アンジェ・レム・ライール 三
侍女に案内された部屋を、ルネッタはゆっくりと見渡した。
果たしてこの場を、豪華などという言葉で終わらせて良いものだろうか。
広い。それこそ詰めれば数十人の寝床になる。
輝くように白い壁面には、やはり紋様のように光が奔っているものの、心を和ませるような深い緑色だ。床はまるで鏡のように磨き抜かれているが、足元が滑ることも無い。隅に置かれた瓶には色とりどりの花、正面の壁には大きな絵がかけてある。
――はぁ。
感心と呆れが入り混じる。客室だからこその豪華さか、と思ったりもしたが、アンジェの印象からしてそれは無さそうだ。
つまるところ、これがエルフの――正確に言えばアンジェ・レム・ライールの財力ということだろう。
「では、何かあればお申し付けください」
侍女が頭を下げて、部屋から出て行く。やはり服装はエリスとは似ても似つかない。胸の形まではっきりと分かる黒服に、盛大にスリットが入った短いスカート。脚は何もつけずむき出しで、靴元は少し踵の上がったサンダルだ。そう説明されたわけでもないが――たぶんあの服装は主であるアンジェの趣味なのだろう。
部屋の中央に、大きな大きなベッドがある。五人は寝れる。かわりに一つしかない。そう、一つしか、無いのだ。
「ふぁあぁあぁ……」
生命ごと抜け出してしまいそうな呻き声が部屋に響いた。当然ルネッタのものではない。
声の主はずりずりと、まるで幽鬼のようにベッドまで歩くと、そのまま正面から倒れこんだ。
突っ伏したまま器用にブーツを脱ぐ。白い素足が目に入る。彼女は子猫のようにごろんごろんと転がりながら、残った服を脱いでいく。
上も下も下着一枚になったルナリアは、再びうつぶせにベッドに突っ伏して――そのまま動かなくなった。
同室だ。それどころか同衾なのだ。なにしろベッドは一つしか無いのだから。
高まる鼓動を、なんとか抑える。
とっくに慣れたはずだった。それなのにどこか緊張してしまうのは、旅先だからか。
「ルネッター」
「ひゃい!?」
突然の呼びかけに、悲鳴のような返事が漏れてしまった。
「変な声……まぁそれは良いんだけどさ」
ルナリアは手を伸ばして枕を掴み、そこに顔を埋めてしまう。
「悪い奴じゃ無いんだけど、どうにも好きになれなくて……そんな言葉があったりするよな」
「え……はい、あります」
もぞもぞと、ルナリアが動く。整ったお尻が左右に揺れている。
心から疲れたような声で、彼女は続けた。
「ぜんぜん嫌いじゃ無いんだけど……どう考えても悪い奴なんだよなぁ」
「あ、あはは……」
誰のことを言っているのか、これほどわかりやすい謎も無い。
ルナリアが起き上がった。こちらへと向き直り、深く胡坐をかいてベッドに座る。軋む音すらしない。それでいて凄まじく柔らかそうだ。
「どこから聞きたい?」
そう言って、小首を傾げる。そんな仕草がとてもかわいらしく見えてしまう。さすがに言えないけれど。
――ええと。
アスルム卿。食事会。彼女の企み。渡した銃の行方と今後。
疑問は掃いて捨てるほどあった。どれから尋ねるべきかまとまらないほどだ。
ルナリアが苦笑して、
「いいよ、最初から話そう」
手招きしている。荷物を置いて、ベッドの脇へ。靴を脱いで、上着も脱いで――そこで辞めた。さすがに下着姿にまではなれない。なると色々とまずいと思う。
――寝るときなら平気なのに。
不思議なものだ。
予想通り、ベッドは信じられないほど柔らかい。いったいどれほど高価なのだろう。考えながらルナリアの傍までずりずりと這っていくと、
「んー」
彼女は右手をくりくりと回転させて合図を送ってきた。
――うしろをむけ?
