今夜は食事でも 三
湯気立つ大皿が次から次へと運ばれてくる。
肉に魚、色とりどりのスープに焼きたてのパン。極めつけは大釜のような大きさのシチュー。
「ところでアスルム卿。第十五街道になにやら関所らしきものが出来ているとか」
「……はは、それは、ですね」
「困りましたわね。そうしたものは作らない、先代の教えではありませんか?」
「治安対策なのですよ、アンジェ様。なにしろ最近は」
薄紅色のスープに浸された大きな魚に、ナイフをするりと入れてみる。身は柔らかく、それで居てたっぷりと厚みもあった。口に運べば仄かな酸味と、広がる甘い油の味。感動を伝えたくもあるけれど、声を出していいのかさえルネッタには分からない。
だからもくもくと続きを食べる。
「そう、治安ですわね。あの『盗賊騒ぎ』、聞けばもう何件も何件も起きているとか。知っておりましたかしら」
「一応、耳には入っております」
「では、領主に……つまりあなたに、救援を願い届けている、という話は?」
「はて、それは初耳ですな」
パンは大きく分けて二種類ある。羽毛のように柔らかなものと、干し肉のように硬いもの。とはいえ硬いから古いなどというわけも無く、単に好みで食べれば良い、のだと思う。
空気が若干不穏になったが、黙って続きを食べる。
「大した被害も無く、単なるこそ泥程度だと」
「あら、ではなぜ治安を理由に関所を?」
「切欠にすぎませぬよ、アンジェ様。今はこそ泥でも、いずれは分かりませぬ」
「では討伐対を派遣するべきではありませんこと?」
「こそ泥で無くなった時には全力を持って当たらせていただきます。軍の派遣など、軽々しくするものでは無い」
「領民に助けを請われても、かしら」
「ですから、そのようなことは私の耳には届いておりませぬ」
グラスに注がれた、透き通るような水を飲んだ。混ざり物などまるで無い。そもそもが生水を飲めるということ自体凄まじい話だ。これも老大樹の恩恵なのだろう。
アンジェが口を閉ざした。アスルムも同じく。
嫌な嫌な沈黙が、食堂を静かに支配している。
それをやぶったのは、向こうの副官だった。
「一度休憩に致しましょう」
奇妙な声だった。わざと低く出している、とでも言えばいいのか。
皆が一斉に席を立った。慌ててルネッタも立ち上がる。
山のように積まれた空の皿が、凄まじいまでの健啖家ぶりを表しているようだった。誰が、という話ではなく、ルネッタ以外の全員が、なのだけど。
アンジェはディアをつれて退室してしまった。アスルム側も部下を引き連れ、ぞろぞろと部屋から出て行ってしまう。無論、違う扉からだったが。
ぽん、とルネッタの肩に軽い衝撃が走った。
びくりと驚いて振り返る。
渋い顔をしたルナリアが、そこに立っていた。半分は見えている胸の上で、金の髪がさらりさらりと揺れている。
エリスの姿は見当たらなかった。
「やーな空気だ。食が進まん」
そんなばかな、と出かけた言葉を飲み込んだ。彼女の胃袋の許容量は、冗談抜きでルネッタ十人分以上なのだから。
小声で、ルナリアが言う。
「静かな部屋で休もうか。視線が痛くてね」
服装があまりに刺激的だから――ではなさそうだ。
適当に取ってくる、そういって彼女は部屋の隅に向かった。先には侍女と、幾つかの皿に瓶。ということは、休憩中も食べるのか。
――はぁ。
半ば呆れてため息をついた、その時だった。
「いいかな」
声がした。目を向ければ、
「こんばんわ」
アスルムの副官らしきエルフが、そこに居た。気配すらなく、二歩踏み込めば手が届く距離だ。ぞわりと背筋に冷たいものが奔るのを、確かにルネッタは感じていた。
よほど表情に出ていたのか、副官はわざとらしく両手をかざして、
「ああ、そんなに怯えないでくれよ。別に危害を加えようっていうんじゃないんだ」
濃い茶髪の間から、灰色の瞳が覗いている。無論美形だが、どこか空虚にも思えた。男女どちらなのかは、結局これだけ近くで見てさえ分からない。
ルネッタを落ち着かせるためか、なだめるように声音を和らげて、続けた。
「君に少し興味が沸いてね」
「……わたしに、ですか?」
そう、と答えて小さく頷く。
「といっても、人間だから、じゃあ無いんだよ」
この一言で、ルネッタの予想は見事に外れた。
副官はちらりと脇を見て、
