夜に二人で
――寝れない、か。
いくらかまどろみはしたものの、どうにも上手く寝付けない。
ふう、と強めに息を吐いて、エリスはのそりと体を起こした。
部屋に明かりは無いが、差し込む月光がやけに強い。広いベッドから、染み一つ無い壁まで全てが見通せるようだ。奔る魔力の輝きも夜には無い。当然の措置ではある。
毛布を払いのけようとして――ふと、横が気になった。
――そりゃそうか。
寝ている。仲良くならんで。
ルナリアの金髪とルネッタの黒髪が混ざり合い、腕はしっかりと絡み合って。頭を丁度胸に抱いて。
仲の良い姉妹のようで、あるいはそれこそ――いや、いうまい。
――むう。
結局取り残されている現実が恨めしくも思える。しかし、とエリスは思う。
「……良い絵だわ」
小声が漏れた。
女神のように美しいルナリアが、子猫のように可愛らしいルネッタを抱きしめたまま、くぅくぅすやすやと寝息を立てている。なんと贅沢な光景だろうか。水彩版を作る技術がエリスにあれば、ざっと十二枚は写していることであろう。
間に飛び込みたい衝動を三秒ほど我慢して、エリスはベッドの隅へとずりずり移動した。
かわいいと思う。そりゃもう思う。気持ちはますます強くなるばかりで、水晶球を渡された時など心臓が止まりかけたほどである。
だからこそだ、とエリスは思う。
さすがに寝巻きでは不都合がある。いつもの服にブーツを履いて、音を立てぬように部屋から出た。
廊下は昼のように明るい。無論壁面には紅い光りが定期的に奔っている。これとて労力を使うはずだが、さすがというべきだろうか。
基本的に、自由に歩いて良いという話である。風呂も二十四時間使用可能らしく、厚遇されているというのはさすがに理解できる。
嫌われてはいない――むしろ好かれているのだろう。しかし、やはりどうしても馬が合わないということもあるのだ。たとえ一方通行だとしても、である。
――たしか
誰も居ない廊下を進み、目的の場所へと進む。以前にも通った道ではあるが、何しろ広くて分かりづらい。
――ひとりで良いか
さすがに、今からディアをたたき起こすわけにもいくまい。
目的の部屋――即ち修練部屋にはすぐにたどり着けた。ここまでに侍女の一人にさえ会わないが、深夜であれば当然だろうか。
中に入れば、広々とした空間と壁際に立てかけれた様々な武器が目に入る。大して使う人数も居ないだろうにこの揃い様、まさしく金持ちの道楽である。
隅まで歩いて、一瞬悩み――やはり素手で良いかと中央に戻った。
魔力の強さを確かめるための石。格闘訓練用の人形に木の棒。うちの騎士団よりよっぽど良い品ではあるが、これでも自分には物足りなく思えてしまう。
「ふう」
人形を正面に捉えて、腰を少し落とす。右手を引き、呼吸を止め、ありったけの魔力を生み出し。
真っ直ぐ、右の拳を突き出した。
「……ありゃ」
床へと突き刺された拳闘訓練用の人形は、その胴体から引きちぎれて、部屋の隅まで飛んでいってしまった。
思ったより脆い。そして器物破損だ。とはいえ使用目的は正しいのだから、仕方ないとエリスは考える。
――調子は良い、か。
思えば随分鍛えたものだが、衰えたと感じたことは一度も無い。むしろ日に日に増し続ける力を、これでもかと実感し続けるばかりである。
初めて剣闘の場に赴いて、相手の首を刎ねたのも遠い昔。あの時の自分など、今なら指の二本で殺してみせる。トーラに言ったこともハッタリなどでは無いのだ。
しかし、と思う。
路地での喧嘩が未だに脳内にこびり付いている。
己が死ぬ恐怖では無い。踏まれた怒りもとうに消えた。考えるのは只一つ、隣を歩いていたあの娘のことだ。
あれが、古老の黒ずくめ共だったら。
あるいは、ダークエルフだったらどうであろう。
自分は死なない。確かな自信と確信を持って、あの程度の状況であれば、切り抜けられると断言しよう。
しかしそれは、ルネッタが死体へと変わる現実を許容しつつ動けば、の話であった。
ぶるり、と背筋に寒気が奔った。あの娘が死ぬ。血を噴出し切り裂かれて単なる肉塊に成り果てる。その様を想像しただけで――樽一つの酒を飲み干した後のような、底知れない吐き気が胸の内に広がってしまう。
「はぁあぁあぁ……」
こんなにもルネッタの占める割合が大きくなっていたとは、エリス自身でも驚くほどである。
