休日 三
のた打ち回っている。他にどう表せと言うのだとルネッタは思う。
比喩抜きで大木をも抉るエリスの蹴りを、無防備な尻に叩き込まれた男は、苦悶の雄たけびを上げながら路面をごろごろ転がっていた。
えげつない。そして容赦ない。
いや、あるいは渾身かつ全力ならたぶん死んでいるのだから、これでも手加減しているつもりかもしれない。
立場上救われたはずの少女は、エリスを見上げてカタカタと震えていた。分からなくはない。正直言えば真横から獣に殴りつけられている構図にしか見えないのだ。
ようやく、痛みが許容範囲にまで降りてきたのか。
男は自らのお尻をわしづかみにしながらも、憤怒の視線をエリスに叩きつける。
「なにをっしやがるってめえ!」
「はぁ?」
血走った目で怒る男に、なぜか疑問の声で返すエリス。
完全には回復していないのだろう、男は未だ中腰のままだ。その頭へと、エリスは無造作に手を伸ばした。
指が、こめかみに食い込んで、みしりみしりと音が響く。
「悪党を見つけたのですよ。だからこうして退治している。それだけのこと、分かりますよね」
「あがっがっいでえいでええええ!」
悲痛な叫び声が、大して広くも無い路地裏に響き渡った。
――うひゃぁ
言われたとおりに離れて見ていたルネッタは、文字通り豹変したエリスを見て、漏れかけた声をどうにか抑えた。
先ほどまでとは、顔つきからして違う。アレはやらかした隊の部下を殴り飛ばす時のものだ。ようするに怖い。止めようとさえ思えない。
しかし、だった。
「あ、の……」
「んん?」
段々と動きが鈍ってきている男。なのに辞める気配も無いエリス。そんな二人の間へと、先ほどの少女が割って入った。
「もう、そのへんで……死んじゃう、かも……」
「おっと」
エリスが掴んだ手を緩めると、男はずるりと路面に倒れた。
声すら出せないのかとも思ったが――ほんの二秒も立たない間に、ふらつきながらも体を起こす。さすがに頑丈だ。
少女と数秒見つめあい、次に男を見下ろし、エリスは言った。
「で、いくらなのです」
「……あ?」
低く答えた男の顔に、即座にエリスの蹴りが飛んだ。ひどい。一応しっかり手加減したらしく、吹き飛ぶようなことは無かったが。
「クレセ硬貨で三百だ……です」
「ふむ」
エリスは懐から、布袋を取り出した。もちろん今朝もらった給料が入っているはずだ。
――まさか。
代わりに払うつもりなのだろうか。いや、この場合は少女にあげるというのが正しい表現か。
紐を解いて中を確認し――そのまま締めてしまった。
ちらり、と開け放たれた扉を見て、エリスは言った。
「ちょうど良い」
「……何がだよ」
「賭場がそこにあるのですから、一勝負。私が勝てば今の金額をそのままこの娘に返しなさい。負ければこちらが払います」
男が眉をしかめて沈黙する。が、即座にエリスの手が額に伸びた。
「まさか、拒否権があると思ってます?」
「い、いや、そんな……」
震える声で返事をすると、男はどうにか立ち上がった。扉へと向かい、エリスが続く。
そうして二人は、暗い建物へと消えてしまった。
――えええ。
急展開すぎる、というのもある。エリスが相変わらずの破天荒ぶりを見せたのもあるだろう。けれどなにより、どんなことより。
エリスが、賭け事で、戦うつもりなのか。
正気かと思う。失礼な感想なのは重々承知しているけれども。
――うん、と。
一転して静かになった路地裏には、ルネッタと先ほどの少女しか居ない。向こうはこちらに気付いてはおらず、先ほどの衝撃からも開放されていないように見える。
とりあえず、とルネッタは少女に近づくことにした。
