくる右手。何もかも受け入れるように瞳を閉じて、力を抜いて。

 ごしごし、と。

 少し強めに、布で顔を拭かれた。


「良いでしょう」

「…………え?」


 アンジェが、笑っていた。見慣れた柔らかな顔で。


「欲に塗れた、本当に志の欠片も無い……だからこそ、良い答えですわ。欲無き者などわたくしは信用しません。あなたくらい素直なのが丁度良い」


 ルネッタの涙を丁寧にふき取ると、アンジェは布を適当に机に放り投げた。ソファーに腰掛け足を組み、


「もう追求もしませんわ。あなたはあの子の味方、それで十分かと思いますの」

「はい……」


 終わった、のか。

 気が抜ける。力も抜ける。涙がまた溢れてきた。布が手元に無いので、仕方なく袖で拭おうとして、


「おーい、入るぞ」


 ノック、直後に扉が開いて。

 ルナリアが帰ってきた。

 見つめあうと、彼女は固まってしまった。

 

 ――あ。

 床に崩れるように座ったまま、目元には溜まった涙。明らかに異常なのが一目で分かってしまう。

 けれど、何があったのかは言わないほうが良い。それくらいは判断できる。


「な、なんでもありませんから。ちょっと転んで痛かっただけ、で……」


 立ち上がろうとして、ふらついてしまった。

 盛大に転びかけたところを、あっという間にやってきたルナリアに抱きとめられる。

 ――ああ。

 近くで見られたら、絶対に嘘だって分かってしまう。首はたぶん赤くはれていて、頬には滝のような涙の後がしっかりと残っている。

 

 だけど、離れられない。匂いと感触と体温が、掴んで離してくれない。

 ルネッタを胸元に抱えたまま、彼女の顔はアンジェに向いた。表情は、硬い。


「……この子はな、うちのものだ。だから何があっても守るし、仇名す者が居たとすれば、私は全力で排除するだろう。毛の一本、骨の一欠けら、肉の一つに至るまで、全てをこの世から消すくらいにはな。たとえそれが――」

「……わたくしでも、かしら」

「そうだ」


 ルナリアの言葉が、直接頭に入ってくるようだった。

 ため息を一つ、アンジェが言葉を返す。


「わたくしはあなたの味方ですわよ」

「知ってるとも」

「それでも、かしら」

「それでも、だ」

「その子はあなたの味方では無いかもしれませんわよ」

「それでもだよ、アンジェ」


 ルナリアが、こちらを見る。

 目が合うと――彼女は少し恥ずかしそうに、笑った。

 吐息がかかる距離。きらきらと輝くように美しい彼女。吸い込まれるようで、そして深く優しい瞳。

 

 きれいで、本当にきれいで。

 我慢、出来なかった。

 だからルネッタは、ルナリアの唇に、自分の唇を、軽く重ねてしまった。

 本当に一瞬のことだった。先が少し触れた、その程度のものだった。

 驚いたようにルナリアが上体を少し引いた。

 

 それを見て、

 ――わたし、なんて、ことを。

 自分が何をしてしまったのか、ルネッタはようやく理解した。

 逃げるように駆け出した。ふらつく足の所為でまるで速度は出ない。


「あ、ちょっと、おい!」

「ごめ、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい」


 謝る。悪いことをしたのだと思うから謝る。顔を見れない。必死に逃げる。逃げる。捕まった。

 手を引かれて、体の向きごと変えられる。

 

 正面にルナリアの顔が来る。だから謝る。貴族の唇を。女の唇を女が奪った。許されるとは思えない。でも許してほしい。受け入れて欲しい。言う勇気も無い。だから逃げたい。謝って済ませたい。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ……ん!?」


 何かで、口が塞がれた。

 背中に回った来た手が痛いくらいに抱きしめてくる。柔らかな感触と暖かな体温が伝わってきて、強張った体から力がみるみる抜けていく。

 

 何秒、そうしていただろう。

 息苦しくなるちょうど少し手前で、ルナリアがゆっくりと顔を離した。

 顔は真っ赤だ。本当に、真っ赤だ。きっと自分も似たようなものだろう。

 

 言葉があった。こんなときに。こんなときだからこそ。ずっと伝えたかった言葉が。


「大好きです、ルナリアさま」

「私だって大好きだよ、ルネッタ」


 言い終わった後、結局恥ずかしさに負けるルナリアが、もうどうしようもなく愛おしくて。

 もう一回、長い口づけをした。

 数秒、けれど今まで生きてきた何よりも幸せな時間。

 

 それを破ったのは、


「あーあーあー」


 アンジェの低い唸り声だった。


「まったく、これではわたくしがまるで道化ですわ。もう好きになさい」


 口づけは辞めた。顔は離れた。けれど、体はお互いに抱きしめあったままだった。


「今度こそ、ようこそ、でいいのかな」

「はい」


 ここに居たい。

 これを欲望と言うのなら、そう悪く無いものなのだと、ルネッタは思った。

これにて二章は完結です。

読んでいただいてありがとうございました。

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