「怖くは無いのかな?」
「怖い、といわれましても」
何にだろう。それこそ恐怖を感じる対象なんてものは山ほど有りすぎてさっぱり分からない。そもそもこの場に居ることが既に怖いのだ。いつ何が襲ってくるのかさえ分からないのだから。
「失礼、言葉が足りなかったね」
副官が、一歩、距離を詰めた。
「たとえば……そうだね、君は人間。つまりは無泉だろう」
「そうだと思います」
「ということはだ」
そっと、手がルネッタの首の高さまで上がってきた。距離自体は残したままではあるけれど。
「もしも私が君の首をへし折ろうと思えば、君はどう足掻いても死ぬしかない。剣を持とうが槍を持とうが闇から弓で狙おうが、全てが無駄だ。力の差は子猫と虎のようで、仄かな抵抗さえ不可能だろう」
「え……」
あまりに突然の言葉だとは思う。殺意も殺気も何も無く、緊張さえ伝わってこないので、何かするつもりは無いことだけは理解できる。それでも気持ちの良い話からは程遠い。
ルネッタが全てを賭けて勝った『ぼんぼん』も、銃という道具を使って多少の傷を与えた黒ずくめも、エリスら一流の騎士達から見れば倉庫を這い回る鼠なのだ。
その騎士から見たルネッタがどの程度の生き物なのか。
そんなことは、嫌というほど理解している。
副官の瞳が少し歪んだ。笑っている、のかもしれない。
「私が怖いかな? いや、気を悪くしないでくれ。分かりやすくしたいだけなんだよ。ようするに、君が今抱いた恐怖、抗うことさえ考えられない絶望的な差というものをだね」
副官の顔が、今度ははっきりと動いて、部屋の隅に向けられた。
「今の君とまったく同じ感情を、私は、彼女に、抱いているというわけだ」
その先には――真剣な顔で料理を選ぶ、ルナリアが、いる。
再び、副官の顔がこちらに向いた。暗かった瞳に、僅かに光りが灯って見える。
「彼女と君にある差はどれほどだろう。嵐と草木か、山脈と砂粒かな? 一つ気まぐれで強く撫でれば、君など原型すら留めまい。それを怖いと思うのは、とても自然なことだと考えるが」
言っていることは。
理解できる。
なぜならそれは、当初ルネッタが抱いていた不安そのものだからだ。優しさに触れた後でさえ、疑念と恐怖は背筋にねばつく泥のようだった。
だから、と思う。
きちんと目を開き、背筋を伸ばして、ルネッタは言った。
「ルナリアさまは、そんなことはしません」
「……いや、これはあくまでたとえばの話だよ」
ゆっくりと、首を左右に振る。
「ルナリアさまは、そんなことしません」
あの時。
戦を終えた血塗れの彼女に怯えて、一歩引いてしまったあの時。
ルナリアの顔が、さびしそうな表情が、今でも忘れられなかった。だから。
「よんだ?」
気付けば、すぐ背後に彼女は戻っていた。片手に大皿、片手に瓶。顔つきはきょとんとしており邪気なんてまるで無くて。
副官が姿勢を正して、腕を折り曲げ上半身を傾けた。
「挨拶が遅れました、ルナリア・レム。ベリメルス殿。私はザイル・ラグ・ライア。近衛の長をやっておりますが、元は流れの錬騎兵でございます。どうぞお見知りおきを」
「ふむ」
ルナリアは軽く眉をしかめて、答えた。
「失礼かもしれないが、以前どこかで会った事は?」
「いいえ、これが初めてかと」
では、これで。そう告げてザイルは背を向けて去っていってしまった。
――なんだったんだろう。
本人が来たからあっさり帰った、と考えれば納得も出来るが、ならばわざわざルネッタに話かけたのだろうと思う。
「ルネッタ?」
呼ばれて、顔をあげた。
ルナリアは煮え切らないような表情をしている。
「どうしたんだ、顔がちょっと怖いぞ」
「……あ、あの、ルナリアさま」
「んー?」
そこで、言葉が止まってしまった。そもそも何といえば良いのか、何を言えば良いのか。
結局、
「行きましょう。どこか静かな部屋にでも」
「うん」
こんな当たり障りの無い言葉しか、出てこなかったのだ。
慌しく動く侍女達の間を縫って、廊下へ。そのまま適当に見つけた扉を開けて、中に入った。ルネッタは良いのかと悩んだが、ルナリアが遠慮せずにずんずん進むので、きっと問題無いのだろう。たぶん。
「わぁ」
なんとも間抜けな声が出た。
すごい。本当にすごい。
