アンジェ・レム・ライール 一
ルナリアが盗賊退治から戻ってきた。
傷一つ、どころか服に汚れすらない。背後にはぞろぞろと亡者のような賊が数人。脅しただけで黙ったのでは無いかとルネッタは考える。
彼女の顔は、けれど晴れない。
残骸と化した小屋をぐるりと見渡した後に、ぽつりと呟いた。
「一人逃げられた」
エリスが驚いたような声をあげた。
「本当に? 団長からですか?」
「……足も早かったが、何より気配を消すのが上手くてね。ふつーの賊じゃなさそうだ、あれは」
くるり、とルナリアは顔を横へと向ける。
「それで、なんでお前がここにいるんだ?」
言葉の矢先の主である女騎士――ディア・ラグ・ソークスは、びくりと体を竦ませた。
柔らかそうな茶色の髪と、潤んだ蒼い瞳。少し苛めてみたいと、ルネッタでさえ思う。
気まずそうに視線を泳がせながら、彼女は言った。
「その……どちらかと言えばそれは私の言葉ではないかと」
「どーでもいいですよ、もう」
エリスが遮った。
「ディア、馬車を用意しなさい」
「とっ突然そんなことを言われても」
「ディア、馬車を用意しなさい」
すぅ、とエリスの目が細まった。
「三度目はありません」
息を呑み、目を泳がせた後、ディアは背を向けて走り出した。逃げたようにも見えるが、エリスが特に反応しないので、本当に馬車を用意してくれるのだろう。
少し気の毒に思えてきた。
「大丈夫ですよ、ルネッタ」
肩にエリスの手が置かれた。太陽のような笑顔で、彼女は続ける。
「ああ見えて喜んでいるんです」
ルネッタには、返す言葉が思いつかなかった。
「かもなー」
気の抜けた声で、ルナリアが返事をする。彼女はそのまま歩を進めて、原型すら留めていない小屋の中へと入っていく。
二人で、後に続いた。
ルナリアが積もった残骸を軽く蹴飛ばすと、中から賊の『親玉』が出てきた。
なんと生きている。気を失ってはいるようだが、特に酷い外傷もなさそうだ。
ルナリアが言った。
「犬が、出たのか」
「ええ」
問いに、エリスが答える。一転して声は硬い。
「賊の頭らしき者――つまりはそれが、黒い球を持っていました」
「……契りの玉か?」
「おそらくは。現物を、それも使用前の物を見るのは初めてですので、断言は出来ませんが」
「私も見たことは無いさ」
ルナリアがくるりと振り返った。
「こいつを起こして聞き出すにしろ、後ろの残党に聞くにしろ……私達の仕事では無いな」
エリスが小さく肩を竦める。
「根が深そうですね」
「まったくだ」
二人同時にため息をついて、ルナリアが小声で呟いた。
「休暇の続きを向こうで取る……そんな期待もあったんだけどな」
新しい馬車は、さすがに少し小さかった。
座席に三人、寄り添うように夜を明かし、その間も馬車は進み続けて昼になり。休憩、食事と一通りの手順を済ませて。
ようやく目的地にたどり着いたのは、太陽も沈み始めたころだった。
「う、わぁ……」
馬車から降りて、あたりを見渡し、ルネッタは思わず声を漏らした。
古老が一、アンジェ・レム・ライールの治める地。ここはその首都であるらしい。
地平の先まで建物が続くさまは王都と同じようではあったが、町並みはまるで違う。
左右に立ち並ぶ建築物は、大樹を思わせるように高く、大きい。それこそ王都の二倍近いのではないかと思う。素材か技術か、あるいは両方か。いずれにしても恐ろしく高度な力の結晶だとルネッタは思う。
壁はどれも滑らかに輝き、歪みもヒビも無い見事な石造りだった。王側であれば、城にのみ使われている素材ではないだろうか。
しかし何よりも目に付いたのは、やはりこの地面だと思う。色は深い灰色で、水に濡れたようにてらてらと輝いている。けれど滑るわけでは無く、下手な土より歩きやすい。
こんこんと、ブーツで軽く踏んで見る。
ぱぁ、と。
まるで星が砕けて光を放つように、体重をかけた部分が煌びやかに光るのだ。
「ついにここまで伸ばしたのですか」
呆れたような声で、エリスが言った。
「派手好きだからなぁ。といってもさすがにこの通りだけらしいけど」
ルナリアが答えて、歩き出した。
後を追う。
