戦の後 祭りの前
弱く二回。少し強く三回。
覚えのあるノックの音でエリスは目を覚ました。薄目で捉えた窓の外は、仄かに明るい程度である。
使い慣れたベッドから、エリスはのそりと体を起こそうとして、
――ん。
自分の左腕に、絡みつく何かが居る。そういえば半身が温かいし、どことなく柔らかいし。
昨日はこっちだったかと思い出したのは、毛布の中からちらりと見える黒髪に気づいたからだ。
――ふふ。
頬が緩む。とはいえ誰も見ていないのだから、気にする必要も無い。
しがみつかれた左腕を、起こさぬようにゆっくりと解きほぐしていく。最後に軽くルネッタの頬を撫でて、エリスはベッドから立ち上がった。
室内履きをつっかけて、扉のところへ。
小声で、
「ルナリア?」
「ああ」
エリスは鍵を開けた。ルネッタが起きてしまうかもしれないが、外で話すよりはよほど良い。
視界に入るルナリアの顔は、相も変わらず信じがたいほどに美しい。艶やかな肌の色を見る限りは、戦の疲労などまるで残っていないようだ。もっともそれは、エリスとて同じなのだが。
服装は寝巻きのシャツ一枚であった。これでは外で話し込むわけにもいかないか。
招き入れて、椅子を指差す。ルナリアが腰掛けたのを見送ってから、エリスはベッドの隅に座った。
アルスブラハクとの戦から、今日で何日目だったろうか。
ルナリアが、小さく言った。
「休みをもらいに行こうと思うんだ」
「戦の報酬として?」
「それもある」
軽くほほを掻いて、ルナリアは続けた。
「騎士団としてはそうだが……実は個人的にも欲しいんだ。妹がちょっとね」
「セラちゃんが?」
こくり、と頷く。顔つきは神妙である。
「剣刺の儀をやるらしい」
エリスは目を見張った。聞き間違えかと思ったほどだ。
「気持ちを最大限に汲むなら見に行かないほうが良いのかもしれないけどな……万が一だけは避けたいんだ」
「そうだね。あたしもセラちゃんに何かあるのは困る」
「やっぱりお前もついてくるのか?」
「当然でしょ」
ふふん、とエリスは小さく鼻を鳴らした。両の頬に手を当てつつ、あの娘達の顔を思い出す。
「久しぶりにセラちゃんやノエルちゃんにもあいたいしー。撫でたり抱きしめたりすりすりしたいしー」
まさに天使のような二人。思い出すだけで口元がにやけて止まらない。
そんなこちらの様子を、呆れたように見ていたルナリアだったが――突然、こほんと咳払いをした。
少々音が大きい。ルネッタが起きてしまうかと思ったが、横目で確認した彼女の顔は、未だ深い夢の中らしい。
「それで、なんだが」
妙な声音で、ルナリアは切り出した。
エリスの勘と経験が言っている。これは面倒ごとを頼むときの態度である。
「団を大きく二つに分けて、それぞれ順番に長期休暇をもらおうと思っている。で、妹のことがあるので私は前半に休みたい。だが、どう考えても雑務は最初に集中するわけでな。それを……その……」
「……ジョシュアがなんとかしてくれって、あたしに言えってことなのかな」
気まずげに目線を逸らしつつも、ルナリアはしっかりと頷いた。
「お前のほうがほら……付き合いが長いからさ」
それだけ、でも無いのだろう。ここのところ団長としての無茶が続いたので、気まずいというのが本音かと思う。
実際、書類周りと金勘定は彼がもっとも得意とするところであるのだから、適材適所ではあった。本人としても、剣よりペンのほうが好きだと思える様子は多々ある。
しかしそれは、仕事を押し付ける言い訳には少々足りないのだが。
自分にこの手の仕事が大して回ってこないのは、喜ぶべきか悲しむべきか。どうせ一緒に行くのだから、休みも一緒に取るのだろうと、ルナリアが気を利かせてくれたのだと考えるのが一番だろうか。
エリスは小さく息を吐いた。
「わかった。うまいこと頼んでみる。おみやげでも約束してさ」
「すまん」
「それと――」
エリスはわざとらしく、唇を尖らせた。
「それならあたしにもごほーびがあるべきなんじゃないの?」
「……はぁ?」
眉をしかめたルナリアだが、小さなため息と共に顔を伏せた。
「何が欲しいんだ」