髪は茶色く、顔は全体的に細い。体つきも同様だ。やはりというか、当然というか、相当に可愛く見える。エルフとしては普通なのかもしれないけれど。
「あの」
「ひっ!」
声をかけられて、ようやくこちらに気付いたらしい。瞳にはやはり恐怖が色濃く出ている。
出来る限り優しく、ルネッタは声を出した。
「だいじょうぶ?」
「……あ、うん。平気だよ」
答えて、立ち上がる。多少震えてはいるものの、怪我などはなさそうだ。
どうしたものか、と思う。
エリスを追うか、ここに留まるか。あるいはこの娘を連れて表通りで待つか。
――いいところを見せる、て言ってたよね。
だったら見届けてあげないと意味が無いような気もする。
石造りの建物を眺める。少しのヒビ、不可思議な染み。なんとも陰鬱な空気。一人でならば絶対に入ろうとは思わないが――暴力の化身みたいなひとが先行しているわけだし、大丈夫、か。
心を決めて、一歩踏み出そうとしたその瞬間に。
くい、と袖を引かれた。
少女の瞳はまっすぐに、ルネッタを捕らえている。
「中にはいんの?」
一瞬どう返事をするか考えたが、素直に頷くだけにした。
「あたしも行く」
「……分かった。一緒にいきましょうか」
当事者でもあるし、いっそエリスの目が届く範囲のほうが安全かもしれない。
少女を連れて、扉をあける。中は、すぐ下り階段になっていた。どうやら賭場は地下にあるらしい。当然だとは思うが、逃げづらいのは問題だ。
――気にしてもしかたない、か。
どうにか足元が見える程度の暗さを、一歩一歩と進んでいく。途中にひとは居ない。見張りらしき者も無い。
深さはせいぜい一階程度らしく、再び扉が目の前に現れた。ずいぶんとぼろい木の隙間からは、内部の明かりが漏れて光っている。
開く。軋んだ音が響く。しまったとルネッタは思う。目立ちたくは無いのだけど。
けれどもそんな心配は、杞憂だったらしい。
ちょっとした倉庫程度の空間を、仄かに赤い光りが染め上げていた。壁は木。床も木。置かれたテーブルや椅子も全てが木造りだ。散乱した酒瓶に、何かこぼしたような染み。あからさまに不衛生ではあるが、場所が場所だ。当たり前の話ではある。
賭場に居る人数は十数人といったところか。明らかに柄の悪そうな者が大半を占めてはいるが、例外も居る。気弱そうな細目の男に、上品な服装の女がそれぞれ一人。単なる『客』か、あるいは『カモ』か。
皆の視線は、見事に一点に集中していた。
中央にある巨大なテーブル。丁寧に染め上げられ、ヒビも染みも無い、唯一この賭場で豪華な品。そこに向かい合わせに座る二人の姿があった。
片肘をつき、貫くような眼光を携え、それでいて不遜に足を組んでいる女――もちろんエリスだ。相対する男は当然先ほどの悪漢だが、見事に縮み上がっている。何しろ殺されかけたわけだから、当然の反応だとは思う。
二人は、なぜか一言も声を発しない。
動いたのは――傍で見ていた別の男だった。
「なぁ、ねえさんよ」
恐ろしいほどの巨躯に加えて、手には細長い棒を持っていた。単なる棍棒というよりは、削り出した最硬の部分を凝縮させたような――つまりは立派な武器に見える。
「いきなりやってきたかと思えば、図々しくも中央を占拠。挙句そのまま何もしねえと来たもんだ。本来なら、あんたのような客には即刻お引取り願うんだがな」
言葉、態度、そして棒。ようするにこの男は賭場側のもの。より正確に言うのであれば用心棒、だろうか。
男の言葉を聞いているのかいないのか、エリスは正面をにらみつけたまま、開いた右手で軽く髪をかきあげる。
「っの……! きいてんのかおいこら!」
威嚇するような大声と共に、棒がエリスの顎下に当てられた。
緊張が奔った。間違いなく、ここに満ちる空気が一段重くなったと思う。
