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Elvish  作者: ざっか
第二章
39/117

休日 四


 黒い風のようだった。

 エリスを挟んで後方に見える人影は三つ、いや四つだろうか。

 それぞれがバラバラに、それでいて同時に、こちらに向けて駆け出した。

 

 即座に気付くエリス。速度を上げる人影達。息を呑むルネッタ。

 距離が詰まる。

 きっと、迷いがあったのだろう。迎え撃つか、大きく退くか。いずれにしても致命的な足かせが、エリスにはあった。

 

 見捨てれば、きっと簡単だ。けれどもそんな選択肢は無いのだろう。足手まといを自覚し、覚悟を決めて、ルネッタはエリスから離れようとして――

 

 間に合わなかった。

 影が一人、宙を飛ぶ。罪人の首でも跳ねるような速度で、右足が弧を描いて迫ってくる。

 

 ルネッタの首を刈り取る蹴りは、エリスが右手であっさり止めた。凄まじい音。髪を揺さぶる風。

 信じられないくらいに速い。エリスから離れる。本当にそれが最善なのか。考える時間は、もらえない。

 

 飛び掛ってきた次の影を、再びエリスが弾き飛ばす。一瞬の空白が生まれる。エリスと目が合う。

 

 やはり、離れるべきだ。

 全力で地を蹴った。背中に路地裏の壁が当たる。左に走れば大通りだが、背が丸出しになってしまう。ここでエリスが全て仕留めるのを待つほうが。

 

 右を見る。三歩の距離に、影が来ていた。


「るっ――」


 エリスの叫び声は、途中でかき消されてしまった。

 全ては『みせかけ』だったのだと、ルネッタはようやく理解した。

 

 一秒でルネッタの命を取れたはずの影は、しかしこちらを狙わなかったのだ。

 防がれた最初の影、弾かれた次の影、そしてルネッタの目前に居た三人目の影。全てが同時に、そしてほんの少し機をずらして、エリスへと一斉に襲いかかる。

 

 蹴りをいなし、拳を防ぎ、体当たりをするりと避けて――エリスが反撃へと転じる次の瞬間に、四つ目の影が襲い掛かった。

 今までの中でも、一際鋭い蹴りが飛ぶ。エリスはそれさえ止めて見せるが、衝撃に大きく体が揺らいだ。

 

 隙。逃すわけも無く。

 群がる影に押されて、エリスの体がぐらりと崩れ――そこを狙い済ましたような足払いが、見事に彼女に直撃した。

 ぱん、という甲高い音。まさに抉るような勢いと共に、エリスの体が宙に舞う。受身も取れず背中から地面に落ちて。

 

 ここまで、全てが計算通りだったのだろうか。

 地に仰向けに転がったエリスの顔を、最後にやってきた四つ目の影が、凄まじい勢いで、踏みつけたのだ。

 

 辺りが微かに揺れたかと勘違いする。路面に僅かなヒビが入って、埃が周囲に飛び散った。

 ――あ……

 エリスが、動かない。

 影達も、動かない。


「ふ、ぬ、け、た、なぁ」


 悪寒さえ感じる声を、四つ目の影が吐いた。相変わらず靴でエリスの顔面を踏みつけたままだ。

 ぎょろぎょろと瞳が動く。髪は金で、襟元まで伸びていた。鋭い顔つきは殺気に満ち満ちており、口元は凶暴さを隠そうともしていない。


「おててつないでなかよく~とは。これが本当にあの決闘狂いか。冗談にもなりゃしねえ」


 ぐり、と。靴がエリスの顔を執拗に踏みにじった。

 やめろと叫びたい。いっそ飛び掛ってしまいたい。

 なのに声が出ない。足が動かない。

 金髪の男が、ルネッタを睨んだ。それだけで息が止まる。


「こんなのを庇って地に這い蹲る。行くか退くかさえ躊躇しやがる。決断も遅けりゃ、何もかも温い」


 男が天を仰いで、低く呟いた。


「本当に……弱くなったもんだ」


 ぎり、とルネッタは歯軋りをした。手のひらに爪が食い込む。腹に不快な熱が灯る。

 ルネッタの所為で、こうなったのだと。分かっているのだ、そんなことは。

 

