アンジェ・レム・ライール 二
アンジェの視線が体に刺さるように思えた。瞳の光は妖しく見えて、唇は酷く艶かしく。
けれども、黙っているわけには行かない。国有数の大貴族の挨拶に対して、無言で返すような真似など恐ろしくて出来るわけが無い。
「あ、の、わ……わたしはっ」
どうにか搾り出したルネッタの言葉は、あっさりと遮られてしまった。
「ああ、細かな説明は要りませんわ。となりの団長から聞いておりますもの。名はルネッタ・オルファノ。見た通りの人間であり、生業は商。今は確か王側の第二市民権まで所持している、でいいかしら」
「えっ……あ、その」
「話に聞いていた通り……なかなか、かわいらしいではありませんか」
微笑んだ。妖精のように、同時に悪魔のように。
耳が熱くなる。頬が染まっていると思う。ルナリアとも、エリスとも違う、それでいて恐ろしく強烈な魅力が、言葉に乗って吹きつけるように感じてしまう。
こほん、と隣から咳払いが聞こえた。左を見る。アンジェの視線もそちらに動く。
ルナリアが、妙に低い声で言った。
「ライール卿……いえ、失礼。ライール老、こうして呼び出された理由を、未だ私は知らされておりませ――」
「でーすーかーら」
再びアンジェが遮った。わざとらしく唇を尖らせて、指をそっと一本立てる。外見も相まって一気に幼く見えるようだ。
「何度言えば良いのかしら。その呼び方はやめなさい。誰が老ですか」
「しかし」
「もう一つ。友人に対するような言葉で話すようにと、これも繰り返し言ったはずですわね?」
ルナリアは口を噤んで眉を潜める。アンジェは――やはり、笑っている。
「わたくしの立場、あるいは関係。加えてあなたの現在の地位。躊躇の種はこのあたり。そうですわね?」
「……ええ」
「では命令を致しますわ。言葉を崩しなさい。友人と話すように、家族と話すように、あるいは――ふふ、そうですわね」
ぺろりと、アンジェは唇を舐めた。
「恋人と話すように、愛情をたっぷりと篭めた話し方をなさいな」
ルナリアは低く唸り、小さく頷いた。
「……分かった。普通に話すよ、アンジェ」
「とてもよろしい」
アンジェが微笑む。青い髪が風で揺れる。
葉の揺れる音だけが包む静寂が訪れた。優しい空気の中――ぎり、と歯軋りの音を、ルネッタは確かに聞いてしまった。
おそるおそると右を見る。赤い髪のメイド姿は、いつもと変わらない涼しい表情で果汁を飲んでいる。
――うひゃぁ。
それが明らかに演技であると、耐え難い何かを我慢しているものだと分かる程度には、自分は親しくなったのだなとルネッタは思う。
視線を戻すと、再びアンジェと目があった。
彼女は流れるようにエリスを一瞥すると――軽く首を傾げた。そのまま、再びルナリアに語りかける。
「まったく、どうしてルナは毎回この手順を踏まないとダメなのかしら。この前は、あんなにも甘く、優しく、アンジェ、と……呼んでくださいましたのに」
「ごっ……」
ルナリアが咳き込んだ。
「誤解を招く表現はやめていただき……やめてほしいんだけど」
「あら? 嘘などついておりませんよ?」
アンジェがゆっくりと右手を口元へと持っていく。細い指。輝くような爪。宝石のような先端で、自分の唇をそっとなぞった。
「暖かく、柔らかく……良い夜でしたわね、ほんとうに」
がたり、と大きな音を立てて、エリスが椅子から立ち上がった。思わず身が竦む。
エリスの唇は細かく震えて、額にはいくつもの皺が奔っている。それでも、目元だけは静かに見えるのは立派だと思う。
エリスが言う。
「ライール卿」
「なにかしら」
「長旅で体が訛りすぎました。少々動かしたく思いますので、私は退室しても構いませんでしょうか」
まっすぐな提案だった。あまりにも。
正直すぎる言葉にルネッタは呆れて――同時に不安が襲ってきた。何しろ相手は王にも匹敵する大貴族なのだ。
けれどもアンジェは、
「構いませんわ」