人影は十分すぎるほど多いが、あたりが埋まるほどではない。服装などは王都とそれほど変わらないように見える。皆小奇麗だし、色も様々だ。やはり国を通して豊かであるということだろうか。
進むごとに段々と人影が減ってきた。同じように建物もまばらになりつつある。しかしそれに反するように、道は輝きを増していくようだ。
向かう先に、広い屋敷が見える。恐らく――あるいは当然のように、あれこそがアンジェの宮殿なのだろう。
壁面は白一色。高さはあくまで一階分のみで、横へ横へと広がっている。驚いたことに囲いが無い。防衛用と思われる『あれ』や『これ』は存在しないように見えた。
門番らしき者だけは二名居り、どちらも完全武装のまま、続く道の左右を固めていた。
視線がこちらを捕らえて、構えた槍が交差された。
ルナリアが軽く手を振ると、応えるように槍が引かれる。もちろん向こうも承知の事なのだと思う。
門が開かれた。
女が一人、立っている。
「お待ちしておりました」
茶色の髪をふわりとなびかせて、ディアは深く頭を下げた。
馬を走らせ先んじ帰り、こうして出迎えまでしてくれる。中々に多忙だと思う。
当然甲冑姿ではなく、体に密着するような黒い服を身に纏っていた。上は胸の形まで分かるようであり、下は太ももがむき出しのスカートだ。扇情的ではあるが、靴だけは丈夫そうなブーツのままだった。
「こちらへ」
そう言って、ディアは背を向けた。
廊下を歩く。只それだけのことだというのに、感嘆のため息を我慢するのも大変だ。
床は白い。壁も白い。大理石を更に磨きぬいたような輝きの中に、定期的に細い光が走る。
赤く流れれば血のようで、黄色に抜ければ蛍の通り道のよう。
エルフの国にやってきて、それなりに時間が経った。少なくない不思議を、この眼に焼き付けたと思っていた。
――すごい。
こんな陳腐な感想しか出てこない。今までの体験の中でも、図抜けてここは幻想の世界だ。
大きな扉の前でディアが足を止めた。軽く手を上げ、再び頭を下げる。
「どうぞ」
そう、促した。
――自分で開けるんだ。
言われたルナリアが扉に手をかける。客なのに、あるいは客だからか。それともここは古老の屋敷で、彼女はあくまで騎士団長に過ぎないからか。このあたりの礼に関しては、今でもさっぱり分からない。
開いた向こうは、庭園だった。
生い茂る木々の間から注がれる木漏れ日が、輝く床を赤く染める。太陽はやや傾き、風は少し肌寒い。
小さなテーブルに、椅子が六つ。幾つかのグラスと、皿に盛られた菓子の数々。
貴族の休息所とでも言うべき空間に、エルフが一人、こちらに背を向けたまま、立っていた。
顔は当然分からないが、恐ろしく目を引く点が一つある。
――水色だ。
腰まで届く長い髪は、透き通った空のように真っ青だった。
風が吹く。髪がなびく。さらさらと流し、それを軽く手で押さえて。
エルフが、こちらへ振り返った。
「ようこそ――あるいは、遅かったと言うべきかしら」
花すら霞む笑顔と共に、青髪のエルフが微笑んだ。
古老が一、アンジェ・レム・ライール。
若い。まず何よりも強く感じたのはそのことだった。年のころで言えば十五、六に見える。ルナリアの妹と同じくらいか。
柔和そうな、それでいて大きく輝く瞳。通った鼻筋に、細い顎。幻想的なまでの美しさを、青い髪が何倍にも引き立てている。
身に纏った白いドレスのような服は、驚くほど露出が多い。こぼれそうな胸元に、太ももまでむき出しの短いスカート。白く輝く綺麗な素足には、蔓で編んだようなサンダル。
服装を一見すれば娼婦のようですらある。だというのに、下品さの欠片も感じない。
――妖精、か。
ありふれたはずのその言葉を、ルネッタは頭の中で繰り返した。
単に美しさを競うのであれば、ルナリアのほうが上だろう。けれども、どちらが幻想的か、あるいは非現実的かとなれば――彼女の纏った雰囲気に、勝るものなどあるのだろうか。
ルナリアが一歩踏み出し、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、ライール卿。途中で――」
「あぁもう、そういうのは必要ありませんの」
す、とアンジェはテーブルを指差した。
「まずそちらへ。挨拶の前に一杯、ですわ」
輝く瞳が、ルネッタを捉えた。思わず固まる。鼓動が少し早くなる。