何しろガラス張りなのだ。壁、天井、床に至るまで全てが透明に出来ていた。左右までよく見えるあたり、どうやら外に突き出している造りらしい。
床や壁には模様でも描くように光が奔り、天井を見上げれば星が輝く。部屋の隅には広いソファーにテーブルまで置いてあった。パンとお菓子、酒瓶すら備え付けてある。
こんこんと足音を響かせて、ルナリアはソファーまで進むと、ぼふりと勢い良く座り込んだ。
「あー……」
深く深く息を吐いて、その後くいくいと手招きをした。呼ばれたのだから、当然行く。隣に腰掛けると、沈み込むような柔らかさがお尻に伝わってきた。
ルナリアはテーブルにあったグラスを裏返して、持ってきた瓶からとくとくと液体を注いだ。色は透明。
「これ……水ですか?」
「そうだよ」
とてもおいしいのは、さっきので分かっているのだけど。
ふと気になって、尋ねて見ることにした。
「ルナリアさまは、お酒はあまり飲まないのでしょうか」
「さけ、ねぇ……」
彼女はなにやら難しい顔をすると、体を伸ばして隅に詰まれた酒瓶を手に取った。そちらは間違いなく中身も酒だろうと思う。
先端を軽くつまむと、当たり前のように、素手でコルクを引き抜いた。ぽん、と良い音がする。この程度では驚かなくなってしまった。
ルナリアはまじまじと中を覗き込んだ後、
「んー」
軽く口に当てたまま、瓶を見事に垂直に立てた。
当然中身はもれる。彼女の口にどんどん注ぎ込まれる。
ごっごっごっごっと凄まじい音を立てて十秒、あっという間に空になった瓶を、テーブルへと置いた。
彼女の頬にほんのりと朱がさして――すぐに消えてしまった。
けぷ、と可愛らしい息を吐いて、つまらなそうにルナリアは言うのだ。
「からだがね、毒だと思っちゃうみたいで。樽ごと飲んでも酔えないんだ」
「な、なるほど……」
酔えない酒など意味は無い、のか。いまいちルネッタには良く分からない。
「そういえば……アンジェさまから離れてしまっても平気なのですか?」
「大丈夫だろ、ディアが居るんだ。それに、あんまり頼られすぎても後が困る」
突然、にまりとルナリアが笑った。
「どうせ酒を飲むなら、おまえのほうが良いんじゃないか?」
「わたし、ですか?」
うんうんと頷く。楽しそうに。
「その……わたし、すごく弱くて。まだこれからがあるのに」
「エリスに治させるからその辺は平気だ。さぁさぁ」
グラスを掲げて、並々と赤い液体を注いで。
満面の笑みが眩しすぎて、断るわけにも行かなくて。
持って、飲んで、喉が熱くて。
そこで、意識が途切れたのだった。
――あーもー。
エリスはずかずかと大股で廊下を歩く。下らない駆け引きにわざとらしい笑い声。全てがカンに触る。仕事でなければ即座に帰っているところだが、同時に、つくづく自分が貴族のお決まりごとという物が苦手なのか良く分かる。
休憩になり次第外の空気を吸いに走り、帰りにそこらの侍女から酒瓶を頂いた。
ごぼりと煽る。旨い。のど越しも良い。それは間違い無いのだが、明らかに薄い。過剰に酔わせないためだろうか。まったくもって面白くない。ひらひらですけすけの服にも大した抵抗は無いが、それもあんな出来の悪い貴族共に見せると思うと面白くない。
とにかく面白くない。
油断すると出そうになる舌打ちを抑えて、大股も直してゆっくり歩いて。そんな時だった。
「……っ……」
聞き覚えのある声だ。なんだか切羽詰ったような感じではあるが。
途中には扉。先は確かガラスの部屋だったか。考えるまでも無くあの二人だろう。
邪魔しては悪いか、という思考が僅かに頭に生まれはしたが、現在の自分のいらいらを癒してもらうほうが遥かに大事だとエリスは考える。
だから躊躇無く、エリスはその扉を開けた。そして見て、聞いたのだ。
「え、え、エリスー……」
情けない、それこそ媚びるような、そして助けを呼ぶような声を、まさかルナリアの口から聞くことになるとは。
とはいえ。
何に困ってそんな声が出たのかというのは、この光景を見れば即座に理解できるというものである。
二人仲良く、並んで座っている。ルネッタの右足がルナリアの腿に乗せられているというか、もはや絡んでいるが。
片方の手はしっかりと繋がれ、残ったルネッタの左手は――なんとまぁ、ルナリアのむき出しのおなかをまさぐるように撫でていた。
「やぁ……ちゃんと、こっち、むいてください」