 恐怖を怒りが塗りつぶす。

 いっそ身を任せて、殴りかかってしまおうか。どうせ無意味だ。反撃されれば死ぬかもしれない。そんな冷静さも、顔を踏まれたままのエリスを見ていると吹き飛びそうになってくる。

 ほとんど自暴自棄に、ルネッタが一歩を踏み出しかけたとき、


「一つだけ、間違いがありますね」


 声が、した。少しくぐもっているのは、靴が口の上にあるからか。

 どうやら意識はあるらしい。それを確認した影達は、一斉に飛びのき、距離をとった。一連の動きを見ればルネッタにだって分かる。明らかに、こいつらは単なるごろつきではない。

 

 エリスは――のそり、と起き上がった。

 ――あ、ああ……

 声が出そうになった。

 エリスの顔の下半分は、自身の流した血で真っ赤に染まっていた。彼女の整っていた鼻は、不自然に折れ曲がっている。唇も切れているようだ。

 

 ――わたしの、所為。

 彼女の顔が。エリスの本当に綺麗な顔が。

 けれども――彼女は恐ろしく自然な動作で、自分の鼻へと手を伸ばすと、ごり、という音と共に折れ曲がった『それ』をまっすぐ直してしまった。

 

 見ているほうが痛い。しかしエリスは眉一つ動かさない。

 彼女の手が強い光を放って――気付けば、唇も元通りになっている。血だけはそのままだったけれど。

 影達に緊張が奔るのが、一目で分かった。

 エリスが言う。不気味なほどに平坦な声で。


「なるほど、確かに腑抜けては居ますね。あなた如きに、こんな醜態を晒す羽目になるとは」


 最初の影が動いた。丁度死角から、再び宙を飛んで、蹴りを仕掛ける。

 エリスは――その足を、防ぐでなく、弾くでなく、掴み取ってしまった。

 

 影の顔が歪む。周囲が援護に奔る――暇は、与えないようだ。

 ぐるりと上体を捻ると、エリスは影を路地の壁に、凄まじい速度で叩き付けた。

 轟音。飛び散る石。もはやヒビではなく、穴。

 影がずるりと路面に崩れ落ちて――それきり動かない。白目を向き、口からは微かに血が流れている。これは、死んだかも、しれない。


「我ながら情け無い。躊躇するくらいならさっさと攻めれば良かったと思いますよ」


 残る影は三人。そのうち二人が、同時にエリスに飛び掛った。片方は地を這うように、もう片方は宙を飛んで。

 細工も無く、工夫も無く。

 エリスは片方を裏拳で弾き飛ばして、残りを鋭く踏みつけて止めた。木の実のように壁まで吹き飛ぶ、あるいは馬糞のように地で潰れる。生死は――正直なところ、ルネッタには分からない。

 あとは、一人だ。


「まったく温い。注意力散漫にも程がある。切り替えも判断も全てが遅かった。ええそうです、もっともですよ。ねぇトーラ」


 トーラ、というのが最後に残った影の名前なのか。会話の内容からして明らかに二人は知り合いだろうし、奴が集団の長なのも間違いないだろう。


「……ちっ」


 舌打ちを一つ、地につばを吐いて、トーラは駆け出した。

 逃げる、では無い。エリスに向かって地を蹴ったのだ。


「あなたが正しい。私も引き締めねばならない。しかし、ですよ」


 正に黒い風だった。ゆったりとした黒衣を纏って、信じられない速度で路地を走る。エリスの三歩手前で脇に飛び、そのまま壁を蹴ってさらに逆へ。

 もはやルネッタの瞳では追えない。

 

