休日 二
エルフの国にやってきて、最も良かったことはなんだろうか。
ルナリアとエリスに会えたことー―は当然すぎるので除外、特別枠に入れるとすれば、やはり食事になるだろう。
種類は目移りするほど豊富で、何を食べても頬が落ちそうなほどにおいしいものばかりだ。
料理の技術や知識はもちろんだが、何よりも人の世と差をつけている要素は、保存と輸送の手段だろう。
温度を調整する魔術によって食材は長く新鮮さを保ち、馬の体力を回復させる方法と純粋な人力――否、エルフ力の恩恵で、凄まじい距離の輸送を可能としている。
食材の豊富さはそのまま品目の豊富さに繋がるし、発想や挑戦への助けにもなる。事実として、こちらの大衆食堂で出るような料理が、ルネッタには貴族の『それ』に見えるほどだった。
だというのに、というべきか。
だからこそ、というべきか。
多彩は良質を生むが、時として異質をも生む。そんな大げさな表現をしてしまいそうな迫力を、手元の料理はかもし出している。
「たべないのですか?」
本当に無邪気に、エリスは言う。
そのままじゅくりと一口齧った。注文したのが彼女自身なのだから当然の話ではあるが、戸惑うことこそおかしく見えるらしい。
――うーん。
これが無ければ始まらないと、散策の第一歩にエリスは屋台に走ったのだ。当然のように二本買い、大きな噴水を取り囲むベンチで、こうしてその串焼きを楽しもうというわけだった。
――で、たべろとおっしゃいますか。
ゲテモノというわけでは無いのだ。
一言で言えば、肉。極普通の肉。違いは量と、その構造だ。
まず串に刺さった中央には肉。その周囲を別の肉が取り囲み、さらにわざわざ合わせるような形に整えられた腸詰が覆う。最後の仕上げと言わんばかりに、外周を固めたひき肉が引き立てる。
本当になんだろうこれは。
――肉塊?
あんまりな名前だが、他に思いつかない。
「おいひいですよ」
もきゅもきゅと、頬一杯に肉を詰めたその姿は、はっとするほど可愛らしい、が。
正直味の問題では無いと思う。
――よし。
かじりつけば、濃厚な肉汁が口内に広がる。おいしい。それは嘘では無い。
食事を止めて、なんだか不安げにこちらを見ていたエリスに、大丈夫だという顔で頷いた。ほっとしたように彼女は微笑み、再びがぶりと肉への侵攻を再開する。
――だいたいみんな、肉食なんだよね。
細くて綺麗でかわいくて、もはや嫉妬さえ覚えないほどに美しい種族だというのに。
もっとも、そうした伝聞で知りえないものに出会えたというのも、大事な価値かもしれないけれど。
正直言えば、吐くかと思った。半分を超えたあたりで力尽き、残りはエリスに託してしまった。それでもまだお腹が苦しく眉間が重い。
「小食ですよねぇ」
あなたたちが大食いなのです、と思う。
「歩けますか?」
「なんとか」
のそのそ程度なら大丈夫のはずだ。
エリスが頷き、通りの先を指差した。歩き出す彼女の後を追う。
何しろ知らない場所なのだ。エリスは何度か来ているらしいので、素直に彼女の巡回路を辿ることにした。
艶ややかに輝く路面。天にも届きそうな建物の数々。通りには無数の屋台に、群がるたくさんのエルフたち。
とはいえ、街の広さからすれば、そこまで人口は居ないようにも見える。皆身なりがよく、売り買いも見える範囲でさえ盛んだ。いわゆる『中流』以上のみが、住んでいる場所なのかもしれない。
肩越しに、エリスが振り返る。足は進めたままだけれど。
「耳、緩んでませんか」
「大丈夫ですよ」
現在ルネッタはフードを被っていない。その代わりに、というわけでもないが、付け耳をしているのだ。以前使ったときは酷い目にあったものだが、今は状況が違う。たとえ毟られても軽い騒ぎになる程度で済むはずだ。念のため、という程度だった。