「んふふふふ……そーだなぁ」
エリスはベッドに浅く座りなおした。膝をそろえて、綺麗に伸ばし、自分のふとももをぺしぺしと叩き、
「さあこい」
細かく説明するまでも無い。
ルナリアの顔が一気に朱に染まるが、とっくに諦めていたのだろう。潔く椅子から立ち上がると、エリスのふとももへと跨ってきた。
ルナリアの顔は変わらず赤く、頬は僅かにひくついている。背筋などは緊張で硬い。どこまでされるのか警戒しているような気もする。
いつかと同じ体勢である。違いは互いが逆であるということ。
――どーしよーかなー。
彼女の体重を膝に感じて、甘い匂いに包まれて、柔らかなお尻の肉をふとももで味わう。わりとこれだけで既に満足しつつあるのだけれど、なにしろせっかくの機会である。
「くふふぅ」
エリスは大胆に行くことにした。
眼前には、薄い白シャツ一枚に包まれた、巨大な果実のような丸が二つ。その間に僅かにある空間へと、躊躇無く顔を突っ込んだ。
ぽむ、と曇った音がする。
「っ……!?」
びくり、とルナリアの体が小さく跳ねた。
「お……おま、え」
「ごほーびでしょー。抵抗しないの」
鼻の上だけを丸から出して、上目遣いに抗議する。正直なところ無茶を言っている気もするが、向こうが受け入れてるのだから引く理由なんか無いのだ。
ぐりぐりと、さらに深く顔をおしつけた。
「やーらかーい……きもちいー……しあーせー……」
「……自分にもでかいのがついてるだろうに」
「ばかだなもう。自分のじゃぜんぜん意味無いでしょー」
ちらちらと、ルナリアの視線がある点を気にしていることに気付く。
「あまり騒ぐとルネッタが起きそうなんだが」
「そしたら混ぜてあげればいいじゃない」
本気である。少なくともエリスはそうだ。
ルナリアはといえば――既に赤い顔を、更に真っ赤に染め上げて、困ったようなうめき声を漏らした。
不思議なものだとエリスは思う。半裸で抱き合ったまま平然と一緒に寝るくせに、こういうことだと恥ずかしくなるのか。以前だって、ルネッタの目の前で自分を膝に乗っけていた癖に。
ルナリアの羞恥の線引きがいまいち分からない。そこそこの付き合いになるが、未だにそれだけは理解できないままだった。
片方の丸に頭を乗せて、流すような視線を送る。絡む視線に、言葉を乗せた。
「ここはさ、空気を読んであたしの頭を優しく抱きしめるところだと思わない?」
ルナリアが唇をかんだ。眉はぐねぐねと動いている。やがて開き直ったのか、両手でそっと、エリスの後頭部を包むように抱きしめてきた。
――これは。
あまりの幸せぶりにエリスは少し死ぬかと思った。口元がどうしようもなく緩んで、ぴすぴすと空気が抜けていく。
「はぁ……三日くらいこうしてたいわ」
「う、ううう、うごくなってばっ」
それは無理な相談である。ふにふにと弾む柔らかな感触を存分に味わうには、右に左に上に下にと縦横無尽に顔を移動させるべきだ。
そんな時間も五分が過ぎ、十分が過ぎるころにはからかう言葉も無くなってくる。
静かな吐息。互いの体温。段々と高くなってきた太陽。いつまでも、というわけにもいかない。
「んっ!?」
短い悲鳴のような声が、ルナリアの口から出た。
なぜかと言えば答えは明確で、エリスがシャツの下から手をするりと滑り込ませたからだ。
――話に聞く限りでは、このあたりのはず。
ルナリアのおなかを撫でる。そっと。優しく。
巨大な槍の如き矢に貫かれた跡は、当然のように残っていない。千切れた四肢さえ軽く繋ぐ彼女である。恐らくだが、腹から上下に断たれてすら、命を維持し、やがて体を紡ぎ合わせることも可能だろう。
だから傷を負っても気にならない、とはいかないものだ。
静かに、エリスは言った。
「今回さ」
「うん」
「結構危なかったでしょ」
「……ああ」
おなかから背中へと手を動かして、抱きしめる。少し強く、痛いくらいに。
「先に死んだりしないでよね」
「それはこっちの台詞だろ」
首に絡んだルナリアの腕にも、僅かに力が篭ったようだ。
見知った顔も、今回の戦でだいぶ減った。
見知らぬ顔が、今後再び増えるのだろう。