エリスは、そっと、棒の先を指でつまんだ。視線は、未だに正面を向いたままだ。
棒が引かれる。巨漢の手から、すっぽぬけるように奪われた。
「……は?」
あっけに取られる巨漢を無視して、エリスは正面の男に向けて言う。
「種目はトゥーヌで良いでしょう。回数は五回で、三勝すれば終わり。掛け金は先ほどの通りです。ただし――」
棒をそっとテーブルに立てると、その先端に両手を当てた。あくまでも、つまんでいるだけ、に見える。
「もしも何らかのイカサマをすれば」
びしり、と高い音が響いた。
テーブルに置かれた、研ぎ澄まされた棍棒を、エリスがその指先で、縦にまっすぐ『裂いて』しまった。
半分になった残骸を無造作に巨漢へと放り投げて、
「あなたの頭蓋骨がこうなります。理解できましたか?」
ごくり、と。
つばを飲む大きな音が、賭場に確かに響いた。皆無言だが、気圧されているのは良く分かる。敵陣に孤立しているような状況だったはずが、今や逆にさえ思えてくる。
――だけど。
問題はそこではないとルネッタは思う。完璧な者などこの世に居ない。誰にだって苦手なものくらいある。それをまざまざと実感したのはまさに昨夜で、実践したのはエリスなのだ。
勝てるんだろうか。
本人は完全にやる気みたいだけれど。
とにもかくにも、ここでは見づらい。入り口にずっと留まるというのも目立つだろう。少女にそっと合図をして、見やすい場所へと静かに移動する。
すると、
「ん?」
男が一人、こちらに気付いた。しまったと思うが、ここで逃げ出すほうが返って怪しい。
緊張に固まるルネッタを、訝しげに男は睨み――その視線がくるりと動いて、ルネッタの横に注がれた。もちろんそこには先ほどの少女が居る。
男は微かに眉をしかめたが、それだけだった。再び男は正面に向き直る。どうやら、中央で起きている事態のほうが、よほど興味深いらしい。
部屋の隅、群れの後ろ、それでいてエリスの姿が見える。丁度良い場所を見つけて、ルネッタは軽く深呼吸をした。
エリスの声がする。
「始めますか。そこのあなた、カードを」
先ほどの巨漢を指差して、堂々と命令する。巨漢はその大きな体を、ほんの少し震わせながら、テーブルへと向かう男に顔を近づけた。
「おい、ザーザガ」
「なんだ」
「なにもんだこの女。どういう状況なんだこれは」
「……俺にもわからん」
ごん、と激しい音が響き渡った。
見れば、エリスがテーブルを叩いたらしい。
「さっさと」
「わ、わかった。そう暴れんなよ……」
巨漢は部屋の奥まで走り、あっという間に戻ってきた。手元には当然カードがある。
「あなたが配りなさい」
「……それは俺の仕事じゃ」
じろりと睨む。巨漢も従う。どう考えても理不尽なのだが、何しろさっきの脅しが効いている。
「だから俺はいい加減にしておけと言ったんだ。いつかこんなの引っ掛けちまうって……てめえの所為だぞザーザガ」
小声で愚痴る巨漢だが、周囲が静かだからか、ルネッタにまでしっかり届いてしまう。言葉の意味は、いまいち分からないけれど。
見かけに似合わず、丁寧に、それでいて素早くカードを混ぜる。エリスは再び頬杖をついて、ザーザガと呼ばれた男は背筋を丸めて下を見ている。
「配るぞ」
「どうぞ」
交互に一枚、そして合計五枚。伏せたままのカードが、テーブルに置かれた。
エリスとザーザガ、それぞれが己のカードを手に取る。互いが揃った手役を確認して――突然、エリスが席を立った。
「なん……がっ!」
巨漢に近づいたエリスは、そのまま首へと手を伸ばした。周囲は息を呑み、ザーザガは目に見えて狼狽する。少女も怯えたように顔を強張らせた。
「なんですかこれは」
そう言うと、エリスは手にしたカードをテーブルへと広げた。
――あれ?