たぶんそんなところだろう。くるりと回って、ぺたりと座る。何かあるのかと考えて――軽い衝撃が体を襲った。
「わっ、わわ……」
背後から抱きしめられた。驚いた所為で声も出た。
「ん~」
包み込むような彼女の両手。大きくて柔らかな胸。暖かいからだ。優しい匂い。
思わず漏れかける変な声を、ルネッタは必死に押さえ込んだ。
頭の中で幸せと気恥ずかしさが戦っている。幸せが勝つので抵抗はしない。それもいつものことではある。
ルナリアが呟いた。
「なんだか疲れた」
絡んだ腕に、僅かに力が篭る。
「……どうせもっと疲れる事態になるんだろうけど」
ため息。少しくすぐったい。
――あ。
悩んだ。けれど決断は早かった。
おなかに回された彼女の手に、ルネッタは自分の手を重ねた。軽く擦ってから、指を絡める。彼女も、応えてくれる。
「ふふ……じゃあ、説明を始めようか」
「はい」
何しろ顔が近い。言葉が全て耳元での囁きになってしまう。
ぞくぞくと背筋に奔る快感を、態度にも声にも出さないよう、堪えに堪える。真面目な話、なのだ。
「さてどこから……そうだな、やはり最初からだ」
「最初とは?」
「アンジェ自身について」
なるほど、と思う。
「名はさっき聞いたな。アンジェ・レム・ライール。エルフの中心たる古老の一人。歳は……私よりは上だが、エリスよりは下だ。もちろん古老の中でも最年少だ」
「そんなに若いのですか……」
疑問は、むしろ増える。どうやってその歳でその地位に、というのが一番ではあるが。
あいつの父が少々特別でね、とルナリアは言う。
「ハスク・レム・ライール。噂では建国前から生きていたというのだから、軽く千五百歳以上になるな。名が通った者でも最古参の一角であり、エルフの歴史に与えた影響も図り知れん」
「大人物が父、ですか」
「古老という仕組みの提唱。領主のあり方。さらに言えば市民権を三つに切り分けて国民に与えると考え出したのもハスクだ。もし居なければ、国家の有り方さえ変わっていたかもな」
抱きしめてくる腕の力が、ほんの少し強くなった。
「法と商を司る、と言っても過言では無かったのだろうな。法の領域は後にラナティクシアに移るが、その分ライールは商に長けることになる」
肩に、彼女の頬が乗った。
「たとえばひとつ。この国においては王側、貴族側、両方で使用できる通貨があるが……その製造管理はライールが取り仕切っている。これだけでどれほど力があるか、お前になら分かるだろう」
「は……はい」
嫌というほどに分かる。凄まじい、などという生易しい言葉では済まない話だ。
ルナリアは続ける。
「代わりというわけではないが、ライールは最小限の軍隊しか持たん。これも言い出したのはハスク自身。いわば取引だ。もっとも――建前ではあるんだけど」
自衛する程度の戦力は維持したままである、ということだろうか。実際護衛の兵も直下の騎士団もあるようだ。
その点も気にはなるが、何よりも、
「それほどの大人物が、なぜ地位を退いたのですか?」
不老不死とまでは行かないようだが、老けず衰えずのエルフだ。ましてや千年以上も生きる怪物が、そうそう後身に譲るものだろうか。
「ああ、ハスクは居ない。もう死んだんだ」
そうか、とルネッタは思う。老いには勝てないかと納得しかけたところで、ルナリアが平坦な声で言った。
「私が殺した」
一瞬、分からなかった。
ルナリアが繋いだ右手をそっと離して、頬をなでてくる。
「その話はまた今度。長くなるからな」
「わか、りました。ええと、その……疑問が、ですね」
「なぜその後釜に、若いアンジェが座っているのか、と?」
頷く。単なる世襲で終わらないというのは、セラヴィアの儀式で良く分かっているつもりだ。
「そうだなー」
頬を撫で続けていた手が、再び動いておなかにやってくる。当然のようにこちらからも向かえて、指を絡めてつなぎなおした。
真面目な話、をしているのは確かだ。
「なぁルネッタ。アンジェの顔、少し幼く見えなかったか?」
「……はい。セラちゃんと同じくらいに感じました」
人間で言えば十六程度。大人とも子供ともつかない。それもあの独特な魅力を強調する要素なのだろうか。
「そのわりには、おっぱいでかいなーと」
「いや、それはその……はい」
正直うらやましい大きさだった。セラヴィアも相当なものだったので、エルフは皆こうなのかと勝手に納得していたが――思い出してみれば、騎士団に居た女兵士とて様々だ。特殊な例であることは間違いないのか。