戦とは、あるいは軍隊とはそういうものだ。身に染みてはいるはずである。
それでも、という感情が沸いて来るのは、ルナリアの体温の所為かもしれない。
その時、だった。
衣擦れの音が、静かな部屋に確かに響いた。
驚いたようにルナリアの背が伸びて、音も無く膝から降りてしまう。
声の主は、未だ毛布の中である。
「ん……うん……」
起きたばかりで寝ぼけているのか、あるいは単なる寝言なのか。確認するために、エリスはベッドの上をずりすりと移動する。
毛布をぺろりとめくって見れば、安らかで可愛い寝顔が一つ。
「寝てる」
「そう、か」
ルナリアはほったしたような声を出した。何をそんなに慌てているのか。
今更続きを要求するわけにもいかないので、とりあえずエリスはルネッタの頬を撫でる。
「ふふ……」
規則正しく、小さな寝息が静かな部屋に響いていた。寝つきが良いのは知っているし、中々起きないのも知っている。こうして寝顔を堪能するのも習慣になりつつある。
ひょこ、とルナリアが覗きに来た。寝顔を確認すると、すぐにふにゃりと顔が緩む。気持ちは良くわかる。
顎のあたりをさらさらと撫でると、
「ぁ……ふ……」
小さな声を小さな口から小さく漏らして、ルネッタの体がもぞもぞと震える。毛布の中からゆっくりと右手が這い出てくると――がしり、とエリスの手を掴んだ。
強く握り締め、そのまま口元に持っていく。頬ずりするかのような位置へと運ぶと、再び動かなくなった。
「お……」
「おお……」
二人同時に、関心したような声をあげてしまった。
吐き出す息が、手に当たってもどかしい。それでも、この悶え死にそうなほどの可愛い行動を、払いのけようとは思えない。
深い深いため息が、ルナリアの口から漏れていた。
エリスは、
「くすぐるよねぇ、この娘」
ルナリアが激しく二回頷いた。妹を思い出すのかな、と思ったりもするだけど、彼女の妹とルネッタではあまりにも似ていない。単に守るのが好きなだけかもしれない。
――けど。
どれが素で、どれが演技か。腹の中に何があるのか。生まれも育ちも知らず、目的すらも彼女の口しか情報源が無い。そうした暗い点は、当然考え続けてはいる。
ルナリアのほうをちらりと見ると、目が合った。
「そのときは、そのときだろ」
彼女の指がそっと動いて、ルネッタのおでこを軽く撫でた。
「それに、寝てて演技も何も無い」
まったくだ。少なくとも、掴んで離さないこの手には、嘘など一つも混じっていないのだから。
「ん……あさ……?」
ルネッタの目が薄く開かれた。さすがに二人で撫でていれば、当たり前かとも思う。
「起きましたか。まぁ起こしたようなものですけどね」
「ごめんな」
ゆらりゆらりとルネッタの瞳が宙を泳ぐ。半分は夢の世界にいるようだ。
「えりす、さん……るなりあさ、ま?」
上体を起こそうとして――失敗する。枕に顔をうずめて、振り絞るように腰を捻ってもう一回。
何とか起き上がったものの、不安定に揺れている。瞳は少ししか開いていない。
――そうだ。
にやりと笑って、エリスは言う。
「ところでルネッタ」
「……はい」
「私と団長、どちらのおっぱいが好きですかね」
ぶう、と盛大にルナリアが噴出した。
眠気丸出しの声で、ルネッタは答える。
「ええ……えらべません、どっちも……だいすきですよ……」
息を呑み、再び顔を真っ赤にして、しかし言葉が思いつかないのだろう。石のように固まるルナリアの横で、エリスは必死に笑いを我慢している。腹を抱えて笑いたいが、そういうわけにもいかないものだ。
だからとりあえずルネッタを抱き寄せて、顔を胸元に乗せてやる。
一瞬だけ目が開かれたが、持続は出来なかったらしい。両手がエリスの腰に回ってきて、顔を深く胸に埋めて――寝てしまった。
「おおお……」
悶え殺す気かと思う。時刻は朝で、それほど余裕があるわけでも無い。
それでも、もう少し。
ルネッタの頭に、自分の頬を軽く乗せる。呼吸の感覚が、これ以上無いほど伝わってくる。
「このままが、いいよね」
「……そうだな」
漏らした独り言に、ルナリアが答えた。
きっと思いは同じなのだ。たとえこの娘が、何者であろうとも。