声音も表情も、共に涼しい。エリスは頭を軽く下げ、部屋の隅へと体を向けた。その先には、
「ディア、付き合いなさい」
「……え? えぇ!?」
蒼い瞳をしぱしぱと瞬かせて、女騎士は狼狽する。抗議の声は、どこまでも必死だ。
「わっ私はこの場で仕事がっ」
「構いませんわ」
あっさりと、主が許可を出してしまった。ディアの顔が恐怖一色に染まっていく。
エリスは再び頭を下げた。
「ありがとうございます、ライール卿。さ、行きますよディア」
「えっ……え、え、エリス殿は手加減を知りません! 何度私が死に掛けたか――」
「いいから、ほら。さっさとしないと余計に酷くなりますよ」
面倒だとばかりに腕を掴んで、エリスはディアを引いていく。涙交じりの必死の抗議も、まるで意に介さないようだ。
「この前など! 腕まで切り落とされて私がどんな思いを」
「どうせ私がくっつけるのだから問題無いでしょう。ほら急ぐ」
「ひ、ひいいいいやあああ」
扉が開き、そして閉まった。ディアの悲痛な叫びも、今はもう聞こえない。
「ああ……」
悩ましげな呟きが、アンジェの口から静かに漏れた。艶やかに染まった頬へと両手を当てて、熱い吐息をそっと吐く。
「あの怒り……あの表情……あれでこそのエリス・ラグ・ファルクスですわ」
「あのさ」
独り言に、ルナリアが応えた。努めて軽い言葉を選んでいるようだ。
「もしかしてあんた、結構エリス好きか?」
「あら、嫌いだなどと言ったつもりは一度もありませんわ」
ですが、とアンジェが続ける。
「何物にも、最も美しい状態というのが存在します。月は満月、花は満開。空にはうっすらと白い雲……彼女はああして爆発寸前が最も美しい。剣闘時代を思い出しますわ」
「……そんなことのために、毎回挑発しないでほしいぞ」
「美しさは大事ですわ。それに――というわけでもありませんが、ああして付き合わされるおかげでディアの腕も大きく伸びました」
「へぇ。いずれはエリスにも勝てるかも、と?」
まさか、とアンジェは大げさに肩を竦めた。
「そこまで高望みはしておりません。このわたくしの傍仕えとして、恥じない腕があればよろしい」
アンジェが足を組み替えた。軽く手を挙げ、平は上に。そんな仕草も驚くほど様になっている。
「さて、本題に入りましょう」
「分かった。ルネッタ、あれを」
言われたとおりに、荷物から『あれ』を抜き出した。このために来たようなものなのだと、分かってはいても緊張する。
長い本体を包む布を解いて、テーブルへと置いた。
「どうぞ」
「ふむ」
アンジェは品物を――即ち長銃を、手に取った。
「重さはそれほどでもありませんわね。中は空洞……ここに丸めた鉄を詰めて放つと」
「はい。発射には岩砕灰を利用出来ます」
「ふむ……」
アンジェが、銃をこちらへと手渡してきた。もう満足したのだろうか。あるいはそこまで興味をそそられるものでは無かったのだろうか。
少しの不安を覚えつつ、心の中で首を捻る。
「撃ってみなさい」
「……え?」
テーブルへと肘をついて、アンジェは続けた。
「ですから、撃ってみなさいな。話に聞くだけでは結局分かりませんもの」
いつかの宿を思い出す。ちらりとルナリアを見るが、彼女は小さく頷くだけだ。
――仕方ないか。
諦めて、準備をする。粉を注ぎ、弾を篭めて、まっすぐに構える。目標はアンジェの指差した花瓶だ。古びており、中には何も入っていない。壊して良いと主が言うのだ。遠慮はいらない、と思う。
素直に引き金を引いた。
爆発、衝撃。そして砕け散る花瓶。きちんと命中したことに、ルネッタはほっと胸を撫で下ろした。
アンジェを見る。彼女は。
――ええ、と。
顎に手を当て、眉を潜め、難しい顔で黙っている。
ひやりと冷たいものが背中に奔る。気に入らなかったのだろうか。威力にしろ精度にしろ、問題があるのは既にルナリアに指摘されている。同じ感想を抱いたとしてもなんら不思議ではないだろう。