 右から左へ、さらに背後、ついには頭上まで飛び、突き出していた柱を足場に再び地へ。

 終着点は――エリスの真正面。迎撃の拳が振るわれる。トーラは踏み込みつつ、姿勢を下げてそれを避ける。

 体ごと捻り、全ての体重と勢いを乗せた右肘が、エリスの腹部にめり込んで――


「……誰が、弱くなったと?」


 まるで怯まず。

 ただ、まっすぐ。

 振り下ろされた右の拳が、トーラを地面にたたきつけた。

 辺りが微かに揺れる。酒樽でも落としたような音がする。

 

 エリスのしたことは単純だった。おなかの辺りに居る羽虫へ、全力で拳を振るったのだ。技術も何もあったものではない。まるで子供の喧嘩のように、思いっきり殴っただけだろう。

 地に這い蹲るトーラは――しかし即座に体勢を立て直すと、再び大きく後方に跳んだ。

 

 息は荒い。目の光は確かだが、既に余裕は欠片も無い。

 エリスが、歩き出した。


「私が普段誰と訓練していると? 誰の相手をしていると思います?」


 ここまで聞こえる歯軋りの音。それでも逃げようとしないのは、立派なのだろうか。

 トーラが再び攻勢に出た。今度は小細工は無しのようだ。正面から突っかけて、顔を狙い、殴りつける。

 エリスは僅かに逸らして回避すると、交差気味に、トーラの腹部へと拳を送った。


「がっ……!」


 浮いた。斜め後方にふわりと、それこそ二階まで飛ばされるように。

 それでも、足から着地する。口元からは少なくない血が漏れていた。


「かつての『剣闘士エリス』など、今の私なら三秒で殺せます。でぇ――」


 エリスの歩みが速度を上げる。かつかつかつと、ブーツの音が響き渡る。


「その昔の私に三秒で負けたお前が……今更何の用ですかね」


 飛んだ。一気に地を踏み切って、トーラへと迫る。翻る体。目に見えて発光する彼女のつま先。

 首を刈り取るような回し蹴りを、転がるようにしてトーラは回避する。路地の逆まで急ぎ逃げて、振り返って構えなおして――顔が、恐怖に歪んだ。

 

 エリスの放った蹴り、その軌道にそって、路地の石壁がくり貫かれていた。魔術の産物なのだろうとは思うが、トーラの反応からすれば異常であることは用意に想像がついた。

 エリスはゆるりと振り返って、トーラへと歩き出す。今度は再びゆっくりと。


「ふっ……ざけんなっ!」


 虚勢か威勢か、鋭く吐き出し、再び男は路面を蹴った。

 狙いは側頭部。使うのは右足。鋭さは、牛の頭くらいなら両断してしまいそうで。

 重い音。震える空気。

 トーラの蹴りは、見事にエリスのこめかみに直撃し、


「非力……故に無意味ですね」


 彼女の首は、ほんの少しも揺れなかった。

 空気がはじけるような甲高い音。同時にエリスの右手がぶれて――トーラが路面に崩れ落ちた。

 殴った、のだろう。まるで見えなかったけれど。

 うつ伏せに転がるトーラの首筋を、エリスは掴んで引き起こした。


「不意打ちで仕留め切れなかった。その時点で逃げるべきなんですよ……まぁ、逃がしませんが」


 折れた鼻を治してから、今に至るまで、一環して無表情だったエリスの顔に、初めてはっきりとした表情が浮かんだ。

 とてもとても、邪悪に邪悪に彼女は笑って、


「さぁどうしますかね。このまま首を千切ります? あるいは心臓でも抉り出しましょうか。分からないかもしれませんけど、結構頭に来ているのですよ。至福の時間を邪魔されたのですからね」