大通りからわき道へと入り、一本抜けてもう一つの通りへ。大した広さだと感心してしまう。
さらに歩いて、足が止まり。
巨大な建物に挟まれるように存在する一軒の店を、エリスは指差した。
「いわゆる小物屋。ちょっとおしゃれで値段もそこそこ。来れば毎回見てますよ」
そう言って向かう。当然後に続く。
少し古くなった木の扉を開けて、中へ。
――不思議な匂い。
香でも炊いているのだろうか。店内は明るく、窓も大きい。香の似合いそうな雰囲気などまるで持ち合わせてはいないと思う。
建物自体の匂いなのか、あるいはこの並ぶ様々な装飾品の匂いなのか。さすがにさっぱり分からない。
「せっかくですから、何か気に入ったものがあれば買って行きましょう。お金はありますし」
そう言うと、エリスは棚に置かれた小さなつぼを手に取った。品定めでもするかのようにくるくる回して、ふちを撫でてから元に戻す。
意外だと思った。あまりこの手の物には興味など無いのかと思っていたからだ。言うと怒りそうなので、黙ってしまうけれど。
やがて気に入った品を見つけたのか、真剣な顔で手元の商品を見つめだした。つぼ、なのは同じだが顔が彫られた不可思議な代物だ。どう見ても呪いの品にしか見えないあたり、やはりエリスらし――いや、辞めておこう。
エリスが一人の世界に入ったので、店内を歩いて回ることにした。
改めて見回すと、それなりに広い。床から天上、壁に至るまで全て木造りなのだが、妙に新しく感じてしまう。外部は古そうに見えたのだが。
棚に置かれた様々な壷。大小さまざまな木箱。子供のおもちゃだろうか、木製の馬や人形もある。なんと色つきだ。
その向こう、壁際の棚には、
「なんだろうこれ……」
透明のガラス、中にはたっぷりの水。下側には、何かをはめるような窪みが一つ。
――ああ、もしかして。
今朝、ルナリアが使っていた道具の一種だろうか。石版をはめて魔術を流せば文字が映る、とてつもなく便利そうな品物だったと思う。
その隣にも、やはりガラスで出来たものがある。こちらは球体だが、転ばぬためか厚い台座がついている。
「何か、お探しですかな」
しわがれた声がした。見れば――声のとおりの老人が、ルネッタのすぐ背後に立っていた。
曲がった背に、細い体。にもかかわらず弱弱しさは感じない。この店の店主、だろうか。
「あ……え、と」
とっさに言葉が思いつかない。そんなルネッタを見て老人は――ぴくり、と片眉を上げた。
「お嬢さん、無泉かね」
「え……?」
無泉。確か、魔術を使えないエルフをそう呼ぶのだとか。明確な弱者ゆえ、差別対象にもなっているらしい。
店主は――しかし優しく微笑んで、
「心配せんでも、わしは下らぬ差別はせんよ。無泉だろうと金を払えばかみさま、払わぬならば貴族だろうとあくまじゃて」
そのまま、ゆっくりとした動作で棚のガラス球を手に取った。
「ただ……無泉では、このあたりの品の良し悪しは分からんだろう。なにせ動かせないのだから」
「そう、ですね」
「だからというわけでも無いが、希望を言ってくれれば近いものを探してあげよう。見たところ、この店にくるのは初めてのようだしね」
言われて、考える。希望。欲しいもの。買って嬉しい、もの。
「自分用かね? それとも贈り物かね?」
「……贈り物を」
悩みはした。自分のために使えとも言われた。けれども――たぶんこれが、ルネッタ自身にも最良だと思ってしまう。
「ふむ、どんな相手かな?」
一瞬、返事に困った。けれども、すぐ、言葉は決まった。
「大切なひとです。とても」
「ほう」
どこかうれしそうに、それでいて少しからかうように、老人は答えた。ちょっと恥ずかしい。
抱えたままのガラス球を軽く撫でて、老人は続けた。
「失礼なことを聞くが……その相手は、やはり無泉かね?」
「いいえ」