絵柄は一枚が斧。残りは全て大樹。確か四揃いという役で、恐ろしく強かったはずだ。丸一日遊んでも出るか分からないような代物だったと思う。
鋭い声で、エリスは続けた。
「面倒な客は、さっさと勝たせて帰らせてしまえ……懸命ですね。そして不愉快です」
首からゆっくりと手が離れる。巨漢が盛大に咳き込んだ。
エリスが再び席についた。
「配りなおしなさい。次はありませんよ」
どうにか呼吸を整えて、巨漢が再びカードを配る。
「ザーザガ、てめえ後で覚えとけよ」
「……確かに俺の所為だがな」
置かれた五枚。手に取ろうとしたザーザガを、エリスが制した。
「無駄に時間も食いました。さっきの言葉、訂正しましょう」
「どれをだい」
「勝負は一回。カードの交換は二回に増やす。それで手早く済みますね」
一瞬黙ったが、ザーザガはすぐに頷いた。
なるほど、とルネッタは思う。そういえば今回はチップを乗せる駆け引きも無い。表情を読ませる機会も与えず、終わらせるつもりなのだろう。
ザーザガがカードを手に取った。エリスは――なぜか寸前で手を止めると、
「ところで、覚えてますよね?」
「あ?」
「掛け金ですよ。私が勝った場合に、何をもらうか」
「分かってるよ。クレセ硬貨で」
男の言葉にかぶせるようにして、エリスが続けた。
「勝てばこの店をまるごともらう。そういう約束でしたね」
「……は?」
ザーザガは勢い良く椅子から立ち上がった。
「ふ、ふ、ふざけんな! てめえが勝てばクレセ硬貨で――」
「おやおや、困りましたね。約束を反故にするつもりでしょうか」
エリスは大げさに肩を竦める。くつりくつりと笑って、低い声で言葉を紡いだ。
「客には破滅を差し出させるのに、己がそうなるのは御免だと。さすがさすがのゴロツキ通り。このまま私がゴネ続ければ、次に待ち受けるのは暴力の制裁ですかね」
エリスは笑った。深く、深く。
「そういうの……だいかんげい、ですよ、私は」
一瞬、部屋が狭くなったかと思った。
ルネッタでさえはっきり視認できるほどの魔力が、エリスの体からにじみ出ている。闇のようにどす黒くて、血のように赤くて。臓腑を押しつぶされるような感覚が、体の隅々まで広がって。
察して逃げ出す者もいた。尻餅をつく者も居た。ザーザガは動かない。瞬きすらしない。
エリスは、
「なーんてね」
おどけた声と同時に、室内に満ちた重々しい空気が消し飛ぶように消えた。
「勝っても負けてもクレセ硬貨三百。分かってますとも、冗談ですよ冗談。ああ、三枚代えてもらえます?」
硬直していた巨漢に、不要なカードをつきつけた。男が震えた手で代わりを差し出して、ひったくるように手元に。
絵柄を確認し、しゃかしゃかとかき混ぜ、もう一度広げて。
エリスは、全てをテーブルへと伏せた。
「わたしはこれで」
微笑む。
ザーザガは、しっかりとカードを確認して、
「二枚だ」
受け取り、さらにもう一枚代えた。
これで、両者の手は出揃ったことになる、運命は未だにテーブルに隠されたままではあるが。
「早く終わらせてえ。さっさとしようぜ」
「ご自由に」
ザーザガは、一気に自分のカードをめくった。
剣が一、大樹が一、槌が三。
槌の三揃い。そこそこの手役だ。
「では私も」
エリスがゆっくりと手を伸ばした。一枚、また一枚と、順番にめくっていく。
剣。槍。弓。槌。そして、盾。
たしかこれは。
「あはは……戦争前夜。良い手ですね」
もっとも強い役の一つだ。出るのが奇跡とさえ思えるほどのものだと、昨日言っていたと思う。
「なっ……」
狼狽し、騒ぎ出そうとしたザーザガを、巨漢が制した。
「言っとくが、俺は弄ってねえぞ。ザーザガ、てめえの負けだ。さっさと払え。いいか、それが一番平和に済むんだ」