恐る恐る、ルネッタは声をかけてみる。
「あ、あの……」
たっぷりと沈黙を挟んで、ようやくアンジェの眉が元に戻った。
「ねえルネッタ」
「ひゃ、ひゃい!」
裏返った声。アンジェが少し笑う。
「あなたの持ち込んだ『もの』はすばらしい。本当にすばらしいですわ。でもそれは銃では無いの。この鉄で出来た兵器も面白く、有効に使えはしますわ――けれど二番目」
「二番目?」
「ええ、そうです。一番は何か、わかるかしら」
アンジェの笑みは深く、大きく、裂けるような口元に言い知れない恐怖が生まれる。
それを態度に表さないよう精一杯で、質問への回答が思いつかなかった。
ルネッタの無回答を特に気にした様子も無く、アンジェは言葉を紡ぐ。
「それは概念。この武器がもたらす原理。きつきつのほそいところにちからいっぱいのながれをおくるとすごいことになる。ふふふ、これは凄まじい発見ですわ」
勢い良くグラスを手に取ると、アンジェは自ら果汁を注いだ。一息で飲み干し、静かに置く。そして再び笑うのだ。
「良いでしょう。これでルネッタ・オルファノの罪状軽減、その根回しの手間と費用、ちゃら、にしてあげますわ」
思わず目を見開いた。ルナリアからは何も聞いていない。
彼女は深く、頭を下げていた。
「ありがとうございます、ライール卿」
丁寧に戻った言葉を、アンジェは正さない。
――あ。
慌てて、ルネッタも頭を下げた。他の誰でもない、ルネッタ自身のことなのだ。礼を言うべきなのは当然だった。
「あっ……ありがとうございます、ライールさま」
「そう気にせずともよろしいですわ。何しろ見返りがありましたものね」
すぅ、と彼女は右手を差し出した。
「さぁ」
一瞬戸惑ったが、すぐに分かった。
銃を寄越せ、と。
この場で試し撃つとか、少し借りるとか、そういうことでは無いのだと、彼女の表情が語っている。
ルネッタはつばを飲み込んだ。
良いのだろうか。
これは己の生命線でもある。ルナリアに渡した物だとも思う。手放せば――本しか残らない。
ルナリアへと視線を送ると、彼女は小さく頷いた。
現実的に考えれば、拒否など不可能だと理解はしている。それでも、ルナリアが頷いてくれれば――少しは、気も楽になる。
銃を受け取ったアンジェは、満足そうに微笑んだ。そのままテーブルの隅へと置く。運ぶのは、当然部下の仕事か。
「これで一区切り……ところでルナ、一つお願いがありますの」
「なんだ?」
ルナリアは訝しげに返事をする、警戒している、ともいう。
「数日先の話なのですけれど、ちょっとした『食事会』が開かれることになっていますのよ。そこにぜひ、あなたにも出席してほしく思いますわ」
「なんだそれは。理由が……いや」
一度、そこで区切った。
低い声で、
「相手は?」
「アスルム卿」
即座に答えたアンジェに、唸るような声をルナリアは返した。右手を伸ばして額を押さえる。芝居がかった仕草、というよりは心の底から困っているように思える。
「無論、見返りはありますわ」
「……一応聞く」
胸を張って、アンジェは言う。
「今回のアルスブラハク戦で第七騎士団は戦力を大幅に削られました。そうですわね?」
「ああ……三割は減ったな」
「それを補填、いえ、その倍の兵を差し上げます。いかがかしら」
ルナリアが黙った。
記憶が確かならば、アスルムという名は農場で聞いたはずだった。ライール領における、有力な貴族なのだと思う。
その食事会に出席すれば、数百という兵をくれるという。
これでは、何かあると言っているようなものだ。
「少し考えさせてくれ」
「かまいませんわ。時間はまだありますものね」
アンジェがゆっくりと立ち上がった。そんな仕草でさえ、妖しい魅力に満ちている。
「聞けばあなたがたは休暇中だとか。部屋は用意してありますし、言えば不自由の無い程度のもてなしはさせますわ。たっぷりと、わたくしの地を堪能してくださいな」
輝く瞳は、少し怖かった。