 トーラは、虚ろな表情で、呻いているだけだ。

 ぽつり、と、エリスが続けた。


「……両方ですか」


 ――あ。

 止めないと。声音も表情も何もかも本気だ。

 ルネッタの胸に渦巻いていた怒りも、あまりに一方的な流れの所為で風化していた。

 

 鼻が折れるほどに足蹴にされたのはエリスなのだが、しかし殺すほどだろうかと思ってしまう。既に三人、生死不明がいるけれど。

 息を吸う。勇気を振り絞る。口を、開く。


「待った」

「……え?」


 それは、ルネッタの言葉では無かった。

 声は、路地の奥から聞こえてきたようだ。見ればやはり黒い影が、五人――いや、六人か。

 ルネッタの背筋に嫌な緊張が奔った。なにせどう見ても援軍にしか見えない。

 エリスが低い声で尋ねた。


「どちら様ですか」

「そいつは俺の部下でね。放してやってくれないか」


 質問に答えず、言葉を返して、一人の影が集団から三歩抜け出た。

 やはり、黒衣をまとっている。顔つきなどはいっそ優しげでさえあり、体も細い。髪の長さはほどほどで、目はずいぶんと大きかった。恐らく男ではあるのだろうが、相当な美形だとは思う。

 

 エリスはその男へと向き直ったが――トーラの首を右手で掴んだままだ。

 にらみ合う。沈黙が生まれる。破ったのは、男のほうだった。


「こっちも商売でね。仮にも練団の賭場が、どこぞのゴロツキ一人に暴力だけで押し切られた……なんてのは、笑い話にもならねぇと。だから俺がきっちり分からせてくる、と、そこのトーラが言うわけだ。本来なら任せて終わりだが、どうにも心配になってね。一応来てみればこの有様だ」


 影が二歩、さらに前に出た。


「で……あんたは? 只者じゃないのは一目で分かるがね。トーラは何か知ってそうだったが……なぜか言わずに向かってしまってな」


 エリスが掴んだ右手を離した。重く湿った音と共に、トーラが床に崩れ落ちる。

 警戒したのだろうか。

 影が言葉を続ける。


「これは失礼。俺はラクシャ・ラグ・ラザルス。三区を縄張りとする練団の……まぁ頭だ」

「……エリス・ラグ・ファルクス」


 影――ラクシャが目を見開いた。これ以上無いほどに大きく。


「エリス? 本物か?」


 エリスの返事を待たずに、ラクシャは言った。


「いや、愚問だったな。だからこその状況か」


 ラクシャは、にまり、と笑った。


「俺達は舐められば終わり。が、相手があの決闘狂いとなれば自慢にさえなるというものだ。あんたはトーラ達を殺さない。俺らは好き勝手やったあんたを見逃す。そいつで手を打たないかい、エリス殿」