必死さすら感じる巨漢の声に、ザーザガは舌打ちで返事をした。
懐から布袋を取り出して、エリスへと放り投げる。
「ライリアス混じりだがな、優にクレセ三百はある。それもって消えろ。出来る限り早くだ」
「ふふ……どうも」
立ち上がり、出口へとエリスが体を向ける。
目が合った。彼女はなにやら合図をすると、そのままルネッタにかまうこと無く出て行ってしまった。
そのほうがよさそうだ、とは思う。
嵐のような来客が過ぎ去り、室内には微かに喧騒が戻ってきている。今のうち、だと思う。
「いくよ」
少女の手を引いて、そのまま二人は賭場を後にした。
階段を登って外に出れば、すぐそこにエリスは居た。
「いやぁ、楽しかったですね」
にこにこ笑顔でそう告げる。恐ろしいほど上機嫌だ。
先ほど手に入れた布袋を、横の少女へと手渡して、
「だいたい三百五十ほどですかね。ちゃんとお父さんに言い聞かせるんですよ、勝てないなら辞めておけと」
「え……全部もらっていいの?」
頷く。
少女は戸惑い、しかし受け取り、その後大きく頭を下げた。
走り去っていく少女に手を振って――エリスがこちらに振り返る。
「一応これも、ひと助け、ですかね?」
「ええと……そう、だと思います」
凄まじい力押しだった気もするけれど。
エリスは大きく伸びをした。
「さーて、そろそろ戻りますか。良い時間ですものね」
日は、確かに傾いてきている。もう少し経てば綺麗な夕焼けが見えるだろう。
横に並んで歩き出す。
何気ない一言を、ルネッタは口にした。少なくとも自分はそのつもりだった。
「それにしても、戦争前夜なんて役、本当に出るんですね」
「え?」
「……え?」
エリスが真ん丸く目を見開いて、不思議そうにこちらを見る。
何かおかしなことでも言ったのだろうか。
「あー……ルネッタ、ちょっと手を出して見てください」
「はい?」
もちろん素直に出す。
平を上にして広げた両手に、エリスの手が重ねられた。
「はい」
「……ん?」
すべすべで、なんだか硬い。そして薄い。
エリスの手が離れると、ルネッタの手のひらにはトゥーヌのカードが一枚。
――あれ。
再び、エリスの手が重なる。
「はい」
そして離れる。今度は三枚。
さらに数度、同じことを繰り返し。
ついに、ルネッタの手のひらには十数枚のカードが積まれてしまった。
「……そういうことですか」
「んふふふふふ」
いたずらっぽくエリスは笑う。実際やっていることは悪戯の範疇では無い気もするのだけど。
最後に残った一枚のカードを、右の袖から出し入れしつつ、エリスは言った。
「アレだけ執拗にイカサマを予防させておいて……まさか私がするとは思いませんものね」
「それはそうですよ……ちなみに、このカードはどこで?」
「入ってすぐ。ルネッタ達が来る前ですよ」
エリスはわざとらしく舌を出した。
「いやー、前に同じ手を団長に使ったんですけどね。たしか商品は添い寝権か何かで。その時はあっさりバレてしまって……おお、思い出したくありません。まさに鬼で悪魔の所業でしたよ、あのおしおきは」
「そして素直にやると顔に出てしまうと。あれ、でもさっきは」
たとえイカサマ有りだとしても、表情の変化などほとんど無かったはずだけど。
「ああ、負けたりイカサマがバレたりしたら腕力で押し通す気満々でしたからね。どう転んでも結果が一緒なのだから焦る必要も無ければ、顔に出るはずもありません」
――お、おお……
さすが、だとは、思う。
いいところを見せてもらえたかは激しく疑問だが、
「んふふんふふん」
鼻歌付きのエリスの笑顔はとても可愛らしいので、良いのではないかと思ったり思わなかったりする。