自分の知ってる範囲に限れば、おそらくもっとも無泉から遠いひと達だと思う。どちらかと言えば間違いなく化け物寄りなのだから。
「そうかね。なら、まさしくこの球などお勧めしたいところじゃな」
「それは、どういう」
「まぁ見てなさい」
老人の指先に淡い光が宿った。そのまま、丁寧に、球に沿うように、つう、と撫でる。
応えるかのように――ガラス球の中に、光の球が幾つも幾つも現れる。橙色に光り、やがて赤を増して炎のように輝いて、ゆらりゆらりと中で揺れる。蝋燭のように小さかった炎は、ついにはガラスの全てを侵略するかのように広がって、最後は不可思議に蒼く弾けて消えてしまった。
「きれい……」
「そうとも。しかしそれはこの品の本質では無くてね」
「本質?」
「この手のものは、普通はあらかじめ決められたものを再現するんだよ。使い手は、如何に綺麗に『元』に戻せるかが問題となる。ところがこれは、その『最初』が無いのさ」
そう言って、店主はガラスをくるりと回した。
「鮮やかな炎。煌びやかな氷。球の中に示される絵は、使い手の魔力の質によって姿を変える。つまりだね、これは触ったものだけの特別を写してくれる、とびきりの一品なんじゃな」
「とびきり、ですか」
確かに、惹かれる。ルナリアやエリスの描き出す光は、さぞ綺麗だろうと思ってしまう。
「今は軽く篭めただけゆえ、この程度の時間しか持たんがね。本来はもう少し時間をかける。そうすれば一日は持つ」
どうかね、と店主が目で言う。
ルネッタは――頷いた。確かに良い品だと思う。
「ではこれを……ええと、ふたつください」
「ほう!」
店主が、なぜか感心したような声をあげた。
「そうとも、これは二つ合わせて求めるべき品じゃ。きみは無泉だが……なに、かえってそれが面白いかもしれぬ」
はて、とルネッタは首を傾げる。どういう意味だろうか。
もっとも、現在気になるのは価格なのだけど。
店主は持ったガラスを元へと戻して、奥から別の球を持ち出した。二つを抱えて歩き出す。もちろんついていく。
接客用であろう、広めの台座にガラス球を置くと、丁寧に布でくるんでくれた。ヒモで縛り固定して――なんと袋に入れた。この分も値段に上乗せされることを考えると、とても安く済みそうもない。少々不安になってきた。
「さて、お代だが」
「は、はい」
コートのポケットから、もらった給料を取り出した。
――あ。
今更だが、この硬貨の価値をさっぱり聞いていない。エリスの反応を見る限り、それなり以上だと思うだけど。
おずおずと、ルネッタは袋を開けて硬貨を取り出し、台座へとおいた。
「あの……これで、足りますか?」
とりあえずの一枚。正直足りるとは思っていない。
店主は微かに眉をしかめて、硬貨をそっと手に取った。
「ライリアス硬貨……?」
小さく呟いて、黙ってしまった。
「おじょうさん」
じろり、と老人がこちらを見る。瞳には、明らかに警戒の色が映っていた。
「こいつをどこで?」
「それ、は……」
素直に言って良いものかと思う。同時に、説明したとして果たして聞いてもらえるだろうか。まさかこの地の主たるアンジェ自身にもらったものだと、誰が信じてくれるだろう。
反応からすれば、硬貨は特別な代物のようだ。それが金銭価値に直結しているのかは、分からないけれど。
迷い、黙る。老人の気配はさらに固くなる。
「おや、買いたいものが見つかったのですか?」
背後からの声は、ほとんど救いの手に思えた。
振り返れば、エリスが居る。手元が空であるあたり、あのつぼは要らないと判断されたようだ。
彼女は、布袋、置かれた硬貨、そして店主の老人へと順番に視線を送ると、
「大丈夫ですよ、ご主人。その硬貨は本物ですし、盗んだわけでもありません。なにしろこの娘は私の連れですから」
「……そうでしたか、いやこれは失礼を」