「嫌だと言ったら?」

「そりゃ困るな。正直言って、この場に居る全員掛りでもあんたを殺せるとは思わん……だが」


 すう、とラクシャはルネッタを指差した。


「そっちのおじょうちゃんは死んじまうな」


 落ち着いた声で、殺意も無い。

 それが、余計に怖い。

 エリスが――大きく息を吐いた。


「いいでしょう」

「どうも。助かるよ」


 ラクシャは肩越しに振り返る。背後には、当然だが自身の部下となる数名の影がいる。

 彼は、なぜかそのまま、エリスへと向けた言葉を吐いた。


「ここからはおまけだ。おい、出て来い」


 影が左右に割れた。

 現れたのは、先ほど助けた少女だった。そういえば、名は聞いていない。

 エリスが鋭く尋ねる。


「これは……?」

「まぁ待ちなって。話は最後まで聞いてくれよ」


 ラクシャが、少女の傍に立った。エリスの体に、力が満ちるのが良く分かる。

 気にした様子も無く、ラクシャは言う。


「賭けで負けて借金したっていうお前の親父……さぁてそれは誰のことだ?」

「それ、は……」

「素直に言ったほうが身のためだぞ。あっちの姉さんは俺の五倍は怖いだろうよ」


 少女は震えながらも振り返って、影の隅を指差した。

 頭を低く、気力の欠片も感じられず。そうして出てきた疲れた男に、嫌というほど見覚えがあった。

 ――たしか、ザーザガ。

 間違いない。エリスと賭け事をした、その相手だ。

 ラクシャが振り返った。顔は、どこか申し訳無さそうに見える。


「健気で不幸な少女の振りして、通りすがりから金をせしめる。まぁそれで何度か成功しちまったらしくてな。俺は辞めろと言ったんだが、こっそり続けていたと。そこに丁度あんたらが通ったと。まぁそういうわけだ」

「……真実ですね?」

「別に調べても構わんよ。証拠なら店でいくらでも出てくる」


 ラクシャは大きく肩を竦めた。


「ちなみに立案者はこっちのガキだ。止めないどころか嬉々として乗ったザーザガも同罪ではあるがな」

「へぇ」


 少女とザーザガは、エリスのその声に、目に見えて体を震わせた。

 遮るように、ラクシャは言う。


「だから、痛みわけだ。あんたらはまんまと引っかかり、こっちはその後酷い恥をかいた。そしてこいつが最後の品」


 緩い軌道で、布袋が放り投げられた。エリスは素直に受け取る。ちゃりちゃりという音。その大きさ。たぶん、硬貨なのだろう。


「さっきの金だ。こいつで勘弁してほしい」

「俺達も勘弁してやるから、と?」

「……そうだな」

「ふん」


 エリスが踵を返した。こちらに、やってくる。

 影達が動いて、倒れた仲間を担ぎ上げる。エリスはもう、そちらの動きに注意を払っていないようだ。 

 彼女の口元は、未だに自身の血で赤い。


「帰りましょう、ルネッタ」


 それきり、エリスは一言も話さなかった。





 

 部屋に帰ってきた。

 まっすぐ洗面台に向かうエリスを、無言で見届ける。

 結局、あれから話せていない。

 ルネッタが致命的に足手まといだったから、だろうか。あるいは助けたという行為自体が茶番だったと知ったからだろうか。エリスの横顔には、明らかな怒りが見て取れた。どうしても、かける言葉が思いつかない。

 

 エリスは、じっくりと、鏡で己の顔を見ている。

 さすがに、血を洗い流すのか。そう思っていると――エリスは突然、右手を振りかぶって、己の顔面を殴りつけた。


「え、ええ、エリス、さん!?」


 ぽたり、と赤い雫が洗面台を彩っていく。

 背を向けたまま、エリスが言う。


「奴の言う通りですよ。温く、甘く、注意力散漫です。我ながら情けなくなってきます」

「そ……だって、あんな、突然」


 エリスはほんの少し、こちらに顔を向けた。


「あれが本物の敵なら、私はともかく、あなたは死んでいます」

「それは……」


 事実、だとは思う。

 呟くように。


「もう守れないのは嫌ですから」

「……え?」


 聞き返す前に、エリスは洗面台を軽くなぞった。ずいぶんと勢い良く流れる水で、顔をばしゃりと洗い流す。

 ぶるぶると顔を振って、近くの布で拭って。

 やっと、肩から力が抜ける。振り返った彼女の顔は、苦笑、だった。


「まぁ調子にのった罰みたいなものですか。今後はもう少し慎重に、かつ厳し目に動きますよ」

「わたしは……」


 ルネッタは、少し目線をずらす。そして、再び正面から見る。


「優しいときのほうが……好き、ですよ?」


 素直な思いを、口にしてしまった。

 エリスはぱちくりと瞬きをして――勢い良くこっちにやってきた。両手でむにむにと頬を揉まれる。エリスの顔もゆるゆると蕩けている。


「あ、の、う」

「んふふふふ……って!」


 くわ、と急に目が見開いた。思わず体が固まってしまう。


「こうやって緩むのがダメだっていう話ですよまったく」

「それはそうですけど……ここは安全ですし」

「はぁ……切り替えを磨けという話ですかね」


 それが難しいのは分かるけれど。

 ――あ、そうだ。

 いつにしようか悩んでいたけれど、もう渡してしまおう。

 しっかりと、それこそ襲われた時さえ手放さなかった袋を、そっと開ける。

 