驚くほど甘い声と共に、ルネッタの左手がするすると動いて、ルナリアの頬に添えられた。向かい合う。見つめあう。距離はほとんど息がかかるくらい。
ルナリアは真っ赤である。そしてルネッタも真っ赤である。とはいえその原因は違う気がしてならない。
――たぶんあれだわ。
エリスは、呆れて言った。
「お酒、飲ましたでしょう」
「の、の、のました、けど」
目だけをこちらに向けて、ルナリアが言った。声が動揺しすぎて枯れている。
「……なんとかしてくれエリス」
「なぜ? かわいいじゃないですか」
「かわ、いい、けど!」
「別に豹変してるわけじゃないんですよ。きっとそう……欲望に忠実になってるだけ、そんな感じ」
なにしろ頬に当てられていた手はそのままするすると降りていき、ルナリアの豊かな胸にそっと当てられているのだから。うらやましい。
「エリ、ス!」
「分かりましたって」
静かにルネッタの背後へと周りこんだ。当人はといえば鼻歌のような何かを漏らしながら、ルナリアへと一生懸命に密着しようとしている。邪魔するのも悪いような、代わりたいような。
――仕方ないか。
そっと、ルネッタの両脇へと手を差し込む。
「にゃ」
鳴き声のような何か。気にせずそのまま持ち上げて、くるりとこちらに振り向かせた。
とろんと蕩けたルネッタの瞳に、僅かに光が灯った。
「あー……エリスさんだ……」
言葉と共に手が伸びてきて、エリスの背中をしっかりと抱いてきた。互いにむき出しの肌が擦れ合うようにくっついて、ルネッタの顔はエリスの胸にぐりぐりと。
――お、おお、お……
思わず色々ともれそうになったが、なにしろルナリアが見ている。あれだけかっこつけた手前、ここで魅了されるわけにも行かない。
柔らかくルネッタの顔をおこして、その両頬に手を当てた。
手順は解毒と一緒。つまるところ酒は毒だという証明になってしまうが、今更の話ではある。飲みすぎて死んだ馬鹿も何人か知っている。
ルネッタの顔色はだんだんと普段の白へ。瞳にもしっかりと力が戻った。
正気に戻った。だからこそ今の状態に驚くのだ。
「え、ちょ、え、え?」
「戻りましたね」
「なな、なんで、わたし、抱き合って……」
「んふふ、ルネッタから抱きついてきたんですよ?」
酒が抜けたはずの顔が、再び真っ赤に染まっていく。
「そ、うなんですか?」
「ええ。それとも――私とこうするのは嫌ですか?」
我ながらなんと小ずるい質問だろうか。
ルネッタは少しだけ驚いたように固まったあと、恥ずかしそうに俯いて、
「……そんなはず、無いです」
背中の手に少し強い力が篭って、再びエリスの胸元へと、その小さな頭の載せてきた。
――ああ。
すでに正気である。その上でこの状態である。その威力たるや、さっきとは比べ物にならない。
エリスは渾身の力を頬に篭めた。ここでにやにやすることだけは矜持が許さない。
でも感触は味わうつもり。ルネッタの背中へと、改めて両手を伸ばして、
「だあああああ!」
奪い取られた。ルネッタの体は、あっという間にルナリアの胸の中だ。
「団長、ずるいです」
「お前のほうがずるいわ!」
手元に抱えたルネッタを、まるで絡みつくようにルナリアは抱きしめる。さっきはあんなだったくせに。まったく困った性質だと思う。
――まぁいいけどさ。
エリスは部屋を見渡した。特に意味など無い。間を作りたかっただけだ。
小声で、言った。
「このまま、何も無さそうですね」
「……だと良いんだがな」
十中八九、無事に終わるとエリスは踏んでいる。
なにしろルナリアと自分がいるのだ。この状況でアンジェを暗殺しようと思えば、錬騎兵の二十や三十は最低でも必要だろう。普通の兵であれば五百六百といなければ話にもならない。
アスルムとて、そこまでおろかには見えないものだが。
突然、だった。ノックの音が響いて、アンジェとディアが部屋に入ってきたのだ。
「仲が良いのはよろしいのですが、もう休憩も終わりですわ」
なぜここが、と一瞬考えたが、愚問だった。そもそも魔力も断っておらず、何よりあれだけ騒げば子供でも分かる。
アンジェがゆっくりと天を仰ぎ、左右をじっくり見渡して。
次なる言葉が、だらけかけていたエリスの脳髄に、嫌な感触と共にしみこむのだった。
「そろそろ、かしらね」