彼女と一緒に居る。それだけで心がゆるゆるにふやけてしまうのは、分かってはいるのだ。無論それが危険なのも。
――守る、か。
隣に歩く誰かを守る。考えて見れば、今までの生で一度もやったためしが無い。
最初は父に守ってもらうだけだった。
父が死に、守るべき対象は出来たが、彼女は家から余り出なかった。
後に傭兵紛いの仕事を始めてジョシュアと出会ったが、あれはあれで強いのだ。共闘という言葉がふさわしかった。
再び剣闘に戻り、今度はルナリアと出会った。その時の衝撃を文字に起こせば軽く本一冊になりそうなものだが、簡潔に一行で表せば、こうなる。
かわいかった。
他に何もいるまい。
もっともその天使の如き彼女は、まさしく未知の領域の力を持っていた。始めての対峙、腹部に受けた蹴りの一撃。あの恐怖を超えるものなど、今後の生にあるとも思えない。
とにかく彼女は、守る対象からは地平の彼方ほども遠かった。
ひと悶着。血と拳の語り合い。出会いの形は様々なもので。
そうしてエリスはルナリアの隣に立ち、すぐ後に騎士団が設立された。軍隊。戦争。無数の死。個を守る戦いとは、それは大きく違うものである。
誰かを守るのは難しい。なにしろまともに経験が無い。覚えていることと言えば、盛大に失敗したくらいで、手の届かぬところで、子供のころから大好きだった彼女が、
「おーい」
驚いた。そして振り返った。
さすがに下着姿では無いが、薄い上着を羽織っただけで、白い太ももはむき出し、胸も零れそうなくらい。ここが深夜の路地裏であれば暴漢に――いや、ありえないか。
そもそもこの館の内部には女しか居ないのであった。主の趣味をむき出しにし過ぎではないだろうか。
「なにしに出てったのかと思えば」
そう言って、ルナリアは苦笑した。部屋の中央までやってくると、折れた人形をぺんぺんと叩く。
「起きてたの?」
「起きたの」
問いに、するりと答えが来る。
少しの沈黙を挟んで、ルナリアが言った。
「昼間のが堪えたのか?」
「ん……どうだろうね」
上手い言葉が思いつかない。直接あれがどうこう、では無いのである。
「もう少し慎重にすれば良いんじゃないのかね」
「努力はする。でも今回のは……切欠はひと助けなんだってば。結果はアレだし面白半分もあったのは否定しないけど」
「知ってるとも。だから私も何も言わない」
それに、と思う。
まことに勝手な話ながら、危ない目にあったので今度からは消極的に動こう、とはエリスは考えない。
同じような目にあっても正面からねじ伏せられるくらいに強くなろう、とエリスは考える。
一歩離れて見れば、我ながら酷いものだとは思う。が、反省する気も無ければ直す気も無い。性分なのである。
こちらの内面を察したのか、あるいは最初からそれが目的だったのか、ルナリアの『空気』が少し変わった。
「最近ご無沙汰だったものな。どうだ、久しぶりに」
微笑む。綺麗で、恐ろしげに。
ぶるりと背筋が震える。熱と氷が同時に体内を浸していく。望むところである。
エリスは――ゆっくりと、ルナリアの胸元を指差した。
「あたしが勝ったら……そのおっぱいを朝まで揉みしだく」
ルナリアはパチクリと瞬きをして、己の胸へと視線を注ぎ――両手で庇った。眉をしかめ、若干頬を赤らめて。
――そらきた。
エリスは地を蹴る。一歩目で右に飛び、さらに次で元の角度へ。腰を捻り、体を流し、全てを乗せた蹴りを放った。狙いは首。ルナリアの手は今だに胸のあたり。機先を制してこのまま――
世界がひっくり返るような衝撃が、エリスの視界を震わせた。
体が縦に回転している。ゆっくり流れる時間の中で、それだけをなんとか認識する。
床。このままでは顔から落ちる。もはや殴りつけるようにして、体を宙へと跳ね上げた。
足から、着地する。今だ揺れる視界の中で、ルナリアから距離を取った。
ダメージはある。しかし戦える。
「なーんど目だよその手」
呆れたように彼女は言う。
どうやって迎撃されたのか、正直なところ理解できていない。だがまだ立てる。動ける。それ以上は贅沢だと考える。
「……結局言われれば意識しちゃうくせに」
「むぅ」
軽口に呻き、少し首を傾げて――ルナリアが、一気に詰めてきた。
速い、などという生易しい物では無い。十歩はあったはずの間合いは、既に蹴りが届くほどだ。
ルナリアが右手を引いた。腰を捻る。さらに地を蹴る。