 エリスは首を小さく傾げて、頬に当てた手をゆっくり戻した。

 袋の中には、丁寧に包まれた箱が二つ。ずいぶんと綺麗に仕上げてくれたものだなと思う。

 一つ取り出した。


「あの、これ」

「……えーと」

「受け取ってください。お礼、て言うのとはちょっと違いますけど」


 エリスは少し、困ったように笑った。


「結局自分の物を買ったわけじゃ無かったんですね」

「良いんです。これが一番の望みだと思ったので」

「はぁ……いえ、素直に言えば嬉しいですけど」


 受け取って、くれた。


「あけても?」


 頷く。

 彼女は丁寧に包みを解いて、現れた木箱を優しく開けて、


「…………は?」

「え?」


 固まった。

 箱を見る。ルネッタを見る。もう一度箱を見て、なぜか顔が真っ赤に染まる。

 エリスの声は裏返っていた。


「ちょ、え、あ、ええええ!?」

「え? え?」

「い、いいいいいきなり、そんな……いや、嫌っていうんじゃなくてね、あたしだってほら色々考えることがさルナリアも居るしそりゃルネッタだって大事だけどそこは難しいしえっとそのさ」


 顔の赤みはさらに増して、口調すら変わっている。冷静さなどもはや欠片も感じない。

 ――な、なんで?

 まずいものでも渡したのだろうか。あの店主にだまされたのか。


「おーい」


 声がする。少し遠くから。

 靴の音。扉の開く音。


「なんだよ、帰ってきてるなら先に言えってば」


 ルナリアだ。急に騒いだから、気付いたのだろう。

 エリスは――なぜか、ものすごい勢いで、手元の箱を背中に隠した。


「なんだおまえ、顔真っ赤だぞ」

「そ、そそんなことは無いよです」

「んあ?」


 なんだか事態が飲み込めない。こういうときは――とりあえず、当初の通りにすればいいのか。

 袋を探り、残りの一つをルナリアに差し出した。


「あの、これ」

「……だろうなーとは思ったんだけどさー」


 彼女も笑う。少し呆れたように、ちょっと前のエリスと同じように。

 すると、なぜかエリスが言った。


「あーー……あっはっはっは」

「ど、どうしたんですか?」

「いーえいえ。そりゃそうですよね。うん、冷静に考えればそうですよね。あっはっは」


 彼女は、まさしく作ったような笑い声をしばらく続けて、


「ちょっと頭冷やしてきますね」


 足早に、部屋から出て行ってしまった。

 なんでだろうと首を捻る。よほど渡したものが失礼だった――というのは無さそうだと思う。

 悩んでいると、


「ルネッター」

「はい?」

「これ、お前が自分で選んだのか?」

「いえ、その……お店のひとに、選んでもらいました」

「……なんて言って?」


 一瞬、素直に言うべきか迷った。正直なところ恥ずかしい文面だったのだから。

 それでも、嘘はつかないほうが良いか。


「大切なひとに、送るものだと」

「なーるほど」


 木箱から取り出した『水晶球』を、ルナリアはそっと指でなぞった。


「これ、確か二年くらい前に流行ったんだよ。篭める魔力というか、誰が篭めたかで絵が変わる、面白い品だってことでね。とはいえそれだけ、実用性皆無ですぐ飽きられた。ようするにお前は、周回遅れの流行品の処分に使われてしまったわけだ」