「あなたも」
そう言って艶やかに微笑んだ。
促されるままに椅子へと腰掛ける。横並びになった三人の前へと、ディアがグラスを置いていく。
並々と注がれた液体は、不思議な色をしていた。橙色というには赤く、血というには黄色い。
対面へと座ったアンジェは、一人グラスを手に取ると、
「お酒ではありませんの。もちろん毒でもありません」
いたずらっぽく笑い、彼女は一息で飲み干した。
ここで飲まないほうが失礼にあたるのだと思う。ルネッタは慌ててグラスを掴んで、口元へと持っていく。
柑橘系の匂いが、優しく鼻をくすぐった。口に含むと濃厚な甘さが広がっていく。水のようにさらりと飲みやすく、けれども果汁のように味わい豊かだ。
なんだろう、と首を捻る。
「単なる果汁ですわ。いろいろ混ぜてはおりますけれど」
視線を戻すと、アンジェと目があった。
「おいしいかしら」
「はっはい!」
上ずった声が漏れてしまった。それが面白かったのか、アンジェは少し笑い、グラスを掲げた。
彼女の目が、ルネッタの横へと流れる。
「冷やせば保存もそこそこ利いて、味も良い。いいものだとは思うのですけれど――如何せん高価ですわ。これ一杯で、日雇い労働者の稼ぎが消えてしまうの」
思わずルネッタは手元のグラスを見つめてしまった。
アンジェが続ける。
「毎日毎晩、とは言わないまでも――週末程度なら誰でもこれが飲めるようにするというのが、最近のわたくしの興味かしら……ディア」
呼びかけた声に、即座に黒衣のエルフが反応した。
彼女のグラスにたっぷりと、二杯目の果汁を注いでいく。
「あっ」
手元が狂った、のだろうか。瓶がゆれ、中から果汁があたりに飛び散る。零れた先はテーブル、ディア自身の手元、そして――
「……ディア?」
「もっももっもうしわけ、あ、ありませんっ」
美しく組まれたアンジェの膝元へ、少なくない雫が垂れていた。陶器のような膝からすねへ、そして整ったつま先へと、液体が道を作って落ちていく。
ディアは目に見えて血相を変えて、瓶をテーブルへと置いた。
アンジェの目が、ゆっくりと流れた。
静かに言う。
「汚れましたわ。綺麗になさい」
「た、ただいまっ!」
隅へと駆け寄り、白い布を水でぬらし、急ぎ戻ってアンジェの傍へと跪き――
「違いますわ」
氷のような声音が、その動きを止めた。
アンジェの目が、すぅ、と細まる。薄く開いた唇から、血のように赤い舌が見える。
「ディア……分かっているのでしょう?」
「……は……い」
ディアは、布をそっとテーブルへと置いた。アンジェの足元へと屈み込んで、紐のように足に巻きつく蔓を解いていく。
解かれた素足を、宝石でも持つかのように大事に掲げて、
――え。
雫がぽたりと垂れるつま先へと、ゆっくりと、舌を這わせた。
――う、わ、ぁ
漏れかけた声を、ルネッタは必死に噛み潰した。
舐めている。
猫のように丁寧に、それでいて目を奪われるほど淫靡に、ディアはアンジェの足を舐めている。
垂れる果汁を吸い取るように舐めとって、軌跡を逆走するように脛を登る。舌はやがて膝へとたどり着き、始点である太ももまで――
「そこまでよ」
アンジェの声で、動きが止まった。少し熱っぽく聞こえる。
体勢はそのまま、ディアは顔をあげた。
うなされたような瞳、一目で分かるほどに赤い頬。荒い息。震える喉。
顎の先へと、アンジェの手がするりと伸びて、
「いいこね……後でご褒美をあげますわ」
大きくつばを飲み込んで、ディアは頷いた。立ち上がって布を手に取り、己の舐めた後を丁寧に拭いていく。
ルネッタは、ただ、それを見ていた。あっけに取られていた、というのが正しい表現かもしれない。
ようやく正気を取り戻し、ちらりと横目で確認したところ、ルナリアもエリスも我関せずといった態度で、ちびちびと果汁を舐めていた。
よくある、ことなのか。これが当たり前の光景なのか。
拭き終わったディアは隅へと戻る。
アンジェは体の向きを戻すと、少し胸を張った。
目が合う。瞳は、確かにルネッタを見ている。
「そうそう、飲み終えたのだから挨拶ですわね。わたくしはアンジェ・レム・ライール。古老の一人ですわ」
淫魔も逃げ出すような笑みで、彼女はそう告げた。