空間ごと抉られそうな拳。まっすぐ顔へと向かってくる。
――こ、の。
死の予感。背筋を包む濃い恐怖。かみ殺してエリスも踏み込む。逸らした顔のすぐ傍を、風を纏って彼女の拳が通過していく。
その手首を、エリスは掴んだ。引っ張り込む。己は渾身で地を踏みしめる。
交差するように近づく体。空いた腹に、左の肘をめり込ませた。
骨が肉を打つ音。衝撃にビリビリと体が痺れる。衝突は風を生んで、互いの髪がふわりと揺れた。
直撃、である。
「……くっ!?」
吹き飛ばされたのは、エリスのほう。捕まれた右腕を、思い切り振り払った。ルナリアがしたのはそれだけであろう。
地をこすり、壁に叩きつけられた。呼吸が止まる。一瞬視界が白くなる。しかし意識は手放さない。このくらい慣れたもの、である。
反射で零れかけた涙を抑えて、なんとかルナリアを見る。睨む。
彼女は追撃に来ない。その場に無造作に立っている。
「力比べじゃ無理だぞー」
「……わーかってる」
まるで昼間の再現だと、エリスは心の中で笑った。とはいえ立場は逆なのだが。
――仕方ないか。
平和に始めて、途中で諦める。毎度のことではある。
深呼吸を一つして、エリスは『構え』を変えた。
肉体の、ではなく、魔力の使い方を変えるのである。
「……よし」
小さく答えて、ルナリアが微笑む。相変わらず最高に綺麗で素晴らしく可愛く理不尽に強くて腹立たしい。
必要な場所に必要なだけの魔力を流す。殴るなら手へ、踏み込むなら足へ、避けられないなら腹へと。身体強化の魔術における基本にして、最大の奥義でもある。
エリスは、これが得意だった。それこそ国で五指に数えられるほどであろう。単なる過信ではなく、誇れるだけの実績もある。
その技術の精巧さで言うならば、ルナリアをも上回っているはずである。他人の治療も、ようは同じだ。魔力を如何に精密に扱うかという話なのだから。
「いくよ」
「いつでも」
腹から生み出し全身を駆け巡る魔力の束を、一瞬で踵へ。足が煌き床を踏み抜いて加速する。並の相手なら反応の間さえ与えず殺せる。けれども相手は並から地平線ほども遠い。
腹を狙った左の拳。簡単に弾かれる。膝を狙った蹴りも同様。ルナリアが二歩下がる。二歩追いかける。嘘を混ぜた突きを四回、一度間をおいて、わき腹への蹴り。止められた衝撃さえ生かしてくるりと回転し、下段への後ろ回し蹴りを放った。
入った。始めてまともに入った。ルナリアの体勢が、一瞬崩れる。
――ここで。
高速で回る思考と、やけに遅い時間。夜空の月の如き魔力光が、エリスの右手に灯る。
素人は、四肢まで。熟練者が拳に。エリスは、その魔力の塊を、指先にまで篭められる。
本来、訓練でなど使う技では無い。自分が喧嘩を始めると、随分とルネッタが心配そうに見るものだが、おかしな話だと思う。
殺す気とは、こういうことを言うのだ。あの『犬』は無理だとしても、エルフの頭蓋程度あっさり貫いて、脳漿を掻き出せるであろう。
狙いは、やはり腹。そこらの岩石ならくり貫く手刀を、まっすぐに、そして全力で突き出した。
怖気を奮う柔らかさ、手先を包む滑った感触――それが、無い。
「――おしかった」
エリスの手は、ルナリアの手のひらで、綺麗に止められていた。
魔力を篭める技術ではエリスが一段上。にも関わらず正面から防いでほころびもしない。不条理だが、答えは実に単純である。
ルナリアの体内から生まれる魔力量は、果たしてエリスの何倍であろうか。五倍、十倍、あるいはもっとか。エリスとて、魔力の量には絶大な自信があるというのに。
理不尽も、ここまでいけばいっそ清々しいものだ。指が折れてないことが幸運にさえ思えてくる。
ルナリアの手が形を変える。指を絡めあうように捕まれた。引かれる。体勢が崩れる。ああ、これも。
――最初のお返しか。
腹部に桁外れの衝撃が奔って、それが痛みへと変わる前に、エリスの意識は闇に飲まれた。
目を開けると、正面にルナリアの顔があった。
脇には天上、少し視線をずらせば壁。ということは――今は膝枕の最中か。
「……ん」
「はいはい」
伸ばした手を、ルナリアは握ってくれた。顔つきを見る限り、心配してくれたらしい。己で昏倒させておいて、と言うべきか。
――まぁでも。
この時間は、エリスの中でも最も幸せを感じるうちの一つである。
