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Elvish  作者: ざっか
第二章
35/117

アンジェ・レム・ライール 四


 結論から言うと、三人では無かった。

 広い、広すぎる風呂だ。

 ルナリア達に拾われ、肩まで浸かった最初の場所を、そのまま縦に横にと引き伸ばし、仕上げとばかりにこれでもかと豪華にした。そんな表現が妥当だろうか。

 

 正面の壁はなんとガラスで出来ており、美しい庭がそのまま見渡せる。

 透明で上質なガラスをこれほど大きく使うのに、いったいどれくらいの労力と費用がかかるのか、もはや想像さえ出来無い。

 大理石のような床。中央に池と見間違う大きさの湯船。その隅に、蒼髪の妖精は腰掛けていた。

 

 白い背中。隠すように垂れる青い髪。

 首だけで、彼女が振り返る。


「あら、偶然ですわね」


 誤魔化そうという素振りさえ感じない、恐ろしいほどの白々しさだ。深く深く微笑む口元が、してやったりと言っている。


「えぇ!? ちょ……ま……」


 慌てた声と共に、人影が動く。

 ちょうど、アンジェに隠れて見えなかったらしい。湯を掻き分けるようにして、ディアは湯船の端まで逃げていく。

 

 顔が、どこか赤い。もちろん風呂場ではあるのだが。

 ――うーん。

 一段高い床へと座るアンジェに、ちょうど中腰で向かい合っていたような。となるとディアの顔の位置は、ちょうど。

 ――だめだめだめ。

 ぶんぶんとルネッタは頭を振った。考えてはいけない気がするのだ。

 

 ルナリアが、


「これは失礼を。今出て行きますので」

「ルナ、言葉。それに侍女に案内されて来たのでしょう? 風呂場は一つしかありませんし――ここで逃げ帰るほうが返って失礼だと、そうは思わないかしら」


 沈黙するルナリアに、アンジェは言う。


「わたくしならかまいませんわ。それで解決。何か問題が?」

「……わかった。ご一緒させてもらうよアンジェ」

「とてもよろしい」


 彼女は微笑む。ルナリアは苦笑する。ルネッタはとりあえず流れに身を任せる。

 となると残った問題は一つ。

 おそるおそる、右を見る。


「ごいっしょ、させて、いただきます、ね」


 まるで人形がカタカタと話すかのように、抑揚も感情も乗らない声で、エリスはそう吐き出した。

 ――ひ。

 ついに、彼女の鉄仮面が崩れていた。

 

 眉をしかめ、頬を痙攣させ、口元は苦々しく歪んでいる。

 嫌な予感がする。背筋から足首まで伝わるほどだ。だからこそ、あるいはこういうときくらいは、役に立とうとルネッタは思い立った。


「エリス、さん!」


 手を掴んだ。怒気で塗りつぶされていた彼女の顔が、半分ほど困惑に変わる。

 早口で、ルネッタは訴える。


「湯に入る前に、あっちで、からだ、を! わっ……わたしが、洗います!」


 ぽかんと口を開けたまま、エリスはしばらく黙っていたが、


「……ふっふふ、それじゃ、お願いしますよ」


 笑顔に、なった。心からほっとする。後は割り込まれないうちに行動するだけだと思う。

 不思議と滑らない床を、ぺたぺたぺたと早足で行く。隅までたどり着けば、石鹸らしきものに柔らかな布が数枚。そして、


「かがみ……」


 風呂場にまであるのか。確かに便利だとは思うけれど、発想が贅沢すぎて飲み込みきれない。

 光沢のある木で作られた椅子に座る。エリスは隣だ。


「ええと、じゃあ背中を」

「はい」


 心なしか、声が少し弾んでいるように感じる。よかった、と思う。無遠慮すぎる提案かと思ったのだけど。

 布を石鹸でこする。やはりというか、驚くほど泡立ちが良い。

 

 準備を終えて、エリスの背中をまじまじと見て、改めて思う。

 ――きれい。

 本当に綺麗な肌だ。雲のように白く、染みの一つも無い。水を弾き、艶やかに輝き、それでいてもっとも美しく見えるだけの肉がついている。

 

 エルフだからか、エリスだからか。それは分からない。

 そっと布を当てて、ゆっくりと擦る。すべすべだ、本当に。


「ふぅ……もう少し強くても良いですよー」


 声は気持ちよさそうだ。少し――いや、とても嬉しい。

 しっかりと、隅々まで。そうして洗っていて思う。

 ――背中は小さいんだよね。

 恐らく自分とほとんど変わらない。こうして無防備にしている間は、か弱き少女のようですらある。

 