裏路地も終わりに差し掛かり、向こうには大通りが見える。たっぷりとあったはずの時間も、気付けば過ぎ去ってしまったようだ。
ちらりと横を見る。
赤い髪をしたメイド姿は、未だに機嫌よさそうだ。白のエプロン、黒い長袖。伸びた手は細く白く、指は綺麗で。
ルネッタは、買った土産を左手に抱えてはいるものの、右手は空いているわけで。
もう少しで、終わり。そう思うと欲が出てくる。
前を向いて、少し俯き、考えて。
再びちらりと右を見ると、
「ん~?」
「ひゃっ!?」
目の前にエリスの顔があった。
からかうような口元の笑みは、すぐに優しげな柔らかさに変わった。
「手、繋ぎます?」
「え、ええ、と……」
背筋を何かが登ってくる。頬が一気に熱くなる。恥ずかしいとは思うけれど、どうにも我慢出来そうに無い。
こくり、と。
ルネッタは小さく頷いた。
無言のまま、エリスの手が伸びてきて、しっかりと握り締めてくれた。指は絡めて、離れないように。
暖かい、と思う。
「ふふ、それにしても」
「なんですか?」
「ルネッタって……手握るの、好きですよね」
頬の熱さが、三倍くらいになった気がする。
「あ、あの、めいわく、ですか」
「まさか」
ぎゅ、とエリスの手に力が入った。彼女の手はすべすべでつるつるで、本当にこうしているだけで気持ちが良くて。
「何か理由とかあります?」
「理由、ですか」
「そう。なぜ繋ぐのが好きなのか、と。別に深い意味は無いですよ。あえていえば……ルネッタを知りたい。そんな感じですか?」
言って、エリスははにかむ。どうやら最後の言葉は少々恥ずかしかったらしい。
理由は、ある。ほとんど感情の話だけれど。
言うべきなのか。言って良いものなのか。下らないと一蹴されないだろうか。まさかエリスがと思うが、しかし。
エリスの瞳は、穏やかで、それでいて期待に満ちている。
「え、と、ですね」
「はい」
「やさしい、と思うんです」
「優しい?」
詳しく、と彼女の目が言う。恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
でも今更ここで黙るわけにもいかない。
「その……ほかの、アレやコレに、比べて……ですね、手をこうして繋ぐのは……その、気持ちが、無いと、しないかなって。優しくないと、きっとしてくれないことなんだろうって」
「ん……」
「だから、わたしは、その……繋ぐのも握るのも、好き、で」
言葉にして、自覚する。
手を繋ぐだけでは意味が無いのだと。相手が――ルナリアやエリスだから、こんなにも気持ちが良いんだと。
言えない。もう無理だ。頬が火で炙られているようだ。
突然、エリスが足を止めた。手はそのままなので、ルネッタは一瞬体が泳いでしまった。
エリスは不思議な顔をして、こちらを見ている。呆けているようにさえ見える。
小声で、ルネッタは尋ねた。
「あの……さすがに、あきれましたか?」
「――いいえ」
彼女は、ゆっくりと顔を左右に振った。
そして、微笑んだ。微笑んだのだ。本当に優しく、心臓が跳ねるほどに魅力的に。
「本当に、かわいいな、と。それだけ、ですよ」
手にしっかりと力が篭る。何かが伝わってくる気がする。
「余計に恥ずかしいです……」
「んふふ、そういう顔をさせたいから、言ってるんです」
引き寄せられた。
片手は繋いだまま、指は絡めたまま。空いた手はルネッタの腰に周り、体はぴたりと密着して。
彼女の驚くほど整った顔が、すぐ目の前にある。宝石のように赤い瞳には、ルネッタ自身の姿が見える。
互いに無言、だった。
呼吸の音。潰れたエリスの胸の感触。鼓動の感覚。
静かな路地裏。触りだけ届く大通りの喧騒。
彼女の首筋、その向こうに。
――え。
幾つかの、人影が、見えた。
衝撃は、そのすぐ後にやってきた。