実戦以上の緊張感を持って戦い、終われば甘く膝枕をしてもらえる。これ以上何があるだろうか。強いて言えば――たまには勝ちたいというくらいである。
――無理、だろうけど。
こちらの上達を遥かに上回る速度で、ルナリアの力は増しているように思える。出会ったその時から凄まじかったが、今に比べれば可愛いものだ。
正に勇者たる両親を軽々と凌駕する、怪物染みたその力は――まるで、違う生き物のようにも思えてくる。
「お前はさ」
「ん?」
ルナリアの声は、不思議とどこか寂しげで。
「私に……いや、こんな私が……違うな、ええと」
「大好きかって?」
「そうじゃない!」
照れて、叫ぶ。これが有るから、良いのだと思う。
エリスはごろりと向きを変えた。太ももを頬で満遍なく味わいつつ、そっと呟いた。
「あたしは傍にいるよ。ずっと」
「……うん」
横目で見た彼女の顔は、恥ずかしそうで、それでいて嬉しそうである。
それに、と思う。
どう足掻いても勝てない。何をしても超えられない。だから、救われている。どうにか狂わず、思い上がらずに済んでいる。本人に言えたものでは無いけれど。
なにしろ。
恐らくではあるが。
彼女は、きっと己の力を誇ってはいないだろうから。その理由までは、エリスとて知らない。
ごろり、と再び上を向いて、エリスは言った。
「とりあえずさ、汗かいたしお風呂入ろっか」
「夜中だが」
「いつでも使って良いんでしょ、アンジェが言うにはさ」
「そうか。そうだな」
「んふふ、まだおなか痛むから、ルナリアがからだを洗ってくれると助かるな」
「……ま、いいけど」
見え見えの嘘だが、追及せず、呆れたように笑う。そんな彼女の頬をそっと撫でて、エリスは立ち上がった。
わざとらしく声を上げるたびに、いちいち頬を赤らめて手が止まる。そんな至福の風呂を終えて、二人は部屋に帰ってきた。
月光はなお明るく、雲のように白いベッドは、どこか仄かに蒼く光る。
その中央。
ちょこんと一人、背中を向けて座っている。
振り返ったその正体は――ルネッタに決まっているのだが。
「あ……!」
目を見開いて、飛び出すようにこちらへと一歩。なぜかそこで失速して、ずりずりずりずりとゆっくりベッドを進む。
縁までたどり着くと、じ、とこちらを見つめてくる。目じりには、なんだか涙の後さえ見える気がする。
――あぁなるほど。
にまり、とエリスは笑う。からかうように、
「寂しくて起きちゃいました?」
その言葉に、ルネッタはびくりと体を震わせた。何か言おうとして、躊躇して。三回繰り返したその先で、
「い、いけませんか!?」
大きな声だった。ルネッタには珍しいくらい、部屋中に響き渡るほどのものである。
エリスは思わず一歩引いてしまった。表情はとてもとても真剣である。
ルネッタは、
「も……もう朝なら、わたしが寝過ごしただけ、ですし……どちらかお一人なら、その……お手洗いかなと考えますけど……まだ外は真っ暗で、なのに二人とも居なく、て……だから、怖かったり、心配したり、とか……」
口を噤んで俯いて、少し上目遣いにこちらを見て、
「いけま、せんか……?」
段々と恥ずかしくなってきたのか、顔が赤い。呼吸も少し早い。
――ああもう。
我慢しようかと思ったが、これは無理だ。抵抗するだけ無駄であろう。
「ていっ」
かわいい。もうかわいい。とんでもなくかわいい。
エリスは、とりあえずとばかりにルネッタへと飛び掛ると、そのまま押し倒した。
「ひゃ、や、ちょ、ちょっと!?」
頬ずりする。抱え込むように抱きしめながら、存分に存分に頬の肉をくっつけあう。
本音だろうか。演技だろうか。あるいは、こちらが守りたくなるように見せかけているだけ、なのだろうか。
どうでもいいなとエリスは思う。
受け入れたのか、ルネッタの手が回ってきて、弱弱しく背中を抱きしめてきた。エリスは頬を離して、正面からルネッタの顔をじっと見る。額を撫でて、頬をぷに、とつまんで見れば、はにかんだように彼女は笑う。
内面までは分からない。それでもこの感触、匂い、暖かさ、どれ一つとして嘘など無いのだから。
「これで緩むなってのは酷だと思うのですよ、私は」
「……そこは同意しておく」
漏らした本音に、ルナリアが返す。
願わくば、この時が続きますように。ルネッタを抱きしめながら、エリスはそんなことを考えた。