「そう、ですか……」


 それでも、嫌な気分にはまるでならない。現実としてとても綺麗な品なのだし、二人の特色が出るというのもどこか嬉しい。と、思うのだけど。

 どこか困ったように、ルナリアが続けた。


「ちなみに、これが流行ったのも贈り物としてだ。個々で絵が変わるってのがウケたんだろうな。なんでもお互いに贈り合った後に、毎日相手の物に魔力を篭めるのが正しい使い方なんだってさ」

「あ……え、と、それは」


 なんだか、理解してきた。分かってきてしまった。


「表情からすると察したみたいだな。そう、これはつまりあれだよえーと……結婚してくれ、て時に贈るものだったんだ」

「な……る、ほ……ど……」


 ――ああああああ。

 顔から火が出そうだ。どうりでエリスがあんな反応をするわけだと思う。


「うん、まぁ、なんだ。同姓婚は……ライール領なら出来た気もするな。王側はどうだったかな。そもそもお前は人間だから遥かに色々複雑かな」

「そ……その、ですね……」

「ふふ、分かってるってば。知らずに買わされたんだものな」


 彼女の手が、微かに光る。手元の水晶球に魔力が篭る。

 ――うわぁ。

 虹、だった。七色の光りが縦横無尽に球の中を駆け回る。篭めたのがほんの一瞬だったからか、光はすぐに消えてしまった。

 ルナリアが微笑んだ。虹にも負けないくらい綺麗に。


「流れはともかく、お前からの贈り物だ。ありがとう、大切にするよ」

「は……はい!」


 その言葉が、とてもとても嬉しかった。

 ルナリアも、少し照れたようにはにかんで――気付いたように、扉へと顔を向ける。


「おかえり。落ち着いたか?」

「ええ、まぁ」


 戻ったエリスは、テーブルへと箱を置くと、ずんずんずんとこちらにやってきた。


「なん――ひゃっ」


 抱きしめられた。柔らかな胸がぎゅうと潰れて、暖かな体温が前面からこれでもかと伝わってくる。


「な、な、な?」

「……なんだか負けた気がするので、反撃します」


 すりすりと頬ずりされる。いつものことだけど、きっと慣れることは無いのだろう。だってこんなに気持ちいいのに、慣れたり飽きたりなんて無理だと思う。

 その様子を、呆れたように見ていたルナリアが、言った。


「楽しかったならなによりだ」

「あー……」


 ぴたり、と頬ずりが止まった。エリスが首をくるりと動かす。


「それが、ですね」


 エリスは順序だてて、きちんと説明した。特に隠すようなことも、なく一部始終を。

 ルナリアは――けれども特に怒ることも無く、


「トーラねぇ……」

「アレもいい加減しつこいですよ」

「そりゃそうだろ。見たところあいつお前に惚れてるもの」

「はぁ?」


 さすがにそこはルネッタも同意できなかった。好きな相手の顔面を踏みつけるっていうのは信じられない。


「だから、ルネッタと仲良く歩いてるのが腹立ったんじゃないのか?」

「そんなものですかね」

「そんなものです。何しろ私も喧嘩売られたことあるしな」

「団長に? 勇気を通り越しすぎでしょうそれ」

「まーね。殺さないようにするのが大変だった……と、それよりなによりだな」


 ちらりとルナリアがこちらを見る。


「そんな目にあったのに、割とルネッタが平気そうなのが一番不思議なんだが」

「あ、その……」


 少し考え、そして答える。


「慣れました……若干ですけど」


 もちろん怖かった。エリスが倒れた時は恐怖と怒りでどうにかなりそうだった。それでも後に引かないくらいには、自分は図太くなったらしい。

 ルナリアは、なぜか盛大に笑った。


「そりゃ頼もしい。本番でもそう頼むよ」

「本番?」

「うん。細かな日取りが、さっき決まったんでね」


 なんの、とは、聞くまでも無かった。

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