 もちろんそれが完膚なきまでに間違った感想であることは、良く知っている。


「それじゃあ、次はー」


 彼女がくるりと振り返った。大きな胸をふるりと揺らして。


「正面も洗ってくれますか?」

「……え?」


 確かに、自分が洗うとは言ったけれど。

 首をかしげて、エリスは待っている。いたずらっぽく微笑む口元を見る限り、機嫌は完全に治ったようだ。

 ――それは、いいんだけど。

 大きい。本当に大きい。形も綺麗に丸く、色まで鮮やかに美しい。何が、とはいうまい。


「ほらほら」


 エリスが急かす。

 ルネッタは――覚悟を決めた。

 布をそっとあてがうと、沿うように這わせていく。信じられないほど柔らかい。気恥ずかしさと手のひらに伝わる快感に、どうにかなってしまいそうだ。


「んっ……はぁ……」

「へっ!? 変な声出さないでください!」

「んふふふ、ルネッタが出させてるんですよぉ?」


 なんてことを言うんだこのひとはと思う。顔から火が出そうだ。指の感覚もなんだか良く分からなくなってきた。

 悪戦苦闘の十数秒を越えたあたりで――エリスがそっと、こちらの手に己の手を重ねてきた。

 熱い吐息を、小さく吐く。心臓がどきりと跳ね上がる。


「じゃあ最後に……おなかと――」


 その続きを、音には出さず、唇の動きだけで言う。

 さすがに、というべきか。ついに、というべきか。

 恥ずかしさが、限界を超えた。


「そこはっじぶんでっあらってください!」

「えぇー……あなたが言い出したんですよ?」


 彼女とて、本気では無いのだと思う。だからこそ、からかうように笑っているのだ。

 にこにこと緩んでいたエリスの顔が――ぴしり、と固まった。

 なんだろうと思う。不吉な予感もする。確かめるために振り返ろうとして。

 ぼむ、と重い感触が、ルネッタの頭に伝わってきた。


「たのしそうですわね」


 上から声がする。その場所、この重量、そして柔らかな感覚。つまるところ答えは一つ。

 頭の上に、アンジェが胸を乗っけているのだ。

 

 ――ちょ。

 大がつくほどの貴族に対してこの行為は許されるのだろうか。でも向こうからなわけで。そんな言い訳はどこまで通るのか。そもそもエリス。彼女の不機嫌の原因なんて一目瞭然なわけで。つまりこの状況は非常によろしくないような。

 

 混乱、した。呼吸も忘れるほどに。

 どんどんと色を失うエリスの顔を、しかしまるで意に介さず、静かな声音でアンジェが言う。


「ねえルネッタ」

「ひゃい!?」


 返事をするしか無い。そんな判断くらいはつく。


「率直に言って、この風呂場はどうかしら」

「……え?」

「世辞はいりませんの。人間であるあなたの目から見て、どう映るのか。わたくしはそれが知りたいの」


 ――ううん。

 なんだか落ち着いてしまった。変わらず重い胸が乗ったままなのだけど。

 世辞はいらないと言う。できる限り正直に答えろと。

 それが望みならば、胸の内を素直に言葉にしようと思う。


「その……とても綺麗です。びっくりするほど、豪華です。でも」

「でも?」

「ここまでする必要があるのかな、と、少しだけ、思います」


 自分が持たぬゆえ、という部分が無いとは言わない。それでも、どうしても行き過ぎた贅沢に見えてしまう。

 こればかりは、向こうに居たころから変わらない。

 食事ならば、理解できるのだけど。


「ふむ」


 アンジェが答えて、ルネッタから離れた。けれども、声音は気分を害したようには感じない。

 彼女はゆっくりと屈むと、石鹸を入れている小さな石の皿を手に取った。そっと掲げる。


「これは国でも有名な石工職人の一品ですわ。高い技術、迸る魔術……磨きに磨き上げられた、まさに美の結晶。たとえ単なる石鹸入れでも」

「はぁ」

「当然値は張りましたわ。この分を全て食事に回せば――ふふ、きっとおなかが張り裂けてしまいそうなほどに、です」


 アンジェの表情は、なぜか妙に優しく見えた。


「わたくしはね、ルネッタ。お金は貯めるものではなく回すものだと思いますのよ。見て分かるとおり、この屋敷には相応の『手間』がかかっておりますの。何百という職人を使い、年を跨ぐ時間をかけて」


 石鹸入れを、そっと置く。


「けれども、それが悪いとは思いませんわ。奴隷のように、馬車馬のように、であればともかく、わたくしはきちんと対価を払いました。彼らは技術を振るい、金を手にする。それは領地を回り、町を回り、村を国をと回りに回って――最後は彼ら自身を豊かにする。どうかしら?」