店主の顔から険しさが消えた。
持った硬貨をそっとかざして、穏やかに言う。
「では、無礼の分もありますので……この一枚で、二つ、お売りいたしましょう。どうですかな?」
「はい、ありがとうございます」
実際本当に得なのかは分からないが、異論を唱えるような空気でも無いし、知識も無い。
丁寧に渡された袋を、しっかりと受け取る。
エリスはまだ何か買うつもりなのかと尋ねて見ると、彼女は静かに首を振った。
抱えて、外へ。
「ところで、何を買ったんですか?」
「ふふ、ないしょ、です」
今言うよりは、やっぱり後のほうが良いと思う。
しかし。
あの硬貨一つで、魔術の篭ったガラス細工が二つ買えた。袋にはどう少なく見積もってもまだ数十枚は残っている。
もらった給料とやらは――実はけっこうな大金では無いだろうか。
「どうしました?」
「いえなんでも。いきましょう」
不思議そうに首を傾げたが、強く気になるほどでも無かったのか、エリスは通りを歩き出した。
「覚えていますか、ルネッタ。ライールは最小限の軍しか持たず、けれどもそれは建前であるという、あの話」
「はい」
頷く。エリスが脇を指差し、そちらに曲がった。
ついていく。
いわゆる裏通り、のようだ。こんな場所でさえ十分に綺麗で衛生的に見える。ゴミも僅かに散らばる程度だった。
けれども、空気は、どこか違う。
「あれは、ようするに正規兵として数える限りは少ないというだけなのですよ。街の隅に、外の砦に、道端の小屋に。そこら中に、事が起きればかき集められる戦闘員が控えているのです」
「この街にも、ですか?」
「もちろん」
エリスが、くい、と顎を動かした。先にあるのは――酒場だろうか。扉は漆黒で、造りは石に見える。どこか、禍々しさを感じるようだった。
「たとえばあれが――」
言葉を遮るようにして、勢いよく扉が開かれた。大きな体にいかつい顔。そんな如何にもという男エルフが、大股で外へとやってくる。
「はなっはなしてよっ!」
「黙れ」
その右手に引きずられるようにして、一人の女――というよりも少女がもがいている。せいぜい十四といったところで、体も小さく顔も幼い。
男は躊躇も容赦も無く、目の前の壁に少女を投げつけた。
短い悲鳴。路面へと倒れこむ少女を、冷たく見下ろし、男は言った。
「金が無いならくるな。当たり前の話だろうが。只でさえてめえのようなガキが来る場所じゃねえんだ」
「あたし、は」
少女が男を見上げる。目には涙が浮かんでおり、口元には血が滲んでいた。投げられた時に負傷したのだろうか。
「とうさんの、お金を……あんた達が、取ったのを」
「ああ?」
男が少女の頭を掴んだ。
「人聞きの悪いことを言うなよ。サマでもなけりゃ脅したわけでもねぇ。てめえの親父が真っ当に賭けて、真っ当に負けただけだろうが」
少女は俯いて、押し殺すような声で、泣き出してしまった。
――なんとまぁ。
会話の流れで、なんとなくは分かった。本当に、こういうことは人間の世と何も変わらないらしい。
肘を軽くつつかれた。
エリスが小声で、
「ま、どこも裏路地なんてこんなものですよ。あんまり長居するのもアレですから、さっさと通り抜けて……ええ、と……」
まじまじと、見つめあう。
彼女はなぜか眉をしかめて、困ったようにきょろりきょろりと視線を動かし、最後は深いため息をついた。
「……離れて他人の振り、しててくださいね」
「え?」
思わず引き止めた。やっぱり小声だけれど。
「そんな、わたしは、ええ、と……」
「いいんですよ。たまには良いところ見せませんとね」
思わず見蕩れるような微笑を一つ、エリスはツカツカツカと、いまだに屈んだままの男に近づくと、
「え?」
「あ?」
重なる二つの動揺を完全に無視して。
勢い良く、男の尻を蹴り上げた。