ルナリアが呟いた。
「顔はな、十六で止めたらしい」
「え?」
「胸は大きいほうが美しいだろうと、二十二まで進めたんだとか」
理解するのに数秒かかった。
そして理解してから、余計に混乱がやってくる。
「尻は十九。太ももは十八だったかな。手足はかわいく十五だとさ」
段々と、言葉の意味を噛み砕けてきた。
――それって。
ルネッタには、当然魔術は使えない。しかしそれなりの数をこの眼で見て、耳で聞いてきたのだ。
とんでもないことを言っていると、そのくらいは分かる。
「古老には……というよりも、ある程度力のある貴族には皆それぞれ継承用の儀式があるものだ。たとえばベリメルスは力を示す。お前も知っている剣刺の儀だな。目的はもちろん強靭な戦士たる証拠を見せることだ」
「儀式、ですか」
「簡素な一族も居る。複雑な者も。ライール家がもっとも重視したものは、維持。可能な限り長く生きて、ぎりぎりまで現役を努める……即ち身体の固定化の技術だ」
ベリメルスと多少似てはいるがな、とルナリアは低く言った。
「単純な世襲ではない。年寄りが無条件に偉いわけではない。しかし長く生き、固定化を維持出来ている者は当然強い。衰えず鍛え続けているのだから当たり前の話だ」
「それは……分かります」
「固定化に最も長けたものを後継者とする。それが条件だった。十人以上は居たと言われる候補者達の間で、肉体を部分ごとに年齢分けして固定して見せるという曲芸染みた真似をして、アンジェはライールの名を勝ち取ったということになる」
思わずため息が出る。知らずとも、苦労はそれなりに想像できるものだ。
「もちろんあいつの両親は超一流だ。国でも最上位に位置する、圧倒的な才能を持って生まれたことは確かではある。しかしそれは二桁は居る兄弟姉妹とて同じこと。何かを捨てねば到底勝てない」
「捨てる?」
「固定化の巧さに関しては、間違いなくエルフで最高だ。かわりに、あいつは『それ』しか出来無い。魔術の放出は特に苦手だな。道具の使用程度は問題無いが、火の弾なんぞ到底出せないはずだ。無論、今後どうなるかは知らないし、老大樹の調整は別だが」
ルナリアの体が、少し離れた。
「とにかく、あいつはそうして古老の地位についた。強引ではある。小細工と見るものも居るだろう。そもそもの発端からして物騒だったというのがトドメかな」
「え?」
「よくある話だよルネッタ。現在ライール領は、アンジェを歓迎するもの、しないもので真っ二つに割れている。さらにそれぞれが消極派と積極派に割れている。槍こそ交えてはいないものの、ちょっとした内紛状態だな。もう五年はこの有様だ」
そう、だったのか。しかしその割にはと思う。
「平和に見えるって?」
「ま、まだ何も……いえ、その通りです」
「にらみ合って悪口言い合ってるだけ、とも言えるからな。物資の通り道はお互い一切の妨害はしていないし、商取引も普通に行っている」
それに、と続ける。
「賛成派はもちろんのこと、反対派とて殺してでも引き摺り下ろすという連中は少ないのさ。どういう教育の果てか知らんが、なんと継承権持ちの兄弟姉妹は全員揃って賛成派だしな。己の商売にしか興味がなさそう、というのが実際のところではあるが」
「なるほど……ひゃっ」
軽く持ち上げられた。くるくると回転させられて、今度は向かい合わせだ。
半裸だ。白い肌を金の髪が彩っている。恥ずかしさが、少し増す。
「反対派も……そうだな、消極的な連中とて認めていないわけでは無いようだ。単に手腕を見ていないから頷けない、という程度だろうか」
「手腕……どうすれば」
「単純な話さ。もちろんこれは私の予想に過ぎないけれど」
意地悪く、ルナリアは笑った。
「積極派共を上手く潰して見せろ、と。そのあたりだろう」
「はぁ」
「つまるところ問題は積極的反対派に集約されるわけだが……数名の諸侯の中でも強固に反対し続けている者が居てね」
一度、目を伏せた。
「名を、アスルム卿」
思わず、身が竦んだ。
さっき聞いた名だ。農場でも聞いた名だ。そして――今度の食事会の相手だ。
ルネッタは尋ねた。
「暗殺でもする気なのですか……?」
「かもしれん。だから私、と考えれば納得してしまいそうだ」
「ですが……そんな場で殺してしまえば、隠すことなど出来そうも無いのでは」