「……なる、ほど」


 一理ある、とは思う。ただ、この点を深く議論するだけの知識が、ルネッタには無い。こうして納得してしまっているのも、雰囲気に飲まれているだけかもしれない。

 アンジェは言う。


「まぁそれも半分ですわ。残りはわたくしの趣味」


 再びルネッタの背後までやってきて、そっと肩に手を置いてきた。胸が、背中に当たっている。


「わたくしは美しいものが好きですわ。建物、自然、あるいはひと……そして、どんなものにも、最も美しいかたちがある。そうは思いませんかしら」

「そ、う、かもしれません」


 アンジェが身を乗り出す。顔がすぐ横にある。蒼い髪が、ルネッタの体をそっと撫でる。


「この髪は染めておりますの。わたくしには蒼が良いと思って」


 手が、ルネッタの髪をそっとすいた。


「あなたは黒のままがいいかしら。エリスは赤がやはり似合う。ルナもあのままが最も美しい。うらやましくもありますわ、生まれたそのままが最適だなんて」


 耳元で、アンジェの声がする。何かが背筋を奔りぬける。


「地にも、空にも、ひとにも、もっとも美しいかたちがある。適しているから美しいのか、美しいから適しているのか、それは分かりませんけれど」


 彼女は笑う。手が、ルネッタの頬に添えられる。

 だからこそ、と彼女は言う。


「この国はわたくしの手の中にあるのがもっとも美しいと、そうは思いませんかしら」


 言葉。声。体温。息吹。匂い。

 小刻みに震えている、エリスの姿。顔は、石のように。


「にゃ!?」


 悲鳴、のような。ルネッタのものではなく――アンジェのものだ。

 振り返ると、浮いていた。

 両脇の下には手が伸びており、ぶらりぶらりと伸びた細いつま先が揺れている。

 持ち上げた張本人――ルナリアは、アンジェをそのまま肩に担いだ。


「ちょ、ちょっとルナ」

「友のように接しろと、確かにあんたが言ったはずだー」


 ばたばたと暴れるアンジェを気にした様子も無く、ルナリアは背を向ける。

 ぷりん、とおしりがこっちに向く。

 丸見えだ。もはや何もかも丸見えだ。

 

 のっしのっしとルナリアは進むと、アンジェを姫のように抱えなおして――そのまま、勢い良く、湯船に飛び込んだ。

 盛大な音。豪快な飛沫。

 一足先に脱出したルナリアは縁へと腰掛けた。頭まで湯に使ったアンジェは、けほけほと可愛らしい咳をしつつ、抗議の視線を送る。


「もう、ルナ!」

「あんまりエリスを苛めるな」


 さらっと言った。けれども、どこか真剣に聞こえる。

 アンジェは黙り、ため息を一つ。

 もはや石像のようだったエリスはと言えば――その言葉一つで呪いが解けたかのように表情が戻り、今度はにやにやと笑っている。

 

 とても、嬉しそうだ。単純な、と思いつつ、たぶんひとのことは言えない。

 ルナリアが、アンジェへとまっすぐ向き直った。


「ライール卿」


 呼び方が戻った。しかしアンジェはたしなめない。

 ルナリアが続けた。


「今度の食事会、私も出席させていただきます」

「……ほう」


 アンジェの瞳が、暗く光った。


「よろしいのですね」

「ただし」


 遮って、ルナリアがちらりとこちらを見た。

 視線を戻して、さらに言葉を紡ぐ。


「条件がもう一つ、あります」

「兵以外に、かしら。言ってごらんなさい」

「黒ずくめ共を、止めていただきたい」


 アンジェが、沈黙した。


「私だけならばかまいません。エリスも問題としないでしょう。だからこそ、なのでしょうが、最近は周りを狙いだす始末です。これではいつ不幸な事態になるか分かりません。実際に、私の妹は危ないところでした」

「ふむ」


 ルナリアの隣まで、彼女は進む。アンジェは、


「あなたも知ってのとおり、あの黒ずくめ共はいわば憂さ晴らしですわ。恐らく主となるラナティクシアでさえ、あなたの暗殺が成しえるとはまるで思っていないでしょう。それでも続けているのは、単なる鬱憤の解消か、あるいは身内への示しなのか」

「正直なところ、理由にはあまり興味がありません」

「……こうしてあなたと懇意にしているわたくしの印象は、当然ながら良くありませんわ。古老内でも異端と言って良いでしょう。この上黒ずくめの停止を提案したとなれば――どういう目で見られるのか、当然理解し、それでもなお要求している、のですわね?」

「無論です」


 三秒ほど、二人は見詰め合っていた。にらみ合っているようにも、見えた。

 ふ、と。

 アンジェが急にルネッタを見て――ため息をついた。


「……そんなにあの娘が大事かしら」

「そっ……」


 ルナリアも、こちらを見る。

 目が、合う。

 彼女は、再びアンジェに向き直って、言った。


「そうです」

「はっきりといいますわね。そこが良いのですけれど」


 その言葉の意味を理解して、確かに鼓動が高鳴るのを、感じてしまった。

 アンジェが、ぽむ、と手を打つ。


「分かりましたわ」

「よろしいのですね?」

「ええ。そのくらい『お安い御用』ですわ。あなたの協力に比べれば」


 くるりとアンジェがその場で回った。エリスを見て、ルナリアを見て、最後にルネッタの顔をまじまじと見て。

 そうして、また、笑うのだ。

 今度は正真正銘、悪魔のように。


「ああ、食事会が楽しみですわね。本当に」

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