「ルネッター」
にゅ、と手が伸びてきて、両の頬をむにむにと揉まれた。
「にゃんでひょうか」
「優れたるべし。程度の差はあれどこの貴族もそんな感じ。それは分かるな?」
頷く。
「つまりだ。備えでも兵力でも謀略でもかまわんが――兎にも角にも、暗殺をまんまと成功されてしまうような弱者に古老たる資格無し、とすっぱり断言されて終わりなのさ」
凄まじいことを、あっさりと言う。
――そういえば、そういうひと達だった。
「アスルム卿は、どんな方なのですか?」
「愚鈍な男さ。数代遡れば優秀だったと聞くが、幻に聞こえてくるな。知らぬことまで口を出したがる性格だからか、領内の金の周りも悪い」
ルナリアが、ため息をついた。
「それゆえ、恐ろしい」
「え?」
「評価もされず、上手くいかず、落ち目落ち目の大愚族……そんな男が、古老の一角を殺したとなればどうなるだろうか」
呆れたように彼女は笑う。
「地の底から雲の上へ……もはや後の無い者は怖いよ。何をするか分からん」
「確かに、それは怖い、です」
「逆に言えばだ」
意地悪そうに口元が歪んだ。
「アスルム如きあっさりと制して見よ、と……消極的反対派はそう言いたいわけだ」
「なるほど……」
一通りの事情は飲み込めた。
数日先の『食事会』とやらが、恐ろしく物騒な話であるということも、分かった。ルナリアの反応も当然のことに思えてくる。
頬を撫でていた手が、再び下へ。握る。躊躇無く。彼女がうっすらと顔を染めて、柔らかく微笑む。
「銃のこと、悪かったな」
「いえ、あれはルナリアさまにお渡ししたものですから」
「そう言ってもらえると助かる。色々悩みはしたが、私個人の手では到底量産への道は作れないものな。どっちにしても渡すのであれば、見返りつきのほうが望ましい」
それに、と言って目線を逸らす。
少しの沈黙。ほんのり赤かった頬が、派手に染まった。
「お前が助かるなら、それでいいかな、と」
言葉を聴いて、背筋に奇妙なものが奔った。
ぞわりとかゆくて、なのにおそろしくきもちよい。
幸せとはこういうことかと思う。握りあったままの指に、自然と力が篭ってしまった。
目線が戻った。視線が絡む。両手を、繋ぐ。
足音がする。
ノックもせずに、勢い良く、音の主は扉を開けた。
「……あれ?」
ルナリアと揃ってそちらを見る。
赤い髪のメイド姿は、まじまじとルネッタ達を観察して――大きく体を引いて、廊下へと戻った。
右を向いて、左を向いて、扉の作りを確かめて。
「あぁーそういう」
三人同室だと、今知った。そんな顔をエリスはしている。
彼女の顔が、一気に緩んだ。
「なんですかなんですか、あの糞女にも良いところがあるではありませんか」
早足でベッドまで近づくと、ブーツを脱ぎ捨て放り投げる。飛び込むようにやってきた場所は―ー丁度、ルネッタとルナリア、二人のおなかの間だった。
ルナリアのふとももに頬ずりしつつ、ルネッタのふくらはぎをむにむにと揉む。
恍惚と、している。
「……滝のような濁流となって幸せがやってきますね」
「なにいってんだおまえ」
心底呆れたような声を、ルナリアは吐いた。
「ディアはどうした」
「骨折が二十回を超えたので辞めました。そこそこ面白かったですよ」
「……不憫な」
「でもあの娘、確かに強くなっていますね。あまり手抜きをする余裕もありませんでした」
へぇ、と今度は心から感心したよう言って、直後にルナリアは眉をしかめた。
「なんでも良いけど、汗臭いぞおまえ」
「そりゃーそうですよ。動いてたんですから」
「離れろって意味なんだが」
「分かってます。そして拒否します」
太ももを這い上がり、おへそまでたどり着いて、ルナリアの素肌を自分の素肌で堪能している、らしい。
ちょっとうらやましい。どっちが、となると難しい問題ではある。
多少頬をひくつかせては居たものの、やがて諦めたのか。
ルナリアがエリスの頭をそっと撫でる。頬を薄くつまむ。
エリスの瞳がとろんと蕩けた。こんなにも甘い顔をするものなんだなと感心してしまう。
「ま……風呂だな」
「そうしますかね」
エリスがごろりと体勢を変えた。今度はルネッタの太ももへと乗る。体重と感触。慣れた匂いと、汗の匂い。彼女の、赤い瞳。
ちょっとだけ、くらくら、する。
目を細めて、エリスが言った。
「三人でお風呂……ふふ、まるで最初の時のようです」